2025-05-31

連歌のルール(11)~打越で使ってはいけない組み合わせ

 
混空編『産衣(うぶごろも)』
歌語から式目の条文を検索する逆引き辞書
山田孝雄, 星加宗一編『連歌法式綱要』(岩波書店、1936)に収録

打越で使ってはいけない語

次は「打越を嫌うべきもの(付・懐紙を替えるべきもの)」の条項です。

本連載の第2回で、「打越を嫌う」という考えを説明しました。連歌の付句は、2句前と同じ世界を詠んではならないのです。これが連歌の基本中の基本の原理であるといえます。

ではどういう題材や語を使うと、打越関係と判断されるのかということを細かく規定したのが本項になります。打越だけではなく、付句としてもダメな組み合わせ、同じ面や同じ折では使えないものも挙がっています。

以下の表で〈〉でくくった用語は、第6回で説明した事物の分類(部立)です。各分類に入る諸事物を指します。部立が右に来たり左に来たりして表記が統一されていませんが、式目の記述順に従います。

用語打越を嫌うもの、注釈
岩屋、関戸、隠家、栖、住居〈居所〉
〈居所〉田庵、村、霧籬、浜庇
(一説では、句によっては浜庇は居所を嫌うという)
皇居の故郷(ふるさと)〈居所〉(とくに「里」とは間に5句以上挟むこと)
〈降物〉
松の煙、竹の煙、草の煙、水の煙など〈聳物〉
雲上人、雲居庭など、胸の煙、思煙〈聳物〉
霰ばしり〈降物〉
〈時分〉〈時分〉(夕暮と曙など)
日次(ひなみ)の日
月次(つきなみ)の月
種蒔、野の色付、冬枯の野山など〈植物〉(うゑもの)
埋木〈植物〉
山色、野色〈植物〉(ただし句体にもよる)
〈植物〉草かり、秣(草の字とは間に2句はさむこと)、園、藪、秋田など
(秋田は、田に雁、田に鹿などというように素材を加えた場合は植物との打越は問題ない。「鹿追ふ」などと言った場合にはこれを嫌う)
草木
心の松、心の杉〈植物〉
苗代、下もえ〈植物〉とは嫌わないとされているが、間に2句はさむべきだという意見もある
冬枯の芦屋、芦火〈水辺〉
浮島原〈山類〉。ただしこの語自体は山類として扱うべきではない
〈人倫〉〈人倫〉
碪(きぬた)〈衣裳〉。「きぬ」と「きぬた」は間に5句以上挟むこと
〈生類〉贄。贄は句体によっては神祇として扱うべきという意見あり
〈生類〉放生。この語は水辺でもある
〈生類〉駅、馬のはなむけ。これらの語は馬、駒とは同じ面で使わないこと
津の国のなにはのこと、山しろのとはぬ、など〈名所〉
忍のうらみ侘、などという句〈水辺〉
〈名所〉とは間に3句挟むこと
懐紙が替れば「忍の山」「忍の岡」などと言ってもよいが、「忍の浦」と言ってはならない。他もこれに準じる

まだまだ続きますが、数が多いのでいったんここで切って注を加えます。

〈居所〉の項、「浜庇」とはもともと、波が砂をえぐって庇が出たような地形になっていることを言いましたが、後年「浜辺の家の庇」を指すようになりました。後者の場合のみ居所を嫌うということです。

皇居の故郷の項、ふるさととはもともと昔のさびれた都を指すということは、以前ご説明しました。

松の煙、竹の煙、草の煙、水の煙とは、松林、竹林、草、水などが遠くに霞んで見えることを言います。実例を『大原野十花千句 第十』(1571)の初折4~5句目で見てみましょう。

