友人との連句
前回に引き続き、吉分大魯です。今回はまず、彼の連句を読んでいくことにしましょう。
芭蕉の連句に比べて、蕪村やその門下の連句は文人趣味的で重要性が低いと言われることが多いようです。たしかに芭蕉のようなダイナミスムはないかもしれませんが、蕪村たちの連句にも味わい深い付けが見られ、明朗な雰囲気があって、そう侮ったものでもないだろうと私は思っています。
最初に取り上げるのは、大魯がまだ馬南と名乗っていたころ、高井几董と二人で作った両吟歌仙「ほととぎす」の巻です。両吟とは2人連句のこと。歌仙とは36句形式の連句で、表(6句)、裏(12句)、名残の表(12句)、名残の裏(6句)の4部分から構成されます。1773年夏の作で、几董が編んだ蕪村一門の撰集『あけ烏』の冒頭を飾る一巻です。
1 ほとゝぎす古き夜明のけしき哉 几董
2 橘にほふ窓の南(みんなみ) 馬南
発句は几董。早朝にほととぎすを聴くと、古人が詠んだ夜明の景色が思い起こされる、と詠い出します。『あけ烏』という集名は榎本其角の「それよりして夜明烏や子規(ほととぎす)」の句を意識して命名したものなので、この発句も其角の烏や時鳥の句の景色を意識したものと思われます。
対して馬南は「橘にほふ」と嗅覚を示唆しながらやはり夏の景色を詠んでいきます。
2 橘にほふ窓の南(みんなみ) 馬南
3 貴人より精米一俵たまはりて 馬南
前句を隠居した官人の家と設定して、隠居してもやはり橘を植えて風流を楽しんでいる風情です。そこへ都の貴人から米一俵が届きます。
3 貴人より精米一俵たまはりて 馬南
4 秋は来れども筆ぶせう也 几董
米一俵をいただいたのに、筆不精で返事も書いていない。前句までの唯美的な世界を離れて俗っぽい人事へと転じ、同時に秋の季を出すことで次の月の定座を準備します。
4 秋は来れども筆ぶせう也 几董
5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 几董
不精者ではあるが、月の夕べに蚊が出てくるとさすがに耐えがたく、落葉や小枝をくすべて蚊よけにする。
5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 几董
6 木槿の垣の隣したしき 馬南
蚊よけの火を起こしていると、隣の人も月を眺めに庭に出ていて、ムクゲの垣根ごしに親しく話をします。連句では秋の句は3句以上続けることを原則としますので、「木槿」という秋の季語を出しました。
6 木槿の垣の隣したしき 馬南
7 そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱 几董
7句目から「裏」に入ります。表六句では極端な表現や奇抜な題材を避けますが、これ以降から自由に詠んでいいことになります。「そとしたる」は「ちょっとした」の意味。ちょっとした法事のために作った小重箱を、隣人にも配りましたよということ。
ここから解釈をスピードアップしましょう。二人の詠み順も交互になって、勢いがついていきます。
7 そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱 几董
8 傘かるほどの雨にてもなし 馬南
9 暁の戸を腹あしく引立て 几董
10 きぬ被き居るふるぎれの音 馬南
11 神無月それさへ人のまこと也 几董
12 春見のこしたかへり花さく 馬南
13 阿弥阿弥が水ながれこす魚の骨 几董
14 けさ殺されし蛇(くちなは)のさま 馬南
15 足軽の辛く作れるとうがらし 几董
16 魂棚の灯の消なんとする 馬南
17 軒のつま月さしかかる風落て 几董
18 しらべあはざる笛の一声 馬南
9句目は、夜明けまで談判したのに合意に至らず、腹を立てて戸を引き立てて雨をものともせず外に出たということでしょうか。10句目は恋の句、腹を立てたのは女性で、男が来なかったのでかづいた衣の音をたてながら戸を開けたととりました。「ふるぎれ」というところが女の貧しさを思わせて泣かせます。11句目、女は神頼みをしようとするがあいにく神無月。これも人の世の真実だなあ。
13句目、「阿弥」とは京の東山で寺の塔頭が経営している数々の料亭。そこから流れる排水に魚の骨が混じっている。殺生戒も何もあったものじゃない。14句目、そんな阿弥坊主、蛇も平気で殺してしまうよ。「魚」に「蛇」と近いもの同士(動物同士)を付け合わせるのは「物付」というやりかた。残酷な情景を続けて盛り上げようという算段でしょう。
17句目、裏の月の定座は本来14句目ですが、ここでは3句下げています。味の濃い人事句が続いたので、軒端の月を描いて流れを落ちつけました。
20 小銭とらせて道の案内 几董
