2023-03-13

横井也有 荷風も認めた名文家(15) 也有園の紹介と「也有をタダで読む方法」

横井也有シリーズの最終回、今回は番外編として、名古屋市の東山動植物園に設けられた「也有園」の紹介、それから「也有作品をタダで読む方法」についてお話しします。

東山動植物園に作られた也有園

戦後の1948年、「文化復興の一翼となれかし」という目的から、郷土の文人である也有をしのぶための也有園が東山動植物園の植物園のほうに築庭されました。

3月8日、植物園を訪問した私を、元園長の伊藤悟さんが案内してくださいました。伊藤さんは「横井也有翁顕彰会設立準備会」(横井也有ファンクラブ)の世話人として精力的に活動されています。

横井也有翁顕彰会設立準備会世話人で、元植物園長の伊藤悟さん

園内には植物を詠んだ也有の発句が50句選ばれて石碑やパネルで紹介され、実際の植物が同じ場所に植えられています。

「柿一つ落ちてつぶれて秋の暮」の也有句碑。右横には実際に柿の木が植えられている
 
「宿かさぬ人の垣根や木瓜の花」のパネル。ちょうど木瓜が咲いていました

也有園開設当時は建築物としては休憩所があったくらいでしたが、1967年に屋敷門が移築されるとともに回遊式の和風庭園が整備され、2012年には市内の茶道師範の方の寄付により茶室「宗節庵」が完成。園の風景が作り上げられていきました。


也有園開設当初から設けられていた休憩所
 

この長屋門は尾張藩士の兼松家のものを移築

「也有園」の石碑。奥に見えるのが茶室「宗節庵」

植物園の見どころとしては、現存するものでは日本最古の温室(国の重要文化財)、白川郷から移築された合掌造り、椿園や梅園などがありますが、とくに奥池の周囲に植えられた紅葉が水の面に映るさまは人気があるということです。

また東山古窯群の窖窯(あながま)跡が園内で発見されています。この地の窯は古墳時代の埴輪製作に携わり、その技術は後に常滑焼や瀬戸焼へと発展していきました。


東山古窯群の窖窯(あながま)跡

横井也有をタダで読む方法

次に也有作品をタダで読む方法についての研究です。

横井也有の著作はなかなか完全な形で読むのがむずかしい。『横井也有全集』全4巻を買うのがベストなのですが、経済的に手が出ないとか、本の置き場所がないといった方もいるでしょう。本を入手できたとしても、文語で書かれたものを解読するのに骨が折れる。

そういう人のために、也有やその解説書をタダで読む方法を紹介しちゃいます!(以下の情報は2023年3月現在のものです)

利用するのは、国立国会図書館デジタルコレクションです。同図書館は、著作権が切れて絶版になった書籍をつぎつぎ電子化して、インターネット上で無料で公開しています。利用するためにはまず「国立国会図書館オンライン」で利用者登録をする必要があります。

登録が済んだら、国立国会図書館オンラインのホームページに行って、検索窓にいろいろな検索語を打ち込んで本を探してみましょう。今回は「横井也有」で検索してみます。するといろいろな本が表示されます。右側に「デジタル」のマークがあり、「個人送信」または「インターネット公開」と書かれている本が、オンラインで読むことができるものです。さっそく『俳諧文庫 第6編』を見てみます。これは1898年に岡野知十の編で刊行された最初の也有全集です。


「デジタル」と書かれたところをクリックすると本の情報が出てきます。その画面で右上の「ログイン」というリンクをたどり、利用者登録で使用したIDとパスワードを入力すると、本が表示されて読めます。

この全集には、発句集として蘿葉集蘿の落葉、和漢連句集として峩洋篇、板本版鶉衣全編、俳論、石原文樵が編纂した追悼集俳諧夢之蹤等が収められています。和歌・狂歌・連句・漢詩などは含まれていません。

発句集ありづか(垤集)が入っていないのが痛いのですが、こればかりは私のブログの「也有150句選」で抄録を見ていただくか全集を入手するほかありません。くずし字で刷られた元の板本でしたら、早稲田大学の「古典籍総合データベース」で閲覧することができます。

訂正:『ありづか(垤集)』は国立国会図書館デジタルコレクションでは読めないと思っていましたが、1927年刊の『日本俳書大系 第9巻』に収録されており、ネットで読めるようになっていました。また最近、『横井也有全集 全4巻』もデジタルコレクションで閲覧可能になりました。

国立国会図書館デジタルコレクションでは他に漢詩集である『蘿隠集』が公開されており、また『正岡子規全集第11巻(アルス社の旧全集)では子規が選抜した也有俳句を読むことができます。

『鶉衣』に関心のある方は、岩田九郎著『完本うづら衣新講』が必読です(このブログでは何度が触れました)。これも国立国会図書館デジタルコレクションで無料閲覧することができます。

訂正:『完本うづら衣新講』は本稿執筆後、デジタルコレクションでの公開が終了しました。版元の大修館書店が本書を再版したことに対応したものと思われます。

公立図書館での『横井也有全集(名古屋叢書三編)』の所蔵状況は、愛知県では愛知県図書館や名古屋市図書館、稲沢市図書館など多くの自治体が所蔵しています。東京都では残念ながら国立国会図書館と東京都立図書館でしか読むことができません。

おわりに

也有について語る場合、まだ狂歌、連句、俳論などを見ていく必要があるのですが、この連載もだいぶん長くなりました。とりあえずここで打ち止めとして、機会があれば単発で也有について語りたいと思います。

今回の横井也有シリーズはこれでおしまい。

2023-03-12

横井也有 荷風も認めた名文家(14) 写真でたどる也有の生涯(下)