 田中に道はあぜのかたはら     里村昌叱
一むらや竹の煙にこもるらん       了玄

〈時分〉は第6回の事物の19分類では説明しなかった部立です。時刻、昼夜、朝暮などを示す語を指します。19分類中の〈夜分〉は時分の一部と見ることができるでしょう。

心の松は「松」を「待つ」にかけて「心中に期待すること」。心の杉は「正直、誠実な心のたとえ」。

月の項の日次の日とは一日とか二十日といった暦の日のこと(太陽ではない)。

浮島原(うきしまがはら)とは静岡県東部、愛鷹山の南方の低湿地。歌枕です。愛鷹山や富士山を連想させる地名なので山類との打越はダメだが、この語自体は山類とは見ないということでしょう。

津の国のなにはのこと、山しろのとはぬについては、次のような例歌があります。

津の国の難波(なには)のことか法(のり)ならぬあそびたはぶれ待てとこそきけ          遊女宮木(『後拾遺集』)
つのくにのみつとないひそやましろのとはぬつらさは身にあまるとも      宮内卿(『新勅撰集』) 

前歌は、性空上人が遊女からの喜捨を受け取ることを一瞬ためらったのに対して彼女が詠んだ歌。「摂津の国の難波で身体を売っている私ですが、それが仏法に反するなどということがあるでしょうか。遊び戯れる業も仏の道につながると聞いていますが」ということ。

後歌は、「摂津の国に御津があり、山城の国には鳥羽がありますが、「見つ(見たよ)」なんておっしゃらないで。「とはぬ(訪ねてくださらない)」ことの辛さは身にこたえますのよ」というダジャレの歌。

こうした先歌がもとになって「津の国のなにはのこと」「山しろのとはぬ」などという表現が慣用句のようになっているけれども、あくまで元は地名であるから名所と打越にならないようにということ。

信夫(しのぶ)とは現在の福島県福島市のあたり。そこに「浦」という地名があって、実際は内陸なのですが、海辺と誤解されて「しのぶの浦」という水辺の歌枕になっていました。「忍のうらみ侘」というのは、恋のつらさを我慢し恨み悩むということを「信夫」とひっかけて言っているのですが、あくまでもとは歌枕であることを意識して、水辺や名所を嫌うようにという定めです。福島には「信夫山」という山がありますが、忍のうらみ侘」ということを言ってしまった場合、「忍の山」「忍の岡」は懐紙が替れば言ってもよいが、「忍の浦」という表現はもう使えません。

付句としても使ってはいけない語

次の事例は打越だけではなく、付句としても嫌われるものである
用語打越・付句を嫌うもの、注釈
くもる
温日長閑(のどか)
身にしむ
故郷
子の日
声、響
声、響に音羽山、音無川などは嫌わないが、句体にもよる
春の暮、秋の暮
樵夫「木」の字
かげ
もと、下、かくれ
「影」の字は「もと、本」と嫌わない
陰に「下」は場合によっては嫌わない
袖ぬるる
袖の露

