2025-05-25

連歌のルール(8)~2回まで使える語


木藤才蔵『連歌新式の研究』(三弥井書店、1999)
新式の翻刻が見やすく整理されており、また後年の注釈が
加えられているなど、たいへん参考になる

連歌式目の条項には、2とおりの流れがあるように思います。

一つは原理原則から出発して全体を規制しようというルール。もう一つは実際に起こった問題ごとにどう解決するか個別に定めたルール。法律の用語で言えば前者が成文法的、後者が判例法的。数学の用語で言えば前者が演繹的、後者が帰納的ということになりましょう。

ここまで解説してきた式目の条項で言えば、韻字の決まりとか体と用の定めなどは、前者であるように思います。大原則を述べようとする。対して前回から説明している個別の用語についての定めは後者でしょう。

前者の決まりは論理体系的ですが、実際には守りきれずに例外やルール改訂が頻発しています。後者のほうは実践的ですが、個別に新しい定めを追加していくので煩雑です。前者はおもに堂上連歌(公家中心の連歌)、後者はおもに地下連歌(それほど身分の高くない専門家による連歌)によって発案されてきたのではないかという気がしますが、どうでしょうか。

連歌の式目にはこのような二重性があるということを把握しておくと理解しやすいように思います。

一座二句物

さて今回は、一巻で2回まで使用できる「一座二句物」の解説です。一句物とほぼ同じレベルで重要な語群ですが、言い換えたり使う場所を替えたりすることで変化をつけることが可能なため、二句までOKということになったと思われます。

あくまで2回「使ってもよい」ということであって、必ず使うべきだというわけではありません。

数が多いので、表形式にしてサクサク説明していきましょう。

用語分類・注記
「暁」で1回、「其暁」で1回使える
「神の代」「君の代」でそれぞれ1回ずつ使える
春風「春風」「春の風」でそれぞれ1回ずつ使える。
ただし近年では、このように言い替える必要はないとされている
秋風、松風上に同じ
五月雨「五月雨」で1回、「梅雨」で1回使える。「梅雨」の用法についてはよくわからない点がある
夕、今日
「いほ」で1回、「いほり」で1回使えるが、言い換えなくてもよい
故郷(ふるさと)里を名所として詠むか、または単に古びた里として詠んで1回。旅の回として詠んで1回
単なる岡で1回、名所の岡を詠んで1回
池、湊上に同じ
宿単なる宿で1回、旅の宿で1回。
他に「やどり」として使ってよい。
「魚のやどり」「露のやどり」などの表現は別に使ってよい(最多で4回使える)
単なる庭で1回、寺や皇居の庭で1回。
「庭訓」などとしても1回使えるが、これは特殊なケースである
春の雁(帰雁)、秋の雁それぞれ1回。
「残る雁」は南へ渡らない雁、北へ帰らない雁の両方の意味があるから、春か秋のどちらかで詠む
猿と言って1回、ましらと言って1回使える
「旅」という字単なる旅で1回、旅衣などと言って1回だが、最近では言い換えなくてもよいとしている
単なる老で1回、鳥・木などに用いて1回
単なる男で1回、桂男などと言って1回
棹姫、橋姫の類このような同類のものを2回使う場合は、懐紙を替えること
単なる命で1回、虫の命などとして1回
「なりにけり」「おもひしに」「物を」この類の詞は所を替えて使うこと(同じ折を避けよということか?)
恋しく・恋しき、うらみ・うらむこのようにして(活用形や品詞を替えて)2回。ただし必ずしも言い替えなくてもいいとされる
時雨秋と冬でそれぞれ1回
単なる朝で1回、けさと言って1回
鶴で1回、たづで1回
名残恋の名残で1回、花の名残などで1回
面影単なる面影で1回、花や月の面影で1回
さびしき同内容であっても違う表現であればもう1回可
玉緒「命」とは1回だけ併用できるが、懐紙を替えること(「虫の命」などは別)
単なる梢で1回、花や松の梢で1回。「梢の秋」は別に扱う
仏法で1回、法令で1回。「法師」は別に扱う
稲葉「をしね」と言い換えてもう1回
単なる塵で1回、塵の世などとして1回
「岡、池、湊」などの場合とは違って、名所以外であっても2回使える
単なる海で1回、名所の海を詠んで1回。「わたつみ」などはこれと別に使用できる
野辺、小野2回のうち1回は名所であること
軒、垣「軒端」「かきほ」などと言い換える必要はない。「籬」はこれと別に使用できる
単なる籬で1回、霧の籬として1回
待恋、逢恋、別恋など2回使える。他の恋の詞も同様
をち(=遠)、はなし、もなし2回使う場合は長句と短句で使い分けること
単なる詞で1回、「ことのは」と言い換えてもう1回。「言の葉の道」は別に使用できる
単なる筵で1回、法の筵、苔筵、草筵などとして1回。
ながめ
夏の涼しさで1回、それ以外で1回

いくつか注記します。

「暁」の項の「其暁」とは、弥勒が釈迦入滅後5億7千万年後にこの世界に現れるという、その暁のこと。

「五月雨」の項、当時はさみだれのほうが主で、つゆは少ない表現だった。なぜ「梅の雨」と言うのだろう、梅の青い実がこのころ落ちるのを梅の雨と言ったのだろうかといぶかるニュアンス。

「故郷(ふるさと)」の項、故郷は本来は「昔の都の跡」の意味になります。

「雁」の項、「残る雁」とは本来、北に残って南に渡らない雁(秋)と、南に残って北へ帰らない雁(春)の両方を指しました。「日本国語大辞典」で調べても、「残る雁」は春と秋の両方の季語としていますが、今日の俳句歳時記が春としてしか扱わないのは問題。

「老」の項、「鳥・木などに用いて1回」というのは老鶯、老木などを指すのでしょう。

「男」の項、「桂男」というのは月の別称です。月には桂(モクセイ)の大木が生えていて、呉剛という男がそれを伐ろうとしているという伝説に基づきます。

「時雨」の項、時雨は万葉集や古今集では秋のものとして詠まれていました。それが徐々に冬のものとして詠まれるようになったわけで、連歌ではこの時代、秋冬両方で扱われていました。実例を挙げます。「文和千句第三百韻」(1355)より、まず初折5~6句目の秋の時雨を挙げます。

もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿   

前句は「紅葉」「露」と秋の句になっており、後句でも「朝霧」が出てきますから、「時雨」が秋を指していることは明らかです。

同じ連歌の二折表14句目~二折裏1句目には冬の時雨が出てきます。

 なみにはふらぬ橋のしら雪        周阿
村雲は時雨なからのとだへにて     二条良基

前句が「白雪」ですからこの一連は冬季を指しており、後句の「時雨」は冬となります。