名古屋市鶴舞中央図書館
1978年夏、ここの未整理所蔵資料の中から也有の著作が数多く発見された
 

あこがれの隠居生活

40歳代の半ばから、也有は持病に苦しむようになります。病名は「疝癪」で、胸や腹などが急にさしこんで痛む。今日的に言えば潰瘍や胆石などが疑われます。

仕事を続けるのが困難であるからと1747年に役儀御免を願い出ました。江戸参勤の随行は免除されたものの、慰留されて退職はできず、寺社奉行を命じられます。その後も辞職を願い出て、役職を免じられたのは1750年になってから(49歳)。

この頃から、三の丸の住居を退いて城下長島町に構えた自宅に転居します(現・中区丸の内2)。役を離れたので官舎を出て自邸に移ったということでしょう。


丸の内2丁目の「横井也有宅跡」
マンション入り口に案内板と句碑が建っている


自宅跡にそびえるムクノキの大樹
樹齢400年とのこと。也有も眺めていたはず

藩から正式に隠居が認められたのが1754年8月(53歳)。なかなかすんなり隠退できなかったのは、也有が有能で頼りにされていたからでしょう。本人は「自分は無能なのに他の人並みに仕事ができるふりをしてきた。正体がばれそうになったのでみずから化けの皮を脱いだ」などと言っていますが。

さて、念願の隠居ができるということになって、也有は自宅を息子に預け、いそいそと自分の小庵「知雨亭」に引っ越してしまいました。この隠居所は名古屋市内のいちばんはずれ、畑に接した上前津に設けられていて、別名「半掃庵」とも名づけていました。仕事を辞めて自由になったことがよほどうれしかったらしく、髪を剃って坊主頭になり、「暮水」という別号を考えだし、「隠居弁」「剃髪辞」「自ら名づく説」など、隠退の心境を語る俳文を当時うきうきと書いています。

知雨亭跡(現・中区上前津1)には現在碑が建てられ、「横井也有翁隠棲之址」と堂々とした字が揮毫されています。この碑が建っている地点は庵の入り口があったあたりで、知雨亭は下の写真の手前、現在の大津通の路上になっているところに位置していたようです。1825年の大火事(前津焼け)で一帯が丸焼けになり、1905年には路面電車を通すために区画が変更され、戦後にはさらに道路が西寄りに移って知雨亭跡の上を通ってしまったとのこと。


知雨亭の跡。この手前の路上の位置に庵があった
 

弟子が建てた「蘿塚」

也有の奥さんは彼とともに8年間知雨亭に暮らしますが、也有61歳のときに息子がいる本宅のほうへ自分だけ移ってしまいます。ボロ屋ぐらしに嫌気がさしたのか、それとも療養のためでしょうか。その際の気持を也有は3首の漢詩に詠んでいますので、現代語訳してみましょう。

春の日、心のおもむくままに

十年間、ふたりであばら家に隠棲した
その老妻が子とともに昔の家に戻っていった
彼女が去ったあとの部屋は春がもの寂しい
散った梅の花 掃く人も居ず石段を覆っている
 
雨が降ったあとの荒れ庭には若草が煙っている
軒先に花が散るのを誰と楽しんだらよいだろう
部屋の中 昼は静かで話す人もいない
ただ春の鳥が鳴いて眠気をさそうだけだ
 
妻は子に従って町中に住んでいる
ただ一人隠棲しているのは田園に病む男
笑えてくる 春を楽しむことにかけては鳥にかなわない
青鳩は雌に恋の歌をうたい 燕の巣には雛が孵っている 

自嘲とも悲しみともつかない也有の本音がおのずと聞こえてきて、興味ぶかい。知的構成を狙う俳文とは違って、漢文だからこそ本心が漏れ出たのでしょうか。

妻が去ったあとは、使用人かつ唯一の俳諧の弟子である石原文樵がかいがいしく彼の面倒を見たようです。文樵は主人のことを深く尊敬して、将来也有の碑を建てたいとひそかに希望していました。人づてにそのことを聞いた也有は文樵に、「塚を作りたいのなら好きにしていいよ、生前墓を建てるというのは例がないことではないから」と言ってやります。大喜びした文樵は、知雨亭近くの長栄寺の住職にかけあって用地を提供してもらい、主人の髪と爪を埋め、その上に碑を建てて「蘿塚(らづか)」としました(1769年12月)。蘿とは蔦のこと。也有は蔦が好きで、知雨亭内に蔦を這わせていましたので、この塚にも蔦が絡ませてありました。

昭和の初期に碑は作り直されたそうですが(当時、古い蘿塚の状態は「塚土崩れ松蘿枯れ、台石も失せて碑石のみ地上に横たわり」というありさまだったという)、也有の遺風をしのぶ貴重な遺跡であると言えます。


長栄寺の蘿塚
「也有雅翁」と刻され、その下に「肥遁励操/滑稽蜚声」とある

碑には「肥遁励操/滑稽蜚声」と彫られています。「肥遁」というのは陶淵明が生前に書いた自分の葬式のための詩「自祭文」に「身慕肥遁(わが身は隠遁生活に憧れた)」とあるところから採っていると思われます。也有が文樵に生前墓を建てることを許したのは、陶淵明が生前葬(?)の詩を作っていたことに倣ってみようかと思ったのが大きいのではないでしょうか。碑文を現代語訳するならば「心に余裕を持って隠遁することにより節操を正しく守り/滑稽を語ることによって名声を得た」といったもの。

なお、この碑が建てられた長栄寺で、1781年3月9日に「尚歯会」(也有ら詩歌人を集めた敬老会)が開催されたということは、第7回に画像付きで書きました。

終焉、そして墓所

蘿塚が完成した後も也有は生き続け、知雨亭で没したのは1783年6月16日、享年82歳でした。遺骸を長島町の本宅に移して葬儀を行い、藤ケ瀬の霊松山西音寺に葬られました。


