名古屋の中部電力MIRAI TOWER(旧・名古屋テレビ塔)近くに建てられた
「名古屋三俳人句碑」
くさめして見失うたる雲雀哉 横井也有
椎の実の板屋を走る夜寒かな 加藤暁台
たうたうと滝の落ちこむ茂りかな 井上士朗
『鶉衣』を読むシリーズ、今回は若くして死んだ俳諧の友のことを書いた『嘯花をいたむ』(原題「嘯花ガ誄」)と、『鶉衣』の中でももっとも有名な『老いの歎きを語る』(原題「歎老辞」)を読んでいきます。どちらもすばらしい名文で、比べて読むと也有の孤独が胸に迫ります。
「嘯花(しょうか)をいたむ」
也有が29歳のとき、6歳年下の俳友、毛利嘯花の死を知って書いた追悼文です。当時也有は江戸に詰めていたので、悲報を名古屋からの知らせで受け取ったのでした。也有が生涯に書いた数多くの追悼文の中でも、この文章には無念の心がこめられていて、際立って優れた作と言えるでしょう。
嘯花をいたむ
晋国の琴の名人であった伯牙は、よき聴き手であった親友の鐘子期が死ぬと絃を切って二度と弾かなかった。呉の王子季札は、徐国の王が世を去ると墓のほとりの木に自分の刀をかけてやった。その故事さながら涙が袖にしたたり、今の秋になって自分はひとりぼっちになったと嘆いている。
晋の伯牙の故事とは、自分の琴を理解してくれるのは鐘子期だけだと思っていたので、彼が死んだ後二度と琴を弾かなかったという話です。嘯花は也有にとって、最大の友であり理解者であったということでしょう。
呉の季札の故事は、彼が使者として各国を巡る途中、 徐の君主が口には出さないが佩刀を欲しがっているのに気づいた。使命の途中だったので刀は渡せなかったのだが、帰りに徐国に寄ると王はすでに死んでいた。そこで季札は徐君の墓のかたわらの木に刀を懸けてやり立ち去ったという話。也有が嘯花に何もしてやれなかったことに痛恨の思いを持ったことが、この故事の引用から察せられます。
それというのも梅軒庵嘯花がまだ23歳を一期とし、中秋の名月も待たず故郷の露と消えたと知らせがあったからだ。目に見えぬ風の音に驚くのはただ世の常ではあるが、鳥が翅をもがれたような悲しみで、たとえて言うすべもない。無念に思わない人がいようか。
彼は武家に生れながら芸能は他の人にまさり、百事百成という器用ぶりであったのみか、芭蕉の跡を深く慕い、かつて一日千句の独吟を試み、ひと夏九十日のうちに百題の発句を連作し、明け暮れ・風雲・霜露に詩心を悩ませた。一度は俳諧道の大悟を得ようとつねづね言っていたものだ。
也有にとって、友の中でも嘯花は特別の存在であったようです。
彼と私はいかなる宿命によるのか「断金の交わり」というべき親交が長く、月の夜の語らいにせよ雪の朝のつどいにせよ、彼がいないと私も面白くない。私がいないと彼も楽しまない。
さて俳諧の席で口癖のように言い合っていたのは、嘯花は天象時節の風景を好み、私は人事のほうを描きがちだということで、いつもそのことを冗談の種にし、たまたまお互い反対の句風のものがあれば、これは私が君の作風を真似たんだ、そっちは君のほうが私の作りかたをやったなどとたわむれて楽しんだ。こうしたことも、はかない一夜の夢になってしまった。思うだに悲しい。
ある年は君の別荘に招待され幾夜にもわたり語らい、ある時はその山あの寺などの行楽に出て同じ杖をかわりばんこに使い、酒筒を交互に担った。君との間柄には露ほどもずれが生じることはなかった。
われわれも、親しい同士で相手の句風や好きな句材を真似して詠んでみて、「どうだ、俺のほうがうまいだろう」などと冗談を言い合ったりすることがありますよね。われわれと同じような気持で也有と嘯花はじゃれあっていたんだなあと知って心を動かされます。
