2022-06-18

吉分大魯 愛された嫌われ者(中編)

京都・金福寺の大魯の墓

友人との連句

前回に引き続き、吉分大魯です。今回はまず、彼の連句を読んでいくことにしましょう。

芭蕉の連句に比べて、蕪村やその門下の連句は文人趣味的で重要性が低いと言われることが多いようです。たしかに芭蕉のようなダイナミスムはないかもしれませんが、蕪村たちの連句にも味わい深い付けが見られ、明朗な雰囲気があって、そう侮ったものでもないだろうと私は思っています。

最初に取り上げるのは、大魯がまだ馬南と名乗っていたころ、高井几董と二人で作った両吟歌仙「ほととぎす」の巻です。両吟とは2人連句のこと。歌仙とは36句形式の連句で、表(6句)、裏(12句)、名残の表(12句)、名残の裏(6句)の4部分から構成されます。1773年夏の作で、几董が編んだ蕪村一門の撰集『あけ烏』の冒頭を飾る一巻です。

1 ほとゝぎす古き夜明のけしき哉  几董
2 橘にほふ窓の南(みんなみ)   馬南

発句は几董。早朝にほととぎすを聴くと、古人が詠んだ夜明の景色が思い起こされる、と詠い出します。『あけ烏』という集名は榎本其角の「それよりして夜明烏や子規(ほととぎす)」の句を意識して命名したものなので、この発句も其角の烏や時鳥の句の景色を意識したものと思われます。

対して馬南は「橘にほふ」と嗅覚を示唆しながらやはり夏の景色を詠んでいきます。

 橘にほふ窓の南(みんなみ)   馬南
3 貴人より精米一俵たまはりて   馬南

前句を隠居した官人の家と設定して、隠居してもやはり橘を植えて風流を楽しんでいる風情です。そこへ都の貴人から米一俵が届きます。

3 貴人より精米一俵たまはりて   馬南
4 秋は来れども筆ぶせう也     
几董

米一俵をいただいたのに、筆不精で返事も書いていない。前句までの唯美的な世界を離れて俗っぽい人事へと転じ、同時に秋の季を出すことで次の月の定座を準備します。

4 秋は来れども筆ぶせう也       几董
5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 
几董

不精者ではあるが、月の夕べに蚊が出てくるとさすがに耐えがたく、落葉や小枝をくすべて蚊よけにする。

5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 几董
6 木槿の垣の隣したしき        
馬南

蚊よけの火を起こしていると、隣の人も月を眺めに庭に出ていて、ムクゲの垣根ごしに親しく話をします。連句では秋の句は3句以上続けることを原則としますので、「木槿」という秋の季語を出しました。

6 木槿の垣の隣したしき        馬南
7 そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱  
几董

7句目から「裏」に入ります。表六句では極端な表現や奇抜な題材を避けますが、これ以降から自由に詠んでいいことになります。「そとしたる」は「ちょっとした」の意味。ちょっとした法事のために作った小重箱を、隣人にも配りましたよということ。

ここから解釈をスピードアップしましょう。二人の詠み順も交互になって、勢いがついていきます。

7  そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱  几董
8  
傘かるほどの雨にてもなし      
馬南
9  暁の戸を腹あしく引立て       几董
10 
きぬ被き居るふるぎれの音      
馬南
11 神無月それさへ人のまこと也     几董
12 春見のこしたかへり花さく      馬南
13 阿弥阿弥が水ながれこす魚の骨    几董
14 けさ殺されし蛇(くちなは)のさま  馬南
15 足軽の辛く作れるとうがらし     几董
16 魂棚の灯の消なんとする       馬南
17 軒のつま月さしかかる風落て     几董
18 しらべあはざる笛の一声       
馬南

9句目は、夜明けまで談判したのに合意に至らず、腹を立てて戸を引き立てて雨をものともせず外に出たということでしょうか。10句目は恋の句、腹を立てたのは女性で、男が来なかったのでかづいた衣の音をたてながら戸を開けたととりました。「ふるぎれ」というところが女の貧しさを思わせて泣かせます。11句目、女は神頼みをしようとするがあいにく神無月。これも人の世の真実だなあ。

13句目、「阿弥」とは京の東山で寺の塔頭が経営している数々の料亭。そこから流れる排水に魚の骨が混じっている。殺生戒も何もあったものじゃない。14句目、そんな阿弥坊主、蛇も平気で殺してしまうよ。「魚」に「蛇」と近いもの同士(動物同士)を付け合わせるのは「物付」というやりかた。残酷な情景を続けて盛り上げようという算段でしょう。

