2023-03-20

堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(2) ご先祖、芭蕉を自宅に招く

小松大橋のたもとに建つ芭蕉句碑
「ぬれて行や人もおかしきあめの萩 はせを」
堤歓生はこの地にあった自宅で芭蕉を歓待したとされる
(実際にはここから100メートルほど西ではなかったかと思われる)
 

連句「ぬれて行やの巻」

前回に続き、芭蕉の小松における足跡と作品を追っていきます。

1689年7月26日、この日は午前中から強い風雨でしたが、わがご先祖堤歓生は芭蕉、曾良、北枝を自宅に招き歓待。夕方から雨が上がり、夜は五十韻の連句を巻きました。

五十韻は百韻形式の前半だけを取り出したもので、8・14・14・14という構成になります。ではその連句を読んでいきましょう。

ぬれて行やの巻

初折表

  1.  ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩  翁
  2.   すすき隠(がくれ)に薄葺(ふく)家  亨
  3.  月見とて猟にも出ず船あげて       曾良
  4.   干ぬかたびらを待かぬるなり      北枝
  5.  松の風昼の夢のかいさめぬ       鼓蟾
  6.   轡ならべて馬のひと連         
  7.  日を経たる湯の峰も幽なる       斧
  8.   下にもたせておもき酒樽       

発句は芭蕉。雨で歓生亭の前を濡れながら行く人のことを興じてみせました。「おかしき」は正しくは「をかしき」。

脇を詠んだのは主人の歓生なのですが、なぜかこの席では「亨子」と名乗っています。「歓生は連歌の号で、亨子は俳諧の号であった」などと書いてあるものもあるのですが、他の俳諧撰集では「歓生」を使っていたので、俳諧の号という説は不自然です。昔は同じ人がいくつも号を使うことがよくあったとはいえ、どうも腑に落ちません。名前を変えたのは、ひょっとすると後の事件に関係しているのではないか。詳しくは次回。

この脇句は、すすきが生い茂っている中ですすきを葺いた、粗末な家でございますという謙遜。

発句が秋なので3句目までに月を出す必要があります。漁師は漁を休んで粗末な家で月見。

4句目は帷子が夏の季語なので、「秋→夏」に季節が飛ぶ「季移り」という手法です。ふつうは季節が変わる時は間に雑(無季)の句をはさむのですが、ちょっと変わった続けかた。芭蕉はときどき季移りをやらせますね。前句の月を夏の月と見て、服を着替えようとしたがなかなか乾かない。

5句目、服が乾くのを待ちかねた人は昼寝をしてしまったが、松風の音に夢から覚めた。

6句目、松風だけではなく馬が通る音もしたのだよ。

7句目、馬が通るのは箱根湯本。そこに何日も逗留して幽かな山を眺める。

8句目、箱根の山へ下戸に酒樽を運ばせる。

初折裏

  1.  むらさめの古き錣(しころ)もちぎれたり 季
  2.   道の地に枕らばや         視
  3.  入相の鴉の声も啼まじり         夕
  4.   歌をすすむる窂輿(らうこし)の船   翁
  5.  肌の衣のかほりとまりける       
  6.   ふみ盗まれて我(わが)うつつなき   鼓蟾
  7.  り懸る木よりふり出す蝉の声      北枝
  8.   雷あがる塔のふすぼり         曾良
  9.  世に住ば竹のはしらも只四本       
  10.   朝露きゆる鉢のあさがほ        
  11.  夜もすがら虫には声のかれめなき     
  12.   むかしを恋(こふ)る月のみささぎ   
  13.  ちりかかる花に米搗(つく)里ちかき   
  14.   雛る翁道たづねけり         

1句目、前句を鬼の酒盛りの風景として、謡曲「羅生門」で渡辺綱が酔った鬼の錣(兜の後ろに垂らす部分)を摑むと、鬼は兜の緒を引きちぎって逃げようとした故事を詠みました。

2句目、前句で錣がちぎれたのは落武者ととらえた。落武者は野宿。

4句目、「窂輿」は罪人を護送する輿。護送されるのは貴人なのであろう、船で渡るときに「歌でもお詠みになっては」と勧める。後鳥羽上皇のイメージかな。

5句目、前句の罪人は恋の過ちを犯したのだととらえ、女の匂いは肌着に残っている。ここから恋です。

6句目、前句は女の姿と読み替え、大切な人からの秘めた手紙を盗まれて茫然としているとした。

8句目、「ふすぼる」は落雷で燃えたとも、水蒸気を上げているとも、どちらともとれる。

9句目はわがご先祖様。落雷で立派な寺院が燃えたとしても、侘び住まいの身にとっては竹の柱四本で建てた小庵があれば十分なのさ。

12句目から13句目、月の直後に花を出す手法は、現代では稀ですが芭蕉はときどきやっています。

さて、ここまでで五十句の前半が終了ですが、後半は芭蕉・曾良・北枝・塵生の4人だけで詠み続けられています。推測ですが、おそらく歓生亭では時間切れで前半のみで終了してしまい、後日4人だけで後半を続けたのではないでしょうか(メンバーが11人と多数だったので、五十韻という大型の形式を選んだけれども、なかなか付句が順調に出てこないので時間切れになってしまったというようなことが考えられます)。亨子(歓生)はもう登場しないので、連句の後半は省略します。

山中温泉、那谷寺、そして再度の小松

翌7月27日には諏訪神社で祭礼があったので、芭蕉は見物に行きます。


芭蕉一行が祭礼を見に行った諏訪神社(菟橋神社)

