2024-12-17

呉春(松村月渓) 美食家の絵師俳人

呉春展ポスター(大和文華館)

呉春展を観に行った

2024年10月から11月にかけて、奈良市の大和文華館で「呉春展」が開催されました。

呉春(ごしゅん、1752~1811)は蕪村から絵を学び、俳諧の座をともにした、絵師俳人でした。あくまで画業が主ですが、俳号を月渓(げっけい)と言い、それほど多くはありませんが俳諧作品を残しています。

呉春展のカタログの巻末には月渓全発句が掲載されていましたので、今回は主にこれを鑑賞してみたいと思います。国会図書館デジタルコレクションでは月渓の句集が無料で閲覧できますので、そちらで読むことも可能です。

造幣役人、絵師となる

呉春の本名は松村文蔵と言い、京都の金座年寄役だった松村匡程の息子として生まれました。金座というのは金貨を鋳造していた組織で、今で言えば造幣局といったところです。呉春自身も若いころは金座役人をしていました。

ところで「呉春」は中国風に画名を名乗ったので、「松村呉春」とは呼ばれません。俳号のほうは「松村月渓」とされていたようです。

蕪村に入門して絵を学んだのは、20歳前後ではないかと言われています。師の画風をよく学んで、俳画風の省筆が効いた絵を描いていますが、蕪村の絵が軽妙そうでありながら意外と鋭く、一気に核心を突くような筆使いを見せるのに対して、呉春の絵はゆったりと優美で、彼のまろやかな性格がうかがえます。

呉春の絵を勝手に転載するのは問題がありそうなので、代表作「白梅図屏風」は逸翁美術館のHPをご覧ください。

若き絵師、句座に参加する

月渓の句が初めて俳書に見えるのは、1773年の句会稿『耳たむし』の中で、この22歳の頃から俳諧にも傾注したと考えられます。

仏壇に雨の漏る夜や郭公(ほととぎす)      1773

ホトトギスといえば梅雨のころに鳴くものと古来相場が決まっています。その梅雨時のあばら家の様子を巧みに描いた句。

白雨(ゆふだち)のくらまぎれより鵜舟かな    1773

「くらまぎれ」とは「くらやみに紛れた場所」の意味。漕ぎ出した鵜舟が夕立に降られてしまった。木陰に入って雨を避けていたのでしょうか、そろそろ雨も止みそうなのでゆっくりと進み始める。

したしたと漁火にしみ込しぐれ哉         1774

これも雨の中の漁を描いた句。「したした」というオノマトペアがうまい。

これら三句を読むと、「さすが絵師の俳諧、描写力にすぐれている」と言いたくなるのですが、実際には月渓の句は写生的というよりも、情味が濃く季題趣味のものが多い。情味といっても品格が落ちるようなことはないのですが、蕪村の句に比べると全体にのどかな感じです。

我頭巾猫にもきせてみたる哉           1774 

猫の頬の灰も払ふやとしのくれ          1775

月渓は相当の猫好き。愛猫家には共感できる句でしょう。

蝸牛角にちからの見ゆるかな           1775 

カタツムリよがんばれ、がんばれ。なんだか西村麒麟さんの句みたい。 

しら露や力なき葉のうらおもて          1775 

露が降りるころになると葉っぱもしおれてくるというのは、理屈ぽい常識ではありますが、「力なき」とか「うらおもて」あたりのことばづかいは上手。

うら枯の表へ出たるふくべかな          1775 

葉っぱが枯れてくるとヒョウタンが目立ってきて、自己主張。 

太夫との結婚、そして悲劇

月渓が蕪村から教わったのは絵画や俳諧だけではなく、遊びもだいぶん教授してもらったようです。島原遊郭によく通ったことが伝えられています。

1778年、27歳のとき、彼は島原の太夫、雛路を妻に迎えます(俗名はる)。夫婦仲は悪くなかったようです。

ところが1781年、実家に帰るはるが乗った船が沈没、彼女が水死するという悲劇が起きました。3年ばかりで終わった夫婦生活でした。

是生滅法と翌日(あす)降る雪の響かな      1778 

「是生滅法」とは涅槃経に出てくることばで、「生命のあるものは、いつかは必ず滅びて死に至る」という意味。後年彼は

うき恋を女夫(めをと)になれば田うゑ哉     1786 

という句を作っていますが、好いた惚れたといっていっしょになっても結婚すれば一介の夫婦、二人で田植えをやっているようなものだと回想したのかもしれません。

さらにこの年の夏、父の匡程が江戸で客死しました。相次ぐ身内の死に、月渓は髪を剃って法体となり、摂津の池田(現・大阪府池田市)に転居しました。

このころの月渓は、絵師としては駆け出しで経済的に余裕がなかったように思われます。池田では、蕪村門の呉服商、川田田福の出店に居候していたとのこと。ひょっとすると父の死によって家の財政がきびしくなり、京から池田に移住せざるをえなかったのかもしれません。

池田に住んだのは6年前後にすぎないのですが、池田市はこのことを誇りに思い、郷土の芸術家として顕彰しています。池田の逸翁美術館(阪急系財団)は呉春の絵画を多数収集・収蔵しています。

蕪村の厚情と死別

1783年、月渓は灘で酒造業を営む資産家の松岡士川を訪ねました。士川は蕪村門の俳人であり、かつて同じ蕪村門の吉分大魯が大坂で不始末をしでかして追放された際には、士川を頼って灘に落ち伸びています。蕪村は月渓に推薦状を持たせます。「この月渓という男は君子であって、以前ご迷惑をおかけした大魯や月居のようなゴロツキとは人間が違います。人物は私が保証します。絵のほうは当代無双の妙手です。俳諧もとても良い句を作りますし、横笛も吹け、非常に器用です。とくに絵画の技は自分も恐れるくらいの若者です」というように、大絶賛しています。

蕪村としては、月渓が士川から絵画の注文を得て経済的にうるおうように配慮して、紹介してあげたのでしょう。

ところがこの紹介の直後、蕪村は京の自宅で病没します。月渓は蕪村宅に駆けつけ、遺品を整理し、売り立てを行って、遺族の生計のための現金化を計りました。蕪村の娘、くのは婚家で離縁されて実家に戻っていたのですが、このころ再婚の話がまとまっていました。月渓が行った売り立てによる収益は、彼女の婚資にも充当されました。月渓は蕪村の遺品整理を全面的に任されるほど信用があり、また実務処理にも長けていたことがわかります。

整理中、月渓は師の机の上に読みさしの『陶淵明詩集』を見つけました。ページの間に、短冊が挟んであり、

桐火桶無絃の琴(きん)の撫(なで)ごゝろ    [蕪村

の句が書きつけられていました。中国の古代詩人、陶淵明が、琴を弾けなかったけれども酒を飲むと絃を張らない琴を撫でて楽しんでいたという故事にちなんだ句で、この短冊を栞にして蕪村は淵明詩集を読んでいたのです。月渓は短冊に継ぎ紙をしてそこに陶淵明の肖像を描き、売り立てに加えたのでした。

この師弟合作による陶淵明像は現在逸翁美術館に収蔵されています。画像を貼るのは控えておきますが、「蕪村 月渓 陶淵明」で検索するとネット上に出ているのが見つかりますから、ぜひ探してみてください。

