2025-05-26

連歌のルール(9)~3回まで使える語

 

木藤才蔵『連歌史論考 上・下』(明治書院、1971/73)
文部大臣賞・日本学士院賞受賞
連歌の歴史を通覧できると同時に、連歌史年譜や詳細な索引などを備えた充実の名著

一座三句物

続いて三句物です。三句物~五句物は一句物よりも重要度が低いわけではなく、むしろよく使われるので一句や二句では収まらない材料というように考えられます。

今回は「月」「花」が出てくるので、説明も慎重にやりたいと思います。

用語分類・注記
春月単なる春月で1回、(春の)有明で1回、(春の三日月)で1回。
夏月、冬月上に同じ。
ただし有明は秋で1回、他季で1回まで。
三日月は四季を通じて1回のみ。2~3回使ってもよいという話があるが、どうだろうか
単なる神で1回、神代で1回、具体的な神名で1回
同じ懐紙では2回使えない。ただしにせものの花はその中に入らない。
最近では四句物としている。その中で余花を詠んでもよい。
「花・紅葉」と言っても花の4句の中に入る。
花と桜を同じ面に出してはいけない。心の花、にせものの花であっても同様である。
花を三句とすべきかどうかについては議論がある。しかし考えてもしかたあるまい、四句にしろ三句にしろはっきりした論拠があるわけではないのだから
単なる藤で1回、藤原で1回、他の季節で1回。
ただし他の季節など要らないだろうという意見あり
単なる柳で1回、青柳で1回、秋~冬の柳で1回
単なる桜で1回、遅桜・山桜などで1回、桜紅葉で1回。ただし「遅桜・山桜」などを使わず、単なる桜2回でも問題なしとすべきか
紅葉単なる紅葉で1回、梅・桜などの紅葉で1回、草のもみじで1回。
「紅葉の橋」は別に使用できるとするべきか
落葉単なる落葉で1回、松の落葉で1回、柳散るなどで1回
単なる荻で1回、夏か冬の荻で1回、(荻の)焼原で1回。
浜荻は懐紙を替えて詠むこと。
ただし、秋の荻以外は1回でよいという意見あり
薄(すすき)単なる薄で1回、尾花で1回、すぐろ・ほや(のすすき)などと表現して1回
単なる都で1回、名所で1回、旅で1回
単なる塩で1回、塩焼くで1回、潮で1回
単なる滝で1回、名所で1回、滝津瀬で1回。
花の滝、涙の滝などは別に使用できる
単なる岸で1回、名所で1回、彼岸で1回
恋で1回、旅で1回、文字で1回。「玉章(たまずさ)」は3回のうちに含まれる
鷹狩で1回、鷂(はいたか)で1回、獣狩で1回
庭鳥で1回、夜鳥で1回、その他異名で1回。
夜鳥も鶏のことである。夜鳥も異名に入れて、異名で2回とすべきという意見あり
鹿単なる鹿で1回、鹿子で1回、すがるで1回。
かせぎ、かをさしてなどは雑(=無季)である
単なる車で1回、法車で1回、水車で1回。「輦」は3回のうちに含まれる。
水車は自然の物に含まれるであろうか
草花過て、花の草の庵、花の草枕それぞれ表現を替えて1回ずつ。
ただしどう言い換えても1回とすべきという意見あり
単なる燈で1回、釣の灯で1回、法の燈で1回
単なる独で1回、恋で1回、月・松などに1回

いくつか注記します。

「春月」「夏月」「冬月」の項ですが、ここで言う「有明」とは「月がまだ天にありがなら夜の明けかけること。またその時間帯。また夜明けに天に残っている月のこと」です。実は、月を詠まなければいけない場面で、「月」という語を出さずに「有明」を代わりに使うことができるのです。

どういうことか、実例を挙げましょう。前回、秋の時雨について説明したのと同じ個所、「文和千句第三百韻」(1355)の初折表八句を見てみます。

名にしるし色もにほひもふかみ草      素阿
 五月もいまは廿日へにけり      二条良基 
夏引の糸もておれるうすころも       救済
 ねになく蝉のはつ秋のかぜ        暁阿         
もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運 
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿
在明や日のいづるまで残るらん     大江成種
 空行かりの数は見えけり         木鎮 

脇句に「五月」が出てきました。五月、六月、あるいは長月、神無月など月名の「月」は月次(つきなみ)の月といって、月を詠んだことにはなりません。各面で一句は月の句を詠まなければなりませんので、七句目で大江成種がそれを詠むことになりました。しかし同じ面に「月」という字を2回使うのはみっともよくないので、代わりに「在明(=有明)」を使いました。句の意味は「明け方の月は太陽がのぼってくるまでは空に残るでしょう」ということです。

式目の注釈では、「有明は秋で1回、他季で1回まで」と、合計2回しか使えないことになっているのですけれども、次回説明する「一座四句物」では有明は4回使えることになっています。これはどう理解すればいいのでしょう。

考えてみたのは、「月の代わりに有明を使うのは2回まで、有明そのものを述べるのは4回まで」ということではないかという解釈ですが、正しいかどうかわかりません。知見の士のアドバイスを求む。

「花」の項、にせものの花とは、浪の花、雪の花など実際の花以外のものを指す語を言います。これらは花を詠んだことにならないので、同じ折でもう一度花を詠む必要が出てきますが、その場合でも面は替えなければいけません。「心の花」も同じ扱い。

春の花でなくても、余花(夏)や花・紅葉(詠みかたにもよりますが無季)でも花を詠んだことにはなります。花・紅葉を詠むとはどういうことか、「専順宗祇百句附」(1468)の例を見てみましょう。

 人のこゝろのかはる世の中        専順 
草も木も折りわすれずよ花もみぢ      専順 

百句附は、専順が示した「人のこゝろのかはる世の中」という短句に対し、長句の付句を専順自身で100通り、宗祇も100通り作って見本帳としたものです。上の付合は専順の作例。「この世の中、人間の心というものは変わりやすいものだなあ」「草や木は季節を忘れず、花は春紅葉は秋と決まりを守るものなのに」ということになります。前年の1467年、応仁の乱が勃発し、裏切りや離合集散が繰り返し起こりました。そんな世の中を嘆いてこのような附句集を作ったのでしょう。この「花もみぢ」は季節としては雑です。

「花」と言えば原則として桜の花を指しますが、前句で菅原道真のことを詠んでいるような場合は梅の花を意味する場合もあります。

「桜」と言ったのでは花を詠んだことにはなりません。その場合は同じ折で別に花を詠まなければなりませんが、しかし面を替える必要があります。

「紅葉」の項、紅葉の橋とは天の川に掛かっている伝説上の橋のこと。

「狩」の項、鷂(はいたか)とは小形の鷹で、やはり鷹狩に用いられました。ただし鷹狩が冬季であるのに対し、鷂は夏から秋にかけての季語だそうです。

「鹿」の項、かせぎとは鹿の古名です。「かをさして(鹿を指して)」というのは、古代中国の秦帝国で、宦官の趙高が皇帝に対し鹿を指して馬と呼んだ故事のこと。

「法」の項、法の車(のりのくるま)とは仏法を羊の車・鹿の車・牛の車の三車にたとえたことを指します。

「独」の項、「月・松などに1回」とは、「月ひとつ」「ひとつ松」などの表現を指します。東日本大震災のあと、陸前高田市の奇跡の一本松が話題になりましたね。ひとつ松というのは古来わが国で大事にされてきた風景でした。