2022-05-22

俳諧のはじまり(8)-宗祇が築いた連歌黄金時代

 
新撰菟玖波集

宗祇の連歌は面白い?

室町時代から戦国時代にかけて、連歌の黄金時代が到来します。足利将軍家が愛好したことが大きく、幕府は京都・北野天満宮に連歌所(れんがしょ)を設置しました。各地の守護大名もまた競って連歌会を催するようになります。

この時代のヒーローが飯尾宗祇で、彼は全国の守護大名を訪れては歓迎を受け、プロ連歌師として生活しました。ちなみに宗祇に至る連歌道の系譜をざっと書くと次のようになります。

善阿(ぜんな) ⇒ 救済(ぐさい、きゅうぜい) ⇒  二条良基 ⇒ 勝部梵灯庵 ⇒ 高山宗砌(そうぜい) ⇒ 飯尾宗祇(そうぎ) ⇒ 猪苗代兼載(けんざい)

この系譜図では周阿、了俊、心敬など重要な名前を省き、また宗祇の弟子の実隆、肖柏、宗長などの名前も入れていません。便宜的なものだと思ってください。

実は私、宗祇がちょっと苦手。彼の代表作で連歌の最高峰のような扱いを受けているのが「水無瀬三吟百韻」(1488年)ですが、これがつまらないんだなあ。平板な叙景句が多くて、薄味の作品で。

正統連歌を理解できない私はひねくれものなのだろうか、と悩んだのですが、ある日連歌文学の研究家の先生が似たことを言っているのを読んでびっくりしました。新潮日本古典集成の『連歌集』で校注を行っている島津忠夫先生です。「水無瀬三吟百韻」は宗祇、肖柏、宗長が詠んだ連歌で、3人が同じ順番でぐるぐる付句を付けていく、いわゆる「膝送り」の方法で詠まれている。しかしこうした固定した付け順だと、なかなか意表を突いた句が出にくい。しかもこの連歌は後世の手本になるような一巻にしようという宗祇の意図が見えて、指導の縛りが感じられるというのです。それに対し「新撰菟玖波祈念百韻」(1495年)は、16人が参加して緊張感みなぎるやりとりを見せており、かなり趣が異なるとしています。

そこでここでは「新撰菟玖波祈念百韻」のほうを鑑賞してみましょう。百韻の場合、「初折表(8句)」「初折裏(14句)」「二折表(14句)」「二折裏(14句)」「三折表(14句)」「三折裏(14句)」「名残表(14句)」「名残裏(8句)」という8部構成になります。歌は懐紙を二つに折って、その表と裏に句を書いていき、百韻の場合は4枚の紙の表裏を使う。8部の境目ははっきり切れているわけではなく、歌の流れはずっと連続していくのですが、進行を管理していく上で折を一つの目安にします。

百句全部鑑賞するのはたいへんなので、ここでは1か所だけ紹介しましょう。三折裏の四句目(全体では六十八句目)から、2句ずつペアにして解釈していきます。

露をみるにも老が身ぞうき    宗祇
風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍 

「すぐ消えてしまう露を見るたびに年取った自分のありさまが悲しい」「この日暮れには、風が吹けば露が消えるように自分も命を散らすのかと思われます」と老い先の短さを嘆くやりとりです。

風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍
うはの空にはなどかすぐらん   恵俊 

「風が私を誘ってくれるのかと夕暮に待っていたのに」「なぜ上空を吹き過ぎて行ってしまうのか」前句を読み替えて、老いの嘆きの話ではなく風に呼びかける体に付けました。「なぜ私のところに来てくれないの」という恋の雰囲気もちょっぴりあります。

うはの空にはなどかすぐらん   恵俊
をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清

「なぜ上空を行ってしまうのか」「ほととぎすが繰り返し鳴いてこそ、都らしさというものなのに」過ぎていくのは風ではなく、ほととぎすのことであると読み替えました。このように、連歌や連句は前々句と前句の世界を、付句によってひっくり返していくことを必須とする文芸です。

をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清
みすはみどりの軒のたち花    兼載

「ほととぎすが繰り返し鳴いてこそ、都らしいというものだ」「都では夏になると緑の御簾が掛けられ、軒には橘の花が開いているよ」ほととぎすは実際に鳴いていると見て、都の景を色鮮やかに描いてみせました。物悲しい風情が続いていたのを一新して絵画的な華やぎに転じた、みごとな付句です。