美食の人、月渓

蕪村死去の翌々年、月渓は

わびしさや酒麩に酔る秋ひとり          1785         

という句を作っています。句の背景はわかりませんが、師を失った悲しみを詠んだものかもしれません。酒を飲まなくても酒麩だけでよっぱらっちまったよ、という孤独を嘆いた句でしょうか。

ところでこの「酒麩(さかふ)」とは煮物で使う酒塩で煮詰めた麩だそうです。月渓は美食家として有名で、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にはならぬ」と豪語していました。とくに土筆と豆腐が好物であったと、上田秋成が書き残しています。池田時代には「一菜会」というおいしいものを食べる会を催していたといいます。掲句でも、「酒麩」とは洒落た一品を食したものですね。

作風の変化

月渓は1788年ごろには京に住居を移していたようです。蕪村門では彼は高井几董と仲よしで、師の死後も二人は親しく交わっていました。几董は誰からも愛される京都俳壇のキーパーソンでありました。

この1788年、京を焼き尽くす大火がありました。月渓も几董も焼け出されてしまいます。翌1789年には几董が急逝します。蕪村の後継者として期待されていた彼の死は、蕪村一門にとって大きな悲しみでした。

几董追悼の句として、月渓は

寝られねバ聞や霜夜の烏啼            1790        

を寄せています。蕪村、几董という敬愛する二人が世を去って、どうやら俳諧への関心が減退してしまったようで、これ以後は彼は見るべき発句を残していません。

そのころ、友人の画家、円山応挙から「あんたのように文人画ばかり描いていては、食っていけないぞ。宮家から襖絵のような大作を依頼されようと思えば、画風を変えたほうがいい」とアドバイスされます。それを受けて、月渓(呉春)の絵は応挙風の写生的な描法に転じていきます。彼の作品は人気を高め、月渓は「四条派」の祖として仰がれるようになりました。

もっとも、毒舌家の上田秋成は、応挙一派が隆盛を極めたのは狩野派の画家が下手ばかりになったからにすぎない、応挙や岸駒が画料を吊り上げたせいで絵がやたらと高くなった、月渓は応挙の真似をしたが、彼の弟子はどれも十九文だとこき下ろしています。十九文というのは、今日百円ショップがあるのと同様、当時「十九文ショップ」というのがあって安物を揃えていたので、それになぞらえて皮肉ったもの。

月渓の連句

ここで月渓が加わった蕪村一門の連句を読んでみましょう。1775~76年頃に作られたと推定される歌仙(36句)、「身の秋や」の巻です。参加者は蕪村・月渓・八文字屋自笑・川田田福・寺村百池・江森春面(のちの月居)・几董の七人となっています

身の秋やの巻

オモテ 
  1. 身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)も有(あり)  蕪村
  2.  月を払へば袖にさし入(いる)        月渓
  3. 鐙(くらあぶみ)露けく駒をすすませて    自笑
  4.  餅召さずやと声ひくめたる          田福
  5. やどり古き家名(いへな)のうれしさは    百池
  6.  暮行(くれゆく)空の雪ふりぬべく      春面

蕪村の発句は、小倉百人一首の藤原清輔「ながらへば又此のごろやしのばれむうしとみしよぞ今は恋しき」のなぞり。「もの淋しい秋になったけれども、こんなわびしい秋の宵でもいつかは『あの頃はよかった』と思う日もあるだろう」という意味。

脇句は月渓。発句が秋なので(秋は原則として3句以上続ける)、3句以内に「月」を出さなければいけないというルールがあります。憂き心をのけるように月光を払おうとしたが、光はただ袖の中に入っていくのみであったという、幽玄の句。

第三は屋外の風景に転じて、月光に照らされて輝く露の野原を、騎馬の人が進んでいく。夜に移動するとは、人目をはばかる理由があるのでしょうか。

ところでこの歌仙、後でかなり蕪村が添削した跡が残っているそうです。発句はもとは「かなしさや釣の糸吹秋の風」、脇と第三も「露霜かれて草のおとろひ」「朝の月鳳輦遠く拝むらん」でした。似ても似つかぬ訂正です。「かなしさ」とか「おとろひ」といった暗い題材で始まるのは表六句にふさわしくないと思ったのかもしれません。推敲結果を見て、弟子たちは「ひゃー、これが俺の句か」とびっくりしたことでしょう。

第四、前句で夜に人目をはばかって行くのは落武者であろうと解釈して、「従者が小声で騎馬の主に餅を勧める」と詠んだ。

第五、前句は宿屋の主人が餅を勧めている場面だと読み替えて、「昔から残る古い屋号の宿屋というのは、風情があっていいものだなあ」と旅人が賛美している図。

第六、雪が詠まれて冬の句となります。暮れていく空は今にも雪が降りそうで、その前に良い宿に到着できてよかったと安心しています。ところで、第三で「露」が出ているのにここで「雪」を詠むのは本当はルール違反。露と雪はどちらも「空から降ってくるもの」という認識でともに「降物」に分類されるため、降物は三句去り(間に三句以上挟まなければ詠めない)という規則に反します。

ウラ

  1. 煙たつ竹田の辺り鴨わたる           几董
  2.  明心居士の姪や世にます           自笑
  3. 声だみて物うち語る雨の日に          月渓

裏に入ります。七句目、竹田とは現・京都市伏見区の地名。古来水田地帯として歌に詠まれ、クイナが叩く音などが聞かれたそうです。その水田地帯に鴨が渡って来た。「煙」と「雪の中」は付合(連想関係語)になります。

八句目、「明心居士」とは17世紀の俳人、松永貞徳の別号。「貞徳って昔の人だと思ってたら、まだ姪御さんが生きていて、このあいだ竹田で会っちゃったんだよ」といった感じ。

九句目、姪御さんは雨の日に、だみ声で貞徳先生のことを話して聞かせてくれたんだよ。大打越(三句前)で「雪」が詠まれているのに、また降物の雨をここで詠むのはルール違反。こういうところ、蕪村の連句はちょっと甘いですね。

少し飛ばして、十五句目(裏9句目)に行きましょう。

  1. 能(よき)きぬも着つ又あしききぬも着つ    百池
  2.  暮をうらみてちりがての花          田福
  3. 朧物見車のおもたくて            自笑
  4.  山なだらかに春の水音            月渓

十五句目、人生を振り返ってみると、いい服を着ていた時代も安い服を着ていた時代もあったなあ。

十六句目、いつまでも花を見ていたいのに、日が暮れてきてしまう。桜の花も散るのを惜しそうにしているよ。前句については、花見の席に着飾った人も貧しい身なりの人も混じっているという意味に読み替えています。花の定座は本来十七句目(裏11句目)ですが、前にずらした(引き上げた)形です。花の座は引き上げるのは可ですが、こぼす(後ろにずらす)のは不可とされています。

十七句目、「物見車」とは遊山のために貴人が乗る牛車のこと。花見から帰るのを惜しんで、物見の牛車も重たげにゆっくり進むことであるよ。月の定座は本来十三~十四句目(裏7~8句目)あたりですが、ここまでこぼしています。花の定座はこぼすのは不可ですが、月の定座は可とされています。現代連句でこれほど大きくこぼす例は珍しいのですが、芭蕉や蕪村はけっこう思い切ったこぼしをやっています。

