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2024-12-17

呉春(松村月渓) 美食家の絵師俳人

呉春展ポスター(大和文華館)

呉春展を観に行った

2024年10月から11月にかけて、奈良市の大和文華館で「呉春展」が開催されました。

呉春(ごしゅん、1752~1811)は蕪村から絵を学び、俳諧の座をともにした、絵師俳人でした。あくまで画業が主ですが、俳号を月渓(げっけい)と言い、それほど多くはありませんが俳諧作品を残しています。

呉春展のカタログの巻末には月渓全発句が掲載されていましたので、今回は主にこれを鑑賞してみたいと思います。国会図書館デジタルコレクションでは月渓の句集が無料で閲覧できますので、そちらで読むことも可能です。

造幣役人、絵師となる

呉春の本名は松村文蔵と言い、京都の金座年寄役だった松村匡程の息子として生まれました。金座というのは金貨を鋳造していた組織で、今で言えば造幣局といったところです。呉春自身も若いころは金座役人をしていました。

ところで「呉春」は中国風に画名を名乗ったので、「松村呉春」とは呼ばれません。俳号のほうは「松村月渓」とされていたようです。

蕪村に入門して絵を学んだのは、20歳前後ではないかと言われています。師の画風をよく学んで、俳画風の省筆が効いた絵を描いていますが、蕪村の絵が軽妙そうでありながら意外と鋭く、一気に核心を突くような筆使いを見せるのに対して、呉春の絵はゆったりと優美で、彼のまろやかな性格がうかがえます。

呉春の絵を勝手に転載するのは問題がありそうなので、代表作「白梅図屏風」は逸翁美術館のHPをご覧ください。

若き絵師、句座に参加する

月渓の句が初めて俳書に見えるのは、1773年の句会稿『耳たむし』の中で、この22歳の頃から俳諧にも傾注したと考えられます。

仏壇に雨の漏る夜や郭公(ほととぎす)      1773

ホトトギスといえば梅雨のころに鳴くものと古来相場が決まっています。その梅雨時のあばら家の様子を巧みに描いた句。

白雨(ゆふだち)のくらまぎれより鵜舟かな    1773

「くらまぎれ」とは「くらやみに紛れた場所」の意味。漕ぎ出した鵜舟が夕立に降られてしまった。木陰に入って雨を避けていたのでしょうか、そろそろ雨も止みそうなのでゆっくりと進み始める。

したしたと漁火にしみ込しぐれ哉         1774

これも雨の中の漁を描いた句。「したした」というオノマトペアがうまい。

これら三句を読むと、「さすが絵師の俳諧、描写力にすぐれている」と言いたくなるのですが、実際には月渓の句は写生的というよりも、情味が濃く季題趣味のものが多い。情味といっても品格が落ちるようなことはないのですが、蕪村の句に比べると全体にのどかな感じです。

我頭巾猫にもきせてみたる哉           1774 

猫の頬の灰も払ふやとしのくれ          1775

月渓は相当の猫好き。愛猫家には共感できる句でしょう。

蝸牛角にちからの見ゆるかな           1775 

カタツムリよがんばれ、がんばれ。なんだか西村麒麟さんの句みたい。 

しら露や力なき葉のうらおもて          1775 

露が降りるころになると葉っぱもしおれてくるというのは、理屈ぽい常識ではありますが、「力なき」とか「うらおもて」あたりのことばづかいは上手。

うら枯の表へ出たるふくべかな          1775 

葉っぱが枯れてくるとヒョウタンが目立ってきて、自己主張。 

太夫との結婚、そして悲劇

月渓が蕪村から教わったのは絵画や俳諧だけではなく、遊びもだいぶん教授してもらったようです。島原遊郭によく通ったことが伝えられています。

1778年、27歳のとき、彼は島原の太夫、雛路を妻に迎えます(俗名はる)。夫婦仲は悪くなかったようです。

ところが1781年、実家に帰るはるが乗った船が沈没、彼女が水死するという悲劇が起きました。3年ばかりで終わった夫婦生活でした。

是生滅法と翌日(あす)降る雪の響かな      1778 

「是生滅法」とは涅槃経に出てくることばで、「生命のあるものは、いつかは必ず滅びて死に至る」という意味。後年彼は

うき恋を女夫(めをと)になれば田うゑ哉     1786 

という句を作っていますが、好いた惚れたといっていっしょになっても結婚すれば一介の夫婦、二人で田植えをやっているようなものだと回想したのかもしれません。

さらにこの年の夏、父の匡程が江戸で客死しました。相次ぐ身内の死に、月渓は髪を剃って法体となり、摂津の池田(現・大阪府池田市)に転居しました。

このころの月渓は、絵師としては駆け出しで経済的に余裕がなかったように思われます。池田では、蕪村門の呉服商、川田田福の出店に居候していたとのこと。ひょっとすると父の死によって家の財政がきびしくなり、京から池田に移住せざるをえなかったのかもしれません。

池田に住んだのは6年前後にすぎないのですが、池田市はこのことを誇りに思い、郷土の芸術家として顕彰しています。池田の逸翁美術館(阪急系財団)は呉春の絵画を多数収集・収蔵しています。

蕪村の厚情と死別

1783年、月渓は灘で酒造業を営む資産家の松岡士川を訪ねました。士川は蕪村門の俳人であり、かつて同じ蕪村門の吉分大魯が大坂で不始末をしでかして追放された際には、士川を頼って灘に落ち伸びています。蕪村は月渓に推薦状を持たせます。「この月渓という男は君子であって、以前ご迷惑をおかけした大魯や月居のようなゴロツキとは人間が違います。人物は私が保証します。絵のほうは当代無双の妙手です。俳諧もとても良い句を作りますし、横笛も吹け、非常に器用です。とくに絵画の技は自分も恐れるくらいの若者です」というように、大絶賛しています。

蕪村としては、月渓が士川から絵画の注文を得て経済的にうるおうように配慮して、紹介してあげたのでしょう。

ところがこの紹介の直後、蕪村は京の自宅で病没します。月渓は蕪村宅に駆けつけ、遺品を整理し、売り立てを行って、遺族の生計のための現金化を計りました。蕪村の娘、くのは婚家で離縁されて実家に戻っていたのですが、このころ再婚の話がまとまっていました。月渓が行った売り立てによる収益は、彼女の婚資にも充当されました。月渓は蕪村の遺品整理を全面的に任されるほど信用があり、また実務処理にも長けていたことがわかります。

整理中、月渓は師の机の上に読みさしの『陶淵明詩集』を見つけました。ページの間に、短冊が挟んであり、

桐火桶無絃の琴(きん)の撫(なで)ごゝろ    [蕪村

の句が書きつけられていました。中国の古代詩人、陶淵明が、琴を弾けなかったけれども酒を飲むと絃を張らない琴を撫でて楽しんでいたという故事にちなんだ句で、この短冊を栞にして蕪村は淵明詩集を読んでいたのです。月渓は短冊に継ぎ紙をしてそこに陶淵明の肖像を描き、売り立てに加えたのでした。