その後、なおも地元の斧卜や志格が引き留めにかかりますが、それを振り切って出立。曾良と北枝をともなって山中温泉に向かいました。山中の宿には、小松の塵生から名物のうどん2箱が届けられ、芭蕉はそれを喜び感謝する手紙(8月2日付)を返しています。当時の温泉宿は自炊が原則であったから、うどんは御馳走だったようです。その書簡の中で、小松を再訪する予定であること、小松天満宮に発句を奉納することを約束しています。


小松駅前のうどん屋の幟。右上に「芭蕉称賛三百年」とあるのが笑える

塵生は餅屋の主人で、歓生と同様連歌師の能順の弟子でしたが、この時芭蕉に出会って以来俳諧への熱意が高まり、蕉門の代表的選集である『猿蓑』(1691年刊)に小松からただ一人発句が入集しています。

山中には数日滞在。ここで曾良が腹を病み、芭蕉一行と別行動をとることになりました。8月5日、芭蕉と北枝は那谷寺経由で再度小松に向かい、曾良は越前経由で伊勢の長島へ向かいます。

芭蕉の実際のルートは小松→山中→那谷寺→小松→全昌寺、というものだったのですが、「おくのほそ道」の本文では小松→那谷寺→山中→全昌寺と歩いたかのように記述しており、小松を再訪したことに触れていません。なぜそのように書いたのか、疑問が生じるのですが、その答えの鍵は後ほど明らかになるでしょう。

8月6日、芭蕉は小松で生駒万子と落ち合います。万子は加賀藩の藩士で金沢に居住していたのですが、芭蕉が金沢に来ていた際に句座に参加できず(藩の職務のためと思われます。ちょうどこの時、金沢市内では茶臼山の大規模な崖崩れがあり、万子は昼夜を撤した復旧工事に携わっていたのではないかとする説があります)、小松で再会する約束をしていたのでした。

さてこの日、万子の案内で小松天満宮を訪れ、別当の能順との面談を果たすのですが、そこで思いもかけない事件が起こるのでした。

詳しくは次回。続きをお楽しみに。

2023-03-14

堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(1) 芭蕉が小松にやってきた

本折日吉神社
ここで連句「しほらしきの巻」が興行された
 

ご先祖が芭蕉と連句!

「われわれの先祖が松尾芭蕉を家に招いたという話があるんだが、調べてみてくれんか」と叔父に言われたのは、4年ほど前のことでした。どういう経緯かというと、「最近、一家の中から2人もゲージュツ方面に進む者が出てきた。ウチにゲージュツ家のDNAなんかあったか?」「そういえば龍が俳句やってる」「そういえば、昔、おくのほそ道の旅の途中で芭蕉がご先祖の家に来たという話があったな」「龍にそのへんを調べさせよう」ということになったのです。

資料に当たってみると、たしかに芭蕉を家に迎えたその人物は存在しました。加賀国小松(現・石川県小松市)に住み「越前屋」を営んでいた堤歓生(つつみ・かんせい)という商人で、私の母方の祖母のご先祖に当たります。正確に言うと直系でつながるのではないようですが、祖母が堤家出身であることは間違いなく、私から見てご先祖と呼んでも許されるでしょう。(この点については後の回に詳述します)

歓生の名前は「観生」「観水」などと誤って書かれることがありますが、地元の資料はすべて「歓生」となっていますので、これが正しい。

また読みかたについては、連歌研究者の綿抜豊昭先生は「かんせい」とし、小松市内の案内板には「かんしょう」「かんじょう」となっている場合がありました。とりあえず綿抜先生の読みに従っておきます。

芭蕉が小松で詠んだ発句としては

むざんやな甲の下のきりぎりす

が有名ですが、これを発句として連句を興行した際、脇句を付けたのがわがご先祖でした。歓生の名は、芭蕉の随行者であった河合曾良の『曾良旅日記』にも出てきます。

今日ハ歓生方ヘ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳五十句。終テ帰ル。庚申也。(『曾良旅日記』より)

歓生は連歌師で、小松天満宮の別当である能順に師事していましたが、俳諧の心得もありました。そして芭蕉を家に招き、ともに連句の興行を行ったのでした。

今回はご先祖様とその俳諧について、また芭蕉との関係について書いていきたいと思います。

松尾芭蕉の小松入り

おくのほそ道の旅中にあった松尾芭蕉と河合曾良は、1689年7月24日、加賀の金沢を出立し、立花北枝にともなわれて小松に入ります。

曾良旅日記に書かれた芭蕉の足取りをたどりながら、歓生との関わりを見ていきましょう。

7月24日は芭蕉たちは近江屋という旅館に泊まります。旅館の正確な位置はわかっていませんが、1691年には京町に「近江屋」という旅籠があったことが伝わっているので、その界隈だったかもしれません。

小松市京町の現況
芭蕉が初日に投宿した近江屋はこの付近にあった?