西音寺の藤ケ瀬横井家墓所


横井也有墓碑。
訪問した日、
横井也有翁顕彰会設立準備会事務局の
石原さんご夫妻が墓に菜の花を供えて迎えてくださいました

也有は53歳の時に「遊西音寺」という漢詩を書いていますので紹介しましょう。

西音寺に遊ぶ

寺の林にまだ春は尽きない
長く話しこんでいたら日がもう暮れる
帰ることを忘れた客がここに居る
白雲よ 門を閉ざさないでおくれ 

也有の生涯を見てきましたが、次回は番外編として、名古屋市東山動植物園にある「也有園」の紹介、および「タダで也有の作品を読む方法」という話を書きます。

2023-03-11

横井也有 荷風も認めた名文家(13) 写真でたどる也有の生涯(上)

 
横井也有出生地にて(現・愛知県図書館)

この2か月間ほど、横井也有にゆかりのある土地を愛知県や東京で探索して歩きました。2回にわたってそれらを紹介しながら、彼の人生を一緒に見ていきましょう。也有の文章の引用は筆者による現代語訳。

横井家のふるさと・藤ケ瀬町

横井家の先祖は鎌倉執権の北条家です。第14代執権、北条高時の次男が北条時行(中先代)で、鎌倉幕府滅亡後、南朝と組んで足利政権に対抗します(中先代の乱)。時行が幕府軍に捕らえられ処刑(1353年)された後、その子孫の時永が海西郡赤目(現・愛知県愛西市赤目町)に移り、赤目城を築いて横井氏を名乗ったのが、横井家の始まりです。

赤目城跡(現・赤城神社)

赤目城裏門(現在は一心寺内に移築)

横井家は足利義輝、織田信長に仕えた後、3代後に時泰、時雄、時朝、時久の兄弟が出て、彼らは徳川家康に臣従します。時泰は赤目の横井本家を継ぎ、時雄の子孫は紀伊徳川家に臣属、時朝が藤ケ瀬村(現・愛西市藤ケ瀬町)に居を定め、時久は祖父江村(現・稲沢市祖父江町)に住みました。

この横井時朝が也有の祖先となります。藤ケ瀬横井家は代々孫右衛門を名乗っており、藤ケ瀬を領地として尾張徳川家に仕えました。藤ケ瀬の屋敷跡一帯は現在農地になっていますが、今でも「御屋敷畑」と呼ばれているそうです。


御屋敷畑。ただし横井家の屋敷は写真下の奥、人家の場所にあったという

藤ケ瀬は也有にとって心のふるさとと言うべき実家でした。藤ケ瀬の美しい景色を八か所選び、それを詠んだ八景歌が、彼の歌集『雪窓百首』に収められています。16~18歳の頃の歌。早熟ですね。

(藤瀬夜雨)梶枕ゆめも結ばじ藤がせのなみに音そう夜はのむらさめ
(秋江夕照)山本はまづ暮初てゆふ日影あき江の水にのこるさびしさ
(成戸晩鐘)遠近のながめにあかず惜むらしくれに成戸の入相のかね
(鵜多洲落雁)鳴声も雲のそなたと見るがうちにうたすに落る雁の一行
(伊吹暮雪)夕あらし雲はさだかに吹分てそれといぶきに晴るゝ白雪
(早尾帰帆)遠方に見えしもやがて吹風の早尾につれてかへるつり船
(川北秋月)ながれ行水やはさそふ秋の夜の月もそなたに更る川きた
(高須晴嵐)雲はるゝ峰にあらしやよわるらん音は高須の市に譲りて

このあたりは地形が現在と異なっていて、藤ケ瀬村は木曽川(西側)と佐屋川(東側)に挟まれる輪中(周囲に堤防をめぐらした地域)にありました。秋江・成戸・高須・鵜多洲・早尾・川北は二つの川に沿って点在する集落です。

藤ケ瀬町から見た伊吹山
私が訪問した日は霞がかかっていて、ぼんやりとしか写っていませんが

生誕地・名古屋城三の丸

也有の父親、横井孫右衛門時衡(ときひら)は尾張徳川家の用人を務め、ふだん名古屋城三の丸の官邸に居住していました。この家で也有は1702年9月4日に長男として生まれました。

横井家があった場所には、現在は愛知県図書館が建っています。図書館の奥のほうが横井邸の敷地でした。


愛知県図書館正面入り口

 
図書館の裏手が横井家敷地だった場所

也有は8歳で横井辰之丞時般(ときつら)を名乗ります。16歳で藩主・徳川継友に新規御目見し、御近習詰となる。この年ぐらいから也有は和歌を学んだとされます。俳諧に手を染めたのは23歳ぐらいか。

26歳のとき父が隠居し、家督知行を継ぐ。この頃からのちに『鶉衣』に収められる文章が書き溜められていきます。

はじめての江戸勤務

28歳のとき、父・時衡が死去。

29歳で御用人に取り立てられ、家の名である孫右衛門を襲名します。

この年(1730年)の4月、初めての江戸勤番を命じられて東海道へ旅立ちました。途中、あこがれの富士山を間近に見た話が、『鶉衣』所収の紀行文「袷かたびら」に書かれています。

四月七日
天竜川を渡って、その向こうに初めて富士の山が見えた。中腹から下は雲に隠れながら、見間違えるはずもない。故郷を出る時からこの山を見ることばかり心にあって待っていたが、まことに絵に描かれた姿に違わず、見るからに美しく、おのずと歌に詠むことができた。見付という村の名も、ここから初めてこの山が見えるのでそう名付けられたという。まことにもっともだ。