この師弟合作による陶淵明像は現在逸翁美術館に収蔵されています。画像を貼るのは控えておきますが、「蕪村 月渓 陶淵明」で検索するとネット上に出ているのが見つかりますから、ぜひ探してみてください。

美食の人、月渓

蕪村死去の翌々年、月渓は

わびしさや酒麩に酔る秋ひとり          1785         

という句を作っています。句の背景はわかりませんが、師を失った悲しみを詠んだものかもしれません。酒を飲まなくても酒麩だけでよっぱらっちまったよ、という孤独を嘆いた句でしょうか。

ところでこの「酒麩(さかふ)」とは煮物で使う酒塩で煮詰めた麩だそうです。月渓は美食家として有名で、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にはならぬ」と豪語していました。とくに土筆と豆腐が好物であったと、上田秋成が書き残しています。池田時代には「一菜会」というおいしいものを食べる会を催していたといいます。掲句でも、「酒麩」とは洒落た一品を食したものですね。

作風の変化

月渓は1788年ごろには京に住居を移していたようです。蕪村門では彼は高井几董と仲よしで、師の死後も二人は親しく交わっていました。几董は誰からも愛される京都俳壇のキーパーソンでありました。

この1788年、京を焼き尽くす大火がありました。月渓も几董も焼け出されてしまいます。翌1789年には几董が急逝します。蕪村の後継者として期待されていた彼の死は、蕪村一門にとって大きな悲しみでした。

几董追悼の句として、月渓は

寝られねバ聞や霜夜の烏啼            1790        

を寄せています。蕪村、几董という敬愛する二人が世を去って、どうやら俳諧への関心が減退してしまったようで、これ以後は彼は見るべき発句を残していません。

そのころ、友人の画家、円山応挙から「あんたのように文人画ばかり描いていては、食っていけないぞ。宮家から襖絵のような大作を依頼されようと思えば、画風を変えたほうがいい」とアドバイスされます。それを受けて、月渓(呉春)の絵は応挙風の写生的な描法に転じていきます。彼の作品は人気を高め、月渓は「四条派」の祖として仰がれるようになりました。

もっとも、毒舌家の上田秋成は、応挙一派が隆盛を極めたのは狩野派の画家が下手ばかりになったからにすぎない、応挙や岸駒が画料を吊り上げたせいで絵がやたらと高くなった、月渓は応挙の真似をしたが、彼の弟子はどれも十九文だとこき下ろしています。十九文というのは、今日百円ショップがあるのと同様、当時「十九文ショップ」というのがあって安物を揃えていたので、それになぞらえて皮肉ったもの。

月渓の連句

ここで月渓が加わった蕪村一門の連句を読んでみましょう。1775~76年頃に作られたと推定される歌仙(36句)、「身の秋や」の巻です。参加者は蕪村・月渓・八文字屋自笑・川田田福・寺村百池・江森春面(のちの月居)・几董の七人となっています

身の秋やの巻

オモテ 
  1. 身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)も有(あり)  蕪村
  2.  月を払へば袖にさし入(いる)        月渓
  3. 鐙(くらあぶみ)露けく駒をすすませて    自笑
  4.  餅召さずやと声ひくめたる          田福
  5. やどり古き家名(いへな)のうれしさは    百池
  6.  暮行(くれゆく)空の雪ふりぬべく      春面

蕪村の発句は、小倉百人一首の藤原清輔「ながらへば又此のごろやしのばれむうしとみしよぞ今は恋しき」のなぞり。「もの淋しい秋になったけれども、こんなわびしい秋の宵でもいつかは『あの頃はよかった』と思う日もあるだろう」という意味。

脇句は月渓。発句が秋なので(秋は原則として3句以上続ける)、3句以内に「月」を出さなければいけないというルールがあります。憂き心をのけるように月光を払おうとしたが、光はただ袖の中に入っていくのみであったという、幽玄の句。

第三は屋外の風景に転じて、月光に照らされて輝く露の野原を、騎馬の人が進んでいく。夜に移動するとは、人目をはばかる理由があるのでしょうか。

ところでこの歌仙、後でかなり蕪村が添削した跡が残っているそうです。発句はもとは「かなしさや釣の糸吹秋の風」、脇と第三も「露霜かれて草のおとろひ」「朝の月鳳輦遠く拝むらん」でした。似ても似つかぬ訂正です。「かなしさ」とか「おとろひ」といった暗い題材で始まるのは表六句にふさわしくないと思ったのかもしれません。推敲結果を見て、弟子たちは「ひゃー、これが俺の句か」とびっくりしたことでしょう。

第四、前句で夜に人目をはばかって行くのは落武者であろうと解釈して、「従者が小声で騎馬の主に餅を勧める」と詠んだ。

第五、前句は宿屋の主人が餅を勧めている場面だと読み替えて、「昔から残る古い屋号の宿屋というのは、風情があっていいものだなあ」と旅人が賛美している図。

第六、雪が詠まれて冬の句となります。暮れていく空は今にも雪が降りそうで、その前に良い宿に到着できてよかったと安心しています。ところで、第三で「露」が出ているのにここで「雪」を詠むのは本当はルール違反。露と雪はどちらも「空から降ってくるもの」という認識でともに「降物」に分類されるため、降物は三句去り(間に三句以上挟まなければ詠めない)という規則に反します。

訂正:今日広く普及している連句・俳句季語辞典『十七季』には降物は三句去りと書いてありますが、江戸時代の俳諧指南書『貞享式海印録』では二句去りとなっています。後者に準拠すればこの付はルール違反にはならないようです。

ウラ

  1. 煙たつ竹田の辺り鴨わたる           几董
  2.  明心居士の姪や世にます           自笑
  3. 声だみて物うち語る雨の日に          月渓

裏に入ります。七句目、竹田とは現・京都市伏見区の地名。古来水田地帯として歌に詠まれ、クイナが叩く音などが聞かれたそうです。その水田地帯に鴨が渡って来た。「煙」と「雪の中」は付合(連想関係語)になります。

八句目、「明心居士」とは17世紀の俳人、松永貞徳の別号。「貞徳って昔の人だと思ってたら、まだ姪御さんが生きていて、このあいだ竹田で会っちゃったんだよ」といった感じ。

九句目、姪御さんは雨の日に、だみ声で貞徳先生のことを話して聞かせてくれたんだよ。大打越(三句前)で「雪」が詠まれているのに、また降物の雨をここで詠むのはルール違反。こういうところ、蕪村の連句はちょっと甘いですね。

訂正:上記のとおり、『貞享式海印録』では降物は二句去りなので、この付はルール違反にはならないようです。ただし降物を2回大打越で続けるというのは、展開が弱いようにも思えます。

少し飛ばして、十五句目(裏9句目)に行きましょう。

  1. 能(よき)きぬも着つ又あしききぬも着つ    百池
  2.  暮をうらみてちりがての花          田福
  3. 朧物見車のおもたくて            自笑
  4.  山なだらかに春の水音            月渓

十五句目、人生を振り返ってみると、いい服を着ていた時代も安い服を着ていた時代もあったなあ。

十六句目、いつまでも花を見ていたいのに、日が暮れてきてしまう。桜の花も散るのを惜しそうにしているよ。前句については、花見の席に着飾った人も貧しい身なりの人も混じっているという意味に読み替えています。花の定座は本来十七句目(裏11句目)ですが、前にずらした(引き上げた)形です。花の座は引き上げるのは可ですが、こぼす(後ろにずらす)のは不可とされています。