21 大雪の跡さりげなく晴わたり 馬南
22 肌足(はだし)に成て見たる傾城 几董
23 川の瀬の浪のうきくさ浪荒き 馬南
24 七日に満る暮のおこなひ 几董
25 桑の弓蓬の矢声響く也 馬南
26 身をなく狐秋やしるらん 几董
27 かり枕雨の更科月ふけて 馬南
28 酒の機嫌に渋柿を喰(くふ) 几董
29 いつの間に冠者は男となりけらし 馬南
30 とし経し公事(くじ)のさらさらと済(すむ) 几董
ここから名残の表です。18句目の「笛」を19句目では海士(あま)の息継ぎの音と捉えなおしました。「殺されし蛇」「蛸打敲く」などと激しい表現を出すところに馬南(大魯)の性格がよく出ています。20句目、浦島太郎のように金を出して蛸を助けてやり、ついでに海士に道案内も頼むという几董の心優しさ。
22句目、雪の上に遊び女が裸足になって乗り、白い足を見せている。恋の句です。
24句目、川の遭難者の回向が七日に達した日暮れである。前句を受けて遭難者の回向の七日間ということだと思います。25句目では男子が生まれて七日目の、桑の弓と蓬の矢を使って行う祝儀というように読み替えました。26句目、弓の音を聞いて狐は自分が狩られるのかと悲しみ、猟期の秋が来たことを知る。
29句目、前句で渋柿を食いながら酒を飲んでいたのは実はまだ少年だと思っていたのだが、いつのまにか立派な男になったものだ。30句目、何年も続いている訴訟があったが、少年が大人になったせいでさらさらと解決することができた。
31 翌(あす)植ん門田の早苗風わたる 馬南
32 何におどろく一群の鷺 馬南
33 この宮も正八幡と聞からに 几董
34 海の朝日の蔀もれ来る 几董
35 さくら咲あたりの花に培(つちかは)ん 几董
36 名利薄らぐ長安の春 馬南
名残の裏に入ります。33句目、「正八幡大菩薩」と社前で称える人の声に驚いて鷺は飛び立ったのだという解釈。
35句目、桜が咲くと周囲の他の花にも元気を与えるようだ。前句の海の朝日と合わせて、めでたく明るい花の座の句です。36句目(挙句)、長安は名利の都だと言われるけれど、このすばらしい桜を見ていると出世も金儲けもどうでもよくなってくるよ。
『あけ烏』は、「蕪村一派の俳諧新風宣言の書」とも言われます。巻頭に置かれたこの歌仙は几董と大魯の俳句革新の意気ごみがよくうかがえる、気合がこもった作ではないでしょうか。
蘆陰句選
大魯の没後、弟子や几董は遺作の発句をまとめて出版しようと活動します。大魯が大坂時代に蘆陰舎というグループを設立していたことを前回述べましたが、これにちなんで遺句集は『蘆陰句選』(ろいんくせん)と名づけられました。句集から、前回紹介しなかった句をいくつか取り上げて鑑賞します。
うぐひすの呑(のむ)ほど枝の雫かな
うぐいすが渇きをいやすのにちょうどいいくらいの、ほんの少しの枝しずく。
雨の梅しづかに配る薫かな
雨の中でも香りはムンムン。「配る」の擬人法がうまい。
一もとはちらで夜明ぬけしの花
ケシは一日花で、翌日は散ってしまうのですが、ひともとだけ残っていたのがいとしい。
夏草や花有(ある)もののあはれ也
4月、5月はいろいろな花が咲きますが、6月下旬になるとぐっと減って緑の葉の勢いが勝ってくる。咲いている草はちょっぴり季節に遅れている感じで哀れ。
さみだれや三線(さみせん)かぢるすまひ取
「かぢる」には「(三味線を)弾く」の意味があります。相撲取りが三味線をつまびいている、雨の日のちょっといい風景。あまり強くない感じのお相撲さん。
いなづまや波より出(いづ)る須磨の闇
稲妻に照らされて波から須磨の浦の闇が生まれ出る。豪快で凄絶。
釣瓶(つるべ)にてあたま破れし西瓜かな
せっかく井戸に冷しといたのに。
落柿(おちがき)や水の上また石のうへ
自然はぜいたく、いくらでも落ち放題。
山風や霰ふき込(こむ)馬の耳
寒くて馬が大変。でも耳に散る霰は美しい。
以下『蘆陰句選』に洩れたものも含め、好きなものを挙げておきます。
稲妻の貌(かほ)ひく窓の美人哉
埋火に梁(はり)の鼠のいばり哉
山々のあとから不二の笑ひ哉
雀の子瓦一枚ふんで見る
何人とまぎれ入けむ蚊帳の蝿
蕪村一門のその後
大魯は数え年49歳ぐらいで死去したと思われます。早死にのように思えますが、芭蕉だって51歳で世を去っていることを考えれば、当時としては標準的な寿命かもしれません。
大魯を良き友として支え続けた高井几董ですが、彼も11年後に49歳で没しています。また蕪村の高弟であった黒柳召波は46歳で死去。これらの弟子たちがもう少し長生きしていれば、一門はもっと文学的に栄えたでしょうし、子規を待つまでもなく蕪村の名声は早くから高まっていたかもしれません。惜しまれます。
次回は「写真で楽しむ大魯紀行」をアップします。お楽しみに。