十八句目、月渓はおとなしい叙景句で次へと流します。

ところで、裏の十二句の間に恋句らしいものがまったく見当たらないのは驚きです。蕪村の他の歌仙でも、裏ではっきりした恋がない例がいくつもありました。初折の裏に恋がないのを「素裏(すうら)」と言います。一巻の中で最低一度恋をやれば(名残表でやっておけば)ルール違反ではないのですけれどね。蕪村にとっては恋はそれほど重要な要素ではなかったのでしょうか。

ここからまた飛ばして、名残裏(三十一句目)を読んでみましょう。

ナウ

  1. 秋の情扇に僧の筆すさみ            自笑
  2.  越(こし)みちのくのわかれ路の酒肆     月渓
  3. 声かれて老の鶏脛(はぎ)高き         春面
  4.  なぐさめ逢(あひ)つ通夜の主従(しゆうじゆう) 百池
  5. 深く檜皮(ひはだ)の廊下斜(ななめ)也   几董
  6.  比(ころ)は弥生のやや十日過        田福

三十一句目、秋の風情に心が動いた僧侶は、心のおもむくまま扇に何かを書き付ける。

三十二句目、北陸へ行くか、奥州へ行くかの分かれ道に出た。そこに一軒の酒肆が赤提灯を掲げている。「おくのほそ道」で、芭蕉が同道してきた北枝と別れる際に「物書(かき)て扇引(ひき)さく餘波(なごり)哉」の句を書いてやったという話が出てきますが、そのエピソードからの連想で「扇→みちのく」という発想をしたのでしょう。酒肆が出てくるのは、酒と食事が好きだった月渓らしいところ。

三十三句目、年を取って声が嗄れた鶏は長い脚をしているよ。「鶏」と「憂き別れ(後朝の別れ)」が付合なので、その連想で鶏を出したか。

三十四句目、「通夜」とは葬儀とは限らず、夜通し眠らずに寺社で祈願すること。主人と従者が、「徹夜はつらいなあ」「ご苦労様です」と慰め合っている。前句を、その通夜が明けて鶏が鳴く情景ととらえた。

三十五句目は花の座。通夜が行われたのは花が咲き誇る寺社だったのだが、花を斜めに横切るように檜皮葺きの廊下が伸びている。この句はかなり蕪村が直したらしいのですが、まだちょっとゴタゴタした表現で、美しくないですね。詠んだ高井几董は大器晩成型の俳人で、このころはまだ未熟だったように見えます。

三十六句目(挙句)は田福がさらりと付けました。挙句はこのように軽妙な句が求められます。

月渓の墓

月渓は1811年、60歳で世を去ります。洛南の大通寺に埋葬されますが、同寺が荒廃したため、1889年に蕪村の墓所である洛東の金福寺に改葬されました。今でも洛東を訪れれば蕪村のものと並ぶ呉春の墓に会うことができます。


金福寺の月渓(呉春)の墓(右)
左はその弟、松村景文の墓

2024-10-18

英一蝶(暁雲) 絵師の俳諧


英一蝶像(高嵩谷筆)

風流才子、俳諧をたしなむ

このブログを書いている2024年10月、サントリー美術館で「英一蝶展 風流才子、浮き世を写す」が開催されています。

英一蝶(はなぶさ・いっちょう)は17世紀後半から18世紀にかけて活躍した絵師。いろいろな種類の絵を描いていますが、風俗を巧みに写した肉筆浮世絵師として知られており、菱川師宣の画風を学んだとされます。江戸初期の画家として非常に重要な存在で、歌川国貞も一蝶の絵に私淑していたそうです。

一蝶は芭蕉一門と親しく、「暁雲」という俳号で俳諧作品を残しています。今回の一蝶展では暁雲の句を収めた俳書が展示され、図録には井田太郎先生の解説による俳諧の解説が収められています。われわれ俳人にとって、この図録は価値がある貴重な資料ですぞ。

では井田先生の解説を参考にしながら、暁雲の発句を見ていきましょう。

青のりや浪のうづまく擦(スリ)小鉢

とろろの上に青海苔を散らして小さな擂鉢で擦っている。その渦巻く様子がまるで波の渦のようだと興じた句です。海苔の鮮やかさが生き生きと感じられる句。このような見立ての句(或るものを他になぞらえた句)は、今日では頭でこしらえた理屈にすぎないといって否定的に評価されがちです。しかし江戸時代の芸術は俳諧にしろ、浮世絵にしろ、散文にしろ、「見立ての芸術」と言えなくもない。見立てを否定すると江戸芸術の否定になってしまう面があるので、むずかしいところです。江戸文学を味わう上では、少し広い気持ちで句を読むことも必要でしょう。

うすものの羽織網うつほたる哉

夏物の薄い羽織の袖を網のようにして、螢を捕まえるよ、という句。ふうわりと広がる袖を螢が照らしている感じで、一蝶の絵の軽妙な筆遣いが目に浮かぶようです。宝井其角が編んだ蕉門初期の撰集『虚栗(みなしぐり)』に収められた句ですが、この直前には有名な「草の戸に我は蓼ふほたる哉 其角」が置かれています。其角と一蝶は非常に気が合う仲よし同士でしたが、二人の句を並べて見せたいという、其角の友を愛する心がよく出ているようです。

袖つばめ舞(まう)たり蓮の小盞(こさかづき)

同じく『虚栗』収録ですが、この句の直前に其角の「傘(からかさ)にねぐらさうやぬれ燕」が置かれています。「袖つばめ」とは燕が空を飛ぶときの袖を振るようなさまを言うそうです。「蓮の小盞」とは「蓮子盃」のことで、白居易の詩を出典とします。燕が舞う景色を肴にして小盃で酒をあおる。イキですねえ。其角の「ぬれ燕」と暁雲の「袖つばめ」、両者を並べて眺めると伊達でかっこいいですねえ。

風流才子、芭蕉と連句を詠む

英一蝶は其角だけではなく、芭蕉とも親しく交わっていました。芭蕉とともに詠んだ百韻連句が『武蔵曲(むさしぶり)』に収められていますので、一部を読んでみましょう。芭蕉が「天和調」と呼ばれる漢文体を積極的に導入していた時期の連句です。

錦どるの巻

初折表

  1. 錦どる都にうらん百(もも)つつじ       麋塒
  2.  壱花ざくら二番山吹             千春
  3. 風の愛三線(さみせん)の記を和らげて     卜尺
  4.  雨双に雷を忘るる             暁雲
  5. うつり盞(さかづき)を退(マカ)リける 其角
  6.  せんじ所の茶に月を汲(くむ)        芭蕉
  7. 霧軽く寒(さむ)や温(アツ)やの語ヲ尽ス   素堂
  8.  梧の夕(ゆふべ)子(じゅし)を抱イて  似春

発句、「京の都にはさまざまな花が錦をなして咲いているでしょうが、江戸の躑躅を持っていって売ってはいかがでしょう」と京の人千春に興じてみせた。このころ躑躅の品種改良が進んで、やがて元禄時代には躑躅の大ブームになるということが背景にあるようです。