十七句目、「物見車」とは遊山のために貴人が乗る牛車のこと。花見から帰るのを惜しんで、物見の牛車も重たげにゆっくり進むことであるよ。月の定座は本来十三~十四句目(裏7~8句目)あたりですが、ここまでこぼしています。花の定座はこぼすのは不可ですが、月の定座は可とされています。現代連句でこれほど大きくこぼす例は珍しいのですが、芭蕉や蕪村はけっこう思い切ったこぼしをやっています。

十八句目、月渓はおとなしい叙景句で次へと流します。

ところで、裏の十二句の間に恋句らしいものがまったく見当たらないのは驚きです。蕪村の他の歌仙でも、裏ではっきりした恋がない例がいくつもありました。初折の裏に恋がないのを「素裏(すうら)」と言います。一巻の中で最低一度恋をやれば(名残表でやっておけば)ルール違反ではないのですけれどね。蕪村にとっては恋はそれほど重要な要素ではなかったのでしょうか。

ここからまた飛ばして、名残裏(三十一句目)を読んでみましょう。

ナウ

  1. 秋の情扇に僧の筆すさみ            自笑
  2.  越(こし)みちのくのわかれ路の酒肆     月渓
  3. 声かれて老の鶏脛(はぎ)高き         春面
  4.  なぐさめ逢(あひ)つ通夜の主従(しゆうじゆう) 百池
  5. 深く檜皮(ひはだ)の廊下斜(ななめ)也   几董
  6.  比(ころ)は弥生のやや十日過        田福

三十一句目、秋の風情に心が動いた僧侶は、心のおもむくまま扇に何かを書き付ける。

三十二句目、北陸へ行くか、奥州へ行くかの分かれ道に出た。そこに一軒の酒肆が赤提灯を掲げている。「おくのほそ道」で、芭蕉が同道してきた北枝と別れる際に「物書(かき)て扇引(ひき)さく餘波(なごり)哉」の句を書いてやったという話が出てきますが、そのエピソードからの連想で「扇→みちのく」という発想をしたのでしょう。酒肆が出てくるのは、酒と食事が好きだった月渓らしいところ。

三十三句目、年を取って声が嗄れた鶏は長い脚をしているよ。「鶏」と「憂き別れ(後朝の別れ)」が付合なので、その連想で鶏を出したか。

三十四句目、「通夜」とは葬儀とは限らず、夜通し眠らずに寺社で祈願すること。主人と従者が、「徹夜はつらいなあ」「ご苦労様です」と慰め合っている。前句を、その通夜が明けて鶏が鳴く情景ととらえた。

三十五句目は花の座。通夜が行われたのは花が咲き誇る寺社だったのだが、花を斜めに横切るように檜皮葺きの廊下が伸びている。この句はかなり蕪村が直したらしいのですが、まだちょっとゴタゴタした表現で、美しくないですね。詠んだ高井几董は大器晩成型の俳人で、このころはまだ未熟だったように見えます。

三十六句目(挙句)は田福がさらりと付けました。挙句はこのように軽妙な句が求められます。

月渓の墓

月渓は1811年、60歳で世を去ります。洛南の大通寺に埋葬されますが、同寺が荒廃したため、1889年に蕪村の墓所である洛東の金福寺に改葬されました。今でも洛東を訪れれば蕪村のものと並ぶ呉春の墓に会うことができます。


金福寺の月渓(呉春)の墓(右)
左はその弟、松村景文の墓

2022-09-27

几董『附合てびき蔓』を訳してみた(後編)

几董の春夜楼があったと思われる鴨川東岸。
彼は1784年にここから聖護院の塩山亭に転居しており、
『附合てびき蔓』はそちらで執筆されたようである。

高井几董著「附合てびき蔓」の現代語訳、最終回です。途中、今日では差別的とされている身体表現がありますが、当時の時代背景を考えてそのままにしています(訳語には多少配慮しています)。なにとぞご了承ください。

『附合てびき蔓』超現代語訳(つづき)

<4.実際の作例に見る付けの手法のいろいろ-4句目以後>

四ッ谷注:この章で几董は実際の連句に即して付の手法を見ていく。まず「牡丹散て打かさなりぬ二三片 蕪村」を発句とした歌仙の8句目から解説は始まる。この歌仙の発句と脇については「中編」参照。

山田の小田の早稲を刈比(かるころ) 蕪村
夕月におくれてわたる四十雀     几董

これは景気を延ばす(叙景の句を2句続ける)という付である。かの八体に言う時節前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した季節を付句で詠む)の付でもある。

夕月におくれてわたる四十雀     几董
秋をうれひてひとり戸に倚(よる)  蕪村

これは起情である。前句の風景から人間へと題材を変えて、人の心をほうふつとさせる。八体に言う観相前句の内容に対し、それを喜怒哀楽の観点から見てその心を詠む)の付でもある。

秋をうれひてひとり戸に倚(よる)     蕪村
目塞(ふたい)で苦き薬を啜(すすり)ける 几董

前句で「秋を愁えて戸に倚る」というのを気鬱病の人と見て、趣向をこらしたものである。

八体に言う其人前句に人物が登場する場合、その身分、職業、年齢、性格、服装などの特徴を見定め、それにふさわしい句を付ける)の付である。

目塞(ふたい)で苦き薬を啜(すすり)ける 几董
当麻(たへま)へもどす風呂敷に文(ふみ) 蕪村
隣にてまだ声のする油うり         几董 

ここは3句にわたって人情が続く付である。「苦き薬を啜る」人の動作として、「当麻に返送したい物がある、誰か来ないか」と人を待つはたらきをつなげた。後句では「油うり」と趣向をこらし、「隣にて」と「他」の句にしたところに一句としての特徴がある。これは七名に言う向附前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける)である。

隣にてまだ声のする油うり      几董
三尺つもる雪のたそがれ       蕪村

これは油売りに、たそがれ時というあしらい付を行ったものである。「三尺積もる雪」と言ったところに一句としての特徴がある。七名に言う会釈前句の人物や事物に対し、その属性〈容姿、服装、持ち物、体調、付属品など〉を想定して軽く詠む)である。

三尺つもる雪のたそがれ       蕪村
餌に飢(うゆ)る狼うちにしのぶらん 几董
兎唇(いぐち)の妻の只なきに泣ク  蕪村

「三尺の雪」に対して「餌に飢えるけだもの」を出したところが趣向で、日暮時と想定して「うちに忍ぶらん(家のまわりにひそんでいるだろう)」と一句を結んだ。次の句は、前句で「狼がひそんでいる」と言ったのは狩人であると仮定し、その妻を向附で出し、「兎唇」とした趣向は狩人への(縁語を使って付ける)である(狩人-兎の縁語)。「只泣きになく」と感情を起こしたのは、殺生の職業のために私の身にも疵があるのかもしれない、なんとも嘆かわしいことですと、一人留守をしながら泣いている場面である。これは前句を噂とした(句の上では登場しないものを想定した)感情を入れこんだ向附である。

