ご先祖が芭蕉と連句!
「われわれの先祖が松尾芭蕉を家に招いたという話があるんだが、調べてみてくれんか」と叔父に言われたのは、4年ほど前のことでした。どういう経緯かというと、「最近、一家の中から2人もゲージュツ方面に進む者が出てきた。ウチにゲージュツ家のDNAなんかあったか?」「そういえば龍が俳句やってる」「そういえば、昔、おくのほそ道の旅の途中で芭蕉がご先祖の家に来たという話があったな」「龍にそのへんを調べさせよう」ということになったのです。
資料に当たってみると、たしかに芭蕉を家に迎えたその人物は存在しました。加賀国小松(現・石川県小松市)に住み「越前屋」を営んでいた堤歓生(つつみ・かんせい)という商人で、私の母方の祖母のご先祖に当たります。正確に言うと直系でつながるのではないようですが、祖母が堤家出身であることは間違いなく、私から見てご先祖と呼んでも許されるでしょう。(この点については後の回に詳述します)
歓生の名前は「観生」「観水」などと誤って書かれることがありますが、地元の資料はすべて「歓生」となっていますので、これが正しい。
また読みかたについては、連歌研究者の綿抜豊昭先生は「かんせい」とし、小松市内の案内板には「かんしょう」「かんじょう」となっている場合がありました。とりあえず綿抜先生の読みに従っておきます。
芭蕉が小松で詠んだ発句としては
むざんやな甲の下のきりぎりす
が有名ですが、これを発句として連句を興行した際、脇句を付けたのがわがご先祖でした。歓生の名は、芭蕉の随行者であった河合曾良の『曾良旅日記』にも出てきます。
今日ハ歓生方ヘ被招。申ノ刻ヨリ晴。夜ニ入テ、俳五十句。終テ帰ル。庚申也。(『曾良旅日記』より)
歓生は連歌師で、小松天満宮の別当である能順に師事していましたが、俳諧の心得もありました。そして芭蕉を家に招き、ともに連句の興行を行ったのでした。
今回はご先祖様とその俳諧について、また芭蕉との関係について書いていきたいと思います。
松尾芭蕉の小松入り
おくのほそ道の旅中にあった松尾芭蕉と河合曾良は、1689年7月24日、加賀の金沢を出立し、立花北枝にともなわれて小松に入ります。
曾良旅日記に書かれた芭蕉の足取りをたどりながら、歓生との関わりを見ていきましょう。
7月24日は芭蕉たちは近江屋という旅館に泊まります。旅館の正確な位置はわかっていませんが、1691年には京町に「近江屋」という旅籠があったことが伝わっているので、その界隈だったかもしれません。
7月25日、芭蕉は出立しようとしますが地元の人に引き留められたため、宿を近江屋から立松寺に移して逗留を延ばすことになりました。立松寺という寺は小松にはないので、この寺は同音の「龍昌寺」か、「たつしょうじ」と誤って聞いた「建聖寺」のどちらかではないかと言われています。
一行は多田八幡(多太神社)に参拝し、斎藤実盛の甲冑などの遺品を拝んだあと、日吉神社で世吉(よよし)形式の俳諧興行を行います。
連句「しほらしきの巻」
ではその連句、「しほらしきの巻」を読んでいきましょう。
しほらしきの巻
- しほらしき名や小松ふく萩芒 翁
- 露を見しりて影うつす月 鼓蟾
- 躍(をどり)のおとさびしき秋の数ならん 北枝
- 葭のあみ戸をとはぬゆふぐれ 斧卜
- しら雪やあしだながらもまだ深(ふかき) 塵生
- あらしに乗し烏一むれ 志格
- 浪あらき磯にあげたる矢を拾(ひろひ) 夕市
- 雨に洲崎の岩をうしなふ 致画
世吉形式は8・14・14・8の44句から成る連句形式。百韻形式から最初の22句と最後の22句を取り出した形式と思えばいいでしょう。