うき物にたれさだめけん旅衣きてこそ見つれふじの高根も

四月九日
吉原から野原の中を行くと、富士の嶺は左にたいへん近い。空は少し晴れ上がってきたが、それでも頂上は雲に隠れていた。たいへん鷹揚に裾野を広げた様子には、心もことばもついていけない。絵に模写し詩歌に言っても、十のうち一をも語ったことにならないだろうとはじめて思い知る。年来、離れた土地で富士のことを思ってきたが、これまでとは思わなかった。その一部だけでも比べられる山などありはしない。見たことのない人に伝えられることばも見つからない。日本に住んでこの山を一生見ないのは、生きる甲斐があるのかどうかとさえ思う。

山々ははれゆく空の雲に猶見えぬをふじの高根とはしる

富士市から見た富士山。
俳文「百虫賦」の中で也有は「蟹の歩き方は他のものにはたとえようがない。ただ、駿河国の原・吉原(現・沼津市、富士市)を駕籠に乗って、富士山を眺めていく人には似ている」と冗談を書いています。

江戸の尾張藩邸は、上屋敷が火災で焼失していたため、中屋敷を使用していました。也有はその邸内の長屋で起居したものと思われます。中屋敷の跡は、現在の上智大学(千代田区紀尾井町)です。


尾張藩中屋敷の跡地(現・上智大学)

8月に親友の毛利嘯花死去の悲報が入った話は、前々回書きました。

江戸勤番中は『鶉衣』の文章を書いたり、江戸の俳人と交流したりして、一見余裕のある勤務ぶりにも思えるのですが、実際には常時緊張を強いられる激務だったようです。とくに初の江戸勤番であったこの年は、夏に同僚に病人が続出し、そのため複数の役職を兼ね、昼夜を問わない勤務を果たし、相当苦労したようです。

11月、藩主の継友が麻疹で急死。徳川宗春がその跡を継ぎますが、この継承が尾張藩にとっての大事件のきっかけとなります。

藩主追放のクーデター

翌年(1731年)の1月、新藩主・宗春が襲封御礼のため江戸城の吉宗将軍に拝謁し、也有は随行します。也有30歳、初めての拝謁でした。

同年4月に宗春は江戸から名古屋へ向かいましたが(お国入り)、そのときの衣裳が奇抜なファッションだったので、尾張の人々の度肝を抜きます。新藩主は名古屋城下でさまざまな祭を派手に長期に行うことを推奨。また夜も女性や子供が外出できるように多数の提灯を街路に設置。翌1732年には遊郭を新たに3か所も設置許可、そこでは芝居小屋、風呂、飲食店などが営業し、花火が打ち上げられ、レジャーセンターとしてにぎわいました。

徳川宗春が設置させた遊郭の一つ、「富士見原新地」があったあたり(現・名古屋市富士見町)『鶉衣』では「雪見ノ賦」「七景記」でこの新地のことが語られています

翌1732年、焼失していた尾張藩江戸上屋敷が再建され、新築完成しました。参勤交代で江戸に上った宗春は、5月に新しい屋敷を江戸町民に開放し見物させました。当時幕府はデフレ政策をとっていて、質素倹約の規制を強化していたため、一連の宗春の派手な施策は吉宗の神経を逆なでし、吉宗は宗春に対して詰問を行ったとされます(詰問はなかったという異説もあり)。

その尾張藩江戸上屋敷が所在したのは、市ヶ谷の現在防衛省となっている土地。三島由紀夫が乱入した陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の後身です。也有は1年おきに江戸勤番を務めていますが、1732年9月の2度目の江戸入りからは上屋敷に居住したと思われます。


尾張藩上屋敷の跡地(現・防衛省)


防衛省の左内門から日本学生支援機構にかけて、江戸時代の石垣がわずかに残る

なぜここに尾張藩上屋敷が置かれていたかというと、ここが高台で、江戸でいちばん地盤が安定している場所だからではないかと思います。関東大震災でも市ケ谷~牛込方面の被害は少なかったという事実があります。親藩である御三家は非常に優遇されたのですね。防衛省がここに移転したのも、火急の場合に防衛体制を維持するためでしょう。

藩邸には名園がありましたが、也有は友人の紀六林に頼まれ「江戸官邸六景」の発句を作っています。

(山廓初暾)笑ふ中に家あり山の朝日影
(隣舎春禽)燕やはなし声する壁隣
(青山南薫)悠然と見る山すゞし南かぜ
(墻上桂樹)垣間見の鼻に木犀匂ひけり
(西窓繊月)三日月を見るほど窓の破れかな
(芙蓉晴雪)上はぬりの晴てあたらし富士の雪

さて、宗春は緊縮政策に反抗して積極的に経済の自由化を図りました。城下が賑わったものの、農工業の育成に投資するのではなく享楽的な方面に金を使ったため、藩の財政は急激に悪化します。これに危機感を持った家老の竹腰正武は、老中・松平乗邑と意を通じて宗春の失脚を計画します。1739年2月、宗春は吉宗将軍名により蟄居謹慎を命じられ、藩主の座を逐われました。

当時江戸に詰めていた也有は、供番頭として一部始終に立ち会っていました。彼の性格からして、クーデター計画に積極的に関与していたとは思えませんが、宗春失脚の経緯をよく知っていたでしょう。

也有の江戸でのお仕事

也有は江戸でどんな仕事をしていたのか。年譜を見てみると、まずさまざまな接客があります。とくに紀州家、水戸家、老中などの接待は重大行事でした。それから馬や具足の管理。藩主一族の婚礼、出産、御祝行事などを担当。さらに藩主生母の遊山への付き添い、藩主一族の墓への代参などもあります。要するに今日でいえば「総務部長」といった役職ですね。

これらのうち墓への代参ですが、江戸では伝通院や天徳寺での、早世した若君や姫君の法事に出席しています。先日、港区虎ノ門の天徳寺を見に行ってみました。愛宕トンネルの東側です。尾張藩の墓廟がどうなっているのかはよくわかりませでしたが、墓地には葵の紋が入った石造物がありました。おそらく尾張徳川家が遺したものでしょう。也有もここに立ったかなあと、しみじみと感じ入ったのでした。


