2023-03-11

横井也有 荷風も認めた名文家(13) 写真でたどる也有の生涯(上)

 
横井也有出生地にて(現・愛知県図書館)

この2か月間ほど、横井也有にゆかりのある土地を愛知県や東京で探索して歩きました。2回にわたってそれらを紹介しながら、彼の人生を一緒に見ていきましょう。也有の文章の引用は筆者による現代語訳。

横井家のふるさと・藤ケ瀬町

横井家の先祖は鎌倉執権の北条家です。第14代執権、北条高時の次男が北条時行(中先代)で、鎌倉幕府滅亡後、南朝と組んで足利政権に対抗します(中先代の乱)。時行が幕府軍に捕らえられ処刑(1353年)された後、その子孫の時永が海西郡赤目(現・愛知県愛西市赤目町)に移り、赤目城を築いて横井氏を名乗ったのが、横井家の始まりです。

赤目城跡(現・赤城神社)

赤目城裏門(現在は一心寺内に移築)

横井家は足利義輝、織田信長に仕えた後、3代後に時泰、時雄、時朝、時久の兄弟が出て、彼らは徳川家康に臣従します。時泰は赤目の横井本家を継ぎ、時雄の子孫は紀伊徳川家に臣属、時朝が藤ケ瀬村(現・愛西市藤ケ瀬町)に居を定め、時久は祖父江村(現・稲沢市祖父江町)に住みました。

この横井時朝が也有の祖先となります。藤ケ瀬横井家は代々孫右衛門を名乗っており、藤ケ瀬を領地として尾張徳川家に仕えました。藤ケ瀬の屋敷跡一帯は現在農地になっていますが、今でも「御屋敷畑」と呼ばれているそうです。


御屋敷畑。ただし横井家の屋敷は写真下の奥、人家の場所にあったという

藤ケ瀬は也有にとって心のふるさとと言うべき実家でした。藤ケ瀬の美しい景色を八か所選び、それを詠んだ八景歌が、彼の歌集『雪窓百首』に収められています。16~18歳の頃の歌。早熟ですね。

(藤瀬夜雨)梶枕ゆめも結ばじ藤がせのなみに音そう夜はのむらさめ
(秋江夕照)山本はまづ暮初てゆふ日影あき江の水にのこるさびしさ
(成戸晩鐘)遠近のながめにあかず惜むらしくれに成戸の入相のかね
(鵜多洲落雁)鳴声も雲のそなたと見るがうちにうたすに落る雁の一行
(伊吹暮雪)夕あらし雲はさだかに吹分てそれといぶきに晴るゝ白雪
(早尾帰帆)遠方に見えしもやがて吹風の早尾につれてかへるつり船
(川北秋月)ながれ行水やはさそふ秋の夜の月もそなたに更る川きた
(高須晴嵐)雲はるゝ峰にあらしやよわるらん音は高須の市に譲りて

このあたりは地形が現在と異なっていて、藤ケ瀬村は木曽川(西側)と佐屋川(東側)に挟まれる輪中(周囲に堤防をめぐらした地域)にありました。秋江・成戸・高須・鵜多洲・早尾・川北は二つの川に沿って点在する集落です。

藤ケ瀬町から見た伊吹山
私が訪問した日は霞がかかっていて、ぼんやりとしか写っていませんが

生誕地・名古屋城三の丸

也有の父親、横井孫右衛門時衡(ときひら)は尾張徳川家の用人を務め、ふだん名古屋城三の丸の官邸に居住していました。この家で也有は1702年9月4日に長男として生まれました。

横井家があった場所には、現在は愛知県図書館が建っています。図書館の奥のほうが横井邸の敷地でした。


愛知県図書館正面入り口

 
図書館の裏手が横井家敷地だった場所

也有は8歳で横井辰之丞時般(ときつら)を名乗ります。16歳で藩主・徳川継友に新規御目見し、御近習詰となる。この年ぐらいから也有は和歌を学んだとされます。俳諧に手を染めたのは23歳ぐらいか。

26歳のとき父が隠居し、家督知行を継ぐ。この頃からのちに『鶉衣』に収められる文章が書き溜められていきます。

はじめての江戸勤務

28歳のとき、父・時衡が死去。

29歳で御用人に取り立てられ、家の名である孫右衛門を襲名します。

この年(1730年)の4月、初めての江戸勤番を命じられて東海道へ旅立ちました。途中、あこがれの富士山を間近に見た話が、『鶉衣』所収の紀行文「袷かたびら」に書かれています。

四月七日
天竜川を渡って、その向こうに初めて富士の山が見えた。中腹から下は雲に隠れながら、見間違えるはずもない。故郷を出る時からこの山を見ることばかり心にあって待っていたが、まことに絵に描かれた姿に違わず、見るからに美しく、おのずと歌に詠むことができた。見付という村の名も、ここから初めてこの山が見えるのでそう名付けられたという。まことにもっともだ。

うき物にたれさだめけん旅衣きてこそ見つれふじの高根も

四月九日
吉原から野原の中を行くと、富士の嶺は左にたいへん近い。空は少し晴れ上がってきたが、それでも頂上は雲に隠れていた。たいへん鷹揚に裾野を広げた様子には、心もことばもついていけない。絵に模写し詩歌に言っても、十のうち一をも語ったことにならないだろうとはじめて思い知る。年来、離れた土地で富士のことを思ってきたが、これまでとは思わなかった。その一部だけでも比べられる山などありはしない。見たことのない人に伝えられることばも見つからない。日本に住んでこの山を一生見ないのは、生きる甲斐があるのかどうかとさえ思う。