17句目、裏の月の定座は本来14句目ですが、ここでは3句下げています。味の濃い人事句が続いたので、軒端の月を描いて流れを落ちつけました。

19 海士人の蛸打敲(うちたた)く砂の上 馬南
20 小銭とらせて道の案内        几董
21 大雪の跡さりげなく晴わたり     馬南
22 肌足(はだし)に成て見たる傾城   几董
23 川の瀬の浪のうきくさ浪荒き     馬南
24 七日に満る暮のおこなひ       几董
25 桑の弓蓬の矢声響く也        馬南
26 身をなく狐秋やしるらん       几董
27 かり枕雨の更科月ふけて       馬南
28 酒の機嫌に渋柿を喰(くふ)     几董
29 いつの間に冠者は男となりけらし   馬南
30 とし経し公事(くじ)のさらさらと済(すむ) 几董

ここから名残の表です。18句目の「笛」を19句目では海士(あま)の息継ぎの音と捉えなおしました。「殺されし蛇」「蛸打敲く」などと激しい表現を出すところに馬南(大魯)の性格がよく出ています。20句目、浦島太郎のように金を出して蛸を助けてやり、ついでに海士に道案内も頼むという几董の心優しさ。

22句目、雪の上に遊び女が裸足になって乗り、白い足を見せている。恋の句です。

24句目、川の遭難者の回向が七日に達した日暮れである。前句を受けて遭難者の回向の七日間ということだと思います。25句目では男子が生まれて七日目の、桑の弓と蓬の矢を使って行う祝儀というように読み替えました。26句目、弓の音を聞いて狐は自分が狩られるのかと悲しみ、猟期の秋が来たことを知る。

29句目、前句で渋柿を食いながら酒を飲んでいたのは実はまだ少年だと思っていたのだが、いつのまにか立派な男になったものだ。30句目、何年も続いている訴訟があったが、少年が大人になったせいでさらさらと解決することができた。

31 翌(あす)植ん門田の早苗風わたる  馬南
 何におどろく一群の鷺        馬南
33 この宮も正八幡と聞からに      几董
34 
海の朝日の蔀もれ来る        
几董
35 さくら咲あたりの花に培(つちかは)ん 几董
36 名利薄らぐ長安の春         馬南

名残の裏に入ります。33句目、「正八幡大菩薩」と社前で称える人の声に驚いて鷺は飛び立ったのだという解釈。

35句目、桜が咲くと周囲の他の花にも元気を与えるようだ。前句の海の朝日と合わせて、めでたく明るい花の座の句です。36句目(挙句)、長安は名利の都だと言われるけれど、このすばらしい桜を見ていると出世も金儲けもどうでもよくなってくるよ。

『あけ烏』は、「蕪村一派の俳諧新風宣言の書」とも言われます。巻頭に置かれたこの歌仙は几董と大魯の俳句革新の意気ごみがよくうかがえる、気合がこもった作ではないでしょうか。

蘆陰句選

大魯の没後、弟子や几董は遺作の発句をまとめて出版しようと活動します。大魯が大坂時代に蘆陰舎というグループを設立していたことを前回述べましたが、これにちなんで遺句集は『蘆陰句選』(ろいんくせん)と名づけられました。句集から、前回紹介しなかった句をいくつか取り上げて鑑賞します。

うぐひすの呑(のむ)ほど枝の雫かな

うぐいすが渇きをいやすのにちょうどいいくらいの、ほんの少しの枝しずく。

雨の梅しづかに配る薫かな

雨の中でも香りはムンムン。「配る」の擬人法がうまい。

一もとはちらで夜明ぬけしの花

ケシは一日花で、翌日は散ってしまうのですが、ひともとだけ残っていたのがいとしい。

夏草や花有(ある)もののあはれ也

4月、5月はいろいろな花が咲きますが、6月下旬になるとぐっと減って緑の葉の勢いが勝ってくる。咲いている草はちょっぴり季節に遅れている感じで哀れ。

さみだれや三線(さみせん)かぢるすまひ取

「かぢる」には「(三味線を)弾く」の意味があります。相撲取りが三味線をつまびいている、雨の日のちょっといい風景。あまり強くない感じのお相撲さん。

いなづまや波より出(いづ)る須磨の闇

稲妻に照らされて波から須磨の浦の闇が生まれ出る。豪快で凄絶。

釣瓶(つるべ)にてあたま破れし西瓜かな

せっかく井戸に冷しといたのに。

落柿(おちがき)や水の上また石のうへ

自然はぜいたく、いくらでも落ち放題。

山風や霰ふき込(こむ)馬の耳

寒くて馬が大変。でも耳に散る霰は美しい。

以下『蘆陰句選』に洩れたものも含め、好きなものを挙げておきます。

足袋脱で小石振ふや菫草
蜻蛉や施餓鬼の飯の箸の先
稲妻の貌(かほ)ひく窓の美人哉
埋火に梁(はり)の鼠のいばり哉
山々のあとから不二の笑ひ哉
雀の子瓦一枚ふんで見る
昼顔や魚うち揚る沙のうへ
何人とまぎれ入けむ蚊帳の蝿