天徳寺の墓地に残る、葵の紋入りの石造物

次回は也有の隠居前後の人生、そして晩年を見ていきたいと思います。

2023-02-19

横井也有 荷風も認めた名文家(12) 『鶉衣』を読む⑥


ウズラ(大宮公園小動物園にて)

『鶉衣』のいわれ

横井也有俳文集『鶉衣』のタイトルのいわれですが、也有自身が「この文集はきれぎれのとりとめもない鶉衣みたいなもんだよと言っていたらそれを聞いた人がこう命名した」と書いています。「それを聞いた人が」というのはいくぶん文飾の匂いがします。也有自身が命名したと考えたほうが自然でしょう。

鶉衣という語には、典拠があります。紀元前3世紀の中国の思想書『荀子』に次のような記述があります。

子夏は貧乏で、衣服は縣鶉(けんじゅん)のようであった。人から「なぜ仕官しないのですか」と尋ねられると、「諸侯で私に対して傲慢な態度をとる者には、臣下として仕えるつもりはない。大夫で私に対して傲慢な態度をとる者には、二度と会いたくない。爪の先の蚤ぐらいの小さな利益のために争おうとすると、手のひらまるごと失うような大変な目に遭うのだ」と答えた。

「縣鶉(懸鶉)」を『新字源』で引くと「ぶら下げた鶉の意で、破れ衣のたとえ。▷鶉の尾は、毛が抜けていることから」とあります。也有が『鶉衣』と名づけたのは、この文集はたいして価値のない寄せ集めだよという謙遜の意からですが、同時に子夏が仕官しなかったというところに共感したのではないでしょうか。

彼は陶淵明のような、官途から身を退いて隠遁生活を送った人間を手本にしてきました。尾張藩の役人として、人間関係の難しさをさんざん見てきた也有にとって、鶉衣を着て仕官を拒んだ子夏は理想とするに足る人物だったでしょう。

「蓼花巷(りょうかこう)の記」

也有は49歳で尾張藩の役職を退き、53歳で正式に隠居を認められます。それ以降、前津(現・名古屋市上前津)に設けた小庵「知雨亭」に居を移して隠棲生活を楽しみました。

今回現代語訳するのは、彼が26歳頃に書いた「蓼花巷の記」です。蓼花巷というのも若い頃に也有が所有していた小庵で、職務のかたわらときどきこの庵で心を休ませていたようです。蓼花巷が知雨亭と同一かどうかは何とも言えないのですが、若い時から彼には隠棲への嗜好があったことがわかります。

この文章には也有の人生観がはっきり表れていて、彼が自分にとって何がもっとも大切と考えていたかがよくわかる一文。まことに興味深いものです。

蓼花巷の記

一本の芭蕉、五株の柳が、持ち主(芭蕉、陶淵明)の徳によって不朽の名を残す例もある。しかし不幸なエノキは、ある僧正が榎の僧正と呼ばれたことに腹を立てて自宅のその木を斧で切ってしまい、すると切杭の僧正と呼ばれたので切株も根こそぎにしてしまい、その跡が堀になったので堀池の僧正となったということで名を伝えてしまった。

五株の柳というのは、陶淵明が自宅のまわりにある五本の柳にちなんで「五柳先生」と号していた故事にちなみます。「不幸なエノキ」の話は『徒然草』第45段にある有名なエピソードで、他人の評判を気にして生きる人間の愚かしさを諷刺した逸話です。

最初から古典の引用モード全開ですが、この段落は「蓼の花」という植物を出すための導入部で、文章の主旨には直接関係がありません。

私は官途につきながら、一つの隠れ家を持っている。これを蓼花巷と名づけた。蓼花には難しい意味はないけれども、この花が夕日に照らされた様子や朝露がそこに下りた眺めは満足のいくもので、ひともとの蓼の花にちなんで名付けた理由がないわけではない。「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」と詠った藤原俊成卿の庭も慕わしい。世俗から遠ざかった雰囲気が興ふかいので、自分でこれをとって庵の名とした。

「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」が藤原俊成の歌であるというのは間違いらしいのですが、当時そのような俗説が通っていたのかもしれません。「松茸ぞう」は「松茸でそうろう」という意味で、松茸売りの呼び声。

蓼花巷と名づけたのは、庭には蓼の穂があってそれが侘びた風情をもたらし、しかも俊成の歌を連想させるのがゆかしいからだという説明。

そもそもこのひっそりとした住まいは、仙境に近いもので、山に向かい海に沿い、川もあれば野もあり、月・雪・花・鳥と四季それぞれの詩作の題材を提供してくれ、いつ起こったとも気づかぬ松を吹く夕風、竹を打つ夜の雨までも、聞いていて嫌な気がするものはなく、見ていて不充足な気がするものもない。

後述のとおり蓼花巷は市中の端にあったようですが、沖積平野である名古屋の城下では、「山に向かい海に沿い」という条件に合う場所があったとは考えにくい。遠くに見える山脈や熱田のほうから来る潮の香を身近に引き付けた、心の中の理想化された風景ではないかと思います。

市街を出て遠くはない場所だが、興味本位だけの人が訪ねてこようとしても、たとえ神仙の術を使うものが足にまめを作って歩いてきても、万葉集に「わが庵は三輪の山本こひしくばとぶらひ来ませ杉立てる門」とあるがごとく目印もなければ迷ってしまうのであるし、新古今集に「曾の原やふせ屋におふるははきぎのありとは見えてあはぬ君かな」とあるようにどこにあるとも見定められず昼から狐に化かされてしまうのであり、伊勢物語に「駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」とあるごとく道を尋ねる人にも会えず、陶淵明が「桃源郷を再び訪ねようとしても二度と行き着くことはなかった」と書き残した具合になってしまうのである。