この春、ご主君の恵みによって思わぬ官職に就き、暇がなくなったことにまぎれて俳諧の会にも欠席をしていた。卯月になって旅の衣装に着替え、百里の東に向かうことになったので、名残惜しく、何もしないわけにいかないと、半日のひまを見つけて梅軒庵を訪れた。「かの山に花あり雪の郭公」と私をほととぎすに見立てた句を作ってくれたのに対し、「四月になじむ菅笠の旅」と付句で応じ、さらに私もまた「一しげり蔭そへて待て今年竹」ととりあえずの挨拶の発句を詠んで、互いの無事を祝った。
この年(1730)、也有は尾張藩御用人に取り立てられ、4月からは初めての江戸勤番を経験します。
自分のほうが先に死ぬのではないかと思っていたのに、若い友人のほうが先に逝くとは、いくら悔やんでも悔やみきれない。この也有の心には、私も覚えがあります。その中にも、世の中には不測のこともあるからと、悲しんでお互いの顔を見つめ合った。それは私の身を案じてのことで、嘯花は人一倍健康であったから、こんな悲報を私が聞くとは思ってもみなかったのに、これほどまで人の運命は定めないものなのだとはじめて思い至ったのである。だからこの別れをこれほど胸苦しく覚えるのも、私の場合はもっともなことだと人も思って許してほしい。
もし霊魂が知覚を行うということがあるならば、杜甫が李白のことを夢に見て目が覚めると、月が李白の面影に見えたという故事にならって、嘯花よこの別れの文章を推敲しておくれ。ああ、富士の雪もしかるべき時には消えていく。私の辛い思いは綿々として際限がない。
供花 そちむけて魂まねかせむ花すゝき
拝礼 裃(かみしも)に泣(なく)袖もなき夜寒哉
『鶉衣』の中でこれほど悲調につらぬかれた文章は他に見ることができません。32年後、嘯花の三十三回忌に当って也有は「嘯花を祭る文」という一編を書いています。彼への哀惜の気持は生涯変わることはなかったのでした。
「老いの嘆きを語る」
次の文章は也有53歳の時のものです。非常に有名で、高校の古文のテキストに使われたりしますから、受験生時代これに悩まされたという人もいるんじゃないでしょうか。
50歳は今だったらまだ老境とは言い切れませんが、当時の平均寿命からすれば、また知人友人、さらには娘までがつぎつぎあの世にあの世に行ってしまう状況では、彼も考えるところがあったでしょう。
老いの嘆きを語る
芭蕉翁は51歳で世を去り給うた。文章で名を成した難波の西鶴も、52歳で人生を終え、「浮世の月見過しにけり末二年」の辞世を遺した。私は虚弱で病気がちだったのに、それらの年齢をも越えてしまい、今や53歳の秋を迎えた。藤原為頼中納言は「いづくにか身をばよせまし世の中に老をいとはぬ人しなければ」と詠んで、自分が姿を見せると若い人たちがそそくさと隠れたことを嘆いたのだが、その心持ちもようやく理解できる境地になってきた。
あ、若い人に自分は避けられているなと気づいたら要注意。老境に入ってきた証拠ですぞ。
だから浮世で人に交わろうと思っても、あの世に行ってしまった人が多く、「松も昔の友ならなくに」という次第なのである。たまたま集まりの席に連なることがあれば、若い人にも嫌われまいとざっくばらんな風を装って振る舞うが、耳が遠くなっているので話も聞き間違い、たとえひそひそ話が聞こえたとしても、いまどきの流行語を知らないので、それは何ですか、何でそうなんですかと根掘り葉掘り聞いては面倒くさがられ、「枕相撲」だ「拳酒」だと騒ぎ立てている人たちは遠くに離れていってしまうので、奥の間でただ一人、炬燵島の島守となる。頼んでもいないのに「お迎えが参りました」と言ってくれる人には、「かたじけない」と礼を言うけれども、何のかたじけないことがあるだろうか。
「たれをかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風」は百人一首に入っていますね。「昔の友は誰もいなくなってしまった」という意味。
枕相撲や拳酒というのは宴席での遊びで、若い人たちの間で流行していたもの。老人には声がかからない。今で言えば、ゲームの話やカラオケの最新の曲に年寄りがついていけないようなものですね。