7月25日、芭蕉は出立しようとしますが地元の人に引き留められたため、宿を近江屋から立松寺に移して逗留を延ばすことになりました。立松寺という寺は小松にはないので、この寺は同音の「龍昌寺」か、「たつしょうじ」と誤って聞いた「建聖寺」のどちらかではないかと言われています。

龍昌寺跡(現在は寺は輪島市に移転)

建聖寺の「芭蕉翁留杖の地」の碑

一行は多田八幡(多太神社)に参拝し、斎藤実盛の甲冑などの遺品を拝んだあと、日吉神社で世吉(よよし)形式の俳諧興行を行います。

本折日吉神社
「芭蕉翁留杖の地」の碑。
連句はこの神社の社務所で行われた
 

連句「しほらしきの巻」

ではその連句、「しほらしきの巻」を読んでいきましょう。

しほらしきの巻

初折表

  1.  しほらしき名や小松ふく萩芒       翁
  2.   露を見しりて影うつす月        鼓蟾
  3.  躍(をどり)のおとさびしき秋の数ならん 北枝
  4.   葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ      斧卜
  5.  しら雪やあしながらもまだ深(ふかき) 塵生
  6.   あらしに乗し烏むれ         志格
  7.  浪あらき磯にあげたる矢を拾(ひろひ)  夕市
  8.   雨に洲の岩をうしなふ        致

世吉形式は8・14・14・8の44句から成る連句形式。百韻形式から最初の22句と最後の22句を取り出した形式と思えばいいでしょう。

芭蕉翁の発句、最初から仮名遣いの間違いをやっちゃってますね。「しをらしき」が正しい。芭蕉に限らず、江戸時代の俳人の歴史的仮名遣いは実におおらかです。「小松とは可憐な地名だ。まさに小さな松に風が吹いて、萩やすすきをなびかせているよ」と土地をほめた挨拶句。

「しほ(を)らし」は可憐という意味ではなく、芭蕉の「しをり」に通じる「しみじみとしている」というニュアンスだと説いている方もいます。小松が平重盛(小松殿)、平維盛(小松三位中将)、平資盛(小松新三位中将)などを連想させるので、平家の哀れな運命を思わせしみじみするよということだというのです。おくのほそ道の各所に源平合戦の悲話が織りこまれていることから考えて、この解釈もなかなか面白いと感じられます。

脇を詠んだ鼓蟾は、日吉神社の神主であった藤村伊豆の俳号。「月は萩やすすきに露が下りているのを見知って影を投げているのですよ」と翁の発句に返答。秋季の連句なので、すぐに月を出しました。芭蕉のことを土地を照らす「月」、自分たちのことを光に浴する萩芒に譬えているのでしょう。

4句目、前句で盆踊の遠いざわめきを「淋しい」と詠んだので、それは網戸の家を誰も訪ねて来ないからだと解釈した。

5句目では誰も訪ねて来ないのは、足駄も埋もれるほど深い雪のせいだと、冬季に転じました。

8句目、「洲崎」とは洲が長く海に突き出して岬のようになった場所。5句目に雪、6句目に嵐が出たのに、8句目でまた雨の風景になるのは、気象現象が続いてあまり感心しません。

初折裏

    1.  立(たつ)松よりおくに火は遠く   観生
    2.   乞食おこして物くはせける       曽良
    3.  螓(なつぜみ)の行(ゆき)ては笠に落かへり 北
    4.   茶をもむ頃やいとど夏の日       翁
    5.  ゆふ雨(だち)のすず乾(ほし)にやどりけり 斧卜
    6.   子をほめつつも難すこしふ      北枝
    7.  のおもふべきこそ命なり        鼓蟾
    8.   そろならふ末の世となる       観生
    9.  にさす月まで豊の光して        志格
    10.   く栗を焚(たい)て味(あぢは)ふ 夕市
    11.  朝露も狸の床やかはくらむ        
    12.   解(とき)かけてはしる追     観生
    13.  梺(ふもと)より花に庵をむすびかへ   曽良
    14.   ぬるむ清に洗ふ黒米         志格

    裏に入って、ご先祖の歓生が登場です。1句目、浜辺には鳥居が立っていて、その奥の社に火が見える。

    2句目、神社の前で行き倒れになっている乞食に物を食わせた。ここまでの小松の俳人たちの付句は叙景的なものが多いので、曾良が色濃い人情句を付けたものでしょうか。連句での曾良の付句はわりに突拍子のないものが多く、この句にもそんな感じがあります。

    4句目は芭蕉が付け。「新茶を製するころは夏の日差しがいちだんと厳しい」と、製茶の風景を持ってくるとはさすがの飛躍した発想。

    5句目の「鈴懸」は山伏が着る上衣のこと。

    7句目、武士たる者はいつでも命を捨てる覚悟が必要ぞと子供に諭す。

    8句目の歓生は、「そうは言っても今は末世、武士道よりも算盤」と商人らしい冷やかし。

    9句目、「洞窟の奥に差す月の光も豊かな太平の世である」。「末世」に対して「豊の光」と正反対のものをぶつけていますが、少々無理ぎみな付け。

    11句目、和歌の世界では「臥猪(ふすい)の床」という決まり文句があって、草の上に猪が寝るさまを言うのですが(花札の「萩の10点札」を思い出してください)、それを「狸の寝床」と俳諧風に茶化して言った。

    12句目は歓生で、狸に化かされて寝ぼけたのか、馬方が帯のほどけかけたまま走っていくよ。

    名残表

    1.  春霞鑓やりすてばし)に人たちて  北枝
    2.   かたちばかりに蛙声なき        夕市
    3.  にうたれて拝む三の月       翁
    4.   秋の霜おく我の色          鼓蟾
    5.  ながらくつはが袖のやや寒(さむく)  観生
    6.   恋によせたる虫くらべ見む       斧卜
    7.  わすれ草しのぶのみだれうへまぜに    観生
    8.   畳かさねし御所の板鋪(いたじき)   
    9.  よりも歌とり出して奉(たてまつる) 北枝
    10.   のさまのしかたゆゆしき      曽良
    11.  やみて互の顔はしれにけり       鼓蟾
    12.   声さまざまのほどのせはしき      観生
    13.  大かたは持たるかねにつかはるる     翁
    14.   より見ゆる町の白壁         