鳥獣の鳴くのは別のことである

恋に関することでなければ嫌わない
衣々(きぬぎぬ)
恋として用いる場合は面を替えること

句体にもよる

否定の「ぬ」同士の場合は、打越では嫌わず、付句として嫌うとの説あり
過去の助動詞「し」過去の助動詞「し」
うつつ
ね覚
今日昨日、明日

弓張月、年の矢などは折を替えること
夕立「暮」という字
明暮「夕」という字
朝夕「暮」という字
しののめあした
夕時分とは嫌わない
たそがれ「夕」という字
遠きをち
ことわざ詞、いふわざ
くらき
光陰よるひる、月日
月か日の片方だけなら嫌わない。夜と昼も同様
野分「野」「分」の字
木枯「木」の字
家風
木曽「木」の字
野辺、山辺ほとり
淡路
山路に対しては間に5句以上を挟むこと
晨明(ありあけ)「有」の字
「明」の字とは間に5句以上を挟むこと
入相「入」「逢」の字
荻の声
風という表現がなくても和歌同様に「荻の声」だけで成り立つという意見あり
歎(なげき)を木に掛けた場合〈植物〉
みそじ、よそじ(年齢)「年」の字
「玉」の字
魂のことを「わが玉のを」と言った場合は「玉」字とは間に5句挟むこと
ながめ
目とは嫌わない
形見
形見にながめは嫌わない
努々(ゆめゆめ)
努々は夜分とは扱わない
物思「物」「思」の字
うき懶(ものうし)
つらき、かなしき
名残「名」「残」の字
思やる「思」の字
すくなき「無」の字
はかなき「無」の字
付句として嫌うのであって打越では嫌わないとのルールもある
物のしるし・しるべ
あらまし「有」の字
一説では打越に嫌わないとも
いづく、いつ、なに、なぞ、など、いかに、いづれお互いに嫌う
どれも「何」を含む語であるから
なりなり
なれなれ
なるなる
なり、なれ、なるお互いに付句として嫌う。打越では嫌わない。「成」字を用いた場合は打越で嫌う
たどる
ただし句による
玉章(たまずさ)詞(ことば)
句体によっては嫌わない
ことの葉
句体によっては嫌わない
敷島の道
同じ折を嫌うという意見もあり
生死

句体によっては嫌わない
字余りの句字余りの句に字余りは付句としても打越としても嫌うべきであろうか。和歌の書にも無用の字余りはよろしくないとある

ここからは打越だけではなく、付句としても避けるべき組み合わせになります。

「歎(なげき)を木に掛けた場合」というのは、「歎き」を「投げ木」に掛けるという技法を使っている場合は〈植物〉と嫌うことになります。

「字余りの句」の項は、原文は「可相双条如何。及打越可有斟酌歟。凡無用文字余不可然之由見和歌抄矣」とあるのをこう訳してみたのですが、今一つ自信がありません。知見の士のアドバイスを求む。

同折、同面で使ってはいけない語

次の事例は打越、付句だけではなく、同じ折を嫌われるものである
用語打越を嫌うもの、注釈
日晩(ひぐらし)
紅梅
紅葉
浮世、世中
前世後世
捨世、捨身など「捨」の字
東路東屋

次の事例は打越、付句だけではなく、同じ面を嫌われるものである
用語打越を嫌うもの、注釈
寝覚閨、ぬる
「ね」という字

これらの例については、とくに注釈は必要ないでしょう。

同じ折や面を嫌われるものについての追記
用語同折・同面を嫌うもの、注釈
さゆる
両者が冬季を意味する場合は折を替えること
捨世桑門の世すて人
このような場合は同じ面を嫌うが、同じ折を嫌うべきだとする意見もあり
〈恋〉、世〈述懐〉、〈釈教〉、世
面を替えること
「一」の字使わざるをえない場合が多いが、面を替えて使用すべきだという意見がある。
「一」以外の他の数字は折を替えるべきである。「一」とそれ以外では扱いが違うのは、それなりの理由があるからである
三文字の仮名互いに同じ面を嫌う
「御」の字場合にもよるが、「御座(みまし)、御階(みはし)」などは面を替えるべきか
「比(ころ)」の字句末に使う場合は折を替える
単なる「比」の字は同字に関する定め(後述)に従う
白髪
面を替える
筆跡鳥跡
同じ折を嫌う
「跡」の字「跡」の字
「古跡」の類は折を嫌うこと。他の場合は同字に関する定めに従う

同じ折を嫌う
真砂石、岩
同じ面を嫌う
篠(ささ)しの
同じ面を嫌う
すず
間に二句挟むこと
神楽
同じ面を嫌う
九重
同じ折を嫌う
大宮
同じ折を嫌う

「三文字の仮名」とは、わかれとわかれ、かへるとかへる、のこるとのこるというような同表現のこと。

以上で打越、同面、同折に関する去嫌の条項の解説は終わりです。実に膨大で煩雑な決め事です。「基本原則だけ決めておいて、あとは宗匠がその場その場で判断すればいいじゃないか」と思う人もいるでしょう。実際、俳諧(連句)のほうでは芭蕉はそのような方針をとっていました。