脇句、千春は「そうですねえ、京では一番が桜、二番は山吹」と花の名前を挙げて豪華に付けてみせた。

第三、脇句で「壱・二」と来たので「三」味線を出した。「風の愛」は「風和らぐ」の傍題で春の季語。三味線の歌に春風がやさしく吹いていく。

四句目で暁雲(一蝶)の出番です。風がやがて雨を呼び、雷が鳴っているが、双六に夢中でそれにも気づかない。雷は現代では夏の季語になっていますが、当時の歳時記『増山井』では「非季詞」に分類されていて、この句も雑の扱いのようです。

五句目は其角。双六を酒の場の遊びと見て、夕方が夜へと更けてきたので酒の座を退出するとした。

六句目は芭蕉。酒の座を退出して茶の煎じどころで酔いざましの茶を飲む。茶のおもてに映った月をまるごと飲むように。

少し飛ばして、裏の後半、21句目に行きましょう。

  1. 妻恋る花の見入(みいり)タル      似春
  2.  柱杖(しゆぢやう)に蛇を切ル心春      千春
  3. 陽炎の形をさして神(しん)なしと       麋塒
  4.  紙鳶(シエン)に乗て仙界に飛(とぶ)    暁雲
  5. の代は隣の町と戦ひし            其角
  6.  ねり物高く五歩に一楼            芭蕉

21句目、桜につながれた馬(はななれごま)がさかりがついていて、魅入られたように少女がそれを眺めている。

22句目、修行僧は花馴駒の妖気を断ち切るように杖を振り上げる構え。

23句目から二折に入ります。修行僧は「陽炎などというものには実体がないのじゃ。煩悩もまた同じ」と喝破します。

24句目が暁雲です。前句で喝破したのは仙人であると見て、凧に乗って仙界に行こうとしている場面を想像しました。仙人が凧に乗って陽炎の中を飛ぶ風景って、いかにも一蝶の絵に出てきそうな画題で、彼らしい詠みぶりですね。

25句目は其角。中国の春秋時代に、凧に乗って空を飛んだ人物がいたという伝説があるので、秦の時代には凧に乗って隣町を攻撃しただろうと奇想をこらした。ドローン攻撃みたい。

26句目は芭蕉。隣町と競っていたのは、祭の山車(練り物)の高さだったのだ。五歩歩くごとに青楼が一軒あるようなにぎやかな町。其角が戦争を出したのに、それを山車の規模比べだろうとやわらげて解釈したところが、いかにも芭蕉らしい。

この先まだまだ連句は続きますが、今回はここまでにしておきましょう。

    風流才子、幕府ににらまれ、流罪となる

    一蝶と其角は実によく気が合ったようですが、二人とも当時の幕府のやり方を苦々しく見ていたらしい。時は将軍綱吉の治下で、「生類憐みの令」が出て生き物を殺生してはいけないとされた。一蝶も其角も自由人ですから、こういうウルサイ禁令には腹が立ってしかたがない。

      浅草川逍遥
    の義は山の瀬やしらぬ分(ぶん)      其角

    という句があります。これは古来、謎句とされてきた作なのですが、今泉準一によればこれは幕政への批判の句だという。浅草川というのは隅田川の浅草付近のことで、このあたりで獲られた鯉は江戸市民にとって貴重なたんぱく源でした。ところが生類憐みの令で漁獲が禁止されてしまった。「鯉の義は」というのは、「鯉の話なんだが」ということ。「山吹の瀬や」というのは、山吹色、つまり賄賂の金次第なのだよなあ、「知らぬ分」見て見ぬふりをするのは、ということ。つまり見張りの川番も賄賂さえ出せば鯉を獲らせるのだという、皮肉の句らしい。露骨に幕府を批判したりするとたいへんなことになるので、わざと謎めいた表現にしたのでしょう。

    さて、元禄11年(1698年)、47歳の一蝶は逮捕されて三宅島に流罪となります。罪状についてははっきりしないのですが、生類憐みの令に違反して釣りをしたからという説があります。しかし5年前にも一度入牢しており、どうも一蝶は幕府から「不届きな奴」と目をつけられていたようなのです。

    入牢の理由について興味がある方は、Wikipediaで「英一蝶」の項目を見ていただくといいでしょう。彼の絵画との関係で興味ぶかいのは、「朝妻舟図」の絵が綱吉と柳沢吉保を風刺しているとして幕府の逆鱗に触れたというものです。当時、吉保が自分の愛人を綱吉に差し出して出世を計ったという噂がありました。一蝶の絵は舟に乗った白拍子(遊女)を描いた絵ですが、女の頭上に「柳」の木が描いてある。柳沢吉保の女を暗示しているというわけ。意図的に風刺をしたのかどうかはわかりませんが、「朝妻舟図」は一蝶の絵の中でもあでやかで美しく、私が好きなものなので、気になる話です。

    一蝶は三宅島から其角に宛てて

    初松魚(はつがつを)カラシガナクテ涙カナ

    という句を書き送ります。三宅島では鰹は釣れるけれども、薬味の辛子が手に入らない。辛子を口にすると辛くて涙が出るけれども、三宅島では辛子が無いせいで涙するのですという句。其角はこれに答えて

    其カラシキイテ涙ノ松魚カナ

    と返信します。一蝶の身を思いやり涙を流す其角でした。

      風流才子、赦免され、芭蕉と其角をしのぶ

      三宅島に流された者は二度と戻ってこれないというのが相場でしたが、将軍綱吉が死去したことから特赦が行われ、宝永6年(1709)に一蝶は江戸に帰ってきます。其角は1707年に死去しすでにこの世の人ではありませんでした。

      一蝶は芭蕉と其角をしのぶ絵と画賛を作っています。その絵というのが箍掛職人と臼目切職人を描いたもの(箍掛臼目切図)で(画像は図録で見てください)、箍掛(タガカケ)とはタガが外れた桶や樽をもう一度締めなおし修理する仕事、臼目切(ウスメキリ)とは摩滅した碾き臼の目を刻みなおす仕事。どちらも流しの仕事で、明日をも知れぬその日暮らしという職人たちです。その絵の画賛を現代語に訳して紹介しましょう。

      昔のことは夢に似ている。夢から覚めたら覚めたでこれが現実とは言えない。ある日、其角と二人で深川の芭蕉庵を訪問したことがあった。夕べに帰る途中、二人で次のような句を作った。

      たがかけのたがたがかけて帰るらん 暁雲

      (あの箍掛職人は誰の持ち物の箍をはめて帰るところなのだろう)

      身をうすのめとおもひきる世に   其角

      (臼目を切るように「自分の身は臼の目のようにやがて消えてしまうものだ」とこの世を「思い切る」ことであるよ)

      芭蕉も其角も世を去り失せてしまったのに、自分だけが思いがけず生き残るとは、今日深川に立ってみると世の中のことは予想もできないものだなあ。

      一蝶は1724年に死去。墓は高輪の承教寺にあります。墓石には辞世の歌

      紛らはすうき世のわざのいろどりも有りとや月の薄ずみのそら

      が彫られています。

      ちなみに其角の墓があった上行寺は、当時は承教寺のすぐそばに所在した(現在は伊勢原市に移転)のですが、これは偶然でしょうか?