ただ梅の色の美しさ香りのすばらしさを知り、ともに思いを語り合うに足る風雅の人ならば、後漢書に書かれた「壺公に招かれて壺の中で接待を受けた費長房」のように、あばら家の門にすぐたどり着くことだろう。

物ずきの虫はきてなけ蓼の花

この部分に也有の精神がきわめて明瞭に表れています。この庵は彼にとっての仙境であり、俗人には訪ねてきてもらいたくない、訪ねることは不可能である。ただ「ともに思いを語り合うに足る風雅の人」とだけ交わりたいという思想です。この文章では社交を厭い風雅のみに生きたいという彼の願望が(さまざまな引用で主意をくるみながらも)読みとれます。

芭蕉とは異なる也有の理想

『鶉衣』を読んでいると、也有にとって最も価値があるのは「自由である」という感覚を保つことであるとわかります。朝寝していても誰からも文句を言われない生活。花鳥風月に心を遊ばせていても誰からも邪魔されない日々。要らない贈り物やうるさい挨拶で心を煩わされることがない人間関係。そうしたものが彼にとって何より大切なのです。

そうであればこそ、彼は「風雅を解する友」とだけ語り合いたいと願う。風雅を解する友とはどのような友でしょう。端的に言えば、「教養のある人」だと思います。彼が田園風景を見てしみじみと心に感じるのは、それが陶淵明が耕したような畑だろうと思うから。雪の景色を楽しむのは、芭蕉の「いざ行む雪見にころぶ所まで」という句を想起するから。そういう教養がなかったら、田園は単なる田舎であり、雪は気象現象でしかない。

『鶉衣』の文章に古典の引用がぎっしり詰めまれているのも、読者に教養を求めていることの証拠でしょう。「和歌とか漢文とか、めんどくさ~い」と言う人には也有は無縁なのです。

彼の自由を求める心は、生きかた自体に反映されています。也有には弟子はほとんどおらず、ただ下男であった石川文樵だけを門弟としていました。彼は自作を積極的に刊行して名を売ろうというような考えをほとんど持っておらず、句集は文樵や知楽舎達下が編集したもの。『鶉衣』は友人たちに読んでもらって楽しむためだけに書いていたので、集中しばしば「この文章を他人に見せるな」ということを言っています。

これは芭蕉のような人生観とは大きく異なります。芭蕉は門弟を多く抱え、おくのほそ道の旅では各地の俳人と交わって、蕉風を広めようと努力しました。けっして教養人とだけ交際しようとしたわけではない。

芭蕉には一定の野心があったと、私は考えます。社会的地位や金銭への執着ではない、そのような通俗的名利は否定していた。しかし文学的に価値があるものを残したいという野心は強く持っていたでしょう。『おくのほそ道』などは人工的に構成を練りに練った、磨き上げた格調高い文体で書かれていて、そこに彼の野心が感じられます。

これに対し、也有の紀行文は遊女や人足の生態をざっくばらんに描き、弁当や土地の食べ物のこともありのままに書くなど、美的技巧を練った感じがありません。文学的野心が見られないのです。そのような野心はむしろ、自分の自由を邪魔するものと思っていたでしょう。

也有自身は芭蕉のことを深く尊敬していましたし、ここで芭蕉と也有の人生観のどちらが正しいか、どちらが上かなどと論じるつもりもありません。ただ、私自身の人生観はといえば、芭蕉よりも也有のほうにはるかに近いのです。出世するつもりも有名になるつもりもない。文学的成功を願いもしない。弟子を持ったりすることで自分の時間が削られることも勘弁してほしい。自由が何よりも重要。

也有が教養人だけを友としたいと言っていたからといって、彼がお高く止まっていたとか、教養のない人間を狷介に軽蔑していたということはありません。むしろ彼はたいへんな人気者でした。隠居後は世を捨てて静かに暮らしたいと言っていたにもかかわらず、知雨亭を訪れる人がひきもきらない。書画を書いてくれ、自分の別荘に亭号を付けてそのいわれを作文してくれなどという依頼が続々と到来する。隠退したら忙しくなってしまった、断っても断っても頼まれるのでしかたなく書いたなどというボヤキが『鶉衣』の中に見られます。

頼まれるとなかなか拒否できないのが也有の性格。そのため彼の軸物や短冊などは非常に多く残っていて、名古屋の旧家で也有の書画を持っていない家はないと言われるほどだそうです。そういう彼の親切心というものにも好感を持ちます。

教養のない人間とは付き合いたくないといっても、也有に匹敵するほどの教養ある人間はそうそういるものではない。ただ、教養が大事ということを理解していて、それについて何か也有から学びたいという心を持った人を彼は大事にしたことでしょう。

さて、『鶉衣』を読むシリーズは今回で終了。

次回は「写真でたどる也有の人生」をやります。名古屋や東京で撮ってきたゆかりの土地の写真で、也有の人生をたどる紀行編です。お楽しみに。

2023-02-16

横井也有 荷風も認めた名文家(11) 『鶉衣』を読む⑤

 
名古屋の中部電力MIRAI TOWER(旧・名古屋テレビ塔)近くに建てられた
「名古屋三俳人句碑」
くさめして見失うたる雲雀哉 横井也有
椎の実の板屋を走る夜寒かな 加藤暁台
たうたうと滝の落ちこむ茂りかな 井上士朗

『鶉衣』を読むシリーズ、今回は若くして死んだ俳諧の友のことを書いた『嘯花をいたむ』(原題「嘯花ガ誄」)と、『鶉衣』の中でももっとも有名な『老いの歎きを語る』(原題「歎老辞」)を読んでいきます。どちらもすばらしい名文で、比べて読むと也有の孤独が胸に迫ります。

