2022-05-27

俳諧のはじまり(10)-俳諧についてのQ&A

前回までに俳諧が独立したジャンルになるまでの歴史をざっと眺めてきましたが、連歌や連句や俳句について、門外漢の方にはまだいろいろわからないことがあると思います。Q&Aの形で疑問に答えてみましょう。

Q1.連句って、近代になってからの呼び名だと聞きましたが、江戸時代の俳人たちは自分たちがやっている連句を何と呼んでいたのでしょうか。

A1.まずややこしいのは、昔は連句というのは、漢詩の「聯」を二人以上の作者で作ることを言ったのです。つまり漢詩を共同制作するのが「連句」、和歌を共同制作するのが「連歌」だったんですね。

では江戸時代は俳諧連歌をどう呼んでいたかというと、正式名称は「俳(誹)諧之連歌」です。下の画像、左は蕉門(芭蕉派)の連句、右は一茶が加わった連句ですが、どちらも巻頭に「諧之連歌」と書いてあります。


しかし「ハイカイノレンガ」というのは長くて舌を噛みそうです。そのため日常的には単に「俳諧」と言っていたのではないかと思います。俳諧というのは発句も含めた概念なので、必ずしも連句だけを示す語とも言えないのですが、現実的には連句を指す場合に常用されていたようです。

「連俳(れんぱい)」と言っている例もあって、この名称は現在でも使われることがあります。ただし江戸時代には「連歌と俳諧」をまとめて称する意味で用いられた場合もあるので、注意が必要です。

俳諧之連歌を連句と呼ぶのが一般的になったのは、高濱虚子が1904年にそれを提唱してからだとされています。しかし江戸時代にも散発的に「連句」の語が使われている例が見られます。

Q2.連歌と連句(俳諧)って、要するにどこが違うのでしょう。

前回見たとおり、初期の俳諧はトンチ、語呂合わせ、下ネタなどで読者を笑わせることを目的とした形式でした。ところがそれが洗練されてきて、とくに松尾芭蕉に至ると、俳諧の芸術化が図られるようになりました。そうなると連歌と俳諧の違いがよくわからなくなってきます。芭蕉も「連歌と俳諧は心は同じである」と言っています。

しかし和歌・連歌と俳諧を分ける特色が一つあって、それは和歌・連歌では「歌語」を使うのに対し、俳諧では「俳言(はいごん・はいげん)を使うということです。芭蕉の弟子であった河野李由と森川許六が編纂した『篇突』には、「『五月雨』(さつきあめ)は俳言であり、『五月の雨』は連歌である。卑俗なことばを使うのが俳諧だと思うのは大きな間違いだ」ということが書かれています。五月雨と五月の雨がどう違うのか、現代の普通の人間にはさっぱりわかりませんが、「卑俗なことばを使うのが俳諧ではない」というのは芸術的な俳諧を目指す蕉門の人々が強く主張したかったところでしょう。

服部土芳著の『三冊子』によれば、芭蕉自身は、梅翁(西山宗因)が『俳諧無言抄』に書いていたことを信奉していたようで、それを引用してまず音読みの文字を使用した語は俳言であり、屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶などの語はいずれも俳言であるとしています。歌語は原則として訓読みのやまとことばを使うということです。また和歌が嫌う特定の語があって、たとえば桜木・飛梅・雲のみね・霧雨・小雨・門出・浦人・賤女などの詞も歌語ではなく俳言であるとしています。

歌語と俳言の違いについてはいろいろな人がいろいろなことを言っていて、何が適切なのかわかりにくいのですが、端的に言うと和歌・連歌はことばをその本意に従って使う。俳諧は本意にこだわらずにリアリズムを採り入れて詠む。というのがいちばんの大本ではないかと思います。たとえば和歌では、鴬や蛙は啼き声を賞美すべきものと考えますが、芭蕉は

鴬や餅に糞する縁の先
古池や蛙飛こむ水のをと

と、啼き声ではなく糞だとか水音だとかを描いてみせるのです。

和歌・連歌では本意に沿って物を描こうとするので、その結果先例のない表現を嫌う、見たことのない表現を排するという方向性が出てきます。有名な話としては、平安時代の「六百番歌合」の会で、「見し秋を何に残さん草の原ひとつにかはる野辺のけしきに 藤原良経」の歌に対し、「草の原なんて、聞きなれない表現で耳ざわりが良くない」という論難がなされます。これに対して判者の藤原俊成は「草の原という表現は、源氏物語の『花宴』巻中の和歌にちゃんと使われている。源氏物語も読んでいないような歌詠みはダメである」と言って良経の和歌を高く評価したのです。このように、いかに先行する作品を踏まえて表現できているかということが和歌の評価基準として大きなポイントだったわけで、それは連歌に引き継がれます。

そうなると、「本歌取り」ということが和歌・連歌では非常に重要視されます。古典の教養が必須になり、たとえば白楽天の詩を翻案して詠みこんだりすると「すごーい」ということになるわけです。

俳諧でも本歌取りをまったくやらないというわけではなく、芭蕉はむしろ積極的に古典を採り入れていますが、重要度が和歌・連歌ほど高くはないということですね。

Q3.発句と俳句って、どこが違うのでしょう。また「俳句」という語はいつごろから使われるようになったのですか。

発句というのはあくまで連歌や連句の第1句目を意味します。したがって、その後に付句がつくことを想定します。俳句は独立した詩形なので、付句を想定しません。

というのが表向きの解説ですが、連歌から俳諧が分かれて以降には、必ずしも付句を想定しない発句も多く作られたのではないかと私は思っています。たとえば1674年刊の『歳旦発句帳』(井筒屋庄兵衛編)は新年の発句だけを集めた本で、発句だけを鑑賞する下地がもともとあったからこういう句集が編まれたことが考えられます。芭蕉も、同じ句を発句だけで発表する場合と連句の中で使用する場合では句形を変えたりしていますから、発句を独立した詩として考える面もあったのだろうと思います。

発句は格調高くなければいけない、そのために切字を使用しなければならないという考えがあるのですが、服部土芳は「芭蕉先生はむしろ軽い発句を好まれていた」としています。また「先生は、切字を使っても切れていない句、使っていなくても切れている句があるとしていた」と言っています。芭蕉の考えかたは柔軟で、あまり外形に拘泥した作句姿勢には賛成しなかったようです。今日でも、俳句はもともと発句であるから格調高くなければいけないと言って現代俳句を批判する人がいますが、時代とともに表現する内容も変わるのですから、古い格調に固執するのはいかがなものかと思います。

「俳句」という語が最初に使われた時期ですが、私がたどれた限りでは、榎本其角編の『虚栗』(1683年)、『句兄弟』(1694年)にその例を見ることができました。ただし、明確に発句を俳句と言いかえたといった感じではなく、「俳諧の中の一句としての発句」という程度の表現です。これ以前の定清作の俳諧集『尾蝿集』(1663年)にも「俳句」の語が見られるということですが、私は未見です。

発句という呼称を排してはっきり俳句という名称を採用したのは、正岡子規であることに間違いありません。子規は連句の価値を否定し、それによって俳句を独立した文学にしようと考えたわけですから、連句を前提とする「発句」の名称のままでは具合が悪かったわけです。