みすはみどりの軒のたち花    兼載
袖ふるる扇に月もほのめきて   宗祇

緑の御簾が掛けられ、軒には橘の花が開いている」「袖が触れあう逢瀬、扇には月のほの明りが指している」ここで恋へと転じます。宗祇の付句は古今集の「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖のかぞする」(読み人知らず)の歌を踏まえたもの。連歌ではこのように、本歌取りや寄合(よりあい、定番の組み合わせ)を活用した付けが常套的に行われます。

袖ふるる扇に月もほのめきて   宗祇
まねくは見ずやくるる河つら   恵俊

袖が触れあう逢瀬では、扇に月のほの明りが指している」「扇で入日を招いているのをご覧になりませんでしたか? 川のおもては暮れていきます」恋を続けながら、舟遊びの景色というように設定し直していきます。

これくらいにしておきましょう。この連歌では、猪苗代兼載が凝った面白い付けを連発して活躍しています。出した句の数も宗祇の14句に次ぐ13句です。一巻全体としては、兼載の派手な立ち回りを、宗祇は鎮めるようにおだやかに付ける、というような場面が多く見られるようです。後に兼載は撰集の撰をめぐって宗祇と対立し、師弟は袂を分かつことになるのですが、弟子が新風を求める一方で師匠は格調を重んじるというような路線の違いがあったのかもしれません。

俳諧が勅撰集から外される

1495年、宗祇は弟子たちとともに新たな連歌撰集『新撰菟玖波集』を編纂しました。これは准勅撰連歌集として公に認められます。上記の「新撰菟玖波祈念百韻」は、撰集が無事に完成することを祈って編纂者たちが集まって事前に行った連歌でした。

この集は二条良基の『菟玖波集』同様、連歌の中から二句単位で付合の実例を抜きだして集めたものです。連歌一巻を丸ごと収載するということはやっていません。作品は室町時代のものに限定されており、作者の中では足利義政・義尚の父子、また日野富子の名前に目が行きます。宗祇らが将軍家の庇護を受けていたことがよくわかります。

特記されるのは、『菟玖波集』に設けられていた「俳諧」の部が、こちらの集では廃されていることです。宗祇は『老のすさみ』の中で次のように言っています。

愚意に思ひ侍る、連歌正風(しょうふう)は、前による心誹諧になく、一句のさま、常のことをも、詞(ことば)の上下をよく鎖りて、いかにも安らかに云ひ流し、物にうてぬ所を心にかけまほしく侍るなり。

「私見で思うに、連歌の正しい姿は、前の句に寄っていく心が俳諧的ではなく、普通のことを詠む場合でもことばを上下にうまく連続させ、いかにもゆったりと流れるように言い表わし、他からの動揺を受けないような境地をめざすようにしたいというところにあります」

この宗祇の言いかたを見れば、彼が俳諧を低いものに見なして、正統ではないと考えていたことがはっきりしています。彼は『新撰菟玖波集』を編纂することで連歌の価値をいっそう高め、和歌と肩を並べるところまで社会的評価を上げようという野心を持っていた。そのため俳諧のような優雅ではない分野は勅撰集から排除しようと考えたと思われます。

いっぽう発句について見れば、巻十九と巻二十は「発句」の部になっており、 宗祇がやはり発句を重んじていたことがわかります。中には有名な

世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句が収録されています。 のちに芭蕉はこの句を踏まえて「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の句を作ることになります。

足利将軍と日野富子の発句を見ておきましょう。

すみのぼる月のしらみね雲もなし 慈照院入道贈太政大臣(義政) 
桜をやちらぬはなとはおもふらん 常徳院贈太政大臣(義尚)

下水ににごらぬいけのはちすかな 従一位富子

応仁の乱で世の中が乱れに乱れていた当時、権力者たちがこういう浮世離れした句を作っていたということには、「なんかな~」という気がしないでもありませんね。

宗祇や兼載と俳諧のかかわりについては、もう少し述べたいことがありますが、だいぶん長くなってきましたのでそれは別の回に譲りましょう。