しかし、これは私の想像ですが、連歌の会はしばしば貴人の前で催されますし、場合によっては足利将軍もそこに参加していました。そんな場所で式目違反を指摘されるのはメンツにかかわることでもあったでしょう。そうなると見解の食い違いから争論が起きることもありえます。また地下連歌の場合は、すぐれた付句に賞品が出るというような賭け事としての性格がありましたから、判定基準をはっきりさせる必要があったかとも思います。そうやって問題になった判例を積み重ねていくうちに膨大な規定となったのでしょう。

連歌の会には「執筆(しゅひつ)」という人がいて、式目違反を発見して指摘する役を担っていました。ある意味宗匠よりも重要な立場です。執筆は膨大なルールを承知している必要があったので、容易ではない仕事でした。

式目記憶用の式目和歌というものがあります。三条西公条・周桂による約600首からなる『式目和歌』(16世紀後半)などはその代表的なものです。

また各用語から関連する規定を逆引きできる辞書のような本が作られました。木食応其による『無言抄』(1586年)、混空による『産衣』(1698年)などが知られています。

2025-05-29

連歌のルール(10)~4回・5回まで使える語

 
牡丹花肖柏像
国立文化財機構所蔵品統合検索システムの画像を一部拡大して使用

今回は一座四句物と五句物をまとめてやりましょう。

一座四句物

現代語訳を一覧表にします。

用語分類・注記
このほかに春雪は1回まで、にせものの雪は雪に含まない。しかし最近はこれらを含め4句とするようになった。
春雪は雪とは面を替えること。
氷室の雪は春季である。富士の雪は冬以外でも扱われる。
有明四季それぞれで1回ずつであることは既述
単なる関で1回、名所で1回、恋で1回、「春・秋を止める関」などと言って1回。
ただし恋と「春・秋を止める関」を合わせて1回とすべきという意見あり
単なる氷で1回、つらら、たるひで1回、月の氷、泪の氷などと言って1回、霜・雪(の氷)などに1回。
氷室はここに含まない
単なる鐘で1回、入相の鐘で1回、釈教で1回、異名で1回。
釈教と異名の区別はあいまいであろうか。違いを詮議する必要はないという意見あり
空だのめなどと言うのはここには含まれない。空め、空ごとなども同様。半天(なかぞら)は面を替えて使うこと
神祇として2回、皇居として2回使用できる。ただしそのうち1回は名所であること
「朝」の字(朝風、朝霜など)懐紙を替えること
「夕」の字(夕風、夕霜など)上に同じ
単なる鳥で1回、春鳥で1回、小鳥・村鳥で1回、鳥獣で1回。かりばの鳥・浮ね鳥・夜鳥などはここに含まない
ほたる火はここに含まない
「玉」の字にせものの玉、賞美の詞の玉なども含まれる
「葉」の字草の葉、竹の葉などは間に4句をはさむこと
「寝」の字旅寝、ひとり寝などのこと。「ぬる」と言った場合はここに含まない
「天」の字
「屋」の字
枢、関戸、谷戸などとは折を替えること

連歌新式の記述にはまどろっこしいところがあります。たとえば雪の項、この式目の原形である『連理秘抄』では「単なる雪で3回。そのほかに春雪で1回」といたってシンプルなのですが、肖柏はいろいろ注釈を書き足しています。おそらく、連歌がさかんになるにつれてさまざまなケースが出てきて、連歌師によって言うことが違ってきたりして、あちらこちらに気を遣う必要が出てきたのでしょう。

雪の項、「にせものの雪」とは「花の雪」(落花を雪にたとえた)、「頭(かしら)の雪」(白髪のこと)などを指します。「富士の雪は冬以外でも扱われる」とありますが、たとえば次の「紫野千句第六百韻」(1357~1370)の三折表では

