2022-05-16

俳諧のはじまり(5)-平安時代の連歌

 
枕草子


清少納言の連歌

平安時代も10世紀になると、短歌の上の句、下の句を別々の人間が作る連歌がひんぱんに作られるようになりました。その例として、清少納言が『枕草子』第106段に書いているエピソードがあります。あらましをギャク調で紹介すると

二月末ごろ、風が吹いて雪も少し降っている日、使いがやってきて「藤原公任様からです」と懐紙を渡された。そこには
すこし春あるここちこそすれ
って書いてある。ヤベエ、七七じゃん。これ、上の句を付けろってことだよね。公任さまだけじゃなくて、ほかにも何人かその場にいて、返事を待ってるんだって。ダサイ句付けたら笑い者になっちゃうよ~、どうしよう。使いは「早く、早く」って急かすし。ぶるぶる震えながら、
空寒み花にまがへてちる雪に
と書いて返した。どうかなあ、ウケるかなあ。 

という話です。「空寒み花にまがへてちる雪にすこし春あるここちこそすれ」というのは、「寒空の中、梅の花に見間違えるように雪が降っているのを見ると、少し春が来たような気がします」という意味の歌になったわけですね。実はこれは白楽天の漢詩「三時雲冷多飛雪、二月山寒少有春」を踏まえた歌になっています。さすが~、清少納言チャンの教養すごーい、というところですが、この話の終りは次のようになっています。

あとで左兵衛督の中将さまから聞いたところによると、源俊賢宰相さまなんか、「おおぉ、彼女を内侍とするよう陛下に奏上しよう」とおっしゃってたそうなんですの。おほほ。

最後はしっかり自慢話になっています。

この話から、連歌では上句を先に作るばかりではなく、下句を出してあとから上句を考えさせる例が出てきたことがわかります。

連歌というジャンルの確立

古今和歌集に続く勅撰和歌集では、連歌が収録されるようになります。『後撰和歌集』(959頃成立)では1首、『拾遺和歌集』(1007年頃成立)では6首採録で、徐々に連歌が盛んになっていく様子がうかがえます。『拾遺和歌集』の撰者が藤原公任で、上のエピソードで清少納言に連歌を仕掛けた張本人であることからすれば、とくに彼は連歌を好んだのでしょう。ただし、前回のブログで述べたとおり、大衆レベルでは連歌的な掛け合いの歌が古代からずっと引き続き存在していた可能性があり、平安期になって急に連歌が盛り上がったのかどうかは何とも言えないところです。

次の『後拾遺和歌集』(1086年成立)には連歌は見られませんが、続く『金葉和歌集』(1126年成立)では初めて「連歌」の部立てが設けられています。このあたりで、連歌が一つのジャンルとして公式に認められたと言っていいでしょう。

では、『拾遺和歌集』の連歌を見てみましょう。

春はもえ秋はこがるゝ竈山(かまどやま)   作者不詳
霞も霧も煙(けぶり)とぞ見る        元輔

「筑前の竈山では、その名のとおり春は火が燃えるように草木が萌え、秋にはこげるように紅葉するよ」「そこでは霞も霧も煙のように見える」 上句の「春」には下句の「霞」、「秋」には「霧」、「竈」には「煙」が関連する語として対照するように作られた歌。

人心うしみつ今は頼まじよ          作者不詳(女)
夢に見ゆやとねぞ過ぎにける         良岑宗貞

「約束を信じてお待ちしていたら、丑三つ時を過ぎてしまいました。ああいやだ、もうあなた様のことはもう信じないことにします」「あなたに夢で逢えるかと思って寝てしまいましたら、子の時が過ぎていました(約束を破ったわけではありません)」上句の「うしみつ」は「丑三つ時」と「憂し見つ」をかけ、下句の「ね」は「子の時」と「寝る」をかけています。時間をキーにした付け合わせ。

流俗の色にはあらず梅花(むめのはな)    右大将実資
珍重すべき物とこそ見れ           致方の朝臣

「俗っぽい色ではないよ、この梅の花は」「大事にすべきものだと見ております」単純な歌ですが、和歌は普通やまとことばで詠まれるべきものとされており、漢語を使いません。ここではわざと「流俗」という漢語を使い、下句も「珍重」と漢語で応えたのが付けの技術であるわけです。

これらの例からわかるのは、どの歌も五七五/七七の短歌を上句、下句に分けて応答したもので、それ以上続かないということです。このように三十一音で完結する連歌を「短連歌」と呼びます。

また、付けの形としては、上句の用語と同種の用語を下句でも使うというやりかたばかりで、連句で言えば「物付」という方法に近くなっています。そのため一首としては機知を競うことが主眼で、ことば遊びの性格が強くなっていると言えるでしょう。

勅撰和歌集の誹諧歌

次に誹諧歌を見ていきましょう。『古今和歌集』の後、間を置いて『後拾遺和歌集』に21首、それからまた飛んで『千載和歌集』(1188年成立)に22首が集められています。もちろん、誹諧歌の章がない時代でも滑稽な歌が作られなかったわけではありませんし、通常の部立ての章に滑稽な歌が紛れこんでいる場合もあります。あくまで撰者の編纂方針がそうであったということです。

ここでは『千載和歌集』の誹諧歌を読んでみます。実を言うとこれらの誹諧歌はさして滑稽でもなく面白くもない感じがします。前々回のブログで、1100年ごろには誹諧歌とは何ぞやということがよくわからなくなっていたと書きましたが、どうも誹諧歌についての理解が迷走しているような気がします。

今日かくる袂に根ざせあやめ草うきは我身にありと知らずや 道因法師

「今日、五月五日の節会で掛けるこの袂に、あやめ草よ根を張りなさい、泥(うき)がわが身にはあるのだから-私は憂き身であるので」「うき」を泥と憂き身の両方にかけてシャレを言ってみましたという歌。

「秀句」という語がシャレを意味するようになりこの語がよく使われるようになったのは11~12世紀ごろで、ダジャレによる軽口が平安中期以降もてはやされたようです。そのせいか、『千載和歌集』の誹諧歌にもダジャレをベースとしたものが多いように思います。

朝露を日たけて見れば跡もなし萩のうら葉にものや問はまし 藤原為頼朝臣

「朝露を昼になってから見れば、その跡もない。どこに行ってしまったのか、萩の先っぽの葉に訊ねてみようか」どこが誹諧なのかよくわかりませんが、植物を擬人化して見たところを滑稽としたようです。前の歌もそうですが、『千載和歌集』の誹諧歌には擬人法の句が多く見られます。

人の足を抓(つ)むにて知りぬ我(わが)かたへふみをこせよと思ふなるべし 良喜法師

「説法のため高壇にのぼるときに、女から足をつねられたよ。私にお手紙ちょうだいということらしい」 僧侶に言い寄ろうとする女の好色を描いた歌で、品のない所作をなまなましく描いたところが誹諧的ということらしい。

極楽ははるけきほどと聞きしかど勤めていたる所なりけり 空也上人

空也上人の誹諧歌を一首紹介しましょう。「極楽とは遥か彼方にあるものと聞いていたが、お勤めをしている場所がまさに極楽なのですよ」誹諧どころか釈教歌のような作ですが、極楽が目の前に見えているという把握が誹諧的であるとされたらしい。どうもそのへんの区分には理解しにくいところがありますね。