兎唇(いぐち)の妻の只なきに泣ク  蕪村
鐘鋳(い)ある花のみてらに髪きりて 几董

ここも人情が3句に渡る場面である。狼の句では夫を、前句ではその妻を詠んだが、次はその妻の動きを「自」として(自分のこととして)付けた。さて一句の趣向は、唇に疵をもつ女を見込んで(しっかり見定めて)、悲しい世の中に飽きつくして、わが身の罪障消滅のため鐘供養(新しい鐘の撞きはじめの式、春の季語)に参詣して、髪をおろして尼になるという意味である。

さて、この鐘の句の位置(16句目)は花の定座で、ぜひとも花の句を付けなければいけないところである。しかし、前句が感情を起こしてきたので、それを受けて付けなければつながりも悪く、付をほめられることもない。やはり其人の感情を付けなければいけない。そこで鐘供養として、花の縁語を使ったのだ。山寺などの花の景色も自然と余情にあらわれて、花の句になるように仕上げるため、「花の御寺」という表現を思いついたところがたいへん苦労したところなのだ。

この案じ方は七名に言う有心前句をよく踏まえて、その世界をひっくり返したりせずに言外に想定される状況を補って、詩情豊かに表現する)である。八体で言えば其人である。

鐘鋳(い)ある花のみてらに髪きりて  几董
春のゆくゑの西にかたぶく       蕪村
能登殿の弦(つる)音かすむをちかたに 蕪村

「春のゆくゑ」の句は、前の句に「鐘供養の花の寺に春の夕暮」とあるのを受けて、その景色そのままに付け流した逃句(前句が複雑だったり重い内容だったりして付けが難しい場合、関係のない軽い内容〈季節、時間、天気などを付けて連句の流れをスムーズにする)である。

次の句は、前句の「西に傾く」というところに関連づけて、西国の海をさまよった平家のイメージを付けた。「春の行方」に「霞む遠かた」と収めたところが、前句に気分を合わせたというところである。
四ッ谷注:「能登殿」とは能登守であった平教経のこと。

これは叙景の打添(前句の風情をそのままに従って付ける)であり、付は八体に言う面影前句が歴史・古歌・物語などを連想させる場合、その故事来歴を直接言及せずにそのことをほうふつとさせるような付句を詠む)である。


四ッ谷注:途中飛んで、同じ「牡丹散て」の巻の26句目から再開する。

日はさしながら又あられ降(ふる)  几董

見し恋の児(ちご)ねり出よ堂供養  蕪村

前句、「日はさしながら又」というところに時間が経過する状況が感じられるので、それを受けて堂供養(寺院の落成記念式。寺の周囲を稚児行列がねり歩く)の場に参詣したところと設定し、眼前に見えるにように詠んでいる。さて、「見し恋の」というのは、かねがね見そめていた稚児が今日の供養の儀式のために、さぞかし美しく着飾って出てくるであろう、見たいものだという感情を起こしている。「ねり出よ」というところが話者の心情を命令的な口調で表した句作である。
四ッ谷注:同性愛をテーマとした恋の句。

これは七名で言えば起情の付である

見し恋の児(ちご)ねり出よ堂供養  蕪村
つぶりにさはる人憎き也       几董

前句の稚児を待つ人を、ここで女に読み替えて、髪なども立派に結っている姿であるというように趣向を立てて読み替えた。頭(つぶり)にさわる人というのは、堂供養の場が混雑して我がちに見物しようとしているので人の髪にさわるのも何とも思っていない様子を想定した。女の気持ちとしては髪にさわられることをまことに嫌なことだと思っている感じを一句にしたのである。

「人憎き也」と軽く言い放っているけれども、気持ちはとても強い句。

これは七名で言えば起情の付である

つぶりにさはる人憎き也       几董

いざよひの暗きひまさへ世のいそぎ  蕪村

この付け方をよく味わってみるがいい。打越(2句前)は「児ねり出よ」と言ってただ心に待ち受けているだけである。それに対して「つぶりにさはる人」と付けて一句の面白味を出したので、その触った人に焦点を当てて「暗きひまさへ世のいそぎ」と、暗かったので髪に手が当たってしまったのだという言い分を表現した。「世のいそぎ」と世間の用事に追われているさまを出したため、三句の輪廻を逃れているのだ。「世」の字が大事である。
四ッ谷注:「輪廻」は前に描いてきた世界にまた戻ってしまうことで、連句ではもっとも忌むべきとされた進行である。人情の句が3句続くけれども、この付では「世のいそぎ」と世間一般のことに転じたので、堂供養の場面からは離れたと見るわけである。

これは前句の情を押出す(前句に隠れていた感情を拾い出して付ける)の付であるる。また時分を定めて(昼の景色を暮方の景色に変えて)転じたのである。

いざよひの暗きひまさへ世のいそぎ  蕪村
しころうつなる番場(ばんば)松もと 几董

しころとは砧を打つ槌のこと。番場と松本はどちらも近江の大津と膳所の中間にある集落。付としては、「いざよいの闇」「世のいそぎ」とあるのに着目し、「暮砧急(ぼちんいそがはし)」という杜甫の詩などの面影をとって、砧を付けた、会釈の付である。八体で言えば時節(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した季節を付句で詠む)である。

しころうつなる番場(ばんば)松もと 几董
駕舁(かごかき)の棒組たらぬ秋の雨 几董

前句の場面をしっかり想定して、「駕舁」という趣向をもうけ、「棒組足らぬ(駕籠かきの相棒が不足している)」は前句の前句の気分を引き継いで付ける)をとった句作りだ(四ッ谷注:前句が砧を打つ淋しい風景なので「たらぬ」とマイナスのイメージを引き継いだ)。「秋の雨」は季節を付け加えたもので、前句と合わせて秋雨の風情を作った。

れは八体で言うと其場前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、その場所を付句で詠む)の付である。

駕舁(かごかき)の棒組たらぬ秋の雨 几董
鳶も烏もあちら向(むき)ゐる    蕪村

これは八体で言うと逃句である。4~5句を見渡しての付の要領がここに見られる。そもそも堂供養の句から始まって「頭にさはる」「世のいそぎ」と受け、「砧うつ」と場を定め「駕舁」と人を出してきたが、どれも人情句であり、人そのものの存在や人の動作を描き続けたので、ここでは「秋雨」という天象に対し動物を付けて逃げたのである。しかし「あちらを向」かせたところには趣向がある。

この付は三体で見ても逃句(軽い付け)である。

四ッ谷注:続いて「冬木だち月骨髄に入夜哉 几董」を発句とした連句が解説される。この歌仙の発句と脇については「中編」参照。6句目から始まる。


春なつかしく畳紙(でうし)とり出て 蕪村

二の尼の近き霞にかくれ住(すむ)  蕪村

前句は昔をなつかしく思い出して、古いたとう紙などを取り出して眺めている風情だが、これを内裏づとめをした人が今は遁世して、都に近いところに住む様子であると想定し次を付けたものだ。八体で言うと其人の付である。
四ッ谷注:二の尼とは官女の第二にあり、天皇が崩御した際に尼となった者。