    名残表に入って1句目、鑓捨橋とはどんな橋なのかは不明。架空の地名かもしれません。

    2句目、蛙はしゃがんだ姿をするだけで声を上げない。

    3句目、坐禅で警策に打たれることによって、「鳴かない蛙の声を聴く」という悟りを得ようとした。

    5句目は歓生。「くつは」は遊女屋のあるじのことらしい。「島」は実際の島のことなのか、それとも京の島原のことなのか、諸説あり。ここから恋の座になってきます。

    6句目、前句の「くつは」を「轡虫」と読み替えて、「恋心を虫にたとえて、虫を比べることで相手に伝えよう」と詠んだ。

    7句目も歓生。「わすれ草やしのぶ草がまぜこぜに植えられて乱れる(ように、私の心は恋で乱れる)」。わすれ草もしのぶ草も実際にはどちらもノカンゾウのことを指しますが、和歌では恋に関する比喩として用いられてきました。この表現には、歓生の連歌師らしい和歌風の詠みぶりがよく出ていると言えます。

    10句目は、前句の頭陀袋から取り出したのは武将の辞世の歌であると解釈して、その戦死する様子を身振り手振り入りで激しく語ってみせる。

    11句目、前句の戦闘は夜の闇の中で行われたとして、朝になってお互いが誰と戦っていたのか見分けるようになったと言う。

    12句目、前句は戦場ではなく夜明けの市場というように読み替え、いろいろな声が騒がしく聞こえてきている。

    14句目、初折裏の13句目にすでに「庵」が出ているのにここでまた出てくるのはあまり手際がよくありません。

    名残裏
    1.  送る太鼓きこて涼しやな       翁
    2.   若ともいふ女ともいふ        斧卜
    3.  古き文筆のたてども愛らしき       夕市
    4.   なげの情に罰やあたらん        鼓蟾
    5.  しどろにもかたしく琴をかきならし    
    6.   はなに暮して盞(さかづき)を友    観生
    7.  うぐひすの声も筋よき所あり       曽良
    8.   うららうららやちかき江の山      北枝

    名残の裏、2句目に「若衆」「女」が出てきて恋が始まります。現代連句では名残の裏ではあまり恋を扱いませんが、芭蕉の時代にはむしろ普通に行われていました。

    3句目、「筆のたつ」は「文章が上手」の意味。昔の恋文、書きっぷりがうまいけれどかわいらしい。若き日にもらった手紙を取り出してニヤニヤ。

    4句目、愛らしく手紙を書いていたけど、それはみせかけの恋だった。そんな手紙を書いた相手には罰が当たってしまえ。

    5句目、横たえた琴をだらしなく弾く、失恋男。

    6句目の詠み手は歓生、花の座を一つ繰り上げています。これはわかりやすい句。

    8句目(挙句)、近くにある川沿いの山の春を描きました。

    といった感じで、小松での最初の連句は終わりです。途中連句の進行について問題点めいたものを指摘しましたが、芭蕉としても初めての土地ばかりを巡る中で、連衆の経験レベルはさまざま、蕉風についての理解もこころもとないという環境だったでしょう。地元の人をそこそこおだてながら俳諧への関心を高めようとしていたはずで、作品の完成度は追求しきれなかったことと思います。

    次回は翌日巻いた連句を読んでいきます。

    2023-03-13

    横井也有 荷風も認めた名文家(15) 也有園の紹介と「也有をタダで読む方法」

    横井也有シリーズの最終回、今回は番外編として、名古屋市の東山動植物園に設けられた「也有園」の紹介、それから「也有作品をタダで読む方法」についてお話しします。

    東山動植物園に作られた也有園

    戦後の1948年、「文化復興の一翼となれかし」という目的から、郷土の文人である也有をしのぶための也有園が東山動植物園の植物園のほうに築庭されました。

    3月8日、植物園を訪問した私を、元園長の伊藤悟さんが案内してくださいました。伊藤さんは「横井也有翁顕彰会設立準備会」(横井也有ファンクラブ)の世話人として精力的に活動されています。

    横井也有翁顕彰会設立準備会世話人で、元植物園長の伊藤悟さん

    園内には植物を詠んだ也有の発句が50句選ばれて石碑やパネルで紹介され、実際の植物が同じ場所に植えられています。

    「柿一つ落ちてつぶれて秋の暮」の也有句碑。右横には実際に柿の木が植えられている
     
    「宿かさぬ人の垣根や木瓜の花」のパネル。ちょうど木瓜が咲いていました

    也有園開設当時は建築物としては休憩所があったくらいでしたが、1967年に屋敷門が移築されるとともに回遊式の和風庭園が整備され、2012年には市内の茶道師範の方の寄付により茶室「宗節庵」が完成。園の風景が作り上げられていきました。


    也有園開設当初から設けられていた休憩所
     

    この長屋門は尾張藩士の兼松家のものを移築

    「也有園」の石碑。奥に見えるのが茶室「宗節庵」

    植物園の見どころとしては、現存するものでは日本最古の温室(国の重要文化財)、白川郷から移築された合掌造り、椿園や梅園などがありますが、とくに奥池の周囲に植えられた紅葉が水の面に映るさまは人気があるということです。

