2022-09-26

几董『附合てびき蔓』を訳してみた(中編)

 
『蕪村全集 第2巻』(講談社)に収録された「附合てびき蔓」

高井几董著「附合てびき蔓」の現代語訳、2回目です。

『附合てびき蔓』超現代語訳(つづき)

<3.実際の作例に見る付けの手法のいろいろ-発句・脇・第三>

以上の記述は、「几董の考え」とした部分を除けば古人の説の引き写しであり、新たに書いた価値はない。以下に書くことは、連句の実作例に昔からの規則を当てはめて、わかりやすく解釈し、もっぱら初心者向けに要点だけを述べたマニュアルとした。俳諧の練達の士向けのものではなく、初心の未熟な作者のために便利であればと思うだけである。本書を見た人は、この断り書きを読んで著述の意図を理解してもらいたい。

[発句への脇の付け方

鳶の羽もかいつくろひぬ初時雨   去来
ひとふき風の木葉しづまる     芭蕉

発句は「初しぐれ」が季語で、それに対して「鳶」を取り合わせたのが趣向である。「かいつくろふ羽」と表現したところにくふうが見られる。

脇句は「初時雨」に「ひとふき風」と気象同士を付け、「かいつくろふ」という動作の起こりに対し「しづまる」という動きの終了を合わせて一句としての特徴を出したものである。

これが打添(発句の風情をそのままに従って付ける)という脇の付け方である。

市中は物のにほひや夏の月     凡兆
暑し暑しと門々の声        芭蕉

発句は「夏の月」が季語で、それに対して「市中」の「物のにほひ」を取り合わせたのが趣向である。「月の夜」という状況に合わせた句づくりである。

脇句は、「暑し暑し」というのが「夏の夜」の場面に合わせた付けである。月は両句の中間にある。「市中」を「門々」で受けている。「声」は、「物のにほひ」がするということを誰かが声に出して言っているということで、人情を加えた。

これが其場(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、その場所を付句で詠む)という付け方である。

雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人
酒しひ習ふこのごろの月         芭蕉

この発句は「深川の夜」をテーマとした庵主への挨拶句であり、脇句は挨拶への返答である。これらは贈答の際の良い手本である。解釈は、最近毎晩声がするかりがねであるけれども、深川あたりの静かな芭蕉庵ではそれも嗄れているように聞こえて面白いという発句を受けて、脇では「ふだんは酒を勧めるというような亭主ぶったことはやらないけれども、遠来の珍客であるからそういう人には酒を勧めるようなこともちょっと覚えてきたよ」と言う。ここで「月」は助字の月といって、季語を入れるためにもってきたものであるけれども、月の夜のことであるからあながち助字というだけではないし、発句の「雁」とも縁づいている。
四ッ谷注:「雁」と「月」は付合(『俳諧類船集』)。

これが相対(発句に使われた語と同類語を用いる)という脇の付け方である。

菜の花や月は東に日は西に     蕪村
山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

この脇句は何のくふうもない句のように、道理を知らない人は思うであろう。しかし発句に対してたいへん良く合った脇である。「月は東に日は西に」というのは春の長い日のだいたい16時前後、月齢は10ぐらいと想定し、月も昼のうちから出ていると見たところだが、いちめんに菜種の花盛りで、それ以外何もない景色である。東に西にと頭を回すという動きを出した表現に、脇句で「行」という字を使ったのが手柄である。東・西を見やった設定に対応して山もとを付けており、菜の花の風情を霞によって発展させている。

四ッ谷注:「山」と「月・入る日」は付合(『俳諧類船集』)。

これも打添であり、また時分前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した時間帯を付句で詠む)の付でもある。

牡丹散て打かさなりぬ二三片    蕪村
卯月廿日のあり明の影       几董

発句は牡丹の優美な姿を描いてみせた風情で、やや衰えた花びらが二ひら三ひら落ちて散ったのを「打重りぬ」と表現したところが作意である。「二三片」と硬い字を使ったのは、季語の「牡丹」も音読みなのでそれに合わせた狙いである。