二の尼の近き霞にかくれ住(すむ)  蕪村
七ツ限(かぎり)の門敲(たた)く音 几董

前句で尼が出たので寺の場面と趣向を定め、七つ(16時)には閉門しているとしたところが一句としての特徴である。八体で言えば其場である。「叩く」と言って屋外の感じを出した。

七ツ限(かぎり)の門敲(たた)く音       几董
雨のひまに救(すくい)の糧(かて)やおくり来ぬ 蕪村

前句では七ツ限りで人は通さぬ門と言っていたのが、「軍用の兵糧を持ってきたのだから急ぎ開けてくれ」と趣向をこらしたものである。「雨の間に」と考えついたところが一句として特徴がある点である。

雨のひまに救(すくい)の糧(かて)やおくり来ぬ 蕪村
弭(つのゆみ)たしむ能登の浦人         几董

前句で救米を運んできた軍兵は漁民と想定した上で、弭(弓筈を角で作った弓)などを腰に用意した軍勢という趣向。「能登」と想像をふくらませたところが一句としての特徴である。

どんな付句でも、一句としての特徴がない句であっては前句の繰り返し、あるいは前句の講釈に終わってしまって一句の意味がなくなる。この連句の解説で「一句としての特徴」ということを幾度も繰り返して指摘した理由を考えてみるがいい。

弭(つのゆみ)たしむ能登の浦人   几董
女狐の深きうらみを見返りて     蕪村

前句で「弭を用意した」人というのを、獲物を狩る人という意味に転じて、狐を付けの題材と決めたものだ(四ッ谷注:「弓」と「きつねわな」は付合)。「深き恨み」と(夫を射殺された恨みを表現して)句に感情を盛りこみ、「見返る」と姿を描出したところが一句としての特徴である。この案じ方は有心であり、付としては生類の会釈(動物の性質を見極めた付)である。

女狐の深きうらみを見返りて     蕪村
寝顔にかかる鬢(びん)のふくだみ  几董

前句の「うらみ深き」というのを、人間の女に狐が憑りついたさまと想定し、もののけなどに悩まされた宮女という趣向を立て、寝顔に髪の乱れかかる姿を一句の特徴としたもである。鬢のふくだみというのは、耳ぎわの髪がけば立つさまを言う。源氏物語などによく出てくる語だ。

これは付としては起情である。前句、狐は人情ではないからである。

寝顔にかかる鬢(びん)のふくだみ    几董
いとほしと代(かは)りて歌をよみぬらん 蕪村

前句の人物に対して「いとおしい」という語を差し向けて、姫君のために返歌などを代作しようとする付き人を対置させたものである。とある人がこの句を非難して、「『いとほし』というのは話者の感情であるから自の句であるはずなのに、よみぬらん』と終わるのは、他を推量している用語であるから、一句の中に自と他が混在しているのではないか」と言う。答えていわく、「代わりに詠もうと思うけれどもきちんと詠めるかどうかおぼつかないという心があるので『よみぬらん』と表現したのである」と。

連句の付句で「らん」と留めた句があったら、注意して見るがいい。いにしえの連歌や古風な俳諧ではこういう留め方を嫌うものである。

この付は、前句の詞をとる(前句のことばの調子を生かして付ける)という前句の語勢・語調に合わせて付ける)の手法である。七名で言えば向附である。

四ッ谷注:途中飛んで、同じ「冬木だち」の巻の18句目から再開する。

頭痛を忍ぶ遅キ日の影                几董
鄙人(ひなびと)の妻(め)にとられ行(ゆく)旅の春 几董

前句を、春の日のぬくぬくと暖かい時に心に楽しむこともなく、頭も重く憂鬱な気持ちでいる人と想定して、後句は傾城・遊女などが田舎客に請け出されて、遠い国へ連れられて去る旅中の情景である。

この付は其人であり、匈奴に嫁した王昭君などの面影を借りている。

鄙人(ひなびと)の妻(め)にとられ行(ゆく)旅の春 几董
水に残りし酒屋一軒                 蕪村
荒神(くはうじん)の棚に夜明の鶏啼て        几董

「酒屋一軒」の句は前の句の旅行の体に其場を付けて、趣向としては洪水で多くの家が流された中、わずかに一軒残った酒屋があるという情景である。次の句はその洪水真っただ中ということにして、夜明けがたにようやく水も引いておさまったが、洪水に残った家の様子なので鶏は竈の上の棚に上げておいて鳴かせていたというのが趣向である。「棚に」と言い「夜明の鶏」としたところが一句の特徴である。(四ッ谷注:荒神は竈の神で、竈の上に神棚を作って祀る)

これは八体で言うと時分の付である。

荒神(くはうじん)の棚に夜明の鶏啼て 几董
歳暮の飛脚物とらせやる        蕪村

これ、前句の夜明時分の情景を想定した上で、歳暮を届ける飛脚の旅立ちを発想したのが趣向で、祝儀などを渡す場面を一句にしたものだ。

歳暮の飛脚物とらせやる            蕪村
保昌(やすまさ)が任も半(なかば)や過ぬらん 几董

この一句、藤原保昌(四ッ谷注:和泉式部の夫)は丹後の国守となって赴任した人だ。昔は一期三年ほどで都から国守に任命して各国に遣わすことがあった。付の意味は、前句の歳暮の使いを丹後より来たと想定して、保昌の任国を趣向にしたのである。前句に歳の暮が詠まれているので、年末にあたって赴任期間をあらためて数えてみると「半ばは過ぎただろうな」と句を収めたものだ。この句の留は、「や」に対して「らん」と置いて、文法の定めどおりである。もちろん一句は、「他の噂」(他人のことを話題にしている)となる。

そもそもこのような趣向の句で、場所や人物を設定するのに、決まったルールはない。ただ前句をよくよく見た上で付けるなら、土佐とか貫之とかするのも作者の思いつき次第である。この句は「歳暮使」に「丹後」がなんとなく見栄えよいので保昌と仮定したまでのことだ。前句をよく把握していないと、無駄に固有名詞を出したと言われて嫌われてしまう。

この付は、前句の面影をとると同時に、前句が含む動きを引き継いで付ける)もとった手法である。

保昌(やすまさ)が任も半(なかば)や過ぬらん 几董
いばら花白し山吹の後             蕪村
むら雨の垣穂(かきほ)飛こすあまがへる    几董
三ツに畳んでほふるさむしろ          蕪村

「むら雨」の句、前句に「茨・山吹」とあるので垣を連結させた。むら雨を出したのが一句の趣向で、雨蛙は季節を合わせた取り合わせだ。次の句は起情である。前の句は景気を延ばしてきたので、人情句を付けた。急な雨に干してあった莚を畳むという句のつながりである。「垣を飛びこす」に「畳を畳んで投げる」を付けるというのは、七名に言う拍子前句が勢いのある表現である場合、その勢いを引き継いで付ける)の付であろう。

三ツに畳んでほふるさむしろ        蕪村

西国の手形うけ取(とる)小日(こひ)の暮 几董

前句で莚を抛るというのに着想して、小忙しい様子を、西国問屋などの暮れがたの風情として付けた。(四ッ谷注:「小日の暮」とはやや日暮れた時分)