蕪村一門のその後

大魯は数え年49歳ぐらいで死去したと思われます。早死にのように思えますが、芭蕉だって51歳で世を去っていることを考えれば、当時としては標準的な寿命かもしれません。

大魯を良き友として支え続けた高井几董ですが、彼も11年後に49歳で没しています。また蕪村の高弟であった黒柳召波は46歳で死去。これらの弟子たちがもう少し長生きしていれば、一門はもっと文学的に栄えたでしょうし、子規を待つまでもなく蕪村の名声は早くから高まっていたかもしれません。惜しまれます。

次回は「写真で楽しむ大魯紀行」をアップします。お楽しみに。

2022-06-10

吉分大魯 愛された嫌われ者(前編)


蕪村周辺の俳人の系譜

今回からは、好きな俳人や関心のある俳人について気ままに書いていきたいと思います。最初は蕪村門下の吉分大魯(よしわけたいろ、1730~1778)を取り上げます。

師情友情

「愛された嫌われ者」とは「冷たいお湯」みたいな言いかたですが、このブログを読んでいただければそれがどういう意味かわかるでしょう。

吉分大魯は破滅型の俳人と言われます。性格に難があったようで、周囲と衝突し、親しい人に絶交を言い渡したり、爪はじきにされて土地を放逐されたりといったことを繰り返し、最後は困窮の中で死去したようです。しかし彼を愛し、彼のことを生涯にわたり思いやった人が2人いました。私はべつに破滅型の文人が好きというわけではないのですが、この2人の温かい心情に動かされるものがあって、大魯のことを取り上げてみようと思いました。

2人とは、師匠の与謝蕪村と友人の高井几董です。蕪村は几董宛の書簡(1770年頃)の中で「京都の俳人には碌な奴がいないが、馬南(大魯の旧号)は俳諧を知る男だ」と言って彼のことをほめています。もっとも、大魯があちらこちらでもめ事を起こすのには手を焼いていたようで、彼が絶交した相手に「何とぞお怒りにならずいさかいを収めて仲良くしてほしい」ととりなしの手紙を送ったり、大魯の死後になってからも彼が生前に迷惑をかけた知人に、「大魯・月居がごときの無頼者」と言って詫びたりしています。かくも煩わされながらも、後述するように大魯が大坂を放逐され兵庫にわび住まいするようになった際には、励ましの手紙を送ったり、几董とともにその住居を訪ねてともに吟行を楽しむなど、彼を応援し続けたのでした。

几董は大魯よりも11歳年下でしたが、この2人はたいへん良く気が合ったようです。几董は人当たりがよく、蕪村門下のまとめ役で、名古屋の加藤暁台や江戸の大島蓼太とも付き合いがあり、およそ大魯とは正反対のタイプの人望家でした。几董と大魯の交わりについては、おいおい記していきたいと思います。

徳島を離れ京へ

大魯は本名を今田文左衛門と称し、阿波(徳島)藩士でした。新蔵奉行として大坂に赴任しましたが、1766年、任地で遊女と駆け落ちして出奔してしまいます。数えで37歳、青春の情熱と言うにはすでにだいぶん年齢が行っていますが、大魯の人柄を言い表わすのによく使われる「直情径行」という表現にふさわしい行動です。

阿波藩時代から俳諧のたしなみはあったようですが、京に出た彼は岡田文誰の門下の俳人として活動するようになります。当時馬南と名乗っていたことはすでに述べたとおりです。文誰は望月宋屋の弟子であり、宋屋は早野巴人の弟子ですから、巴人門下であった蕪村と近いグループであったことがうかがえます。

1769~70年頃、大魯にとって大きな出来事がありました。生涯の友となる几董との出会いです。1770年2月、彼は親しくなった几董たちとともに伊勢参に出立します。同年3月、蕪村が夜半亭二世を継いで立机すると几董は正式に入門、それに誘われてか大魯も入門を果たし、蕪村の句会「高徳院発句会」に出入りするようになりました。

馬南名義の当時の句を読んでみましょう。

氷より先へ砕(くだけ)し手桶哉

寒い朝、手水などが凍りついているが、その向こうにはやはり氷結したためであろうか、木製の手桶も砕けて壊れているよ、という句。印象鮮明です。

頻(ひとしきり)春しづまつて藤の花

やれ梅見だ、卒業式だ、花見だ、入学式だ、新歓コンパだと、何かと心せわしないのが春ですが、ゴールデンウィークになるとようやく世の中も落ち着いてきます。その最後を締めくくるのが藤の花。大魯の時代もやはり春というのは心騒ぐ季節だったでしょう、五月病にならないように藤の花の香りで疲れを癒したいもの。この作が収録された几董編『あけ烏』は蕪村門の作品を結集した撰集で、蕪村の「不二ひとつ埋みのこして若葉哉」「牡丹散て打かさなりぬ二三片」などを収め、蕪村一派の俳諧新風宣言の書とみなされています。