脇は、発句の季節を見定めて卯月二十日ごろ(5月中旬)とし、時間帯は早朝と決めて「有明の影」とし、散った牡丹の花びらの上に露などがきらきら光って、有明月の光もうるわしく、いい天気の様子が見えてくるようにした。牡丹には「二十日草」という別名があるので「廿日」と決めたのだな、などと理屈を考えてしまうと、この脇句は大いに気品が下がってしまうから勘弁してほしい。

これが打着(発句の内容を包みこむような大きな場面・背景を詠む)という脇であり、其時(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それにふさわしい出来事や風俗を描く)という付け方でもある。

彳(たたずめ)ば猶ふる雪の夜路かな 几董
我(わが)あとへ来る人の声寒    樗良

発句はひたすらに降りつのる雪の夜の歩行を描く風情である。さすがに歩き疲れて、しばしたたずんでみると、いよいよ雪の勢いが強まる感じなので、休んでいるわけにもいかず、またやるせなく行こうとする様子である。「雪の夜道」と言ったところがくふうで、「猶」という字が一句の眼目になっている。

脇句は、行くも立ち止まるも難儀な大雪の夜に歩くのは自分だけかと思っていたら、また後からも来る人がいて、その人が「さて悪い雪だ」とつぶやく声がいかにも寒そうだと感慨を催した句だ。「声寒」は「声寒げなる」の下半分を略した形。一般的に脇を漢字で留めるべきとするのはことば足らずがないようにするためだが、この句では「寒げなる」というべきところことば足らずが生じている。しかし内容がよく完結していれば、ことばがどうであっても、発句と脇に筋が通ったことになる。これらを見て、完結しているかしていないかの判断について了解してみるとよい。

これも相対であり、有心前句をよく踏まえて、その世界をひっくり返したりせずに言外に想定される状況を補って、詩情豊かに表現する)の付けでもある。

冬木だち月骨髄(コツズイ)に入夜哉 几董
此句老杜が寒き腸(ハラワタ)    蕪村

発句は月の光が鋭く冴えわたる夜に、冬枯れの木の姿がすっかり丸見えになっているさまを描いてみせたところが趣向であり、「月の光も骨身にしむような夜じゃ」というところを「月も骨髄に透るばかり哉」と作ったものである。

脇句は常識的に発句の景色や情を引き継がず、一句の風骨はまるで杜甫の詩を見るようであると発句を褒めたところが趣向である。「寒き腸」というのも、杜甫の「詩腸(詩情)」を思いつつ季節を考慮した会釈(前句の人物や事物に対し、その属性〈容姿、服装、持ち物、体調、付属品などを想定して軽く詠む)にした。こういうのは規格外の脇で、達人でなければ思いつくこともできないやり方である。

芭蕉編のアンソロジー『次韻』所収の連句に
鷺の足雉脛(きじはぎ)長く継(つぎ)そへて    桃青
這句以荘子可見矣(このくそうじをもってみるべし) 其角
とある作例に倣ったものだ。

[脇起りの連句

時には古人の発句を利用し、脇句から始める連句がある。それを「脇起り」という。

花の後まだある春が五日ある    古人
その花見ざる袖の春雨

この発句は、もはや桜はことごとく散ってしまったが、春はまだ4、5日も残っている、このあと4月になるまでの間はどのような春の雰囲気であろうかと、花過ぎの時節にことづけて春への思いを残したところが趣向である。「五日」という数に特段の必然性はない。