      承教寺の英一蝶墓

      2023-03-24

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(6) 歓生の生涯とその後の堤家

      堤歓生が鐘を奉納した大川町の西照寺

      堤家の出自

      ここで堤歓生の出自、そして堤家と私との関係についてお話ししましょう。

      歓生について、小松の連歌研究家である後藤長平が「素仏蔵小松俳諾史資料解題」の中で次のように書いています。

      姓は堤氏、通称越前屋宗右エ門、泥町(現大川町)に住す。利家公尾山城に入城の折、越前より随伴せし商人との事、その住居跡は今も堤町として残れり。後、利常公小松入城に従い来松せしと言う。天満宮能順の連歌の門に入り、第一人者となった。

      また作家の北條民雄は『新修浅井了意』の中で次のように書いています。

      堤家はもと京都の公卿であったが、故あって越前に下り、後金沢の堤町に居を占め、更に小松町泥町に移住した。其当時は俗称稲荷角におり、後に中町へ移転したが、火災のため居宅を焼き、其後いつとなく廃絶したのである。たゞ現在堤家の分家である堤八郎右衛門氏が残り、龍助町に居住せられている。

      歓生時代の家業も未詳であるが、越前屋七郎右衛門と称した事は明かである。 

      これらを整理すると

      • 堤家はもともと京都の公卿であった。(私の親族は、「自分たちに公卿の血が流れているとはとても思えん」と言っておりますが)
        それが越前に移住し、商人となった。
      • 戦国時代、前田利家は織田信長に臣従し、越前一向一揆を鎮圧した。この功により越前(福井県)に領地を与えられた。賤ケ岳の戦いの後の1583年、利家は秀吉から加賀2郡を与えられ、本拠を尾山城(金沢城)に移した。
        堤家はそれに従って金沢に移住した。もともと越前の商人であるから越前屋を名乗った。
      • 後に堤家は小松市泥町に移った。
      • 歓生は「越前屋宗右衛門」とも「越前屋七郎右衛門」とも名乗っていた。

      後藤長平は堤家について「その住居跡は今も(金沢市)堤町として残れり」としています。しかし『金沢市史によれば「堤町」の名は前田氏入城前の佐久間氏時代からある地名だとしており、堤家にちなんで町の名がついたわけではなさそうです。(逆に町名から堤姓を名乗った可能性はありますが)

      小松城が築かれ、前田家第2代藩主利常がそこを隠居所として入城したのが1639年です。利常死没の1658年まで城下の整備が続いたということですから、堤家が小松に移ったのはその頃ではないかと考えられます。

      次に小松での堤家の住居ですが、現在、梯川(かけはしがわ)小松大橋の橋畔に「ぬれて行や人もおかしきあめの萩 はせを」の句碑が建ち、ここが歓生亭であったとされています。しかし古地図を元に見ていくと、実際の歓生亭があった「泥町(ひじまち)稲荷角」はもう100メートルほど西だったのではないかと思われます。区画整理と小松大橋の架橋のため、街区が作り替えられ、橋畔に好適な空き地ができたのでそちらに句碑を設置されたのでしょう。



      歓生亭があったのは上写真の句碑の場所ではなく、
      100メートルほど西の下写真のあたりと思われる

      梯川の河畔に所在したということから、堤家越前屋は水運を利用した物資の輸送と売買を行っていたのではないかと考えられます。「泥町越前屋七郎左衛門は1688年に山上屋に代わって町年寄となった」という記録があるそうで、七郎左衛門は七郎右衛門の間違いだと思いますから、小松家は町年寄が務まるくらいの富商であったということが言えるでしょう。

      西照寺の釣鐘-七郎右衛門と八郎右衛門

      歓生の家は堤七郎右衛門家で、分家に堤八郎右衛門家がありました。そしてわが祖母は八郎右衛門のほうの家系なのです。その意味では歓生は私の直系の祖先ではないかもしれません。

      ただ、最終的に七郎右衛門家は廃絶して八郎右衛門家が堤家を継ぐことになったので、歓生をご先祖様と呼んでも許されるでしょう。

      歓生と初代八郎右衛門は、兄弟ではなかったかと私は想像します。そうでなかったとしても従兄弟ぐらいの関係ではあったろうと思います。そう考える理由は、兄弟であると見ると年代的に符合するということ(後述)。また七郎右衛門と八郎右衛門はどちらも越前屋を名乗っていたので、同じ地域に住む親しい家族で、協力して商売をやっていたと推理するのが自然であることなどです。

      堤家と同じ泥町(現・大川町)に西照寺という真宗大谷派の寺院があります。ここに、1684年に歓生(越前屋七郎右衛門)が奉納した釣鐘が現存します。太平洋戦争中に金属供出にあいそうになったものを、現地の運動でかろうじて残りました。鐘の銘は著名な仮名草子作者である浅井了意によるもので、なぜ了意がこれを書いたのかは仔細不明ですが、そういう伝手を持っていた歓生の交遊の広さが察せられます。

      そして同時に鐘楼を寄進したのが、越前屋八郎右衛門なのです。このことからも両者が非常に近しい血縁にあったことが確実視されます。


      西照寺の釣鐘
       

      梵鐘に刻まれた銘。
      「願主 小松住 越前屋七郎右衛門尉 堤氏 歓生」
      の文字が
      はっきり読み取れる。

      歓生の生涯

      堤歓生とはどのような人物であったか。生没年すらわかっていないのですが、年代的に考えて生年は1630~40年ごろ、没年は1723年またはそれ以後ではなかったかと推定します。そう考えると、鐘を寄進したのが数えで45~55歳、町年寄になったのが49~59歳、芭蕉を迎えたのが50~60歳という勘定で、だいたい自然な年齢はこびではないかと思います。

      いっぽう八郎右衛門のほうですが、最後にこの名跡を名乗っていたのが第八世で、その息子、堤重恭は1879年生まれ。乱暴ですが一世代を30年として計算すると、初代八郎右衛門は1639年前後生まれということになり、歓生と兄弟とするとうまく勘定が合います。荒っぽすぎて何の証拠にもならない計算ですがね。

      歓生がいつごろから能順に師事したかはわかっていませんが、最も古い資料(1681年)に先の計算を適用すると、42~52歳ですので、これくらいの年齢あるいはそれより若く入門したかと考えられます。1706年に能順が死去すると、翌年に師の発句集『聯玉集』を刊行。師の菩提を弔うためか、出家して「慶阿」を名乗りました。最後に連歌が記録されているのが1723年なので、上記のように没年を推定してみました。80歳以上生きた勘定で、当時としては相当な長生きです。

      彼の没後の1856年に発句集『新梅の雫』が刊行されました。

      その後の堤家

      北條民雄の記述によれば、七郎右衛門家は後に小松市中町に移住しています。その理由は不明ですが、仮に商業を続けていたとすると、梯川を使った水運が下火になったことが理由の一つに考えられないでしょうか。

      北陸本線の福井~富山間が開通したのが1899年。それ以降は物流の中心は鉄道になり、梯川河畔に大きな店を構える必然性がなくなって、駅により近い中町に移ったのではないか。


      小松市中町の現況。堤七郎右衛門家はこのあたりに転居した
       

      北條の言う「火災のため居宅を焼き」というのは、1930年3月28日に起こった「橋北(はしきた)の大火」です。小松市街の北半分を焼き尽くす大火事で、中町も泥町も焼失します。北條の記述ではその後七郎右衛門家は廃絶したとのことですが、火事による没落が原因なのか、単に家系が絶えたのかは不明です。

