今回は連歌の規則を勉強していきます。連歌や俳諧は俳句のルーツですから、これらのことも多少は知っておかないと、俳句についての考察がうすっぺらになります。
連歌と俳諧はどのようにして生まれ発展していったのかとか、連歌と連句はどう違うのかといった話は、以前に「俳諧のはじまり」というシリーズにまとめましたので、そちらをご覧ください。
連歌論の種別
鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた連歌論にはさまざまなものがありますが、それらは大別して4種類に分かれます。
- 連歌故実書
- 連歌式目書
- 賦物(ふしもの)
- 連歌寄合集
それぞれの性格を簡単に言うと、①の故実書は「連歌の歴史、由来、作法、解釈、美意識、精神性」など連歌の本質論を語ったものです。
②の式目書は連歌で守るべき決まりを書いたルールブック。
③賦物は、発句やその他の句ではこういう字を詠みこめという縛りを定めたもの。俳句で言えば題詠とか折句の決め事に近いと言えばわかりやすいかもしれません。
④の寄合集は前句でこういう語が出たら次の句ではこういう語を使うといいよという連想を集めたもので、いわば実践的なアンチョコです。寄合集については「俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門」のシリーズで詳述しましたので、そちらを参照してください。
これらの4種の連歌論のうち、①の連歌故実書は精神的・本質的なことを語ったもので、最重要といえます。ですが②や③のようなルールブックとか、④のテクニック集についてもひととおりマスターしておかないと、①の本質論が何を言っているのかチンプンカンプンということがあるでしょう。そこで今回は②の式目論を中心に連歌の決まりを学んでみます。③の賦物論についても一章を立てて概観しましょう。
一つの連歌書の中に①~④の要素が混ざっている場合がありますので、すべての連歌書が4つに区分されるわけではありません。これらの中から②と③の要素だけを取り出して眺めてみようというわけです。
連歌式目の変遷
鎖連歌(3句以上の連歌)や長連歌(百韻連歌など句数が決まった連歌)がさかんになるのは平安時代末期の12世紀のことです。とくに後鳥羽上皇が連歌を好んだのですが、句数が増えるとそれをどう進行させるかというルールが必要になります。皆が好き勝手に付句を詠んでいくと、同じことの繰り返しになったり、変化が不足して単調になったりと、一巻のバランスが悪くなるからです。バランスを維持するためのルールが式目で、すでに後鳥羽時代(1200年前後)には何らかの式目が定められていたようです。鎌倉時代(13世紀)にはそれらを集成した「連歌本式」がまとめられました。「連歌本式」の実物は現在遺っておらず、15世紀に猪苗代兼載が復元したものが13か条だけ伝えられているのみです。
連歌が盛んになるにつれて、従来の「本式」では対応しきれない場合が増えて新しいルールが必要とされるようになりました。建治年間(1275~78)に作られたのが「建治新式」です。ほかに弘安新式、藤谷式目などと呼ばれる式目もあったとされますが、どれも遺っていないため、同一のものかまったく別の規則であるかは不明です。承久の乱や文永・弘安の役などにより社会が変動する時代に成立していったもので、世の中の動きにつれて連歌も新局面を迎えたということでしょう。
室町時代に入ってこれら式目を集大成したのが、連歌界の巨人、二条良基です。まず彼は連歌故実書であり式目書でもある「僻連抄」(1345)を執筆。さらに師匠の救済(ぐさい)の指導を仰いで改稿し、「連理秘抄」(1349)を作成しました。これらのうち式目に関する部分を抜き出して改訂したものが「応安新式」(1372)です。独立した「応安新式」自体は遺っていないのですが、のちの「連歌初学抄」(一条兼良、1452)から原形を把握することが可能になっています。
「連歌初学抄」では、一条兼良が宗砌(そうぜい)の意見を基に応安新式に加筆を加えており、これが「連歌新式今案」です。さらに牡丹花肖柏が増補・改編を加えたものが「連歌新式追加並新式今案等」(1501)。
この後も新たな式目は作られていくのですが、話が煩雑になりますので、われわれが連歌の式目を学ぶ上ではこの「連歌新式追加並新式今案等」を教科書にしていくのがわかりやすいでしょう。次回からその内容を読んでいきます。