脇は、その情景を反映しつつ、「この古人は逢ったことも見たこともない人だが、名前と作品は聞き及んでいて、かねてから慕わしく思っていた」というニュアンスを挨拶ににじませて、発句では「花の後」と過去現在を示しつつ「五日ある」という未来を想像したのに対し、「その過ぎた花すら私は見なかった」と感懐を起こして、「今となっては袖を涙で濡らすばかりだ」と嘆いて「袖の春雨」と結んだものである。「花」「春」という字は発句にもあるのをわざわざ脇でもこの二字を使ったのは、脇起りならではのやり方だ。

しかし脇起りだから発句にある文字を使わなければいけないということはない。ただ、今現在の人と古人とでは違うところがあるということをよく心得て、気を配って脇を付けること。

また夢の中で神仏の暗示を得てできた句を発句とする場合は、夢に見た句は神が詠んだものとみなし、作者名には「御」の字を書いておく。脇は夢を見た人が付けて、以下続けていく。このような場合の決まった方法はないけれども、発句を神の句と心得て、脇にその啓示を受けた心で作るのである。そういうわけでこれも脇起りに同じと言ってよい。また、夢、祝言、奉納の類の連句では、脇の最初の音に「五音相通(ごいんそうつう)」「十韻連声(じゅういんれんせい)」などの手法を用いるかどうかは、その時の宗匠の意見に任せるのがよい。
四ッ谷注:「五音相通」「十韻連声」とは発句の最後の音と脇の最初の音で韻を踏む押韻法で、前者は同じ子音を使用、後者は同じ母音を用いるやり方。

[発句・脇に対する第三の付け方

置炭やさらに旅とも思はれず    越人
雪をもてなす夜すがらの松     知足
海士(あま)の子が鯨を告る貝吹て 芭蕉
四ッ谷注:「置炭」は茶人が炭を継ぎ足すこと。

発句は炉辺に旅人をもてなす情景であるから、脇も打添付で庭の景色を付けた。さて第三は、その2句に対して鯨がやって来たことを告げる法螺貝を吹く音が聞こえると表現し、「他」の句によって出来事を描写することで前の句を海辺の旅泊と見なした付けである。発句と脇が室内の情景であるのに対し、屋外の出来事を繰り出していくので「転じ」が生じるのである。この場合は向附前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける)になっている。

木のもとに汁も膾(なます)もさくら哉 芭蕉
西日のどかによき天気也        珍碩
旅人の虱かきゆく春暮て        曲水

発句は、花の下に遊んで汁にも膾にも落花が降ると景色を賞嘆したが、脇は打添で「西日長閑に」と時分の付で言い流した。「久かたのひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらん」という紀友則の歌を照らし合わせて見れば、いよいよ面白い。さて脇句は「西日」「長閑な天気」と季節の風景を描いたものだが、第三では人間を出してきて、それが旅人であると趣向をこらし、「虱掻ゆく」と動作を出して姿を見えるようにして、「春くれて」と季節は動かないようにしたのはうまく付けたものだ。こういうのが、「たとえ百句の中にまぎれてしまってもこれこそが第三だとわかる句」と言うのであろう。

この発句は人事を扱いながらも、叙景と解釈された句である。脇は普通の情景描写であるが、第三でもそれを続けてしまうと世界が狭くなるので、しっかりと人を出した。したがって起情の句ということになるのである。

啼々も風に吹るる雲雀かな
烏帽子を直す桜ひとむら
山を焼(やく)有明寒く御簾捲(みすまき)て

発句は、春風に向かって雲雀が上がる叙景。脇句では人情を入れて(人間を出して)発句の雲雀に響かせ、「烏帽子を直す」と姿を描き、「桜一むら」と背景を添えた。さて第三は、烏帽子を直す人とは何者であろうと詮議し、離宮などを想定して「御簾まく」と付けた。この第三、一句としての特徴といい着想といい、達人の手際である。