      いっぽう八郎右衛門家のほうは龍助町に移住していたとのことですが、こちらは1932年10月22日に起こった「橋南(はしみなみ)の大火」に襲われます。小松市は2つの大火によって主要部がほとんど焼尽するという悲劇に見舞われたのでした。八郎右衛門家はかろうじて蔵だけが残り、火災後はここに居住しながら再建を図りました。

      小松市龍助町。この付近に堤八郎右衛門家は居住した

      俳人・堤芹村

      堤八郎右衛門を最後に名乗っていたのは第八世ということですが、その息子が堤重恭(つつみ・しげやす、1878年12月25日~1944年2月21日)でした。当時堤家はだいぶん零落していたようで、重恭は若いうちは畳用の藺草を編んだ莚を仕入れて担いで売るというような仕事もしていたと聞きます。

      重恭は東京に遊学し、中央大学(当時は「東京法学院」)の学生だったころ正岡子規の門を敲き、俳句に手を染め、「堤芹村(つつみ・きんそん)」と号しました。蕪村に倣った号だったとも言われます。『俳文学大辞典』(角川書店刊)は芹村の読みを「せっそん」としていますが、「きんそん」が正しい。

      1902年に子規が没すると、重恭は福井市で弁護士の職に就きます。そのかたわら1909年には俳誌「早苗」を創刊しました。この年の8月から9月にかけて、三千里の旅の途中の河東碧梧桐を金沢と福井で迎えています。またそれと前後して、高浜虚子に福井で面会したことがありました。

      堤芹村は碧梧桐の新傾向系の作家であったと思われがちだが、本当のところは子規に私淑していたのであって、碧梧桐と虚子の両方に距離を置いていたのではないかと、これは芹村のお孫さんのご意見です。

      「早苗」は1年しか続かず、2巻8号で終刊したとのこと。しかし福井に近代俳句の芽を育てた人物として、郷土では大事にされているようで、県のデジタルアーカイブに名前が記録されています。

      堤芹村(重恭)の娘が私の母方の祖母になります。当時福井小町とうたわれたそうで、若いころの写真を見ると確かに美人です。老後の彼女しか知らないこちらにとっては「ほう」と思うばかりですが。

      堤家の家系が私につながったところで、今回のシリーズはおしまい。

      参考文献リスト

      『日本俳書大系第7巻 1926年
      日置謙 校『加越能古俳書大観』 1936年
      小野寺松雪堂『むかしの小松』第1巻(橋北篇) 1949年
      北條民雄『新修 浅井了意』 1974年
      鳥居清『芭蕉連句全註解』第6冊 1981年
      密田靖夫『芭蕉・北陸道を行く 「おくのほそ道」を手がかりとして』 1998年
      後藤子仏(長平)「素仏蔵小松俳諧史資料解題」(「小松市立博物館研究紀要第41号」所収) 2005年
      新修小松市史編集委員会『新修小松市史』 資料編7(文芸) 2006年
      綿抜豊昭『松尾芭蕉とその門流--加賀小松の場合』 2008年
      綿抜豊昭『能順と連歌 展示解説パンフレット』  2020年

      2023-03-23

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(5) 歓生の発句を読む


      堤歓生の発句を収める『俳諧雑巾』
       

      俳諧撰集に採られた歓生の発句

      今回は俳諧撰集や遺句集に収められた歓生の発句を鑑賞していきます。まずは同時代の俳諧撰集のほうから。

      年代的に最も古いのは、1680年編纂の『白根草』です。これは金沢の俳人、神戸友琴が父母を追悼する句を集めて一巻とした撰集です。加越能(加賀・越中・能登)の俳書としては現存する最古のもの。歓生の句は

      無常の色廿の下なる五日哉

      が収録されています。友琴の父が7月25日に、母が2月25日に亡くなったことから、20日からさらに5日下って無常が訪れたよという意味。無季の句ですが、無常のテーマであるから季語は必要ないという考えでしょうか。「廿」は何と読むのか、普通に考えれば「にじゅう」ですが、ニュウ・ハタ・ツヅなどの読みもありえるかもしれません。

      それに続くのが翌1681年に京都談林派の俳人、田中常矩が刊行した『俳諧雑巾』です。この撰集には歓生が24句入集しています。

      蓬莱や麓に銚子の海をたゝへ

      蓬莱は新年に三方(さんぼう)の上に縁起物を盛る飾りですが、もともとは中国の東方にあるとされた神仙の島のことです。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福という人物を蓬莱に派遣したとされ、それは日本のことであったという伝説もあります。歓生は日本よりさらに東、千葉県の沖に蓬莱島はあるんじゃないかと想定して、蓬莱島の山の裾には銚子の海が広がっているよと興じました。

      千金あり質屋の目にも花の時
      きりぎりすなくや霜夜の後家也ける

      こういう句はいかにも談林調の滑稽句です。「桜の花時は千金の価値があるよ、質屋の目にもそう見えるだろうよ」「霜が降りる晩秋にまだ鳴くコオロギは連れ合いがもう死んでしまった後家のコオロギだろう」といった具合。

      天皇(すめろき)の御着替も哉田面(たも)の露
      関守や尿瓶(しびん)にかよふ小夜鵆(さよちどり)

      これらは連歌師らしいというか、本歌取りの句。前句は「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ」(天智天皇)を踏まえて、こう田の稲の上に露が降りては、天皇も袖が濡れそぼってお着換えあそばす必要があるね」と詠んだ。後句は「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」(源兼昌)を引用して「千鳥が通う須磨、こう寒くては関守も催してくるから尿瓶を使う。千鳥の声と音を競ってるよ」と和歌を俳諧の笑いに転じています。

      歓生の句を収録する三番目の撰集は、加賀の杉野閏之と久津見一平が編んだ『加賀染』(1681年)で、7句入集しています。

      麦藁や木幡の里に馬はあれど

      柿本人麻呂の「山科の木幡の里に馬はあれど徒歩よりぞ来る君を思へば」の本歌取り。人麻呂の本歌は「馬はあるのだが用意するのが待ちきれず、山科の木幡の里を歩いてきた。あなたに恋こがれているので」という意味ですが、歓生の句は「木幡の里に本物の馬もいますが、これは麦藁で作った馬の人形」とおどけています。

      このように歓生は俳諧において完全に談林調の世界に身を置いていた。芭蕉と句座を共にした際には、自分が知らなかった種類の俳諧世界を経験していろいろ驚いたのではないでしょうか。

      芭蕉と歓生をつなぐ線

      『俳諧雑巾』の発句編では、歓生の24句は編者である常矩の28句に次ぐ多さです。それに続く利次と宗雅は20句で、比べても歓生の厚遇ぶりが際立っています。これは何を意味するのか。富商である歓生は常矩にとって重要なスポンサーだったのではないか、常矩はお得意様に気を遣ったのではないか。そう考えるのが自然なように思います。

      もう一つ注目されるのは、内藤露沾(ろせん)が13句採用されているところです。露沾は磐城平藩(現・福島県いわき市)の世嗣で本名は内藤義英、俳諧好きの武家として知られていました。『俳諧雑巾』には次のような句が掲載されています。

