2022-06-10

吉分大魯 愛された嫌われ者(前編)


蕪村周辺の俳人の系譜

今回からは、好きな俳人や関心のある俳人について気ままに書いていきたいと思います。最初は蕪村門下の吉分大魯(よしわけたいろ、1730~1778)を取り上げます。

師情友情

「愛された嫌われ者」とは「冷たいお湯」みたいな言いかたですが、このブログを読んでいただければそれがどういう意味かわかるでしょう。

吉分大魯は破滅型の俳人と言われます。性格に難があったようで、周囲と衝突し、親しい人に絶交を言い渡したり、爪はじきにされて土地を放逐されたりといったことを繰り返し、最後は困窮の中で死去したようです。しかし彼を愛し、彼のことを生涯にわたり思いやった人が2人いました。私はべつに破滅型の文人が好きというわけではないのですが、この2人の温かい心情に動かされるものがあって、大魯のことを取り上げてみようと思いました。

2人とは、師匠の与謝蕪村と友人の高井几董です。蕪村は几董宛の書簡(1770年頃)の中で「京都の俳人には碌な奴がいないが、馬南(大魯の旧号)は俳諧を知る男だ」と言って彼のことをほめています。もっとも、大魯があちらこちらでもめ事を起こすのには手を焼いていたようで、彼が絶交した相手に「何とぞお怒りにならずいさかいを収めて仲良くしてほしい」ととりなしの手紙を送ったり、大魯の死後になってからも彼が生前に迷惑をかけた知人に、「大魯・月居がごときの無頼者」と言って詫びたりしています。かくも煩わされながらも、後述するように大魯が大坂を放逐され兵庫にわび住まいするようになった際には、励ましの手紙を送ったり、几董とともにその住居を訪ねてともに吟行を楽しむなど、彼を応援し続けたのでした。

几董は大魯よりも11歳年下でしたが、この2人はたいへん良く気が合ったようです。几董は人当たりがよく、蕪村門下のまとめ役で、名古屋の加藤暁台や江戸の大島蓼太とも付き合いがあり、およそ大魯とは正反対のタイプの人望家でした。几董と大魯の交わりについては、おいおい記していきたいと思います。

徳島を離れ京へ

大魯は本名を今田文左衛門と称し、阿波(徳島)藩士でした。新蔵奉行として大坂に赴任しましたが、1766年、任地で遊女と駆け落ちして出奔してしまいます。数えで37歳、青春の情熱と言うにはすでにだいぶん年齢が行っていますが、大魯の人柄を言い表わすのによく使われる「直情径行」という表現にふさわしい行動です。

阿波藩時代から俳諧のたしなみはあったようですが、京に出た彼は岡田文誰の門下の俳人として活動するようになります。当時馬南と名乗っていたことはすでに述べたとおりです。文誰は望月宋屋の弟子であり、宋屋は早野巴人の弟子ですから、巴人門下であった蕪村と近いグループであったことがうかがえます。

1769~70年頃、大魯にとって大きな出来事がありました。生涯の友となる几董との出会いです。1770年2月、彼は親しくなった几董たちとともに伊勢参に出立します。同年3月、蕪村が夜半亭二世を継いで立机すると几董は正式に入門、それに誘われてか大魯も入門を果たし、蕪村の句会「高徳院発句会」に出入りするようになりました。

馬南名義の当時の句を読んでみましょう。

氷より先へ砕(くだけ)し手桶哉

寒い朝、手水などが凍りついているが、その向こうにはやはり氷結したためであろうか、木製の手桶も砕けて壊れているよ、という句。印象鮮明です。

頻(ひとしきり)春しづまつて藤の花

やれ梅見だ、卒業式だ、花見だ、入学式だ、新歓コンパだと、何かと心せわしないのが春ですが、ゴールデンウィークになるとようやく世の中も落ち着いてきます。その最後を締めくくるのが藤の花。大魯の時代もやはり春というのは心騒ぐ季節だったでしょう、五月病にならないように藤の花の香りで疲れを癒したいもの。この作が収録された几董編『あけ烏』は蕪村門の作品を結集した撰集で、蕪村の「不二ひとつ埋みのこして若葉哉」「牡丹散て打かさなりぬ二三片」などを収め、蕪村一派の俳諧新風宣言の書とみなされています。

大坂で蘆陰舎社中を設立

さて、1773年の夏、44歳で彼は剃髪して馬南改め大魯と称するようになります。本気で仏門に帰依する気があったかどうかは怪しいのですが、俳諧の道に邁進する覚悟を示したというところでしょう。

この秋、彼は江戸に行脚して新境地を開こうと考えるのですが、その前に浪花(大坂)に立ち寄ります。すると浪花の暮らしが気に入ったようで、そのままそこに住居を構えてしまいます。今の住居表示で中央区北浜あたりです。

京の几董は大魯の新居を訪れますが、そこで二人はあらためて意気投合し、「衰微した芭蕉の道を復興するぞ~」と気炎を上げたようです。「芭蕉は『京都大坂あたりでは蕉風は根付かないなア』とひそかに嘆いていたが、今やこの地には蕉門の俳士を多く数えるようになった」と几董は大魯の活動を持ち上げています。大魯は周りに集まってくる俳人を集めて「蘆陰舎」というグループを設立し、俳諧宗匠としての生活を開始。このころが彼にとってもっとも得意の時期だったかもしれません。その頃の発句を見てみましょう。