 秋こそ今は半(なかば)すぎぬれ     周阿
東路の野は夕露の富士の雪         南阿
 いるときしらぬ中空の月         救済

と富士の雪が秋の場面で出てきますし、「心敬山何百韻」(1475以前)の発句では

ほととぎす聞きしは物か不二の雪      心敬

と夏の句になっています。

有明の項についての疑問は、前回述べました。

空の項、「空だのめ」は「頼みにならないことを頼みに思わせること」。「空め」は見間違えること。「空ごと」は絵空事。

鳥の項、「村鳥」は群がっている鳥。「かりばの鳥」は雉のことで、鷹狩の際に用いられる語。

玉の項、にせものの玉とは露の玉、滝波の玉などのこと。賞美の詞の玉とは玉椿、玉簾など。

一座五句物

用語分類・注記
単なる世で1回、憂世・世中で1回、恋の世で1回、前世で1回、後の世で1回。
「浮世」など特定の世を別に数える説があるが、信用しがたい。述懐にかかわる世は2回使ってよいという意見がある。
「仏の世」は前世か後の世のどちらかとして用いる
単なる梅で1回、紅梅で1回、冬木として1回、青梅で1回、紅葉で1回。
青梅・紅葉などは自然の景色として描かれるべきである
単なる橋で1回、御階で1回、梯で1回、名所で1回、うき橋で1回。
御階は特別の題材である。
うき橋は「夢の浮橋」などとして1回使用できる

五句物の説明にはそれほど難しい点はないと思います。

ただ、私は思うのですが、いくら長い百韻とはいっても、一巻に5回も「梅」や「橋」が出てくるというのは不自然すぎないでしょうか。5回使えるというよりも、これらにはこういう使用法があるよという例示の面が強いのではと思うのですが、どうでしょう。

2025-05-26

連歌のルール(9)~3回まで使える語

 

木藤才蔵『連歌史論考 上・下』(明治書院、1971/73)
文部大臣賞・日本学士院賞受賞
連歌の歴史を通覧できると同時に、連歌史年譜や詳細な索引などを備えた充実の名著

一座三句物

続いて三句物です。三句物~五句物は一句物よりも重要度が低いわけではなく、むしろよく使われるので一句や二句では収まらない材料というように考えられます。

今回は「月」「花」が出てくるので、説明も慎重にやりたいと思います。

用語分類・注記
春月単なる春月で1回、(春の)有明で1回、(春の三日月)で1回。
夏月、冬月上に同じ。
ただし有明は秋で1回、他季で1回まで。
三日月は四季を通じて1回のみ。2~3回使ってもよいという話があるが、どうだろうか
単なる神で1回、神代で1回、具体的な神名で1回
同じ懐紙では2回使えない。ただしにせものの花はその中に入らない。
最近では四句物としている。その中で余花を詠んでもよい。
「花・紅葉」と言っても花の4句の中に入る。
花と桜を同じ面に出してはいけない。心の花、にせものの花であっても同様である。
花を三句とすべきかどうかについては議論がある。しかし考えてもしかたあるまい、四句にしろ三句にしろはっきりした論拠があるわけではないのだから
単なる藤で1回、藤原で1回、他の季節で1回。
ただし他の季節など要らないだろうという意見あり
単なる柳で1回、青柳で1回、秋~冬の柳で1回
単なる桜で1回、遅桜・山桜などで1回、桜紅葉で1回。ただし「遅桜・山桜」などを使わず、単なる桜2回でも問題なしとすべきか
紅葉単なる紅葉で1回、梅・桜などの紅葉で1回、草のもみじで1回。
「紅葉の橋」は別に使用できるとするべきか
落葉単なる落葉で1回、松の落葉で1回、柳散るなどで1回
単なる荻で1回、夏か冬の荻で1回、(荻の)焼原で1回。
浜荻は懐紙を替えて詠むこと。
ただし、秋の荻以外は1回でよいという意見あり
薄(すすき)単なる薄で1回、尾花で1回、すぐろ・ほや(のすすき)などと表現して1回
単なる都で1回、名所で1回、旅で1回
単なる塩で1回、塩焼くで1回、潮で1回
単なる滝で1回、名所で1回、滝津瀬で1回。
花の滝、涙の滝などは別に使用できる
単なる岸で1回、名所で1回、彼岸で1回
恋で1回、旅で1回、文字で1回。「玉章(たまずさ)」は3回のうちに含まれる
鷹狩で1回、鷂(はいたか)で1回、獣狩で1回
庭鳥で1回、夜鳥で1回、その他異名で1回。
夜鳥も鶏のことである。夜鳥も異名に入れて、異名で2回とすべきという意見あり
鹿単なる鹿で1回、鹿子で1回、すがるで1回。
かせぎ、かをさしてなどは雑(=無季)である
単なる車で1回、法車で1回、水車で1回。「輦」は3回のうちに含まれる。
水車は自然の物に含まれるであろうか
草花過て、花の草の庵、花の草枕それぞれ表現を替えて1回ずつ。
ただしどう言い換えても1回とすべきという意見あり
単なる燈で1回、釣の灯で1回、法の燈で1回
単なる独で1回、恋で1回、月・松などに1回