    また東山古窯群の窖窯(あながま)跡が園内で発見されています。この地の窯は古墳時代の埴輪製作に携わり、その技術は後に常滑焼や瀬戸焼へと発展していきました。


    東山古窯群の窖窯(あながま)跡

    横井也有をタダで読む方法

    次に也有作品をタダで読む方法についての研究です。

    横井也有の著作はなかなか完全な形で読むのがむずかしい。『横井也有全集』全4巻を買うのがベストなのですが、経済的に手が出ないとか、本の置き場所がないといった方もいるでしょう。本を入手できたとしても、文語で書かれたものを解読するのに骨が折れる。

    そういう人のために、也有やその解説書をタダで読む方法を紹介しちゃいます!(以下の情報は2023年3月現在のものです)

    利用するのは、国立国会図書館デジタルコレクションです。同図書館は、著作権が切れて絶版になった書籍をつぎつぎ電子化して、インターネット上で無料で公開しています。利用するためにはまず「国立国会図書館オンライン」で利用者登録をする必要があります。

    登録が済んだら、国立国会図書館オンラインのホームページに行って、検索窓にいろいろな検索語を打ち込んで本を探してみましょう。今回は「横井也有」で検索してみます。するといろいろな本が表示されます。右側に「デジタル」のマークがあり、「個人送信」または「インターネット公開」と書かれている本が、オンラインで読むことができるものです。さっそく『俳諧文庫 第6編』を見てみます。これは1898年に岡野知十の編で刊行された最初の也有全集です。


    「デジタル」と書かれたところをクリックすると本の情報が出てきます。その画面で右上の「ログイン」というリンクをたどり、利用者登録で使用したIDとパスワードを入力すると、本が表示されて読めます。

    この全集には、発句集として蘿葉集蘿の落葉、和漢連句集として峩洋篇、板本版鶉衣全編、俳論、石原文樵が編纂した追悼集俳諧夢之蹤等が収められています。和歌・狂歌・連句・漢詩などは含まれていません。

    発句集ありづか(垤集)が入っていないのが痛いのですが、こればかりは私のブログの「也有150句選」で抄録を見ていただくか全集を入手するほかありません。くずし字で刷られた元の板本でしたら、早稲田大学の「古典籍総合データベース」で閲覧することができます。

    訂正:『ありづか(垤集)』は国立国会図書館デジタルコレクションでは読めないと思っていましたが、1927年刊の『日本俳書大系 第9巻』に収録されており、ネットで読めるようになっていました。また最近、『横井也有全集 全4巻』もデジタルコレクションで閲覧可能になりました。

    国立国会図書館デジタルコレクションでは他に漢詩集である『蘿隠集』が公開されており、また『正岡子規全集第11巻(アルス社の旧全集)では子規が選抜した也有俳句を読むことができます。

    『鶉衣』に関心のある方は、岩田九郎著『完本うづら衣新講』が必読です(このブログでは何度が触れました)。これも国立国会図書館デジタルコレクションで無料閲覧することができます。

    訂正:『完本うづら衣新講』は本稿執筆後、デジタルコレクションでの公開が終了しました。版元の大修館書店が本書を再版したことに対応したものと思われます。

    公立図書館での『横井也有全集(名古屋叢書三編)』の所蔵状況は、愛知県では愛知県図書館や名古屋市図書館、稲沢市図書館など多くの自治体が所蔵しています。東京都では残念ながら国立国会図書館と東京都立図書館でしか読むことができません。

    おわりに

    也有について語る場合、まだ狂歌、連句、俳論などを見ていく必要があるのですが、この連載もだいぶん長くなりました。とりあえずここで打ち止めとして、機会があれば単発で也有について語りたいと思います。

    今回の横井也有シリーズはこれでおしまい。

    2023-03-12

    横井也有 荷風も認めた名文家(14) 写真でたどる也有の生涯(下)


    名古屋市鶴舞中央図書館
    1978年夏、ここの未整理所蔵資料の中から也有の著作が数多く発見された
     

    あこがれの隠居生活

    40歳代の半ばから、也有は持病に苦しむようになります。病名は「疝癪」で、胸や腹などが急にさしこんで痛む。今日的に言えば潰瘍や胆石などが疑われます。

    仕事を続けるのが困難であるからと1747年に役儀御免を願い出ました。江戸参勤の随行は免除されたものの、慰留されて退職はできず、寺社奉行を命じられます。その後も辞職を願い出て、役職を免じられたのは1750年になってから(49歳)。

    この頃から、三の丸の住居を退いて城下長島町に構えた自宅に転居します(現・中区丸の内2)。役を離れたので官舎を出て自邸に移ったということでしょう。


    丸の内2丁目の「横井也有宅跡」
    マンション入り口に案内板と句碑が建っている


    自宅跡にそびえるムクノキの大樹
    樹齢400年とのこと。也有も眺めていたはず

    藩から正式に隠居が認められたのが1754年8月(53歳)。なかなかすんなり隠退できなかったのは、也有が有能で頼りにされていたからでしょう。本人は「自分は無能なのに他の人並みに仕事ができるふりをしてきた。正体がばれそうになったのでみずから化けの皮を脱いだ」などと言っていますが。

    さて、念願の隠居ができるということになって、也有は自宅を息子に預け、いそいそと自分の小庵「知雨亭」に引っ越してしまいました。この隠居所は名古屋市内のいちばんはずれ、畑に接した上前津に設けられていて、別名「半掃庵」とも名づけていました。仕事を辞めて自由になったことがよほどうれしかったらしく、髪を剃って坊主頭になり、「暮水」という別号を考えだし、「隠居弁」「剃髪辞」「自ら名づく説」など、隠退の心境を語る俳文を当時うきうきと書いています。