「嘯花(しょうか)をいたむ」

也有が29歳のとき、6歳年下の俳友、毛利嘯花の死を知って書いた追悼文です。当時也有は江戸に詰めていたので、悲報を名古屋からの知らせで受け取ったのでした。也有が生涯に書いた数多くの追悼文の中でも、この文章には無念の心がこめられていて、際立って優れた作と言えるでしょう。

嘯花をいたむ

晋国の琴の名人であった伯牙は、よき聴き手であった親友の鐘子期が死ぬと絃を切って二度と弾かなかった。呉の王子季札は、徐国の王が世を去ると墓のほとりの木に自分の刀をかけてやった。その故事さながら涙が袖にしたたり、今の秋になって自分はひとりぼっちになったと嘆いている。

晋の伯牙の故事とは、自分の琴を理解してくれるのは鐘子期だけだと思っていたので、彼が死んだ後二度と琴を弾かなかったという話です。嘯花は也有にとって、最大の友であり理解者であったということでしょう。

呉の季札の故事は、彼が使者として各国を巡る途中、 徐の君主が口には出さないが佩刀を欲しがっているのに気づいた。使命の途中だったので刀は渡せなかったのだが、帰りに徐国に寄ると王はすでに死んでいた。そこで季札は徐君の墓のかたわらの木に刀を懸けてやり立ち去ったという話。也有が嘯花に何もしてやれなかったことに痛恨の思いを持ったことが、この故事の引用から察せられます。

それというのも梅軒庵嘯花がまだ23歳を一期とし、中秋の名月も待たず故郷の露と消えたと知らせがあったからだ。目に見えぬ風の音に驚くのはただ世の常ではあるが、鳥が翅をもがれたような悲しみで、たとえて言うすべもない。無念に思わない人がいようか。

彼は武家に生れながら芸能は他の人にまさり、百事百成という器用ぶりであったのみか、芭蕉の跡を深く慕い、かつて一日千句の独吟を試み、ひと夏九十日のうちに百題の発句を連作し、明け暮れ・風雲・霜露に詩心を悩ませた。一度は俳諧道の大悟を得ようとつねづね言っていたものだ。

也有にとって、友の中でも嘯花は特別の存在であったようです。

彼と私はいかなる宿命によるのか「断金の交わり」というべき親交が長く、月の夜の語らいにせよ雪の朝のつどいにせよ、彼がいないと私も面白くない。私がいないと彼も楽しまない。

さて俳諧の席で口癖のように言い合っていたのは、嘯花は天象時節の風景を好み、私は人事のほうを描きがちだということで、いつもそのことを冗談の種にし、たまたまお互い反対の句風のものがあれば、これは私が君の作風を真似たんだ、そっちは君のほうが私の作りかたをやったなどとたわむれて楽しんだ。こうしたことも、はかない一夜の夢になってしまった。思うだに悲しい。

ある年は君の別荘に招待され幾夜にもわたり語らい、ある時はその山あの寺などの行楽に出て同じ杖をかわりばんこに使い、酒筒を交互に担った。君との間柄には露ほどもずれが生じることはなかった。

われわれも、親しい同士で相手の句風や好きな句材を真似して詠んでみて、「どうだ、俺のほうがうまいだろう」などと冗談を言い合ったりすることがありますよね。われわれと同じような気持で也有と嘯花はじゃれあっていたんだなあと知って心を動かされます。

この春、ご主君の恵みによって思わぬ官職に就き、暇がなくなったことにまぎれて俳諧の会にも欠席をしていた。卯月になって旅の衣装に着替え、百里の東に向かうことになったので、名残惜しく、何もしないわけにいかないと、半日のひまを見つけて梅軒庵を訪れた。「かの山に花あり雪の郭公」と私をほととぎすに見立てた句を作ってくれたのに対し、「四月になじむ菅笠の旅」と付句で応じ、さらに私もまた「一しげり蔭そへて待て今年竹」ととりあえずの挨拶の発句を詠んで、互いの無事を祝った。

この年(1730)、也有は尾張藩御用人に取り立てられ、4月からは初めての江戸勤番を経験します。

その中にも、世の中には不測のこともあるからと、悲しんでお互いの顔を見つめ合った。それは私の身を案じてのことで、嘯花は人一倍健康であったから、こんな悲報を私が聞くとは思ってもみなかったのに、これほどまで人の運命は定めないものなのだとはじめて思い至ったのである。だからこの別れをこれほど胸苦しく覚えるのも、私の場合はもっともなことだと人も思って許してほしい。

自分のほうが先に死ぬのではないかと思っていたのに、若い友人のほうが先に逝くとは、いくら悔やんでも悔やみきれない。この也有の心には、私も覚えがあります。

もし霊魂が知覚を行うということがあるならば、杜甫が李白のことを夢に見て目が覚めると、月が李白の面影に見えたという故事にならって、嘯花よこの別れの文章を推敲しておくれ。ああ、富士の雪もしかるべき時には消えていく。私の辛い思いは綿々として際限がない。

供花 そちむけて魂まねかせむ花すゝき
拝礼 裃(かみしも)に泣(なく)袖もなき夜寒哉

『鶉衣』の中でこれほど悲調につらぬかれた文章は他に見ることができません。32年後、嘯花の三十三回忌に当って也有は「嘯花を祭る文」という一編を書いています。彼への哀惜の気持は生涯変わることはなかったのでした。

「老いの嘆きを語る」

次の文章は也有53歳の時のものです。非常に有名で、高校の古文のテキストに使われたりしますから、受験生時代これに悩まされたという人もいるんじゃないでしょうか。

50歳は今だったらまだ老境とは言い切れませんが、当時の平均寿命からすれば、また知人友人、さらには娘までがつぎつぎあの世にあの世に行ってしまう状況では、彼も考えるところがあったでしょう。