いくつか注記します。

「春月」「夏月」「冬月」の項ですが、ここで言う「有明」とは「月がまだ天にありがなら夜の明けかけること。またその時間帯。また夜明けに天に残っている月のこと」です。実は、月を詠まなければいけない場面で、「月」という語を出さずに「有明」を代わりに使うことができるのです。

どういうことか、実例を挙げましょう。前回、秋の時雨について説明したのと同じ個所、「文和千句第三百韻」(1355)の初折表八句を見てみます。

名にしるし色もにほひもふかみ草      素阿
 五月もいまは廿日へにけり      二条良基 
夏引の糸もておれるうすころも       救済
 ねになく蝉のはつ秋のかぜ        暁阿         
もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運 
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿
在明や日のいづるまで残るらん     大江成種
 空行かりの数は見えけり         木鎮 

脇句に「五月」が出てきました。五月、六月、あるいは長月、神無月など月名の「月」は月次(つきなみ)の月といって、月を詠んだことにはなりません。各面で一句は月の句を詠まなければなりませんので、七句目で大江成種がそれを詠むことになりました。しかし同じ面に「月」という字を2回使うのはみっともよくないので、代わりに「在明(=有明)」を使いました。句の意味は「明け方の月は太陽がのぼってくるまでは空に残るでしょう」ということです。

式目の注釈では、「有明は秋で1回、他季で1回まで」と、合計2回しか使えないことになっているのですけれども、次回説明する「一座四句物」では有明は4回使えることになっています。これはどう理解すればいいのでしょう。

考えてみたのは、「月の代わりに有明を使うのは2回まで、有明そのものを述べるのは4回まで」ということではないかという解釈ですが、正しいかどうかわかりません。知見の士のアドバイスを求む。

「花」の項、にせものの花とは、浪の花、雪の花など実際の花以外のものを指す語を言います。これらは花を詠んだことにならないので、同じ折でもう一度花を詠む必要が出てきますが、その場合でも面は替えなければいけません。「心の花」も同じ扱い。

春の花でなくても、余花(夏)や花・紅葉(詠みかたにもよりますが無季)でも花を詠んだことにはなります。花・紅葉を詠むとはどういうことか、「専順宗祇百句附」(1468)の例を見てみましょう。

 人のこゝろのかはる世の中        専順 
草も木も折りわすれずよ花もみぢ      専順 

百句附は、専順が示した「人のこゝろのかはる世の中」という短句に対し、長句の付句を専順自身で100通り、宗祇も100通り作って見本帳としたものです。上の付合は専順の作例。「この世の中、人間の心というものは変わりやすいものだなあ」「草や木は季節を忘れず、花は春紅葉は秋と決まりを守るものなのに」ということになります。前年の1467年、応仁の乱が勃発し、裏切りや離合集散が繰り返し起こりました。そんな世の中を嘆いてこのような附句集を作ったのでしょう。この「花もみぢ」は季節としては雑です。