大坂で蘆陰舎社中を設立

さて、1773年の夏、44歳で彼は剃髪して馬南改め大魯と称するようになります。本気で仏門に帰依する気があったかどうかは怪しいのですが、俳諧の道に邁進する覚悟を示したというところでしょう。

この秋、彼は江戸に行脚して新境地を開こうと考えるのですが、その前に浪花(大坂)に立ち寄ります。すると浪花の暮らしが気に入ったようで、そのままそこに住居を構えてしまいます。今の住居表示で中央区北浜あたりです。

京の几董は大魯の新居を訪れますが、そこで二人はあらためて意気投合し、「衰微した芭蕉の道を復興するぞ~」と気炎を上げたようです。「芭蕉は『京都大坂あたりでは蕉風は根付かないなア』とひそかに嘆いていたが、今やこの地には蕉門の俳士を多く数えるようになった」と几董は大魯の活動を持ち上げています。大魯は周りに集まってくる俳人を集めて「蘆陰舎」というグループを設立し、俳諧宗匠としての生活を開始。このころが彼にとってもっとも得意の時期だったかもしれません。その頃の発句を見てみましょう。

よその夜に我夜おくるる砧かな

夜、近所の家から砧を打つ音が聞こえる。それに遅れて、わが家でも妻が砧を打ち始めた、という句。わが家の砧が遅れるのは、奥さんが内職なり家事なりに追われていたせいでしょうか。この句については蕪村が、「砧という題材は古いようにも思えるけれども、『我夜おくるるというのはなかなか言えない表現だ」とほめています。

河内女(かはちめ)や干菜に暗き窓の機

河内国は江戸時代から河内木綿で有名。家ごとに機を織る風景は、大魯にとっては新鮮に見えたかもしれません。「干菜の陰になっているので暗い窓」と正確に描写したところに、実景をよく捉えたリアリティを感じます。

謎の事件、そして兵庫への流浪

大坂で順調に宗匠としての活動を進め、1776年秋には今の中央区高麗橋付近に転居した大魯でしたが、徐々に持ち前の傲岸不遜な面が顔を出すようになっていきます。すでに1775年2月、蘆陰舎グループの東葘に絶交を言い渡すという出来事があり、蕪村一門と親交があった上田秋成がこの件を蕪村に伝えています。

不穏な人間関係はついに1777年夏に火を噴き、大魯が大坂を追い出されるという事件が起こります。いったい何が原因だったのか明らかになっていませんが、住居を追い出されるというただならぬ仕打ちを受けていることから、単なる人間関係のもつれではなく、社会的制裁を科されるような過失を犯したのではないかと見られます。この時に彼は身の悲運を嘆く句を作っています。

浪速津に庵求て五年の月日を過しけるに、さはることの侍りて、やどりたち出る日、友どちに申す。 
江(にごりえ)の影ふり埋め五月雨

かつて住みよいところと思った浪花ですが、今では水路も濁って見えます。

移住先の家を見つける暇も許されず追放され、とりあえず知人のいる兵庫へ向かいます。次は同じ一連の句。

行路茫々然たり 
夏草やまくらせんにも蛇嫌ひ

いっそ夏草の中で野宿でもしようかと思うが、蛇が来ると嫌だと言う。人間、追いつめられるとかえって笑えることを言いだす場合がありますが、この句の大魯がそんな感じです。実際には妻子を連れての彷徨でしたから、泣きたい気持ちだったでしょう。

師の慰問、そして終焉

何とか兵庫の後援者を頼って、今の神戸市灘区岩屋付近の海辺の村に落ち着くことができた大魯でした。しかしこれだけ痛い目に遭っても彼の性格は変わらなかったようで、この年の冬には蕪村と親しかった俳人の三浦樗良に突然絶交の手紙を送りつけています。樗良のほうは、なぜそんなことを言い渡されるのかさっぱりわからなかったようですが。

兵庫時代の句を読んでみましょう。

兵庫草庵背戸の半夜 
船毎に蕎麦呼ぶ月の出汐哉

「半夜」は真夜中のこと。月がのぼって潮が満ちてくるのに合わせて、夜半に漁船が出漁するのでしょう。そうした漁師たちを相手にした蕎麦屋台の商売があったようで、珍しい漁村の風景をうまく描いています。