老いの嘆きを語る

芭蕉翁は51歳で世を去り給うた。文章で名を成した難波の西鶴も、52歳で人生を終え、「浮世の月見過しにけり末二年」の辞世を遺した。私は虚弱で病気がちだったのに、それらの年齢をも越えてしまい、今や53歳の秋を迎えた。藤原為頼中納言は「いづくにか身をばよせまし世の中に老をいとはぬ人しなければ」と詠んで、自分が姿を見せると若い人たちがそそくさと隠れたことを嘆いたのだが、その心持ちもようやく理解できる境地になってきた。

あ、若い人に自分は避けられているなと気づいたら要注意。老境に入ってきた証拠ですぞ。 

だから浮世で人に交わろうと思っても、あの世に行ってしまった人が多く、「松も昔の友ならなくに」という次第なのである。たまたま集まりの席に連なることがあれば、若い人にも嫌われまいとざっくばらんな風を装って振る舞うが、耳が遠くなっているので話も聞き間違い、たとえひそひそ話が聞こえたとしても、いまどきの流行語を知らないので、それは何ですか、何でそうなんですかと根掘り葉掘り聞いては面倒くさがられ、「枕相撲」だ「拳酒」だと騒ぎ立てている人たちは遠くに離れていってしまうので、奥の間でただ一人、炬燵島の島守となる。頼んでもいないのに「お迎えが参りました」と言ってくれる人には、「かたじけない」と礼を言うけれども、何のかたじけないことがあるだろうか。

「たれをかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風」は百人一首に入っていますね。「昔の友は誰もいなくなってしまった」という意味。

枕相撲や拳酒というのは宴席での遊びで、若い人たちの間で流行していたもの。老人には声がかからない。今で言えば、ゲームの話やカラオケの最新の曲に年寄りがついていけないようなものですね。

若い人の集まりに老人が混じるとなかなか煙たがれるもので、若い人と句会をやる時は、会場予約や短冊手配みたいな雑用を積極的に引き受けるとか、多少気を使ったほうが無難。偉そうに振る舞って、何も用事はせず、飲み会では人一倍酒をくらって金は割り勘などということをやっていると、しだいに仲間外れにされます。

「お迎えが来ました」と言ってくる人は、本心では「早く帰れ」と思っているのだろうと、年寄りはなにかにつけてひがみがちです。 

斎藤実盛は六十歳になって髭を墨で染め、北国の軍(木曽義仲軍)に立ち向かった。五十歳の顔に白粉を塗って京・大坂・江戸の芝居小屋の舞台に立つ者もいる。どちらも自分の老いを嘆かぬ筈がない。歌も浄瑠璃も落語も、昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである。物事は時代を追って面白くなっていくのだが、今はやっているものは自分には面白くないので、自分には昔のほうが面白かったということになるのである。

「昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである」というのは辛辣ですね。私も「昔のほうがよかったなあ」と思うことがいろいろありますが、その思いは自分の心の中にとどめておいたほうが無難でしょう。まあ、ツイッターだのブログだのが無かった頃のほうがいいかな、と心の中でつぶやきながらこうやって利用しているわけで。

そうであれば、人にも嫌がられず、自分も心が楽しくなるような身の置き場所はないだろうかと思いめぐらす。自分の身の老いを忘れることができない場合は、まったく心が楽しくなることはない。自分の身の老いを忘れれば、前にも言ったとおり人にはうとまれて、あるいは分不相応に酒や色事の上での誤りをしでかすことだろう。だから老いは忘れるべきだし、同時に忘れるべきではないのである。両方の境地を得るのはまことに難しい。

「老はわするべし、又老は忘るべからず」というのは非常に有名な一節です。高齢化社会を迎えて、老人の持つべき心構えとしてこの格言、よく引用されます。 

今もし蓬莱の店を探し出して、不老の薬は売り切れです、不死の薬だけありますと言われたら、たとえ1銭で10袋売ってくれたとしても、不老のほうが手に入らないのではどうしようもない。不死の薬がなくても不老の薬があれば、10日分でも十分価値がある。宋の陸游が「神仙は死なないと言っても彼らは何もやってないじゃないか、ただ秋風に吹かれて感慨にふけっているだけだ」と仙人の薊子訓を批判したのもそういう理由からだ。

秦の始皇帝は不老不死の薬があるという蓬莱の島を発見するために、徐福を旅立たせたと記録されていますが、也有は「蓬莱の店で不死の薬を売っていたら」とギャグにしてしまいます。老いを嫌悪する心をジョークで包んだ。 

願わくは、人はほどほどのところで死ぬことができればよい。兼好法師が「四十歳そこそこで死にたい」と物好きにも言ったのは、一般的には早すぎる。古稀と呼ばれる七十歳まで生きてしまうのはいかがなものだろうか。

しかし兼好のように物好きなことを言っていると、隣近所の耳に聞こえて不快の念を起こしかねまい。どうせ願ってもそのとおりにはならないのであるから、意味のない長談義を止めておくほうがあれこれ言うよりもまさっているだろうと、この論はここで筆を置くことにする。

前回の「臍の話」でもそうでしたが、也有が俳文を書く上でいちばん意識していたのは『徒然草』だと思います。俳文を書くというのは「物好き」な手すさびであるよ、そしてその手本は吉田兼好だよという感じ。

この文章は、老人のための処世訓のように扱われることが多いのですが、先に読んだ「嘯花をいたむ」と引き合わせると、老いの孤独の悲しみが底に流れているように思えてなりません。「嘯花が生きていればなあ」という嘆息が、この文章の背後にあるように感じるのは、私だけでしょうか。