よその夜に我夜おくるる砧かな

夜、近所の家から砧を打つ音が聞こえる。それに遅れて、わが家でも妻が砧を打ち始めた、という句。わが家の砧が遅れるのは、奥さんが内職なり家事なりに追われていたせいでしょうか。この句については蕪村が、「砧という題材は古いようにも思えるけれども、『我夜おくるるというのはなかなか言えない表現だ」とほめています。

河内女(かはちめ)や干菜に暗き窓の機

河内国は江戸時代から河内木綿で有名。家ごとに機を織る風景は、大魯にとっては新鮮に見えたかもしれません。「干菜の陰になっているので暗い窓」と正確に描写したところに、実景をよく捉えたリアリティを感じます。

謎の事件、そして兵庫への流浪

大坂で順調に宗匠としての活動を進め、1776年秋には今の中央区高麗橋付近に転居した大魯でしたが、徐々に持ち前の傲岸不遜な面が顔を出すようになっていきます。すでに1775年2月、蘆陰舎グループの東葘に絶交を言い渡すという出来事があり、蕪村一門と親交があった上田秋成がこの件を蕪村に伝えています。

不穏な人間関係はついに1777年夏に火を噴き、大魯が大坂を追い出されるという事件が起こります。いったい何が原因だったのか明らかになっていませんが、住居を追い出されるというただならぬ仕打ちを受けていることから、単なる人間関係のもつれではなく、社会的制裁を科されるような過失を犯したのではないかと見られます。この時に彼は身の悲運を嘆く句を作っています。

浪速津に庵求て五年の月日を過しけるに、さはることの侍りて、やどりたち出る日、友どちに申す。 
江(にごりえ)の影ふり埋め五月雨

かつて住みよいところと思った浪花ですが、今では水路も濁って見えます。

移住先の家を見つける暇も許されず追放され、とりあえず知人のいる兵庫へ向かいます。次は同じ一連の句。

行路茫々然たり 
夏草やまくらせんにも蛇嫌ひ

いっそ夏草の中で野宿でもしようかと思うが、蛇が来ると嫌だと言う。人間、追いつめられるとかえって笑えることを言いだす場合がありますが、この句の大魯がそんな感じです。実際には妻子を連れての彷徨でしたから、泣きたい気持ちだったでしょう。

師の慰問、そして終焉

何とか兵庫の後援者を頼って、今の神戸市灘区岩屋付近の海辺の村に落ち着くことができた大魯でした。しかしこれだけ痛い目に遭っても彼の性格は変わらなかったようで、この年の冬には蕪村と親しかった俳人の三浦樗良に突然絶交の手紙を送りつけています。樗良のほうは、なぜそんなことを言い渡されるのかさっぱりわからなかったようですが。

兵庫時代の句を読んでみましょう。

兵庫草庵背戸の半夜 
船毎に蕎麦呼ぶ月の出汐哉

「半夜」は真夜中のこと。月がのぼって潮が満ちてくるのに合わせて、夜半に漁船が出漁するのでしょう。そうした漁師たちを相手にした蕎麦屋台の商売があったようで、珍しい漁村の風景をうまく描いています。

船中 
あら海へ打火こぼるる寒かな

火打石の火花が荒海へ散っていくという、美しい一瞬の輝きが鋭いタッチで描かれています。これは好きな句。

大魯のことを蕪村はずいぶん心配していて、彼を励ましたり、句を賞賛したりする手紙を送っています。そんな中、嬉しいできごとがありました。1778年3月、師が几董を連れて彼の許を訪ねてきたのです。三人は兵庫の海辺、生田の森、平忠度の墓などを観光して吟行、また三吟歌仙を巻いています。大魯にとってこれほど楽しい時間はなかったことでしょう。

しかし彼に残された時間は多くありませんでした。5月、病魔に襲われ、療養のため京に向かったのです。いちどは小康を得て兵庫に戻ったものの、9月ごろ再び上洛。この間、几董がなにくれとなくその面倒を見ていましたが、死期を悟った彼は年下の友人に、「死んだら蕪村先生が芭蕉庵を再興した金福寺に葬ってほしい」とつぶやきました。

わがたのむ人皆若し年の暮

おそらく病中吟ではなくもっと早い時期の発句だろうと思いますが、気がつくと自分を支えてくれているのは几董をはじめとする若い人ばかりであったという、これまでの自分の傲慢さを思っての苦い自嘲とも自省ともつかぬ心持ちが感じられます。

11月13日、大魯他界。蕪村や几董は追悼句を捧げ、墓は希望通り金福寺に建てられました。

一年後、追善の会を金福寺で開こうとしますが、人が集まりません。蕪村は几董に宛てた手紙で「百池、月渓、自笑、月居、雲良、田福、皆欠席だ。維駒も生前大魯と仲が悪かったのでとても来るまい。大がかりな用意をされると困るので、金福寺の和尚に少人数の会になると伝えておいてくれ」と指示しています。

蕪村も死後は金福寺に葬られ、大魯は今でも師と同じ境内に眠り続けています。

さて、今回は大魯の生涯を中心にして書いてみましたが、次回は彼の連句、また今回触れなかった発句について、作品中心で鑑賞してみようと思います。