芭蕉翁の発句、最初から仮名遣いの間違いをやっちゃってますね。「しをらしき」が正しい。芭蕉に限らず、江戸時代の俳人の歴史的仮名遣いは実におおらかです。「小松とは可憐な地名だ。まさに小さな松に風が吹いて、萩やすすきをなびかせているよ」と土地をほめた挨拶句。
「しほ(を)らし」は可憐という意味ではなく、芭蕉の「しをり」に通じる「しみじみとしている」というニュアンスだと説いている方もいます。小松が平重盛(小松殿)、平維盛(小松三位中将)、平資盛(小松新三位中将)などを連想させるので、平家の哀れな運命を思わせしみじみするよということだというのです。おくのほそ道の各所に源平合戦の悲話が織りこまれていることから考えて、この解釈もなかなか面白いと感じられます。
脇を詠んだ鼓蟾は、日吉神社の神主であった藤村伊豆の俳号。「月は萩やすすきに露が下りているのを見知って影を投げているのですよ」と翁の発句に返答。秋季の連句なので、すぐに月を出しました。芭蕉のことを土地を照らす「月」、自分たちのことを光に浴する萩芒に譬えているのでしょう。
4句目、前句で盆踊の遠いざわめきを「淋しい」と詠んだので、それは網戸の家を誰も訪ねて来ないからだと解釈した。
5句目では誰も訪ねて来ないのは、足駄も埋もれるほど深い雪のせいだと、冬季に転じました。
8句目、「洲崎」とは洲が長く海に突き出して岬のようになった場所。5句目に雪、6句目に嵐が出たのに、8句目でまた雨の風景になるのは、気象現象が続いてあまり感心しません。
- 鳥居立(たつ)松よりおくに火は遠く 観生
- 乞食おこして物くはせける 曽良
- 螓(なつぜみ)の行(ゆき)ては笠に落かへり 北枝
- 茶をもむ頃やいとど夏の日 翁
- ゆふ雨(だち)のすず懸乾(ほし)にやどりけり 斧卜
- 子をほめつつも難すこしいふ 北枝
- 侍のおもふべきこそ命なり 鼓蟾
- そろ盤ならふ末の世となる 観生
- 洞にさす月まで豊の光して 志格
- 皮むく栗を焚(たい)て味(あぢは)ふ 夕市
- 朝露も狸の床やかはくらむ 致画
- 帯解(とき)かけてはしる馬追 観生
- 梺(ふもと)より花に庵をむすびかへ 曽良
- ぬるむ清水に洗ふ黒米 志格
裏に入って、ご先祖の歓生が登場です。1句目、浜辺には鳥居が立っていて、その奥の社に火が見える。
2句目、神社の前で行き倒れになっている乞食に物を食わせた。ここまでの小松の俳人たちの付句は叙景的なものが多いので、曾良が色濃い人情句を付けたものでしょうか。連句での曾良の付句はわりに突拍子のないものが多く、この句にもそんな感じがあります。
4句目は芭蕉が付け。「新茶を製するころは夏の日差しがいちだんと厳しい」と、製茶の風景を持ってくるとはさすがの飛躍した発想。
5句目の「鈴懸」は山伏が着る上衣のこと。
7句目、武士たる者はいつでも命を捨てる覚悟が必要ぞと子供に諭す。
8句目の歓生は、「そうは言っても今は末世、武士道よりも算盤」と商人らしい冷やかし。
9句目、「洞窟の奥に差す月の光も豊かな太平の世である」。「末世」に対して「豊の光」と正反対のものをぶつけていますが、少々無理ぎみな付け。
11句目、和歌の世界では「臥猪(ふすい)の床」という決まり文句があって、草の上に猪が寝るさまを言うのですが(花札の「萩の10点札」を思い出してください)、それを「狸の寝床」と俳諧風に茶化して言った。
12句目は歓生で、狸に化かされて寝ぼけたのか、馬方が帯のほどけかけたまま走っていくよ。
名残表
- 春霞鑓捨橋(やりすてばし)に人たちて 北枝