「花」と言えば原則として桜の花を指しますが、前句で菅原道真のことを詠んでいるような場合は梅の花を意味する場合もあります。

「桜」と言ったのでは花を詠んだことにはなりません。その場合は同じ折で別に花を詠まなければなりませんが、しかし面を替える必要があります。

「紅葉」の項、紅葉の橋とは天の川に掛かっている伝説上の橋のこと。

「狩」の項、鷂(はいたか)とは小形の鷹で、やはり鷹狩に用いられました。ただし鷹狩が冬季であるのに対し、鷂は夏から秋にかけての季語だそうです。

「鹿」の項、かせぎとは鹿の古名です。「かをさして(鹿を指して)」というのは、古代中国の秦帝国で、宦官の趙高が皇帝に対し鹿を指して馬と呼んだ故事のこと。

「法」の項、法の車(のりのくるま)とは仏法を羊の車・鹿の車・牛の車の三車にたとえたことを指します。

「独」の項、「月・松などに1回」とは、「月ひとつ」「ひとつ松」などの表現を指します。東日本大震災のあと、陸前高田市の奇跡の一本松が話題になりましたね。ひとつ松というのは古来わが国で大事にされてきた風景でした。

2025-05-25

連歌のルール(8)~2回まで使える語


木藤才蔵『連歌新式の研究』(三弥井書店、1999)
新式の翻刻が見やすく整理されており、また後年の注釈が
加えられているなど、たいへん参考になる

連歌式目の条項には、2とおりの流れがあるように思います。

一つは原理原則から出発して全体を規制しようというルール。もう一つは実際に起こった問題ごとにどう解決するか個別に定めたルール。法律の用語で言えば前者が成文法的、後者が判例法的。数学の用語で言えば前者が演繹的、後者が帰納的ということになりましょう。

ここまで解説してきた式目の条項で言えば、韻字の決まりとか体と用の定めなどは、前者であるように思います。大原則を述べようとする。対して前回から説明している個別の用語についての定めは後者でしょう。

前者の決まりは論理体系的ですが、実際には守りきれずに例外やルール改訂が頻発しています。後者のほうは実践的ですが、個別に新しい定めを追加していくので煩雑です。前者はおもに堂上連歌(公家中心の連歌)、後者はおもに地下連歌(それほど身分の高くない専門家による連歌)によって発案されてきたのではないかという気がしますが、どうでしょうか。

連歌の式目にはこのような二重性があるということを把握しておくと理解しやすいように思います。

一座二句物

さて今回は、一巻で2回まで使用できる「一座二句物」の解説です。一句物とほぼ同じレベルで重要な語群ですが、言い換えたり使う場所を替えたりすることで変化をつけることが可能なため、二句までOKということになったと思われます。