これは其人(前句に人物が登場する場合、その身分、職業、年齢、性格、服装などの特徴を見定め、それにふさわしい句を付ける)の付である。

なきがらを笠にかくすや枯尾花   其角
温石(をんじゃく)さめて皆氷る声 支考
行灯の外よりしらむ海山に     丈草

この発句は、其角が芭蕉翁を追悼した哀傷の作である。脇はその心を受けて「温石さめて」と言い、「皆氷る声」と門人たちの断腸の思いを述べたものかと思う。第三では一転して、旅泊の句を付けたところが面白い。脇を寒夜が明けてゆく様子と想定して、趣向をこらして「屋外の海山から白んでいく」とした一句としての狙いは第三として上出来である。

この付は会釈である。発句も脇も有心(心をこめた詩情豊かな表現)だからである。

やぶれても露の葉数のばせを哉
木槿の外も垣の間引菜
朝の魚都は月に用ゆらん

発句は、秋風に破れた芭蕉を気の毒と見て「露の葉数」と表現。脇では「木槿の垣」と場面を設定し、「間引菜」という意外なものを持ってきたところがしゃれていて一句としての特徴を出している。さて第三は、垣根の外側は菜畑という叙景に、人情を出して「このへんの近い海辺で獲れた魚だが都のほうではちょうど月見の夜宴に供するのであろう」と遠くを思いやった句である。

これらの事例で、第三の留(て・にて・らんなどしめくくる語)が4句目以降につながっていく具合を理解すると良い。

[第三を文字留(漢字で留める)とする場合について

霜月や鸛(こふ)のつくづく並びゐて          荷兮
冬の朝日のあはれ也けり                芭蕉
樫檜(かしひのき)山家(さんか)の体を木葉降(ふる) 重五

発句はこうのとりがちょんちょんと並んでいる情景。「並びたれ」ではなくあえて「て」で留めた。脇句は通常は体言で留めるのだが、ここでは「あはれ也けり」と言ってかえってうまく納まっている。この場合第三は普通の留め方では面白くない。発句は「霜月や」、脇句は「冬の朝日」と出して、二句が強く結びつきすぎて一体化しており、第三を付けるとらえどころもないのだが、わずかに「朝日」という字を手掛かりにして「樫・檜」という常緑樹をもってきて、「山家の体を木の葉降」と一句を調子よくさせたので、第三らしい姿となり、留め方もめずらしく、三句が作るバランスもよく整っている。「樫・檜」と言って下のほうで「木葉降」とつなげたところに注意して耳を傾けるべきである。
四ッ谷注:几董が言いたいことは、発句も脇句も助詞・助動詞で終わっている(テニハ留)ので、第三もテニハ留だと釣り合いが悪いから、漢字止めにしたということであろう。

2022-09-25

几董『附合てびき蔓』を訳してみた(前編)

 
高井几董『附合てびき蔓』(1786年)

連句の好著を現代語訳

蕪村一門についていろいろ資料を調べているうち、蕪村の弟子、高井几董(1741〜1789)が著した『附合てびき蔓』という連句創作マニュアルを目にしました。これがなかなかわかりやすくて面白い。原文を収録した集英社版『古典俳文学大系』第14巻の解説には

本書の特色は、余り細かい作法にとらわれず、体験的・実作的立場で、初学者を指導しようとする点にあった。従って読者に相当歓迎されたようであり、また蕪村一派の連句観や傾向を知る上で、貴重な資料である。(清水孝之)

とあります。今日連句をたしなむ人たちにも役立つところがあるように思われました。(というか、今日の連句入門書にも几董の著書の内容がしばしば反映されている)

ただこのマニュアル、文語で書かれたもので、連句用語もちりばめられているので、素人には読みづらい。現代語に訳した本がないか探してみたのですが、見つかりません。見つからないなら、自分で訳してみよう--
というわけで、蛮勇をふるって訳してみます。わかりやすさを重視していますので、できるだけ連句専門用語は使わず、また適宜ことばを付け足します。相当意訳しています。門外漢の訳ですので間違いや不適切な解釈があると思いますが、ご指摘があればおいおい直していくことにしましょう。では。