船中 
あら海へ打火こぼるる寒かな

火打石の火花が荒海へ散っていくという、美しい一瞬の輝きが鋭いタッチで描かれています。これは好きな句。

大魯のことを蕪村はずいぶん心配していて、彼を励ましたり、句を賞賛したりする手紙を送っています。そんな中、嬉しいできごとがありました。1778年3月、師が几董を連れて彼の許を訪ねてきたのです。三人は兵庫の海辺、生田の森、平忠度の墓などを観光して吟行、また三吟歌仙を巻いています。大魯にとってこれほど楽しい時間はなかったことでしょう。

しかし彼に残された時間は多くありませんでした。5月、病魔に襲われ、療養のため京に向かったのです。いちどは小康を得て兵庫に戻ったものの、9月ごろ再び上洛。この間、几董がなにくれとなくその面倒を見ていましたが、死期を悟った彼は年下の友人に、「死んだら蕪村先生が芭蕉庵を再興した金福寺に葬ってほしい」とつぶやきました。

わがたのむ人皆若し年の暮

おそらく病中吟ではなくもっと早い時期の発句だろうと思いますが、気がつくと自分を支えてくれているのは几董をはじめとする若い人ばかりであったという、これまでの自分の傲慢さを思っての苦い自嘲とも自省ともつかぬ心持ちが感じられます。

11月13日、大魯他界。蕪村や几董は追悼句を捧げ、墓は希望通り金福寺に建てられました。

一年後、追善の会を金福寺で開こうとしますが、人が集まりません。蕪村は几董に宛てた手紙で「百池、月渓、自笑、月居、雲良、田福、皆欠席だ。維駒も生前大魯と仲が悪かったのでとても来るまい。大がかりな用意をされると困るので、金福寺の和尚に少人数の会になると伝えておいてくれ」と指示しています。

蕪村も死後は金福寺に葬られ、大魯は今でも師と同じ境内に眠り続けています。

さて、今回は大魯の生涯を中心にして書いてみましたが、次回は彼の連句、また今回触れなかった発句について、作品中心で鑑賞してみようと思います。

2022-05-31

俳諧のはじまり(おまけ)-藤原定家の連歌、現存最古の長連歌、宗祇と兼載の俳諧観

 
穎原退蔵著作集より「連歌史」

これまで「俳諧のはじまり」シリーズで書ききれなかった話題について、いくつか補足的に付け加えておきたいと思います。

藤原定家の連歌

長連歌(3句以上の連歌)は12世紀前半ごろに発生したと書きましたが、12~13世紀の長連歌で完全な形で残っているものはありません。長連歌を一回限りの座興と見なす傾向があったのか、きちんと保存されることはなかったようです。

そんな中で、藤原定家が後鳥羽上皇にたてまつった「独吟百韻」が、断片的な形で一部記録されています。これは二条良基が『菟玖波集』にて2句単位で採録していったものなのですが、その中で連続する5句を分解して採録したところがあるので、元の形を一部再現できるのです。それを2句ずつ読んでみましょう。

谷深き柴の扉の霧こめて
都をこふる袖やくちなん 

「谷深くに結んだ庵の扉は、霧に閉ざされている」
「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
蝉丸のような、都を追放された人のことをイメージした付けでしょう。

都をこふる袖やくちなん 
霜の後夢も見はてぬ月の前

「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
「かの王昭君は霜のあとでは夢も見ることができないと月の前で嘆いた」
大江朝綱が、匈奴に嫁した宮女、王昭君の故事によって成した漢詩に「胡角一声霜後夢 漢宮万里月前腸」(
『和漢朗詠集』)とあることを踏まえた付句。前の付けでは追放されて谷深い草案に隠棲する人のことが描かれていましたが、この付けでは都を恋うて泣くのは、北方異民族に嫁がされた王昭君のことであると解釈しなおしています。

霜の後夢も見はてぬ月の前 
むすぶちぎりの浅き世もうし

「霜が下りて冬の月が照るような夜は夢も破れがちだ」
「あなたと結んだ関係もしょせんは浅いものだった。なんと憂き世であるか」
ここでは王昭君の逸話を離れて、男女関係の冷え冷えとしたありさまを描くというように読み替えて付けを行っています。

むすぶちぎりの浅き世もうし 
夕顔の花なき宿の露のまに

「人のつながりは浅いもので悲しい」
「(源氏物語の夕顔の君がみまかった後では)その宿の垣根に夕顔の花もなく、まことに露のようにはかないものである」
人生の無常を詠もうとしたもののようです。

いかがでしょうか。前に見た『拾遺和歌集』では、短連歌は語呂合わせによる機知の腕を見せることに終始していました。この定家の連歌では語呂合わせは見られず、引用を織り込みながら唯美的な世界を作り出そうという、定家の意欲がうかがえます。ただし、霧こめて⇒袖やくちなん⇒夢も見はてぬ⇒世もうし⇒露のまに、という具合に、同じような世界がえんえんと続いていて、変化というものが感じられません。連歌が平安和歌の世界を打ち破って動的な力を持つためには、やはり地下連歌の強靭なエネルギーを引き入れることが必要だったのだということが納得されます。

