2023-03-12

横井也有 荷風も認めた名文家(14) 写真でたどる也有の生涯(下)


名古屋市鶴舞中央図書館
1978年夏、ここの未整理所蔵資料の中から也有の著作が数多く発見された
 

あこがれの隠居生活

40歳代の半ばから、也有は持病に苦しむようになります。病名は「疝癪」で、胸や腹などが急にさしこんで痛む。今日的に言えば潰瘍や胆石などが疑われます。

仕事を続けるのが困難であるからと1747年に役儀御免を願い出ました。江戸参勤の随行は免除されたものの、慰留されて退職はできず、寺社奉行を命じられます。その後も辞職を願い出て、役職を免じられたのは1750年になってから(49歳)。

この頃から、三の丸の住居を退いて城下長島町に構えた自宅に転居します(現・中区丸の内2)。役を離れたので官舎を出て自邸に移ったということでしょう。


丸の内2丁目の「横井也有宅跡」
マンション入り口に案内板と句碑が建っている


自宅跡にそびえるムクノキの大樹
樹齢400年とのこと。也有も眺めていたはず

藩から正式に隠居が認められたのが1754年8月(53歳)。なかなかすんなり隠退できなかったのは、也有が有能で頼りにされていたからでしょう。本人は「自分は無能なのに他の人並みに仕事ができるふりをしてきた。正体がばれそうになったのでみずから化けの皮を脱いだ」などと言っていますが。

さて、念願の隠居ができるということになって、也有は自宅を息子に預け、いそいそと自分の小庵「知雨亭」に引っ越してしまいました。この隠居所は名古屋市内のいちばんはずれ、畑に接した上前津に設けられていて、別名「半掃庵」とも名づけていました。仕事を辞めて自由になったことがよほどうれしかったらしく、髪を剃って坊主頭になり、「暮水」という別号を考えだし、「隠居弁」「剃髪辞」「自ら名づく説」など、隠退の心境を語る俳文を当時うきうきと書いています。

知雨亭跡(現・中区上前津1)には現在碑が建てられ、「横井也有翁隠棲之址」と堂々とした字が揮毫されています。この碑が建っている地点は庵の入り口があったあたりで、知雨亭は下の写真の手前、現在の大津通の路上になっているところに位置していたようです。1825年の大火事(前津焼け)で一帯が丸焼けになり、1905年には路面電車を通すために区画が変更され、戦後にはさらに道路が西寄りに移って知雨亭跡の上を通ってしまったとのこと。


知雨亭の跡。この手前の路上の位置に庵があった
 

弟子が建てた「蘿塚」

也有の奥さんは彼とともに8年間知雨亭に暮らしますが、也有61歳のときに息子がいる本宅のほうへ自分だけ移ってしまいます。ボロ屋ぐらしに嫌気がさしたのか、それとも療養のためでしょうか。その際の気持を也有は3首の漢詩に詠んでいますので、現代語訳してみましょう。

春の日、心のおもむくままに

十年間、ふたりであばら家に隠棲した
その老妻が子とともに昔の家に戻っていった
彼女が去ったあとの部屋は春がもの寂しい
散った梅の花 掃く人も居ず石段を覆っている
 
雨が降ったあとの荒れ庭には若草が煙っている
軒先に花が散るのを誰と楽しんだらよいだろう
部屋の中 昼は静かで話す人もいない
ただ春の鳥が鳴いて眠気をさそうだけだ
 
妻は子に従って町中に住んでいる
ただ一人隠棲しているのは田園に病む男
笑えてくる 春を楽しむことにかけては鳥にかなわない
青鳩は雌に恋の歌をうたい 燕の巣には雛が孵っている 

自嘲とも悲しみともつかない也有の本音がおのずと聞こえてきて、興味ぶかい。知的構成を狙う俳文とは違って、漢文だからこそ本心が漏れ出たのでしょうか。

妻が去ったあとは、使用人かつ唯一の俳諧の弟子である石原文樵がかいがいしく彼の面倒を見たようです。文樵は主人のことを深く尊敬して、将来也有の碑を建てたいとひそかに希望していました。人づてにそのことを聞いた也有は文樵に、「塚を作りたいのなら好きにしていいよ、生前墓を建てるというのは例がないことではないから」と言ってやります。大喜びした文樵は、知雨亭近くの長栄寺の住職にかけあって用地を提供してもらい、主人の髪と爪を埋め、その上に碑を建てて「蘿塚(らづか)」としました(1769年12月)。蘿とは蔦のこと。也有は蔦が好きで、知雨亭内に蔦を這わせていましたので、この塚にも蔦が絡ませてありました。

昭和の初期に碑は作り直されたそうですが(当時、古い蘿塚の状態は「塚土崩れ松蘿枯れ、台石も失せて碑石のみ地上に横たわり」というありさまだったという)、也有の遺風をしのぶ貴重な遺跡であると言えます。


長栄寺の蘿塚
「也有雅翁」と刻され、その下に「肥遁励操/滑稽蜚声」とある

碑には「肥遁励操/滑稽蜚声」と彫られています。「肥遁」というのは陶淵明が生前に書いた自分の葬式のための詩「自祭文」に「身慕肥遁(わが身は隠遁生活に憧れた)」とあるところから採っていると思われます。也有が文樵に生前墓を建てることを許したのは、陶淵明が生前葬(?)の詩を作っていたことに倣ってみようかと思ったのが大きいのではないでしょうか。碑文を現代語訳するならば「心に余裕を持って隠遁することにより節操を正しく守り/滑稽を語ることによって名声を得た」といったもの。

なお、この碑が建てられた長栄寺で、1781年3月9日に「尚歯会」(也有ら詩歌人を集めた敬老会)が開催されたということは、第7回に画像付きで書きました。

終焉、そして墓所

蘿塚が完成した後も也有は生き続け、知雨亭で没したのは1783年6月16日、享年82歳でした。遺骸を長島町の本宅に移して葬儀を行い、藤ケ瀬の霊松山西音寺に葬られました。


西音寺の藤ケ瀬横井家墓所


横井也有墓碑。
訪問した日、
横井也有翁顕彰会設立準備会事務局の
石原さんご夫妻が墓に菜の花を供えて迎えてくださいました

也有は53歳の時に「遊西音寺」という漢詩を書いていますので紹介しましょう。

西音寺に遊ぶ

寺の林にまだ春は尽きない
長く話しこんでいたら日がもう暮れる
帰ることを忘れた客がここに居る
白雲よ 門を閉ざさないでおくれ 

也有の生涯を見てきましたが、次回は番外編として、名古屋市東山動植物園にある「也有園」の紹介、および「タダで也有の作品を読む方法」という話を書きます。