2025-06-12

連歌のルール(17)~もう一つのルール「賦物」[2]

 
歌人の系譜

承久の変で世の中が一変

承久の変(1221年)で朝廷勢力が敗北したことは、当時の世の中に衝撃を与えました。それまでは天皇(上皇)や殿上人を中心とする朝廷勢力と鎌倉幕府とは、二元的に国を統治していましたが、この事件により朝廷は幕府の権力に屈し、武士が貴族より優位に立つことがはっきりしたのです。

連歌会を催す場所も変わりました。それまで熱心に主催していた後鳥羽上皇や順徳上皇が配流となったので、当分内裏や仙洞御所で連歌会が行われることはなくなりました。九条家や西園寺家などの権門貴族の自宅が開催場所となって、藤原定家もそれらの邸宅に赴いたり、あるいは自宅で会を開いたりするようになったのです。朝廷での連歌が再開するようになるのは後嵯峨院の時代(1250年前後)になってからでした。

そんな中、定家の息子の藤原為家、孫の藤原為氏、藤原信実、二条良実、一条実経などの歌人たちが連歌の指導的な役割を担っていきます。彼らはそれぞれ自家用の連歌式目を定めていたようで、式目といっても簡単なものだったでしょうが、これが後の連歌本式へとつながっていったと思われます。

上賦下賦式/賦物のルールが固まっていく

従来の連歌を縛るルールも変化していきます。それまでの源氏国名連歌だとか、黒白連歌だとかは、制約が大きすぎて面倒ですよね。一回やったらもう飽きてしまいそうです。

そこでルールの簡約化が図られ、「上賦下賦(うわふしたふ)式」と呼ばれる賦物のシステムが固まってくるのです。

上賦とは、たとえば「賦夕何」というようにテーマが与えられます。これは「夕●」という熟語があるとして、「●」に当たる漢字を必ず入れ込むという決まりです。この場合「夕栄(ゆうばえ)」「夕星」「夕千鳥」「夕霧」等々の熟語が考えられるので、「栄」「星」「千鳥」「霧」などのうちどれかを各句に詠むことが義務付けられます。

下賦の場合は「賦何水」というような出題になります。上下が先ほどとは逆になり、「●水」の「●」に当たる漢字を入れることになります。「春水」「山水」「井水」「田水」等々の熟語から「春」「山」「井」「田」などの文字のうちどれかを詠み込みます。

賦物は2つ提示され(複式賦物)、長句で入れるもの、短句で入れるものを分けます。今のところ最も古い上賦下賦式の連歌は、1241年以前に張行されたと思われる「仁和二年書写東大寺要録の裏文書」(部分のみ存)で、賦何屋何水というテーマが与えられています。長句では「●屋」、短句では「●水」の●に当たる漢字を使うという縛りです。こういう縛りを、全百句について守っていきます。

凝り性の後鳥羽上皇がいなくなって、連歌人たちももう少し楽な賦物に変えようと思ったのでしょうか。

連歌の新しい担い手たち

承久の変以後、「地下連歌師」と呼ばれる新しい連歌人が登場します。殿上人(堂上連歌師)とは違うもっと低い身分の人たちです。中でもその中心となったのは僧侶たちでした。僧侶といっても、下級貴族から出家した人々だったのですが、中にはさらに下層出身の法師もいたようです。

彼らは後鳥羽上皇の時代から存在したのか、定家ら殿上人からの感化で連歌を始めたのか、あるいは自然発生的にこの時代に下から起こった動きなのかはよくわからないのですが、僧侶たちは寺社の桜の下で連歌会を開き、一般の人々から出句をつのったのでした。これを「花の下連歌」と呼び、もともとは神仏に連歌を奉納する宗教行事だったのではないかとも見られます。

花の下連歌の場となったのは、京の毘沙門堂、法勝寺、清水寺地主権現といった場所でした。

早い時期の花の下連歌師として、寛元~建長年間(1249~56)に活動した道生、寂忍、無生といった名の僧がいました。木藤久蔵先生は道生周辺の地下連歌師たちが文永年間(1264~1275)になって連歌本式の式目をとりまとめたのではないかと推測しています。実際、道生が式目を作成していた痕跡がありますし、花の下連歌は一般から付句を募ったので、どの句を採用するか明確な成文法を決める必要があったからではないかというのです。連歌本式は、おそらく「初折表十句、名残裏二句」の形式を前提としていたことでしょう。