『附合てびき蔓』超現代語訳

[自序] (略)

<1.発句から第三までの付け方を中心に>

[発句~5句目までの詠みかた]

昔からの教え
発句客が詠む
あるじが詠む
第三相伴する人が詠む
4句目料理人が詠む
四ッ谷注:「料理人」というのは、あたかも板前が座敷にちょっと顔を出すような具合に、一座の低位の人が出しゃばらずにさらりと詠む感じ。

几董の考え
発句詩情豊かに(有心)叙景句または遠景人間が出てくる句または話者自身を描く句叙景句または動きのある句
発句の世界を踏まえてそれを補うように(有心)叙景句または遠景叙景句または他人を描く句前句から導かれる人間が出てくる句またはモノを描いた句
第三中位の重さで(会釈-あしらい)人間が出てくる句または近景叙景句または他人を描く句人間が出てくる句またはモノを描いた句
4句目軽く付ける(逃げ句)人間が出てくる句または近景人間が出てくる句または話者自身を描く句叙景句またモノを描いた句
5句目人間が出てくる句または話者自身を描く句前句から導かれる人間が出てくる句またはモノを描いた句

[脇の付け方5種類(昔からの教え)]

1) 発句に使われた語と同類語を用いる【相対-あいたい】
2) 「頃」という字で終るように付ける【頃-ころ】
3) 発句で使われた語と正反対の語を用いる【対-つい】
4) 発句の風情をそのままに従って付ける【打添-うちそえ】
5) 発句の内容を包みこむような大きな場面・背景を詠む【打着-うちつけ

[付け方の時代ごとの変化を、前句のテーマ別に実例で示す

前句の題材涼しさ暑さ寒さ
貞門時代の付句川端小松原酔い醒める
談林時代の付句拭い縁緋縮緬竈の塗立
芭蕉以後の付句鶴の脚籠の中の鷲塩鯛の歯
四ッ谷注:ここで几董は「物付(貞門時代)」「心付(談林時代)」「余情付(芭蕉以後)」の違いを実例で示している。物付は前句と同種の題材を使う。心付は前句と論理的なつながりがある題材を使う。余情付は前句と直接の関係はないがイメージに通うところがある題材を使う。芭蕉は物付や心付を避け、余情付を重視するよう指導した。

[脇句と第三についての伝統的な考え

  • 原則として脇句は体言でしめくくる。ただし発句次第では助詞・助動詞でしめくくることもある。
    発句では表現しきれなかった、現地の山川、草木、鳥獣などを補って、発句の雰囲気を増幅させるのが大事である。
  • 脇は漢字で留めよというのは、発句と脇を合わせて一首の和歌のように作るためである。だが発句と脇がよくつながっていて一首の歌のようになっているのを「脇の姿」と言って重視するのである。こうした理を理解すべきである。
  • 第三は発句ではないが、平句でもない。作り方に決まりがあって、「て」「らん」「もなし」「に」のいずれかのテニヲハで留めるように決められている。
  • このように第三の終止に特定の文字が決められているのは、第三は発句のような性格を持つけれども、下を留めないようにして4句目へとつなげるためである。この原理をわかってさえいれば、「て」「に」留めに限定しなくてもよい。しかし、全体の中でも「なるほどこれはいかにも第三の句だ」と思わせるような第三のありようを理解していないならば、やはり決められた留めに従うべきである。(以下略)

 [脇句と第三についての几董の考え

  • 発句で始まったものを脇で引き継ぐことで二句で完結させ、和歌一首の形にすることで脇句の価値が生まれる。したがって脇句の留めは体言や助詞・助動詞に限定されるわけではなく、全体が整っていることをルールとする。
    第三からあらためて連句が始まるのだが、そうは言ってもすでに脇句という前句があり、発句という打越(2句前の句)がある。世界を一転させて連句の流れが前に戻らないようにし、発句と脇が一体となって揃ったところを発展させなければならない。なおかつ、第三から始まって連句は次へ次へと続くので、留めについて決まりがあるのである。第三の句は一巻の中でも難しい場所だ。脇と第三の作り方を熟知すれば、百句だろうが千句だろうがいくらでも詠むことは可能になるのである。脇が良くなく、第三がダメであったら、連句一巻もうまく仕上がらない。まずこの二句の付け方をよく修行することで、自在に付けられるような境地になる。