八体では其場の付。

西国の手形うけ取(とる)小日(こひ)の暮 几董

貧しき葬(さう)の足ばやに行(ゆく)   蕪村

前句、問屋の表口の日暮時分と想定し、その前に葬列を通らせたのが趣向である。「足ばやにゆく」のが「貧しき」というところと関連づいていて一句としての特徴が出た。

八体では時分の付。

貧しき葬(さう)の足ばやに行(ゆく) 蕪村
片側は野川流るる秋の風        几董

前句の情景を見定めて、墓地に近い野に面した町と趣向をこらし、秋風は葬礼へのであり、物寂しい旧暦八月ごろ夕暮の風景で、二句の間に余情が生まれている。

これは時候の景色附である。(四ッ谷注:「時候の景色附」というのはここで初めて出てくる用語。八体の時節に近いと考えるべきか)

片側は野川流るる秋の風       几董
月の夜ごろの遠き稲妻        蕪村

前句の野川の秋風という時候を前提として、月も曇りがちで夜の稲妻が薄く光っているとして悲哀の気持を打添した趣向の句作りである。

八体で言えば天相天体や気象を描く)である。

月の夜ごろの遠き稲妻        蕪村
仰ぎ見て人なき車冷じき       蕪村

前句の景色を前提として、秋の夜のもの淋しい情景に、乗り捨てたカラの牛車という趣向を定め、それを仰ぎ見るという姿に感情を掻き起こしたのである。

これは前句のをとる(前句が含む感覚を引き継いで付ける)という方法であり、七名で言えば起情の付である。

仰ぎ見て人なき車冷じき          蕪村
今や相図(あひず)の礫(つぶて)うつらし 几董

前句、「ひとなき車」というのを不審な状況と設定し、幽閉されていた姫君を盗み出そうとしているのだと趣向を立て、内部に知らせる合図の小石を打とうとしていると句作した。

これは前句の情を押出すという付である。

今や相図(あひず)の礫(つぶて)うつらし 几董
添(そひ)ぶしにあすらが眠窺ひつ     蕪村
甕(もたい)の花のひらひらと散る     几董  

合図の小石を打って知らせる相手を女と想定して、その女が阿修羅(あすら)に添い寝していると趣向した。さて、阿修羅というのはあくまで比喩として言った言葉である。たとえばそれはかの酒呑童子などという昔の盗賊の首領の類かもしれない。あるいは清盛入道が常盤御前に添い寝させていると見ることもできるだろう。

次の句は、その場の情景を想定して、酒に酔わせてうまく寝入らせてしまった阿修羅の枕元などに、甕に活けた桜の花がある様子を趣向して付けた。前句の眠りをうかがっている添い寝の女に取材して、女が懐刀などで命を狙おうとすれば壺に活けた花がひらひらと散ってそれにすら心が驚かされるという余情を詠んだ。逃句の付は達人でなければできないと言ったのは、このような場合を言うのだ。蕉門の付句を知らない者は、このような苦心を目にしたことがないから、「この付はどういう心だ、一句は何でもない句じゃないか」と言ってしまうのだ。この呼吸をよく覚えないと、付合の良い連句を見ても納得がいかないだろう。

以上の付についての評釈では、『桃すもも』所収の連句2巻から拾い出して引用した。全体を見るには、その撰集を照らし合わせてもらいたい。

<付記1.名所地名を違附する場合について>

四ッ谷注:違附とは、正反対のもの、対称関係のものを付けること。

はな紙に都の連歌書つけて
暮(くる)る大津に三井の鐘きく

あるいは

いせの音頭も忘れがちなる
難波江に風ひく迄を月の舟

付け方はだいだいこんな感じである。どちらの場合でも、一方の地名は話題にのぼっているだけ(噂)なのに対し、もう一方は実際の現地の景色(現在)であることに注意。

<付記2.畳語(同じものの繰り返し)について>

海棠(かいどう)の花しぼる銀皿
花の陰に海棠の枝きりちらし

前句は海棠の花を銀皿にしぼりとる動作である。後句は花の陰に海棠の枝を剪りちらかした様子である。前句は海棠の花房を詠み、後句は海棠の剪定を言っている。「花の陰」というのは海棠とは別の、根の生えた外の木のことである。したがってこの句を花の座に用いる場合は、正花(花の座で花として扱われるもの)としての桜は別にあると考え、海棠はかかわらないのである。

一句の中に「花」の字と「桜」の字の両方を使った句の場合、花と桜がいっしょくたにならないように詠めるのであれば、正花扱いになる。たとえば

世の花におくれて一木(ひとき)山ざくら

「世の花」は過去の花であり、 「山ざくら」は現前の桜であるから、これは正花になるのである。

道ぬかる花の山口はつざくら

「花の山」が花の本体であり、「はつざくら」はその属性にすぎないから、これも正花になる。

また、

花の比(ころ)うかがへば世はしづかなり
世はしづか也人群(むる)る春

前句は花の盛りなどにあちらこちらに遊びに出てみれば、いかにも太平の御代であるといった句である。後句はそれを受けて、いかにも太平の御代は静かであると語を重ねた上で、「人群る春」と打返し前句とは反対の事柄を付ける) 、民の賑わいを付けたのだ。もっとも、この句は挙句(最後の句)なのでこういった意図を用いたのだが。

<付記3.その他、付に関する注意>

初裏の月から秋の句が3句続いた場合、花の座を迎えるにあたって花前が秋の句になる。その時は注意しなければならない。
(四ッ谷注:初裏とは歌仙形式の場合、表六句に続くいわゆる「裏」の部分でつまり7句目~18句目が相当する。その中で14句目が月の定座になるが、それを受けて2句連続で秋の句を付けた場合(つまり月の句を含め3句連続で秋となった場合)、花の定座が17句目なので、花の前の16句目に秋の句が来てしまう。秋の句に花の句を付けるのは難しいので、その場合の心得をここで述べている。

露・霧・雁・鹿・相撲などは秋の季題であるが、春のものとしても扱うことが可能である。したがって花前はこれらの季題を使って連結し花の句へ渡すようにすべきである。

また冬の句に春を付けるとか、単に月とばかり出た句(春・夏・冬ではない月の句)に秋以外の季を付けていくのは難しいので、前句をよく見定めて、季節に無理が生じないように処理すべきである。

<付記4.花前に名月が出たケース>

其角の撰集『花摘』収録の巻中に、

名月日よし酒(さか)むかへ人    卜宅
かぐや姫かへせと空に花ふりて    其角

という付がある。前句、「酒むかへ人」というのは、俗に坂迎と言って旅より帰る人を迎えることである。それであるから「日よし」と、日柄もいいと上にもってきたのである。さて、「名月」に「かぐや姫」を付けたのは、『竹取物語』に、8月15日の夜に月の都から天人が大勢下りてきてかぐや姫を迎えに来たのを、みかどから二千人の防御の兵が遣わされ防御したのだが、ついに姫に羽衣を着せ、車にお乗せして天にのぼっていたありあさまを、「花ふりて」と一句に作ったのである。これは俳諧の世界では古今未曾有の付句であって、尋常のノウハウではとても実現できないものである。よくよく味わうべきだ。