    知雨亭跡(現・中区上前津1)には現在碑が建てられ、「横井也有翁隠棲之址」と堂々とした字が揮毫されています。この碑が建っている地点は庵の入り口があったあたりで、知雨亭は下の写真の手前、現在の大津通の路上になっているところに位置していたようです。1825年の大火事(前津焼け)で一帯が丸焼けになり、1905年には路面電車を通すために区画が変更され、戦後にはさらに道路が西寄りに移って知雨亭跡の上を通ってしまったとのこと。


    知雨亭の跡。この手前の路上の位置に庵があった
     

    弟子が建てた「蘿塚」

    也有の奥さんは彼とともに8年間知雨亭に暮らしますが、也有61歳のときに息子がいる本宅のほうへ自分だけ移ってしまいます。ボロ屋ぐらしに嫌気がさしたのか、それとも療養のためでしょうか。その際の気持を也有は3首の漢詩に詠んでいますので、現代語訳してみましょう。

    春の日、心のおもむくままに

    十年間、ふたりであばら家に隠棲した
    その老妻が子とともに昔の家に戻っていった
    彼女が去ったあとの部屋は春がもの寂しい
    散った梅の花 掃く人も居ず石段を覆っている
     
    雨が降ったあとの荒れ庭には若草が煙っている
    軒先に花が散るのを誰と楽しんだらよいだろう
    部屋の中 昼は静かで話す人もいない
    ただ春の鳥が鳴いて眠気をさそうだけだ
     
    妻は子に従って町中に住んでいる
    ただ一人隠棲しているのは田園に病む男
    笑えてくる 春を楽しむことにかけては鳥にかなわない
    青鳩は雌に恋の歌をうたい 燕の巣には雛が孵っている 

    自嘲とも悲しみともつかない也有の本音がおのずと聞こえてきて、興味ぶかい。知的構成を狙う俳文とは違って、漢文だからこそ本心が漏れ出たのでしょうか。

    妻が去ったあとは、使用人かつ唯一の俳諧の弟子である石原文樵がかいがいしく彼の面倒を見たようです。文樵は主人のことを深く尊敬して、将来也有の碑を建てたいとひそかに希望していました。人づてにそのことを聞いた也有は文樵に、「塚を作りたいのなら好きにしていいよ、生前墓を建てるというのは例がないことではないから」と言ってやります。大喜びした文樵は、知雨亭近くの長栄寺の住職にかけあって用地を提供してもらい、主人の髪と爪を埋め、その上に碑を建てて「蘿塚(らづか)」としました(1769年12月)。蘿とは蔦のこと。也有は蔦が好きで、知雨亭内に蔦を這わせていましたので、この塚にも蔦が絡ませてありました。

    昭和の初期に碑は作り直されたそうですが(当時、古い蘿塚の状態は「塚土崩れ松蘿枯れ、台石も失せて碑石のみ地上に横たわり」というありさまだったという)、也有の遺風をしのぶ貴重な遺跡であると言えます。


    長栄寺の蘿塚
    「也有雅翁」と刻され、その下に「肥遁励操/滑稽蜚声」とある

    碑には「肥遁励操/滑稽蜚声」と彫られています。「肥遁」というのは陶淵明が生前に書いた自分の葬式のための詩「自祭文」に「身慕肥遁(わが身は隠遁生活に憧れた)」とあるところから採っていると思われます。也有が文樵に生前墓を建てることを許したのは、陶淵明が生前葬(?)の詩を作っていたことに倣ってみようかと思ったのが大きいのではないでしょうか。碑文を現代語訳するならば「心に余裕を持って隠遁することにより節操を正しく守り/滑稽を語ることによって名声を得た」といったもの。

    なお、この碑が建てられた長栄寺で、1781年3月9日に「尚歯会」(也有ら詩歌人を集めた敬老会)が開催されたということは、第7回に画像付きで書きました。

    終焉、そして墓所

    蘿塚が完成した後も也有は生き続け、知雨亭で没したのは1783年6月16日、享年82歳でした。遺骸を長島町の本宅に移して葬儀を行い、藤ケ瀬の霊松山西音寺に葬られました。


    西音寺の藤ケ瀬横井家墓所


    横井也有墓碑。
    訪問した日、
    横井也有翁顕彰会設立準備会事務局の
    石原さんご夫妻が墓に菜の花を供えて迎えてくださいました

    也有は53歳の時に「遊西音寺」という漢詩を書いていますので紹介しましょう。

    西音寺に遊ぶ

    寺の林にまだ春は尽きない
    長く話しこんでいたら日がもう暮れる
    帰ることを忘れた客がここに居る
    白雲よ 門を閉ざさないでおくれ 

    也有の生涯を見てきましたが、次回は番外編として、名古屋市東山動植物園にある「也有園」の紹介、および「タダで也有の作品を読む方法」という話を書きます。

    2023-03-11

    横井也有 荷風も認めた名文家(13) 写真でたどる也有の生涯(上)

     
    横井也有出生地にて(現・愛知県図書館)

    この2か月間ほど、横井也有にゆかりのある土地を愛知県や東京で探索して歩きました。2回にわたってそれらを紹介しながら、彼の人生を一緒に見ていきましょう。也有の文章の引用は筆者による現代語訳。