現存最古の長連歌

現在残っている最古の長連歌は、横浜市の金沢文庫(かなざわぶんこ)が管理する三巻の百韻連歌です。金沢文庫は北条氏の一族である北条実時が蔵書を収めた収蔵庫で、鎌倉幕府の滅亡後、収蔵品はかなり散逸しました。残った資料は近接する称名寺が管理しましたが、現在それらは神奈川県が新たに設立した「県立金沢文庫」に引き継がれています。昭和の初期、この資料から百韻連歌が見つかったのです。写経した紙の反故の裏側を使って書かれていて、それは紙が当時貴重品だったということもあるでしょうが、これら連歌がそれほど格式のあるものではない、楽しみのためのものであったことを示すでしょう。その内容は

1332年9月13日 [月は秋]の巻
1333年10月23日 [雨の名を]の巻 
(年代不明)8月15日 [月の名に]の巻 

といったものでした。 

ではこの中から、[月は秋]の巻の表八句を紹介しましょう。

月は秋あきも名あるは今夜哉      一
霧よりいでてはるる嵐に        
白露やむすびもあへずおちつらん    十
おきふす草のさだめなければ      本
里ならで野をやどにする旅ぞうき    一 
かかるいほりは都にもにず       印
雨をきく軒のしづくはさびしくて    如
霜よりのちはあるる冬山        理

各句の下にある「一」「印」「十」「本」「如」「理」 というのは作者名の略称で、おそらくいずれも称名寺の住僧。とくに「十」は同寺の十林という僧であろうと推測されています。

読んでみていかがでしょうか。ずっと淋しげな庭や野の景色が続いていて、また「月」「霧」「白露」「雨」「霜」など天文気象を示す題材が繰り返し登場し、どうも変化に乏しいですね。連歌の技巧が磨かれていくには、まだしばらく時間がかかったようです。

ところで、連歌・連句の発句は季節を詠む、それも当季の季語を用いることを必須とするのですが、この最古の長連歌でもすでに発句で当季を詠んでいる点が注目されます。こうしたルールがのちの俳句の季語システムにつながっていくわけです。

訂正:近年、冷泉家時雨亭文庫蔵の資料が紹介され、とくに「永仁五年正月十日賦何木百韻」(1297)は全体を完備した価値の高い懐紙であるとのこと。上記の金沢文庫資料よりも古いということになるでしょう。

宗祇と兼載の俳諧観

飯尾宗祇は俳諧の価値を低く見ていて、『新撰菟玖波集』にも俳諧の部を設けなかった話をすでに書きました。しかし宗祇自身が俳諧の連歌を作ることもありました。宗祇の独吟俳諧百韻という作品が江戸時代に伝わっていたことはわかっていますが、残念ながら完全な形で今日まで残っていません。しかし1660年刊の北村季吟編『新続犬筑波集』に途中の句がとぎれとぎれに記録されていますので、部分ごとに鑑賞してみましょう。

堂はあまたの多田の山寺
まんじゆうをほとけのまへにたむけおき 
たれみそすくふしゃくそんやある 

多田は兵庫県川西市の地名で、清和源氏発祥の地として源満仲から義家に至る五公を祀る多田神社などの寺社があります。 二句目は「満仲」と「饅頭」をかけて寺の仏に饅頭が供えられている景としました。三句目は饅頭からの連想で、「垂れ味噌を掬う杓子はあるか」と「釈尊は誰を救ってくれるのか」のダジャレを言っています。

次の三句は旅行の場面です。

いと細き手にあかゞりやわたるらん
日々にまさりて旅はたえがた 
関守のこころはきびし銭はなし 

女性の細い手があかぎれで痛々しい。次の句ではそれを旅している姿ととらえ、旅の間じゅうあかぎれがひどくなり耐えがたいと言ってみた。三句目は、旅が耐えがたいのは関守がきびしく通行税を取り立てるのに銭がないからだと、貧乏旅行の様子にとらえ直しました。

このような感じで、通常の連歌よりだいぶんくだけた感じですが、『竹馬狂吟集』のような下品に堕すことはないですね。ただし、酔余の座興で俳諧の連歌をやることがあって、そんな時は宗祇も下ネタの付句を出していたと、支援者で弟子でもあった三条西実隆が証言していますので、宗祇先生、そう堅物一方の人物であったわけでもなさそうです。