      持統天皇今朝袖軽し山姿
      汗拭蚤ぞながるゝ泉川
      生れ子のはじめて涼し四方の里 

      当時江戸住まいの露沾は、談林派の(とくに西山宗因の)パトロンでした。常矩も顧客に敬意を表して13句掲載したのではないかと想像されますし、しかも掲載位置がいい。春の部は巻頭から2句目が露沾、夏の部では1句目、秋の部では3句目と下にも置かぬもてなしです。冬の部では巻末に置いて大トリを演じてもらっています。

      芭蕉も露沾の庇護を受けており、おくのほそ道の旅に出る際には挨拶に訪れました。その際に二人の間で交わされた連句(付合)が残っています。

      松嶋行脚の餞別
      月花を両の袂の色香哉    露沾
       蛙のからに身を入る声   芭蕉

      『俳諧雑巾』で露沾と歓生がともに多数入集していることから考えて、両者はお互い名前を知っていたはずです。

      小松の俳人たちは芭蕉を歓迎し、第1回目の訪問の際には旅立ちを再三引き留めるほどでしたが、ひょっとすると露沾から歓生に「芭蕉をよろしく頼む」というような事前の一筆が行っていなかっただろうか?と妄想します。実際のところは、生駒万子や立花北枝らの金沢チームが歓生に芭蕉を紹介したと考えたほうが自然でしょうが...。少なくとも芭蕉と歓生が会話した際には、露沾のことが話題に出たに違いありません。


      いわき市波立海岸の内藤露沾句碑

      遺句集『新梅の雫』

      すでに述べたとおり、芭蕉が小松を去った後の歓生は俳諧に距離を置き、連歌一本となります。能順師の不興を避けるためではなかったかと、私は考えています。

      歓生没後に発句集『新梅の雫』が編まれます(制作年不明)。序文を書いているのは歌人・連歌師の鈴木正通。『新梅の雫』は全編が『新修小松市史 資料編7(文芸)』に収録されています。

      発句集といっても連歌の発句なので、俳諧の発句とはだいぶん勝手が違います。それを踏まえた上で、読んでいきましょう。

      日の影も薄くれなゐや夕霞
      梅一木匂ひは四方の春の風
      いづれより乱初(みだれそめ)にし萩の露 

      どれも「夕霞」「梅が香」「萩の露」の本意をそのままなぞった作りになっています。連歌の場合は意外な表現を避けて、おだやかに本意に従って作らなければいけません。古風でゆったりした詠みぶりです。

      直貞男子出世に 
      今年生の竹は世をつぐ行衛かな
      万子悼
      香に触し袖や露のみ梅の雨

      俳諧でも挨拶性ということが言われますが、連歌の発句はそれ以上に挨拶性が強いように感じられます。前句は直貞という人に男子が生まれたことを、今年竹に見立てて祝ったもの。後句は生駒万子を追悼した句で、「香に触し袖」というのは私とともに能順師の薫陶に接したということでしょうか。その袖も涙で濡れるということを、「露」「梅雨」と季節の違う季語(しかもどちらも水分)を二重にダメ押しすることで強く言っています。

      行水(ゆくみず)に焼火涼しき蛍哉
      夏の夜の月の行衛や稲光

      歓生の連歌発句では季重りが多い。前句では「涼しき」「蛍」、後句では「夏の夜」「月」「稲光」が重なっています。その結果、彼の発句は「味が濃い」感じがします。歓生の特徴なのか、連歌の特性なのかは私にはわからないのですが、彼の俳諧の発句ではそれほど季重りばかりということもなかったので、連歌ならではということかもしれません。

      須磨の浦にて 
      さもあらば荒よ関屋の秋の月
      荻の葉に露吹結ぶ風も哉
      紅葉して木の間に青し秋の海 

      秋の句を3句挙げてみました。秋の風景といっても芭蕉のようにさびさびとした侘びた眺めを提示するのではなく、様式美を追求したカッチリした作りを目指しているということが言えるのではないでしょうか。

      同じ歓生の発句でも、俳諧と連歌ではだいぶん肌触りが違うということを感じていただければと思います。

      次回は最終回。歓生の出自、生涯、そして私に至る家系について語りたいと思います。

      2023-03-22

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(4) 冑の下のきりぎりす

      多太神社

      あなむざんやな

      1689年8月6日に芭蕉が能順と面談し、能順の激怒にあって退散した話は前回記しました。小松の俳人たちも経緯を聞いて青ざめたことでしょう。

      翌7日、芭蕉を慰める気持もあってでしょうか、翁、歓生(亨子)、鼓蟾の3人で連句を巻きます。脇は亨子が務めているので、おそらく歓生亭が句座であったと思われます。発句は

      あなむざんやな冑(かぶと)の下のきりぎりす 翁

      でしたが、若干の説明が必要です。この句は7月25日に多太神社に参詣し、そこで斎藤実盛の甲冑と言われるものなどを実見して作ったものでした。

      斎藤実盛について
      斎藤実盛は源平合戦当時の、戦いで命を落とした武将。
      源義仲(木曽義仲)の幼時、父の源義賢が相模国で親戚の源義平に殺されてしまった。義平は義仲も殺すように家来に言ったのだが、斎藤実盛は幼い子を匿って、木曽に送り遣わした。
      長じた義仲は平家追討の軍を起こすが、その頃は実盛は平家に仕えており、敵対して戦うことになった。殺された敵将の首を見て義仲は「これは斎藤別当ではないか。しかし年齢からして白髪のはずなのに、髪も髭も黒いのはどういうわけだ」といぶかしがった。実盛のことを知る樋口兼光を呼び出すと、「実盛は敵に老人と侮られないように、戦に出るときは鬢も髭も黒く染めて出ると言っていた」と証言するので、首を池で洗ってみると、はたして白髪が表れた。

      芭蕉の発句は「むざんやな甲の下のきりぎりす」の形で「おくのほそ道」には収録され、『卯辰集』では「あなむざんや甲の下のきりぎりす」となっていますが、現地での初形は「あなむざんやな」でした。

      樋口兼光が実盛の首を見せられたときに発したことばは、『平家物語』では「あな無慚や」ですが、謡曲『実盛』では「あなむざんやな」となっています。つまり芭蕉は掲句を発想するときに平家物語ではなく謡曲のほうをベースにして引用したことになります。

      和歌や連歌や貞門俳諧では、本歌取りは主に和歌から取っていたのですが、談林時代になって当時流行していた謡曲から引用することが行われました。今で言えば、ニューミュージックから歌詞を借りるようなものですね。芭蕉も談林出身でしたから、謡曲の詞が口をついて出たというわけ。


      多太神社の芭蕉句碑。ここでは「あなむざん甲の下のきりぎりす」の形を採用している
       
      それではその連句を読んでいくことにしましょう。形式は歌仙、6・12・12・6という構成になります。

      あなむざんやなの巻
      初折表

      1.  あなむざんやな冑の下のきりぎりす   翁
      2.   ちからも枯し霜の秋草        亨子
      3.  渡綱よる丘の月かげに        鼓蟾
      4.   しばし住べき屋しき見立る      翁
      5.  酒片手に雪の傘さして        亨子
      6.   ひそかにひらく大の梅       鼓蟾

