連句「ぬれて行やの巻」
前回に続き、芭蕉の小松における足跡と作品を追っていきます。
1689年7月26日、この日は午前中から強い風雨でしたが、わがご先祖堤歓生は芭蕉、曾良、北枝を自宅に招き歓待。夕方から雨が上がり、夜は五十韻の連句を巻きました。
五十韻は百韻形式の前半だけを取り出したもので、8・14・14・14という構成になります。ではその連句を読んでいきましょう。
ぬれて行やの巻
- ぬれて行(ゆく)や人もおかしき雨の萩 翁
- すすき隠(がくれ)に薄葺(ふく)家 亨子
- 月見とて猟にも出ず船あげて 曾良
- 干ぬかたびらを待かぬるなり 北枝
- 松の風昼寝の夢のかいさめぬ 鼓蟾
- 轡ならべて馬のひと連 志格
- 日を経たる湯本の峰も幽なる 斧卜
- 下戸にもたせておもき酒樽 塵生
発句は芭蕉。雨で歓生亭の前を濡れながら行く人のことを興じてみせました。「おかしき」は正しくは「をかしき」。
脇を詠んだのは主人の歓生なのですが、なぜかこの席では「亨子」と名乗っています。「歓生は連歌の号で、亨子は俳諧の号であった」などと書いてあるものもあるのですが、他の俳諧撰集では「歓生」を使っていたので、俳諧の号という説は不自然です。昔は同じ人がいくつも号を使うことがよくあったとはいえ、どうも腑に落ちません。名前を変えたのは、ひょっとすると後の事件に関係しているのではないか。詳しくは次回。
この脇句は、すすきが生い茂っている中ですすきを葺いた、粗末な家でございますという謙遜。
発句が秋なので3句目までに月を出す必要があります。漁師は漁を休んで粗末な家で月見。
4句目は帷子が夏の季語なので、「秋→夏」に季節が飛ぶ「季移り」という手法です。ふつうは季節が変わる時は間に雑(無季)の句をはさむのですが、ちょっと変わった続けかた。芭蕉はときどき季移りをやらせますね。前句の月を夏の月と見て、服を着替えようとしたがなかなか乾かない。
5句目、服が乾くのを待ちかねた人は昼寝をしてしまったが、松風の音に夢から覚めた。
6句目、松風だけではなく馬が通る音もしたのだよ。
7句目、馬が通るのは箱根湯本。そこに何日も逗留して幽かな山を眺める。
8句目、箱根の山へ下戸に酒樽を運ばせる。
- むらさめの古き錣(しころ)もちぎれたり 季邑
- 道の地蔵に枕からばや 視三
- 入相の鴉の声も啼まじり 夕市
- 歌をすすむる窂輿(らうこし)の船 翁
- 肌の衣女のかほりとまりける 志格
- ふみ盗まれて我(わが)うつつなき 鼓蟾
- より懸る木よりふり出す蝉の声 北枝
- 雷あがる塔のふすぼり 曾良
- 世に住ば竹のはしらも只四本 亨子
- 朝露きゆる鉢のあさがほ 季邑
- 夜もすがら虫には声のかれめなき 夕市
- むかしを恋(こふ)る月のみささぎ 斧卜
- ちりかかる花に米搗(つく)里ちかき 塵生
- 雛うる翁道たづねけり 視三
1句目、前句を鬼の酒盛りの風景として、謡曲「羅生門」で渡辺綱が酔った鬼の錣(兜の後ろに垂らす部分)を摑むと、鬼は兜の緒を引きちぎって逃げようとした故事を詠みました。
2句目、前句で錣がちぎれたのは落武者ととらえた。落武者は野宿。
4句目、「窂輿」は罪人を護送する輿。護送されるのは貴人なのであろう、船で渡るときに「歌でもお詠みになっては」と勧める。後鳥羽上皇のイメージかな。
5句目、前句の罪人は恋の過ちを犯したのだととらえ、女の匂いは肌着に残っている。ここから恋です。
6句目、前句は女の姿と読み替え、大切な人からの秘めた手紙を盗まれて茫然としているとした。
8句目、「ふすぼる」は落雷で燃えたとも、水蒸気を上げているとも、どちらともとれる。
9句目はわがご先祖様。落雷で立派な寺院が燃えたとしても、侘び住まいの身にとっては竹の柱四本で建てた小庵があれば十分なのさ。
12句目から13句目、月の直後に花を出す手法は、現代では稀ですが芭蕉はときどきやっています。
さて、ここまでで五十句の前半が終了ですが、後半は芭蕉・曾良・北枝・塵生の4人だけで詠み続けられています。推測ですが、おそらく歓生亭では時間切れで前半のみで終了してしまい、後日4人だけで後半を続けたのではないでしょうか(メンバーが11人と多数だったので、五十韻という大型の形式を選んだけれども、なかなか付句が順調に出てこないので時間切れになってしまったというようなことが考えられます)。亨子(歓生)はもう登場しないので、連句の後半は省略します。
山中温泉、那谷寺、そして再度の小松
翌7月27日には諏訪神社で祭礼があったので、芭蕉は見物に行きます。
その後、なおも地元の斧卜や志格が引き留めにかかりますが、それを振り切って出立。曾良と北枝をともなって山中温泉に向かいました。山中の宿には、小松の塵生から名物のうどん2箱が届けられ、芭蕉はそれを喜び感謝する手紙(8月2日付)を返しています。当時の温泉宿は自炊が原則であったから、うどんは御馳走だったようです。その書簡の中で、小松を再訪する予定であること、小松天満宮に発句を奉納することを約束しています。
塵生は餅屋の主人で、歓生と同様連歌師の能順の弟子でしたが、この時芭蕉に出会って以来俳諧への熱意が高まり、蕉門の代表的選集である『猿蓑』(1691年刊)に小松からただ一人発句が入集しています。
山中には数日滞在。ここで曾良が腹を病み、芭蕉一行と別行動をとることになりました。8月5日、芭蕉と北枝は那谷寺経由で再度小松に向かい、曾良は越前経由で伊勢の長島へ向かいます。
芭蕉の実際のルートは小松→山中→那谷寺→小松→全昌寺、というものだったのですが、「おくのほそ道」の本文では小松→那谷寺→山中→全昌寺と歩いたかのように記述しており、小松を再訪したことに触れていません。なぜそのように書いたのか、疑問が生じるのですが、その答えの鍵は後ほど明らかになるでしょう。
8月6日、芭蕉は小松で生駒万子と落ち合います。万子は加賀藩の藩士で金沢に居住していたのですが、芭蕉が金沢に来ていた際に句座に参加できず(藩の職務のためと思われます。ちょうどこの時、金沢市内では茶臼山の大規模な崖崩れがあり、万子は昼夜を撤した復旧工事に携わっていたのではないかとする説があります)、小松で再会する約束をしていたのでした。
さてこの日、万子の案内で小松天満宮を訪れ、別当の能順との面談を果たすのですが、そこで思いもかけない事件が起こるのでした。
詳しくは次回。続きをお楽しみに。