猪苗代兼載は宗祇の弟子ということになっていますが、もと心敬の弟子であったとされ、宗祇とは友人関係ではなかったかという説もあります。彼は『兼載雑談』という著作において、「上手の詠み手は、強い句には強く付け、幽玄の句には幽玄で付け、俳諧の句には俳諧を付けるというように、どのような場合でも行き詰ることなく対応するものだ」ということを言っており、俳諧も連歌の一要素と肯定的に見ています。また「狂句も後に上手になるための下地だと思ってやってみればよいだろう」と、むしろ試みることを勧める姿勢がうかがえます。

では兼載の独吟俳諧の作例をところどころ見てみましょう。

拍子打つ風呂の吹きてと聞くよりも
うしろをむきてせをかがめける 
こがつしき流石(さすが)に道をしりぬらん 

「風呂の垢すりをやる者が来たようなので、手を打ってそれを呼ぶ」「後ろを向いて背中をかがめた」と、最初の2句は風呂で背中を流させる情景ですが、3句目で「喝食(かつじき、禅寺の稚児)め、さすがに男色の道を心得て尻を突き出している」と同性愛の場面に切り替えました。宗祇よりもかなり露骨です。

しのびしのびにつまをたづぬる
さひを手に取ながらへるも口惜しや
はだかにならばさていかにせむ

「こっそりと妻のもとを訪ねる」という何かわけありげな1句目に、「サイコロを手に渡世を送るのも口惜しい」と、博打に入れあげているため奥さんのところへはこっそり戻るという解釈にした2句目。3句目では「すってんてんになったらどうしよう」と卑俗な笑いに転じています。

こころぼそくもときつくるこゑ
鶏がうつぼになるとゆめに見て

「軍が鬨の声を上げているのに、それが心細いとはこれいかに」という謎句に対し、「鶏が皮を剥がれて矢入れの靭にされちゃう夢を見たので、時をつげる声も心細いんだよ」とトンチで応じたもの。この付けは『竹馬狂吟集』にも匿名で採用されています。

戦国時代の連歌は宗祇のような芸術志向一色だったわけではなく、実際には大衆的な笑いを採り入れた俳諧も盛んに行われていたことがわかるでしょう。

さて、俳諧というジャンルが成立するまでの歴史を10回プラス1回で書いてみました。次回からは、個々の俳人の作品を時代順にこだわらず読んでいきたいと思います。

2022-05-27

俳諧のはじまり(10)-俳諧についてのQ&A

前回までに俳諧が独立したジャンルになるまでの歴史をざっと眺めてきましたが、連歌や連句や俳句について、門外漢の方にはまだいろいろわからないことがあると思います。Q&Aの形で疑問に答えてみましょう。

Q1.連句って、近代になってからの呼び名だと聞きましたが、江戸時代の俳人たちは自分たちがやっている連句を何と呼んでいたのでしょうか。

A1.まずややこしいのは、昔は連句というのは、漢詩の「聯」を二人以上の作者で作ることを言ったのです。つまり漢詩を共同制作するのが「連句」、和歌を共同制作するのが「連歌」だったんですね。

では江戸時代は俳諧連歌をどう呼んでいたかというと、正式名称は「俳(誹)諧之連歌」です。下の画像、左は蕉門(芭蕉派)の連句、右は一茶が加わった連句ですが、どちらも巻頭に「諧之連歌」と書いてあります。


しかし「ハイカイノレンガ」というのは長くて舌を噛みそうです。そのため日常的には単に「俳諧」と言っていたのではないかと思います。俳諧というのは発句も含めた概念なので、必ずしも連句だけを示す語とも言えないのですが、現実的には連句を指す場合に常用されていたようです。

「連俳(れんぱい)」と言っている例もあって、この名称は現在でも使われることがあります。ただし江戸時代には「連歌と俳諧」をまとめて称する意味で用いられた場合もあるので、注意が必要です。

俳諧之連歌を連句と呼ぶのが一般的になったのは、高濱虚子が1904年にそれを提唱してからだとされています。しかし江戸時代にも散発的に「連句」の語が使われている例が見られます。

Q2.連歌と連句(俳諧)って、要するにどこが違うのでしょう。

前回見たとおり、初期の俳諧はトンチ、語呂合わせ、下ネタなどで読者を笑わせることを目的とした形式でした。ところがそれが洗練されてきて、とくに松尾芭蕉に至ると、俳諧の芸術化が図られるようになりました。そうなると連歌と俳諧の違いがよくわからなくなってきます。芭蕉も「連歌と俳諧は心は同じである」と言っています。

しかし和歌・連歌と俳諧を分ける特色が一つあって、それは和歌・連歌では「歌語」を使うのに対し、俳諧では「俳言(はいごん・はいげん)を使うということです。芭蕉の弟子であった河野李由と森川許六が編纂した『篇突』には、「『五月雨』(さつきあめ)は俳言であり、『五月の雨』は連歌である。卑俗なことばを使うのが俳諧だと思うのは大きな間違いだ」ということが書かれています。五月雨と五月の雨がどう違うのか、現代の普通の人間にはさっぱりわかりませんが、「卑俗なことばを使うのが俳諧ではない」というのは芸術的な俳諧を目指す蕉門の人々が強く主張したかったところでしょう。