    横井家のふるさと・藤ケ瀬町

    横井家の先祖は鎌倉執権の北条家です。第14代執権、北条高時の次男が北条時行(中先代)で、鎌倉幕府滅亡後、南朝と組んで足利政権に対抗します(中先代の乱)。時行が幕府軍に捕らえられ処刑(1353年)された後、その子孫の時永が海西郡赤目(現・愛知県愛西市赤目町)に移り、赤目城を築いて横井氏を名乗ったのが、横井家の始まりです。

    赤目城跡(現・赤城神社)

    赤目城裏門(現在は一心寺内に移築)

    横井家は足利義輝、織田信長に仕えた後、3代後に時泰、時雄、時朝、時久の兄弟が出て、彼らは徳川家康に臣従します。時泰は赤目の横井本家を継ぎ、時雄の子孫は紀伊徳川家に臣属、時朝が藤ケ瀬村(現・愛西市藤ケ瀬町)に居を定め、時久は祖父江村(現・稲沢市祖父江町)に住みました。

    この横井時朝が也有の祖先となります。藤ケ瀬横井家は代々孫右衛門を名乗っており、藤ケ瀬を領地として尾張徳川家に仕えました。藤ケ瀬の屋敷跡一帯は現在農地になっていますが、今でも「御屋敷畑」と呼ばれているそうです。


    御屋敷畑。ただし横井家の屋敷は写真下の奥、人家の場所にあったという

    藤ケ瀬は也有にとって心のふるさとと言うべき実家でした。藤ケ瀬の美しい景色を八か所選び、それを詠んだ八景歌が、彼の歌集『雪窓百首』に収められています。16~18歳の頃の歌。早熟ですね。

    (藤瀬夜雨)梶枕ゆめも結ばじ藤がせのなみに音そう夜はのむらさめ
    (秋江夕照)山本はまづ暮初てゆふ日影あき江の水にのこるさびしさ
    (成戸晩鐘)遠近のながめにあかず惜むらしくれに成戸の入相のかね
    (鵜多洲落雁)鳴声も雲のそなたと見るがうちにうたすに落る雁の一行
    (伊吹暮雪)夕あらし雲はさだかに吹分てそれといぶきに晴るゝ白雪
    (早尾帰帆)遠方に見えしもやがて吹風の早尾につれてかへるつり船
    (川北秋月)ながれ行水やはさそふ秋の夜の月もそなたに更る川きた
    (高須晴嵐)雲はるゝ峰にあらしやよわるらん音は高須の市に譲りて

    このあたりは地形が現在と異なっていて、藤ケ瀬村は木曽川(西側)と佐屋川(東側)に挟まれる輪中(周囲に堤防をめぐらした地域)にありました。秋江・成戸・高須・鵜多洲・早尾・川北は二つの川に沿って点在する集落です。

    藤ケ瀬町から見た伊吹山
    私が訪問した日は霞がかかっていて、ぼんやりとしか写っていませんが

    生誕地・名古屋城三の丸

    也有の父親、横井孫右衛門時衡(ときひら)は尾張徳川家の用人を務め、ふだん名古屋城三の丸の官邸に居住していました。この家で也有は1702年9月4日に長男として生まれました。

    横井家があった場所には、現在は愛知県図書館が建っています。図書館の奥のほうが横井邸の敷地でした。


    愛知県図書館正面入り口

     
    図書館の裏手が横井家敷地だった場所

    也有は8歳で横井辰之丞時般(ときつら)を名乗ります。16歳で藩主・徳川継友に新規御目見し、御近習詰となる。この年ぐらいから也有は和歌を学んだとされます。俳諧に手を染めたのは23歳ぐらいか。

    26歳のとき父が隠居し、家督知行を継ぐ。この頃からのちに『鶉衣』に収められる文章が書き溜められていきます。

    はじめての江戸勤務

    28歳のとき、父・時衡が死去。

    29歳で御用人に取り立てられ、家の名である孫右衛門を襲名します。

    この年(1730年)の4月、初めての江戸勤番を命じられて東海道へ旅立ちました。途中、あこがれの富士山を間近に見た話が、『鶉衣』所収の紀行文「袷かたびら」に書かれています。

    四月七日
    天竜川を渡って、その向こうに初めて富士の山が見えた。中腹から下は雲に隠れながら、見間違えるはずもない。故郷を出る時からこの山を見ることばかり心にあって待っていたが、まことに絵に描かれた姿に違わず、見るからに美しく、おのずと歌に詠むことができた。見付という村の名も、ここから初めてこの山が見えるのでそう名付けられたという。まことにもっともだ。

    うき物にたれさだめけん旅衣きてこそ見つれふじの高根も

    四月九日
    吉原から野原の中を行くと、富士の嶺は左にたいへん近い。空は少し晴れ上がってきたが、それでも頂上は雲に隠れていた。たいへん鷹揚に裾野を広げた様子には、心もことばもついていけない。絵に模写し詩歌に言っても、十のうち一をも語ったことにならないだろうとはじめて思い知る。年来、離れた土地で富士のことを思ってきたが、これまでとは思わなかった。その一部だけでも比べられる山などありはしない。見たことのない人に伝えられることばも見つからない。日本に住んでこの山を一生見ないのは、生きる甲斐があるのかどうかとさえ思う。

    山々ははれゆく空の雲に猶見えぬをふじの高根とはしる

    富士市から見た富士山。
    俳文「百虫賦」の中で也有は「蟹の歩き方は他のものにはたとえようがない。ただ、駿河国の原・吉原(現・沼津市、富士市)を駕籠に乗って、富士山を眺めていく人には似ている」と冗談を書いています。