[出版者後記] (略)

以 上

参考文献:
 『蕪村全集 第二巻 連句』(講談社)
 『連句辞典』(東明雅、杉内徒司、大畑健治編/東京堂出版)

2022-09-26

几董『附合てびき蔓』を訳してみた(中編)

 
『蕪村全集 第2巻』(講談社)に収録された「附合てびき蔓」

高井几董著「附合てびき蔓」の現代語訳、2回目です。

『附合てびき蔓』超現代語訳(つづき)

<3.実際の作例に見る付けの手法のいろいろ-発句・脇・第三>

以上の記述は、「几董の考え」とした部分を除けば古人の説の引き写しであり、新たに書いた価値はない。以下に書くことは、連句の実作例に昔からの規則を当てはめて、わかりやすく解釈し、もっぱら初心者向けに要点だけを述べたマニュアルとした。俳諧の練達の士向けのものではなく、初心の未熟な作者のために便利であればと思うだけである。本書を見た人は、この断り書きを読んで著述の意図を理解してもらいたい。

[発句への脇の付け方

鳶の羽もかいつくろひぬ初時雨   去来
ひとふき風の木葉しづまる     芭蕉

発句は「初しぐれ」が季語で、それに対して「鳶」を取り合わせたのが趣向である。「かいつくろふ羽」と表現したところにくふうが見られる。

脇句は「初時雨」に「ひとふき風」と気象同士を付け、「かいつくろふ」という動作の起こりに対し「しづまる」という動きの終了を合わせて一句としての特徴を出したものである。

これが打添(発句の風情をそのままに従って付ける)という脇の付け方である。

市中は物のにほひや夏の月     凡兆
暑し暑しと門々の声        芭蕉

発句は「夏の月」が季語で、それに対して「市中」の「物のにほひ」を取り合わせたのが趣向である。「月の夜」という状況に合わせた句づくりである。

脇句は、「暑し暑し」というのが「夏の夜」の場面に合わせた付けである。月は両句の中間にある。「市中」を「門々」で受けている。「声」は、「物のにほひ」がするということを誰かが声に出して言っているということで、人情を加えた。

これが其場(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、その場所を付句で詠む)という付け方である。

雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人
酒しひ習ふこのごろの月         芭蕉

この発句は「深川の夜」をテーマとした庵主への挨拶句であり、脇句は挨拶への返答である。これらは贈答の際の良い手本である。解釈は、最近毎晩声がするかりがねであるけれども、深川あたりの静かな芭蕉庵ではそれも嗄れているように聞こえて面白いという発句を受けて、脇では「ふだんは酒を勧めるというような亭主ぶったことはやらないけれども、遠来の珍客であるからそういう人には酒を勧めるようなこともちょっと覚えてきたよ」と言う。ここで「月」は助字の月といって、季語を入れるためにもってきたものであるけれども、月の夜のことであるからあながち助字というだけではないし、発句の「雁」とも縁づいている。
四ッ谷注:「雁」と「月」は付合(『俳諧類船集』)。

これが相対(発句に使われた語と同類語を用いる)という脇の付け方である。

菜の花や月は東に日は西に     蕪村
山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

この脇句は何のくふうもない句のように、道理を知らない人は思うであろう。しかし発句に対してたいへん良く合った脇である。「月は東に日は西に」というのは春の長い日のだいたい16時前後、月齢は10ぐらいと想定し、月も昼のうちから出ていると見たところだが、いちめんに菜種の花盛りで、それ以外何もない景色である。東に西にと頭を回すという動きを出した表現に、脇句で「行」という字を使ったのが手柄である。東・西を見やった設定に対応して山もとを付けており、菜の花の風情を霞によって発展させている。

四ッ谷注:「山」と「月・入る日」は付合(『俳諧類船集』)。

これも打添であり、また時分前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した時間帯を付句で詠む)の付でもある。

牡丹散て打かさなりぬ二三片    蕪村
卯月廿日のあり明の影       几董

発句は牡丹の優美な姿を描いてみせた風情で、やや衰えた花びらが二ひら三ひら落ちて散ったのを「打重りぬ」と表現したところが作意である。「二三片」と硬い字を使ったのは、季語の「牡丹」も音読みなのでそれに合わせた狙いである。

脇は、発句の季節を見定めて卯月二十日ごろ(5月中旬)とし、時間帯は早朝と決めて「有明の影」とし、散った牡丹の花びらの上に露などがきらきら光って、有明月の光もうるわしく、いい天気の様子が見えてくるようにした。牡丹には「二十日草」という別名があるので「廿日」と決めたのだな、などと理屈を考えてしまうと、この脇句は大いに気品が下がってしまうから勘弁してほしい。

これが打着(発句の内容を包みこむような大きな場面・背景を詠む)という脇であり、其時(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それにふさわしい出来事や風俗を描く)という付け方でもある。

彳(たたずめ)ば猶ふる雪の夜路かな 几董
我(わが)あとへ来る人の声寒    樗良

発句はひたすらに降りつのる雪の夜の歩行を描く風情である。さすがに歩き疲れて、しばしたたずんでみると、いよいよ雪の勢いが強まる感じなので、休んでいるわけにもいかず、またやるせなく行こうとする様子である。「雪の夜道」と言ったところがくふうで、「猶」という字が一句の眼目になっている。

脇句は、行くも立ち止まるも難儀な大雪の夜に歩くのは自分だけかと思っていたら、また後からも来る人がいて、その人が「さて悪い雪だ」とつぶやく声がいかにも寒そうだと感慨を催した句だ。「声寒」は「声寒げなる」の下半分を略した形。一般的に脇を漢字で留めるべきとするのはことば足らずがないようにするためだが、この句では「寒げなる」というべきところことば足らずが生じている。しかし内容がよく完結していれば、ことばがどうであっても、発句と脇に筋が通ったことになる。これらを見て、完結しているかしていないかの判断について了解してみるとよい。

これも相対であり、有心前句をよく踏まえて、その世界をひっくり返したりせずに言外に想定される状況を補って、詩情豊かに表現する)の付けでもある。

冬木だち月骨髄(コツズイ)に入夜哉 几董
此句老杜が寒き腸(ハラワタ)    蕪村

発句は月の光が鋭く冴えわたる夜に、冬枯れの木の姿がすっかり丸見えになっているさまを描いてみせたところが趣向であり、「月の光も骨身にしむような夜じゃ」というところを「月も骨髄に透るばかり哉」と作ったものである。

脇句は常識的に発句の景色や情を引き継がず、一句の風骨はまるで杜甫の詩を見るようであると発句を褒めたところが趣向である。「寒き腸」というのも、杜甫の「詩腸(詩情)」を思いつつ季節を考慮した会釈(前句の人物や事物に対し、その属性〈容姿、服装、持ち物、体調、付属品などを想定して軽く詠む)にした。こういうのは規格外の脇で、達人でなければ思いつくこともできないやり方である。

芭蕉編のアンソロジー『次韻』所収の連句に
鷺の足雉脛(きじはぎ)長く継(つぎ)そへて    桃青
這句以荘子可見矣(このくそうじをもってみるべし) 其角
とある作例に倣ったものだ。