服部土芳著の『三冊子』によれば、芭蕉自身は、梅翁(西山宗因)が『俳諧無言抄』に書いていたことを信奉していたようで、それを引用してまず音読みの文字を使用した語は俳言であり、屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶などの語はいずれも俳言であるとしています。歌語は原則として訓読みのやまとことばを使うということです。また和歌が嫌う特定の語があって、たとえば桜木・飛梅・雲のみね・霧雨・小雨・門出・浦人・賤女などの詞も歌語ではなく俳言であるとしています。

訂正:『俳諧無言抄』の著者を梅翁(西山宗因)としましたがこれは誤りで、美濃国信浄寺の住職梅翁の著であるようです。同名のため混同しました。

歌語と俳言の違いについてはいろいろな人がいろいろなことを言っていて、何が適切なのかわかりにくいのですが、端的に言うと和歌・連歌はことばをその本意に従って使う。俳諧は本意にこだわらずにリアリズムを採り入れて詠む。というのがいちばんの大本ではないかと思います。たとえば和歌では、鴬や蛙は啼き声を賞美すべきものと考えますが、芭蕉は

鴬や餅に糞する縁の先
古池や蛙飛こむ水のをと

と、啼き声ではなく糞だとか水音だとかを描いてみせるのです。

和歌・連歌では本意に沿って物を描こうとするので、その結果先例のない表現を嫌う、見たことのない表現を排するという方向性が出てきます。有名な話としては、平安時代の「六百番歌合」の会で、「見し秋を何に残さん草の原ひとつにかはる野辺のけしきに 藤原良経」の歌に対し、「草の原なんて、聞きなれない表現で耳ざわりが良くない」という論難がなされます。これに対して判者の藤原俊成は「草の原という表現は、源氏物語の『花宴』巻中の和歌にちゃんと使われている。源氏物語も読んでいないような歌詠みはダメである」と言って良経の和歌を高く評価したのです。このように、いかに先行する作品を踏まえて表現できているかということが和歌の評価基準として大きなポイントだったわけで、それは連歌に引き継がれます。

そうなると、「本歌取り」ということが和歌・連歌では非常に重要視されます。古典の教養が必須になり、たとえば白楽天の詩を翻案して詠みこんだりすると「すごーい」ということになるわけです。

俳諧でも本歌取りをまったくやらないというわけではなく、芭蕉はむしろ積極的に古典を採り入れていますが、重要度が和歌・連歌ほど高くはないということですね。

Q3.発句と俳句って、どこが違うのでしょう。また「俳句」という語はいつごろから使われるようになったのですか。

発句というのはあくまで連歌や連句の第1句目を意味します。したがって、その後に付句がつくことを想定します。俳句は独立した詩形なので、付句を想定しません。

というのが表向きの解説ですが、連歌から俳諧が分かれて以降には、必ずしも付句を想定しない発句も多く作られたのではないかと私は思っています。たとえば1674年刊の『歳旦発句帳』(井筒屋庄兵衛編)は新年の発句だけを集めた本で、発句だけを鑑賞する下地がもともとあったからこういう句集が編まれたことが考えられます。芭蕉も、同じ句を発句だけで発表する場合と連句の中で使用する場合では句形を変えたりしていますから、発句を独立した詩として考える面もあったのだろうと思います。

発句は格調高くなければいけない、そのために切字を使用しなければならないという考えがあるのですが、服部土芳は「芭蕉先生はむしろ軽い発句を好まれていた」としています。また「先生は、切字を使っても切れていない句、使っていなくても切れている句があるとしていた」と言っています。芭蕉の考えかたは柔軟で、あまり外形に拘泥した作句姿勢には賛成しなかったようです。今日でも、俳句はもともと発句であるから格調高くなければいけないと言って現代俳句を批判する人がいますが、時代とともに表現する内容も変わるのですから、古い格調に固執するのはいかがなものかと思います。

「俳句」という語が最初に使われた時期ですが、私がたどれた限りでは、榎本其角編の『虚栗』(1683年)、『句兄弟』(1694年)にその例を見ることができました。ただし、明確に発句を俳句と言いかえたといった感じではなく、「俳諧の中の一句としての発句」という程度の表現です。これ以前の定清作の俳諧集『尾蝿集』(1663年)にも「俳句」の語が見られるということですが、私は未見です。

発句という呼称を排してはっきり俳句という名称を採用したのは、正岡子規であることに間違いありません。子規は連句の価値を否定し、それによって俳句を独立した文学にしようと考えたわけですから、連句を前提とする「発句」の名称のままでは具合が悪かったわけです。