    江戸の尾張藩邸は、上屋敷が火災で焼失していたため、中屋敷を使用していました。也有はその邸内の長屋で起居したものと思われます。中屋敷の跡は、現在の上智大学(千代田区紀尾井町)です。


    尾張藩中屋敷の跡地(現・上智大学)

    8月に親友の毛利嘯花死去の悲報が入った話は、前々回書きました。

    江戸勤番中は『鶉衣』の文章を書いたり、江戸の俳人と交流したりして、一見余裕のある勤務ぶりにも思えるのですが、実際には常時緊張を強いられる激務だったようです。とくに初の江戸勤番であったこの年は、夏に同僚に病人が続出し、そのため複数の役職を兼ね、昼夜を問わない勤務を果たし、相当苦労したようです。

    11月、藩主の継友が麻疹で急死。徳川宗春がその跡を継ぎますが、この継承が尾張藩にとっての大事件のきっかけとなります。

    藩主追放のクーデター

    翌年(1731年)の1月、新藩主・宗春が襲封御礼のため江戸城の吉宗将軍に拝謁し、也有は随行します。也有30歳、初めての拝謁でした。

    同年4月に宗春は江戸から名古屋へ向かいましたが(お国入り)、そのときの衣裳が奇抜なファッションだったので、尾張の人々の度肝を抜きます。新藩主は名古屋城下でさまざまな祭を派手に長期に行うことを推奨。また夜も女性や子供が外出できるように多数の提灯を街路に設置。翌1732年には遊郭を新たに3か所も設置許可、そこでは芝居小屋、風呂、飲食店などが営業し、花火が打ち上げられ、レジャーセンターとしてにぎわいました。

    徳川宗春が設置させた遊郭の一つ、「富士見原新地」があったあたり(現・名古屋市富士見町)『鶉衣』では「雪見ノ賦」「七景記」でこの新地のことが語られています

    翌1732年、焼失していた尾張藩江戸上屋敷が再建され、新築完成しました。参勤交代で江戸に上った宗春は、5月に新しい屋敷を江戸町民に開放し見物させました。当時幕府はデフレ政策をとっていて、質素倹約の規制を強化していたため、一連の宗春の派手な施策は吉宗の神経を逆なでし、吉宗は宗春に対して詰問を行ったとされます(詰問はなかったという異説もあり)。

    その尾張藩江戸上屋敷が所在したのは、市ヶ谷の現在防衛省となっている土地。三島由紀夫が乱入した陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の後身です。也有は1年おきに江戸勤番を務めていますが、1732年9月の2度目の江戸入りからは上屋敷に居住したと思われます。


    尾張藩上屋敷の跡地(現・防衛省)


    防衛省の左内門から日本学生支援機構にかけて、江戸時代の石垣がわずかに残る

    なぜここに尾張藩上屋敷が置かれていたかというと、ここが高台で、江戸でいちばん地盤が安定している場所だからではないかと思います。関東大震災でも市ケ谷~牛込方面の被害は少なかったという事実があります。親藩である御三家は非常に優遇されたのですね。防衛省がここに移転したのも、火急の場合に防衛体制を維持するためでしょう。

    藩邸には名園がありましたが、也有は友人の紀六林に頼まれ「江戸官邸六景」の発句を作っています。

    (山廓初暾)笑ふ中に家あり山の朝日影
    (隣舎春禽)燕やはなし声する壁隣
    (青山南薫)悠然と見る山すゞし南かぜ
    (墻上桂樹)垣間見の鼻に木犀匂ひけり
    (西窓繊月)三日月を見るほど窓の破れかな
    (芙蓉晴雪)上はぬりの晴てあたらし富士の雪

    さて、宗春は緊縮政策に反抗して積極的に経済の自由化を図りました。城下が賑わったものの、農工業の育成に投資するのではなく享楽的な方面に金を使ったため、藩の財政は急激に悪化します。これに危機感を持った家老の竹腰正武は、老中・松平乗邑と意を通じて宗春の失脚を計画します。1739年2月、宗春は吉宗将軍名により蟄居謹慎を命じられ、藩主の座を逐われました。

    当時江戸に詰めていた也有は、供番頭として一部始終に立ち会っていました。彼の性格からして、クーデター計画に積極的に関与していたとは思えませんが、宗春失脚の経緯をよく知っていたでしょう。

    也有の江戸でのお仕事

    也有は江戸でどんな仕事をしていたのか。年譜を見てみると、まずさまざまな接客があります。とくに紀州家、水戸家、老中などの接待は重大行事でした。それから馬や具足の管理。藩主一族の婚礼、出産、御祝行事などを担当。さらに藩主生母の遊山への付き添い、藩主一族の墓への代参などもあります。要するに今日でいえば「総務部長」といった役職ですね。

    これらのうち墓への代参ですが、江戸では伝通院や天徳寺での、早世した若君や姫君の法事に出席しています。先日、港区虎ノ門の天徳寺を見に行ってみました。愛宕トンネルの東側です。尾張藩の墓廟がどうなっているのかはよくわかりませでしたが、墓地には葵の紋が入った石造物がありました。おそらく尾張徳川家が遺したものでしょう。也有もここに立ったかなあと、しみじみと感じ入ったのでした。


    天徳寺の墓地に残る、葵の紋入りの石造物

    次回は也有の隠居前後の人生、そして晩年を見ていきたいと思います。