[脇起りの連句

時には古人の発句を利用し、脇句から始める連句がある。それを「脇起り」という。

花の後まだある春が五日ある    古人
その花見ざる袖の春雨

この発句は、もはや桜はことごとく散ってしまったが、春はまだ4、5日も残っている、このあと4月になるまでの間はどのような春の雰囲気であろうかと、花過ぎの時節にことづけて春への思いを残したところが趣向である。「五日」という数に特段の必然性はない。

脇は、その情景を反映しつつ、「この古人は逢ったことも見たこともない人だが、名前と作品は聞き及んでいて、かねてから慕わしく思っていた」というニュアンスを挨拶ににじませて、発句では「花の後」と過去現在を示しつつ「五日ある」という未来を想像したのに対し、「その過ぎた花すら私は見なかった」と感懐を起こして、「今となっては袖を涙で濡らすばかりだ」と嘆いて「袖の春雨」と結んだものである。「花」「春」という字は発句にもあるのをわざわざ脇でもこの二字を使ったのは、脇起りならではのやり方だ。

しかし脇起りだから発句にある文字を使わなければいけないということはない。ただ、今現在の人と古人とでは違うところがあるということをよく心得て、気を配って脇を付けること。

また夢の中で神仏の暗示を得てできた句を発句とする場合は、夢に見た句は神が詠んだものとみなし、作者名には「御」の字を書いておく。脇は夢を見た人が付けて、以下続けていく。このような場合の決まった方法はないけれども、発句を神の句と心得て、脇にその啓示を受けた心で作るのである。そういうわけでこれも脇起りに同じと言ってよい。また、夢、祝言、奉納の類の連句では、脇の最初の音に「五音相通(ごいんそうつう)」「十韻連声(じゅういんれんせい)」などの手法を用いるかどうかは、その時の宗匠の意見に任せるのがよい。
四ッ谷注:「五音相通」「十韻連声」とは発句の最後の音と脇の最初の音で韻を踏む押韻法で、前者は同じ子音を使用、後者は同じ母音を用いるやり方。

[発句・脇に対する第三の付け方

置炭やさらに旅とも思はれず    越人
雪をもてなす夜すがらの松     知足
海士(あま)の子が鯨を告る貝吹て 芭蕉
四ッ谷注:「置炭」は茶人が炭を継ぎ足すこと。

発句は炉辺に旅人をもてなす情景であるから、脇も打添付で庭の景色を付けた。さて第三は、その2句に対して鯨がやって来たことを告げる法螺貝を吹く音が聞こえると表現し、「他」の句によって出来事を描写することで前の句を海辺の旅泊と見なした付けである。発句と脇が室内の情景であるのに対し、屋外の出来事を繰り出していくので「転じ」が生じるのである。この場合は向附前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける)になっている。

木のもとに汁も膾(なます)もさくら哉 芭蕉
西日のどかによき天気也        珍碩
旅人の虱かきゆく春暮て        曲水

発句は、花の下に遊んで汁にも膾にも落花が降ると景色を賞嘆したが、脇は打添で「西日長閑に」と時分の付で言い流した。「久かたのひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらん」という紀友則の歌を照らし合わせて見れば、いよいよ面白い。さて脇句は「西日」「長閑な天気」と季節の風景を描いたものだが、第三では人間を出してきて、それが旅人であると趣向をこらし、「虱掻ゆく」と動作を出して姿を見えるようにして、「春くれて」と季節は動かないようにしたのはうまく付けたものだ。こういうのが、「たとえ百句の中にまぎれてしまってもこれこそが第三だとわかる句」と言うのであろう。

この発句は人事を扱いながらも、叙景と解釈された句である。脇は普通の情景描写であるが、第三でもそれを続けてしまうと世界が狭くなるので、しっかりと人を出した。したがって起情の句ということになるのである。

啼々も風に吹るる雲雀かな
烏帽子を直す桜ひとむら
山を焼(やく)有明寒く御簾捲(みすまき)て

発句は、春風に向かって雲雀が上がる叙景。脇句では人情を入れて(人間を出して)発句の雲雀に響かせ、「烏帽子を直す」と姿を描き、「桜一むら」と背景を添えた。さて第三は、烏帽子を直す人とは何者であろうと詮議し、離宮などを想定して「御簾まく」と付けた。この第三、一句としての特徴といい着想といい、達人の手際である。

これは其人(前句に人物が登場する場合、その身分、職業、年齢、性格、服装などの特徴を見定め、それにふさわしい句を付ける)の付である。

なきがらを笠にかくすや枯尾花   其角
温石(をんじゃく)さめて皆氷る声 支考
行灯の外よりしらむ海山に     丈草

この発句は、其角が芭蕉翁を追悼した哀傷の作である。脇はその心を受けて「温石さめて」と言い、「皆氷る声」と門人たちの断腸の思いを述べたものかと思う。第三では一転して、旅泊の句を付けたところが面白い。脇を寒夜が明けてゆく様子と想定して、趣向をこらして「屋外の海山から白んでいく」とした一句としての狙いは第三として上出来である。

この付は会釈である。発句も脇も有心(心をこめた詩情豊かな表現)だからである。

やぶれても露の葉数のばせを哉
木槿の外も垣の間引菜
朝の魚都は月に用ゆらん

発句は、秋風に破れた芭蕉を気の毒と見て「露の葉数」と表現。脇では「木槿の垣」と場面を設定し、「間引菜」という意外なものを持ってきたところがしゃれていて一句としての特徴を出している。さて第三は、垣根の外側は菜畑という叙景に、人情を出して「このへんの近い海辺で獲れた魚だが都のほうではちょうど月見の夜宴に供するのであろう」と遠くを思いやった句である。

これらの事例で、第三の留(て・にて・らんなどしめくくる語)が4句目以降につながっていく具合を理解すると良い。

[第三を文字留(漢字で留める)とする場合について

霜月や鸛(こふ)のつくづく並びゐて          荷兮
冬の朝日のあはれ也けり                芭蕉
樫檜(かしひのき)山家(さんか)の体を木葉降(ふる) 重五

発句はこうのとりがちょんちょんと並んでいる情景。「並びたれ」ではなくあえて「て」で留めた。脇句は通常は体言で留めるのだが、ここでは「あはれ也けり」と言ってかえってうまく納まっている。この場合第三は普通の留め方では面白くない。発句は「霜月や」、脇句は「冬の朝日」と出して、二句が強く結びつきすぎて一体化しており、第三を付けるとらえどころもないのだが、わずかに「朝日」という字を手掛かりにして「樫・檜」という常緑樹をもってきて、「山家の体を木の葉降」と一句を調子よくさせたので、第三らしい姿となり、留め方もめずらしく、三句が作るバランスもよく整っている。「樫・檜」と言って下のほうで「木葉降」とつなげたところに注意して耳を傾けるべきである。
四ッ谷注:几董が言いたいことは、発句も脇句も助詞・助動詞で終わっている(テニハ留)ので、第三もテニハ留だと釣り合いが悪いから、漢字止めにしたということであろう。