山々ははれゆく空の雲に猶見えぬをふじの高根とはしる

富士市から見た富士山。
俳文「百虫賦」の中で也有は「蟹の歩き方は他のものにはたとえようがない。ただ、駿河国の原・吉原(現・沼津市、富士市)を駕籠に乗って、富士山を眺めていく人には似ている」と冗談を書いています。

江戸の尾張藩邸は、上屋敷が火災で焼失していたため、中屋敷を使用していました。也有はその邸内の長屋で起居したものと思われます。中屋敷の跡は、現在の上智大学(千代田区紀尾井町)です。


尾張藩中屋敷の跡地(現・上智大学)

8月に親友の毛利嘯花死去の悲報が入った話は、前々回書きました。

江戸勤番中は『鶉衣』の文章を書いたり、江戸の俳人と交流したりして、一見余裕のある勤務ぶりにも思えるのですが、実際には常時緊張を強いられる激務だったようです。とくに初の江戸勤番であったこの年は、夏に同僚に病人が続出し、そのため複数の役職を兼ね、昼夜を問わない勤務を果たし、相当苦労したようです。

11月、藩主の継友が麻疹で急死。徳川宗春がその跡を継ぎますが、この継承が尾張藩にとっての大事件のきっかけとなります。

藩主追放のクーデター

翌年(1731年)の1月、新藩主・宗春が襲封御礼のため江戸城の吉宗将軍に拝謁し、也有は随行します。也有30歳、初めての拝謁でした。

同年4月に宗春は江戸から名古屋へ向かいましたが(お国入り)、そのときの衣裳が奇抜なファッションだったので、尾張の人々の度肝を抜きます。新藩主は名古屋城下でさまざまな祭を派手に長期に行うことを推奨。また夜も女性や子供が外出できるように多数の提灯を街路に設置。翌1732年には遊郭を新たに3か所も設置許可、そこでは芝居小屋、風呂、飲食店などが営業し、花火が打ち上げられ、レジャーセンターとしてにぎわいました。

徳川宗春が設置させた遊郭の一つ、「富士見原新地」があったあたり(現・名古屋市富士見町)『鶉衣』では「雪見ノ賦」「七景記」でこの新地のことが語られています

翌1732年、焼失していた尾張藩江戸上屋敷が再建され、新築完成しました。参勤交代で江戸に上った宗春は、5月に新しい屋敷を江戸町民に開放し見物させました。当時幕府はデフレ政策をとっていて、質素倹約の規制を強化していたため、一連の宗春の派手な施策は吉宗の神経を逆なでし、吉宗は宗春に対して詰問を行ったとされます(詰問はなかったという異説もあり)。

その尾張藩江戸上屋敷が所在したのは、市ヶ谷の現在防衛省となっている土地。三島由紀夫が乱入した陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の後身です。也有は1年おきに江戸勤番を務めていますが、1732年9月の2度目の江戸入りからは上屋敷に居住したと思われます。


尾張藩上屋敷の跡地(現・防衛省)


防衛省の左内門から日本学生支援機構にかけて、江戸時代の石垣がわずかに残る

なぜここに尾張藩上屋敷が置かれていたかというと、ここが高台で、江戸でいちばん地盤が安定している場所だからではないかと思います。関東大震災でも市ケ谷~牛込方面の被害は少なかったという事実があります。親藩である御三家は非常に優遇されたのですね。防衛省がここに移転したのも、火急の場合に防衛体制を維持するためでしょう。

藩邸には名園がありましたが、也有は友人の紀六林に頼まれ「江戸官邸六景」の発句を作っています。

(山廓初暾)笑ふ中に家あり山の朝日影
(隣舎春禽)燕やはなし声する壁隣
(青山南薫)悠然と見る山すゞし南かぜ
(墻上桂樹)垣間見の鼻に木犀匂ひけり
(西窓繊月)三日月を見るほど窓の破れかな
(芙蓉晴雪)上はぬりの晴てあたらし富士の雪

さて、宗春は緊縮政策に反抗して積極的に経済の自由化を図りました。城下が賑わったものの、農工業の育成に投資するのではなく享楽的な方面に金を使ったため、藩の財政は急激に悪化します。これに危機感を持った家老の竹腰正武は、老中・松平乗邑と意を通じて宗春の失脚を計画します。1739年2月、宗春は吉宗将軍名により蟄居謹慎を命じられ、藩主の座を逐われました。

当時江戸に詰めていた也有は、供番頭として一部始終に立ち会っていました。彼の性格からして、クーデター計画に積極的に関与していたとは思えませんが、宗春失脚の経緯をよく知っていたでしょう。

也有の江戸でのお仕事

也有は江戸でどんな仕事をしていたのか。年譜を見てみると、まずさまざまな接客があります。とくに紀州家、水戸家、老中などの接待は重大行事でした。それから馬や具足の管理。藩主一族の婚礼、出産、御祝行事などを担当。さらに藩主生母の遊山への付き添い、藩主一族の墓への代参などもあります。要するに今日でいえば「総務部長」といった役職ですね。

これらのうち墓への代参ですが、江戸では伝通院や天徳寺での、早世した若君や姫君の法事に出席しています。先日、港区虎ノ門の天徳寺を見に行ってみました。愛宕トンネルの東側です。尾張藩の墓廟がどうなっているのかはよくわかりませでしたが、墓地には葵の紋が入った石造物がありました。おそらく尾張徳川家が遺したものでしょう。也有もここに立ったかなあと、しみじみと感じ入ったのでした。


天徳寺の墓地に残る、葵の紋入りの石造物

次回は也有の隠居前後の人生、そして晩年を見ていきたいと思います。