      芭蕉の発句を受けて、亨子(歓生)は脇で物寂しい風景を素直に付けます。

      第3では悲劇的な調子を離れて、渡し守が月の照る秋草の中で綱を縒っているよと普通の叙景に転じました。秋の発句なので月は第3までに出す。

      4句目、この地に流れてきた人間か、仮の住まいとなる家を見立てようと地元の渡し守に様子をたずねている。

      5句目、屋敷というのは別墅のことで、そこでは雪見酒を楽しむのだ。

      初折裏

      1.  や二ながるる煤のいろ      
      2.   音問(おとづ)る油隣はづかし    亨子
      3.  初恋に文書(かく)すべもたどたどし  鼓蟾
      4.   世につかはれて僧のなまめく     翁
      5.  提を湯にあづけるむつましさ    亨子
      6.   玉貰ふて戻る山もと        鼓蟾
      7.  柴の戸は納たたく頃静(しづか)也  翁
      8.   朝露ながら竹輪(たけわ)る藪   亨子
      9.  鵙す人は二十(はたち)にみたぬ貌  鼓蟾
      10.   よせて舟かす月の川端        
      11.  鍋持(もた)ぬ芦は花もなかりけり  亨子
      12.   去の軍(いくさ)の骨は白暴(のざらし) 鼓蟾

      裏に入って1句目、前句が「大年の梅」と年末の情景だったため、掃除の煤が庭の流水に混じっているとした。明快に季語が入っているわけではないので、雑の句。

      2句目、「おとづる油」とはどういう意味か難解ですが、「行灯の油が切れかけてジジジと音をたてるのが隣家に聞こえて恥ずかしい」という解釈に従っておきます。煤が流れ出るわ、油が音をたてるわ、近所迷惑。

      3句目は少女が行灯のもとで恋文を書く様子。恋の場に入ります。

      4句目、世間の用事にこき使われていた若い僧も、いつか恋を知るようになった。

      5句目、僧は身を持ち崩して湯女のもとを訪ねるようになり、提灯を預けて店に上がる。

      6句目、精力つけてネとおみやげに卵をもらう。

      7句目、山のふもとの草庵に戻れば納豆汁を作るため納豆を叩いている。

      8句目、竹を輪切りにするのは花生けか竹筒を作るため。

      9句目、「鵙落とし」は眼を縫いつぶしたモズを木に止まらせ、それを囮にして鳥を捕えることを意味する、秋の季語。

      10句目、月の定座は初折裏の8句目ですが、2句遅らせる(こぼす)ことで花前に持ってきた。

      11句目、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」のパロディで、鍋も持っていない貧しい水辺の家では花も咲いていない。和歌を本歌取りするところが、連歌師の歓生ならでは。

      12句目、春の句は3句以上続ける決まりなので、「去年今年」にひっかけて「去年」を春の季語として使いましたが少々無理。戦場の屍を詠むのも、発句と世界が近すぎていかがなものか。

      名残表

      1.  やぶ入の嫁や送らむけふの雨      翁
      2.   霞(かすむ)にほひの髪洗ふころ   亨子
      3.  うつくしき仏を御所に賜(たまはり)て 鼓蟾
      4.   つづけてかちし囲の仕合(しあはせ) 
      5.  暮かけて年の餅いそがしき      亨子
      6.   蕪くなる志賀の古里        鼓蟾
      7.  しらじらと明る夜の犬の声      翁
      8.   舎を唱ふる陵の坊         亨子
      9.  竹ひねて割(われ)し筧の岩水    鼓蟾
      10.   本の早もらふ百姓        
      11.  朝の月囲車に赤をゆすり捨(すて)  亨子
      12.   討(うた)ぬ敵(かたき)の絵はうき秋 鼓蟾 

      名残表1句目、「嫁」が出てきて恋の場。女性が出てくるとそれだけで「恋」だという慣習には、私はちょっと疑問を感じるのですが、現代連句でもそれは踏襲しているようです。

      4句目、美しい仏像のご加護で囲碁に連勝。

      5句目、囲碁を打つのんびりした人と餅搗の忙しさを対比。

      8句目、陵近い寺院で舎利供養の声明を上げている。仏教関係の題材が出てくるのが3回目ですが、芭蕉はそれほど気にしなかったのでしょうか。釈教は三句去なのでルール上問題ないのですが、百韻ならともかく歌仙形式は短いので、世界が狭くなっているような...。

      9句目で筧の竹が割れる情景が出されますが、裏の8句目で竹を伐る話が詠まれているのでイメージが戻る印象。

      11句目の囲車(いしゃ?)は不詳。乳母車のようなものか。

      12句目、かたき討ちの相手の似顔絵を持って子連れで追っているが果たせないのがつらい。かたき討ちとはまたもや争いの題材で、どうも鼓蟾は発句に引きずられがち。

      名残裏

      1.  良(やや)寒く行ば筑の船に酔ひ 
      2.   守(かみ)の館(たち)にて簫(せう)りて籟(ふく) 亨子
      3.  十二十重(とへはたへ)花のかげ有(あり)時(ひる)の庭 鼓蟾
      4.   杉をわける里人         翁
      5.  鳩の来て天窓(あたま)にとまる世の長閑 亨子
      6.   馳の雑はこぶ神垣         鼓蟾

      名残裏2句目、筑紫の守の館まで船で来たというのは、都の貴人が大宰府に到着したとうことであろうか。そこにあった簫を借りて、気晴らしに吹く

      3句目、花の座を2句引き上げて(繰り上げて)詠んでいます。

      4句目、杉菜とはここでは土筆のことでしょう。

      挙句で正月の雑煮を詠んで、めでたく仕上げました。「神垣」は多太神社への挨拶かもしれません。

      私ごとき連句の半素人が芭蕉の俳諧をとやかく言うのも何ですが、この一連はいまひとつ発想に飛躍が乏しくて、精彩を欠いているように思えてなりません。詠む順番が決まっている三吟の順付(膝送り)だと、えてしてこういうことになりがちです。それだけではなく、前回紹介した建部涼袋の記述が事実なら、この日芭蕉は能順とどう和解するかをするかを考えどおしで、心ここにあらずで指導に集中できなかったのかもしれません。

      せっかく北陸に育てた蕉風俳諧の火が、このようなトラブルのせいで消えてしまわないかと心労していたでしょうか。そうだとすると芭蕉がお気の毒。芭蕉の方にも言い分があったでしょうが、後々現地の俳人たちと能順の間にわだかまりが残らないよう、下手に出て謝るということがあったかもしれません。

      当時、俳諧の指導を行うと1回につき銭1貫(4分の1両)指導料を払うというのが相場だったそうです。貨幣価値はいちがいに言えませんが、ざっと2万5000円というところ。歓生としても、わざわざ小松まで戻ってきた芭蕉を手ぶらで送り出すわけにいかないので、興行をお願いしたのではないでしょうか。

      何のかんの言っても、芭蕉が小松で多くの俳人たちに歓迎されたことは確かです。おくのほそ道の旅行中、一都市で3回の俳諧の記録が残るのは小松だけでした。加賀前田藩の文化振興策や経済発展によって、小松が豊かな俳諧の土壌を有していたことに間違いはありますまい。

      8月8日、芭蕉は北枝に伴われて次の目的地、大聖寺の全昌寺に向かいます。