- かたちばかりに蛙声なき 夕市
- 一棒にうたれて拝む三日の月 翁
- 秋の霜おく我眉の色 鼓蟾
- 島ながらくつはが袖のやや寒(さむく) 観生
- 恋によせたる虫くらべ見む 斧卜
- わすれ草しのぶのみだれうへまぜに 観生
- 畳かさねし御所の板鋪(いたじき) 翁
- 頭陀よりも歌とり出して奉(たてまつる) 北枝
- 最後のさまのしかたゆゆしき 曽良
- やみ明て互の顔はしれにけり 鼓蟾
- 声さまざまのほどのせはしき 観生
- 大かたは持たるかねにつかはるる 翁
- 庵より見ゆる町の白壁 致画
名残表に入って1句目、鑓捨橋とはどんな橋なのかは不明。架空の地名かもしれません。
2句目、蛙はしゃがんだ姿をするだけで声を上げない。
3句目、坐禅で警策に打たれることによって、「鳴かない蛙の声を聴く」という悟りを得ようとした。
5句目は歓生。「くつは」は遊女屋のあるじのことらしい。「島」は実際の島のことなのか、それとも京の島原のことなのか、諸説あり。ここから恋の座になってきます。
6句目、前句の「くつは」を「轡虫」と読み替えて、「恋心を虫にたとえて、虫を比べることで相手に伝えよう」と詠んだ。
7句目も歓生。「わすれ草やしのぶ草がまぜこぜに植えられて乱れる(ように、私の心は恋で乱れる)」。わすれ草もしのぶ草も実際にはどちらもノカンゾウのことを指しますが、和歌では恋に関する比喩として用いられてきました。この表現には、歓生の連歌師らしい和歌風の詠みぶりがよく出ていると言えます。
10句目は、前句の頭陀袋から取り出したのは武将の辞世の歌であると解釈して、その戦死する様子を身振り手振り入りで激しく語ってみせる。
11句目、前句の戦闘は夜の闇の中で行われたとして、朝になってお互いが誰と戦っていたのか見分けるようになったと言う。
12句目、前句は戦場ではなく夜明けの市場というように読み替え、いろいろな声が騒がしく聞こえてきている。
14句目、初折裏の13句目にすでに「庵」が出ているのにここでまた出てくるのはあまり手際がよくありません。
名残裏- 風送る太鼓きこへて涼しやな 翁
- 若衆ともいふ女ともいふ 斧卜
- 古き文筆のたてども愛らしき 夕市
- なげの情に罰やあたらん 鼓蟾
- しどろにもかたしく琴をかきならし 致画
- はなに暮して盞(さかづき)を友 観生
- うぐひすの声も筋よき所あり 曽良
- うららうららやちかき江の山 北枝
名残の裏、2句目に「若衆」「女」が出てきて恋が始まります。現代連句では名残の裏ではあまり恋を扱いませんが、芭蕉の時代にはむしろ普通に行われていました。
3句目、「筆のたつ」は「文章が上手」の意味。昔の恋文、書きっぷりがうまいけれどかわいらしい。若き日にもらった手紙を取り出してニヤニヤ。
4句目、愛らしく手紙を書いていたけど、それはみせかけの恋だった。そんな手紙を書いた相手には罰が当たってしまえ。
5句目、横たえた琴をだらしなく弾く、失恋男。
6句目の詠み手は歓生、花の座を一つ繰り上げています。これはわかりやすい句。
8句目(挙句)、近くにある川沿いの山の春を描きました。
といった感じで、小松での最初の連句は終わりです。途中連句の進行について問題点めいたものを指摘しましたが、芭蕉としても初めての土地ばかりを巡る中で、連衆の経験レベルはさまざま、蕉風についての理解もこころもとないという環境だったでしょう。地元の人をそこそこおだてながら俳諧への関心を高めようとしていたはずで、作品の完成度は追求しきれなかったことと思います。
次回は翌日巻いた連句を読んでいきます。