あくまで2回「使ってもよい」ということであって、必ず使うべきだというわけではありません。

数が多いので、表形式にしてサクサク説明していきましょう。

用語分類・注記
「暁」で1回、「其暁」で1回使える
「神の代」「君の代」でそれぞれ1回ずつ使える
春風「春風」「春の風」でそれぞれ1回ずつ使える。
ただし近年では、このように言い替える必要はないとされている
秋風、松風上に同じ
五月雨「五月雨」で1回、「梅雨」で1回使える。「梅雨」の用法についてはよくわからない点がある
夕、今日
「いほ」で1回、「いほり」で1回使えるが、言い換えなくてもよい
故郷(ふるさと)里を名所として詠むか、または単に古びた里として詠んで1回。旅の回として詠んで1回
単なる岡で1回、名所の岡を詠んで1回
池、湊上に同じ
宿単なる宿で1回、旅の宿で1回。
他に「やどり」として使ってよい。
「魚のやどり」「露のやどり」などの表現は別に使ってよい(最多で4回使える)
単なる庭で1回、寺や皇居の庭で1回。
「庭訓」などとしても1回使えるが、これは特殊なケースである
春の雁(帰雁)、秋の雁それぞれ1回。
「残る雁」は南へ渡らない雁、北へ帰らない雁の両方の意味があるから、春か秋のどちらかで詠む
猿と言って1回、ましらと言って1回使える
「旅」という字単なる旅で1回、旅衣などと言って1回だが、最近では言い換えなくてもよいとしている
単なる老で1回、鳥・木などに用いて1回
単なる男で1回、桂男などと言って1回
棹姫、橋姫の類このような同類のものを2回使う場合は、懐紙を替えること
単なる命で1回、虫の命などとして1回
「なりにけり」「おもひしに」「物を」この類の詞は所を替えて使うこと(同じ折を避けよということか?)
恋しく・恋しき、うらみ・うらむこのようにして(活用形や品詞を替えて)2回。ただし必ずしも言い替えなくてもいいとされる
時雨秋と冬でそれぞれ1回
単なる朝で1回、けさと言って1回
鶴で1回、たづで1回
名残恋の名残で1回、花の名残などで1回
面影単なる面影で1回、花や月の面影で1回
さびしき同内容であっても違う表現であればもう1回可
玉緒「命」とは1回だけ併用できるが、懐紙を替えること(「虫の命」などは別)
単なる梢で1回、花や松の梢で1回。「梢の秋」は別に扱う
仏法で1回、法令で1回。「法師」は別に扱う
稲葉「をしね」と言い換えてもう1回
単なる塵で1回、塵の世などとして1回
「岡、池、湊」などの場合とは違って、名所以外であっても2回使える
単なる海で1回、名所の海を詠んで1回。「わたつみ」などはこれと別に使用できる
野辺、小野2回のうち1回は名所であること
軒、垣「軒端」「かきほ」などと言い換える必要はない。「籬」はこれと別に使用できる
単なる籬で1回、霧の籬として1回
待恋、逢恋、別恋など2回使える。他の恋の詞も同様
をち(=遠)、はなし、もなし2回使う場合は長句と短句で使い分けること
単なる詞で1回、「ことのは」と言い換えてもう1回。「言の葉の道」は別に使用できる
単なる筵で1回、法の筵、苔筵、草筵などとして1回。
ながめ
夏の涼しさで1回、それ以外で1回

いくつか注記します。

「暁」の項の「其暁」とは、弥勒が釈迦入滅後5億7千万年後にこの世界に現れるという、その暁のこと。

「五月雨」の項、当時はさみだれのほうが主で、つゆは少ない表現だった。なぜ「梅の雨」と言うのだろう、梅の青い実がこのころ落ちるのを梅の雨と言ったのだろうかといぶかるニュアンス。

「故郷(ふるさと)」の項、故郷は本来は「昔の都の跡」の意味になります。

「雁」の項、「残る雁」とは本来、北に残って南に渡らない雁(秋)と、南に残って北へ帰らない雁(春)の両方を指しました。「日本国語大辞典」で調べても、「残る雁」は春と秋の両方の季語としていますが、今日の俳句歳時記が春としてしか扱わないのは問題。

「老」の項、「鳥・木などに用いて1回」というのは老鶯、老木などを指すのでしょう。

「男」の項、「桂男」というのは月の別称です。月には桂(モクセイ)の大木が生えていて、呉剛という男がそれを伐ろうとしているという伝説に基づきます。

「時雨」の項、時雨は万葉集や古今集では秋のものとして詠まれていました。それが徐々に冬のものとして詠まれるようになったわけで、連歌ではこの時代、秋冬両方で扱われていました。実例を挙げます。「文和千句第三百韻」(1355)より、まず初折5~6句目の秋の時雨を挙げます。

もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿   

前句は「紅葉」「露」と秋の句になっており、後句でも「朝霧」が出てきますから、「時雨」が秋を指していることは明らかです。

同じ連歌の二折表14句目~二折裏1句目には冬の時雨が出てきます。

 なみにはふらぬ橋のしら雪        周阿
村雲は時雨なからのとだへにて     二条良基

前句が「白雪」ですからこの一連は冬季を指しており、後句の「時雨」は冬となります。