若い人の集まりに老人が混じるとなかなか煙たがれるもので、若い人と句会をやる時は、会場予約や短冊手配みたいな雑用を積極的に引き受けるとか、多少気を使ったほうが無難。偉そうに振る舞って、何も用事はせず、飲み会では人一倍酒をくらって金は割り勘などということをやっていると、しだいに仲間外れにされます。
「お迎えが来ました」と言ってくる人は、本心では「早く帰れ」と思っているのだろうと、年寄りはなにかにつけてひがみがちです。
斎藤実盛は六十歳になって髭を墨で染め、北国の軍(木曽義仲軍)に立ち向かった。五十歳の顔に白粉を塗って京・大坂・江戸の芝居小屋の舞台に立つ者もいる。どちらも自分の老いを嘆かぬ筈がない。歌も浄瑠璃も落語も、昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである。物事は時代を追って面白くなっていくのだが、今はやっているものは自分には面白くないので、自分には昔のほうが面白かったということになるのである。
「昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである」というのは辛辣ですね。私も「昔のほうがよかったなあ」と思うことがいろいろありますが、その思いは自分の心の中にとどめておいたほうが無難でしょう。まあ、ツイッターだのブログだのが無かった頃のほうがいいかな、と心の中でつぶやきながらこうやって利用しているわけで。
そうであれば、人にも嫌がられず、自分も心が楽しくなるような身の置き場所はないだろうかと思いめぐらす。自分の身の老いを忘れることができない場合は、まったく心が楽しくなることはない。自分の身の老いを忘れれば、前にも言ったとおり人にはうとまれて、あるいは分不相応に酒や色事の上での誤りをしでかすことだろう。だから老いは忘れるべきだし、同時に忘れるべきではないのである。両方の境地を得るのはまことに難しい。
「老はわするべし、又老は忘るべからず」というのは非常に有名な一節です。高齢化社会を迎えて、老人の持つべき心構えとしてこの格言、よく引用されます。
秦の始皇帝は不老不死の薬があるという蓬莱の島を発見するために、徐福を旅立たせたと記録されていますが、也有は「蓬莱の店で不死の薬を売っていたら」とギャグにしてしまいます。老いを嫌悪する心をジョークで包んだ。今もし蓬莱の店を探し出して、不老の薬は売り切れです、不死の薬だけありますと言われたら、たとえ1銭で10袋売ってくれたとしても、不老のほうが手に入らないのではどうしようもない。不死の薬がなくても不老の薬があれば、10日分でも十分価値がある。宋の陸游が「神仙は死なないと言っても彼らは何もやってないじゃないか、ただ秋風に吹かれて感慨にふけっているだけだ」と仙人の薊子訓を批判したのもそういう理由からだ。
願わくは、人はほどほどのところで死ぬことができればよい。兼好法師が「四十歳そこそこで死にたい」と物好きにも言ったのは、一般的には早すぎる。古稀と呼ばれる七十歳まで生きてしまうのはいかがなものだろうか。
しかし兼好のように物好きなことを言っていると、隣近所の耳に聞こえて不快の念を起こしかねまい。どうせ願ってもそのとおりにはならないのであるから、意味のない長談義を止めておくほうがあれこれ言うよりもまさっているだろうと、この論はここで筆を置くことにする。
前回の「臍の話」でもそうでしたが、也有が俳文を書く上でいちばん意識していたのは『徒然草』だと思います。俳文を書くというのは「物好き」な手すさびであるよ、そしてその手本は吉田兼好だよという感じ。
この文章は、老人のための処世訓のように扱われることが多いのですが、先に読んだ「嘯花をいたむ」と引き合わせると、老いの孤独の悲しみが底に流れているように思えてなりません。「嘯花が生きていればなあ」という嘆息が、この文章の背後にあるように感じるのは、私だけでしょうか。