<2.さまざまな付けの技法>

 [伝統的な付けの形8通り

  • 「寄(よせ)」(前句の語の縁語をとって付ける)
  • 志」訳者には不明)
  • 「観相」(前句の内容に対し、それを喜怒哀楽の観点から見てその心を詠む)
  • 「打返し」(前句とは反対の事柄を付ける)
  • 「欺」訳者には不明)
  • 「前句の情を押出す句」(前句に隠れていた感情を拾い出して付ける)
  • 詞をとる句」(前句のことばの調子を生かして付ける)
  • 「意気」訳者には不明)

 [伝統的な発想法7通り(七名-しちみょう)

  • 前句をよく踏まえて、その世界をひっくり返したりせずに言外に想定される状況を補って、詩情豊かに表現する。【有心-うしん】
  • 前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける。【向附-むかいづけ】
  • 前句に人物が登場しないとき(場の句)、次の句は人を描き、人の心の動きが感じられるように付ける。【起情-きじょう】
  • 前句の人物や事物に対し、その属性(容姿、服装、持ち物、体調、付属品など)を想定して軽く詠む。【会釈-あしらい】
  • 前句が複雑だったり重い内容だったりして付けが難しい場合、関係のない軽い内容(季節、時間、天気など)を付けて連句の流れをスムーズにする。【逃句-にげく】
  • 前句が勢いのある表現である場合、その勢いを引き継いで付ける。【拍子-ひょうし】
  • 前句が色彩語を含む場合、または特定の色を持つ題材の場合、別の色を示唆する句を付ける。【色立-いろだて】

 [伝統的な付けの着眼点8通り(八体-はったい)

  • 前句に人物が登場する場合、その身分、職業、年齢、性格、服装などの特徴を見定め、それにふさわしい句を付ける。【其人-そのひと】
  • 前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、その場所を付句で詠む。【其場-そのば】
  • 前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それにふさわしい出来事や風俗を描く。【其時-そのとき】
      四ッ谷注:各務支考の七名八体説では【時宜】とする。
  • 天体や気象を描く。【天相-てんそう】
  • 前句の内容に対し、それを喜怒哀楽の観点から見てその心を詠む。【観相-かんそう】
  • 前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した時間帯を付句で詠む。【時分-じぶん】
  • 前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した季節を付句で詠む。【時節-じせつ】
  • 前句が歴史・古歌・物語などを連想させる場合、その故事来歴を直接言及せずにそのことをほうふつとさせるような付句を詠む。【面影-おもかげ】

[伝統的な3通りの形(三体-さんたい)

  • 詩情豊かな付け。【有心-うしん】
  • 中位の重さの付け【会釈-あしらい】
  • 軽い付け【逃句-にげく】

[余情付の手法を示す伝統的な5字(取響-とりひびき)

  • 前句が歴史・古歌・物語などを連想させる場合、その故事来歴を直接言及せずにそのことをほうふつとさせるような付句を詠む。【俤-おもかげ】
  • 前句が含む感覚(寒熱、鋭鈍、緊張弛緩などの感覚か?)を引き継いで付ける。【感-かん】
  • 前句が感じさせる香り(?)を引き継いで付ける。【香-かおり】
  • 前句の気分を引き継いで付ける。【移-うつり】
  • 前句が含む動きを引き継いで付ける。【働-はたらき】

[8句を一単位と見た場合の伝統的な展開のしかた(八句之運-はっくのはこび)

    視覚的な句→視覚的な句→聴覚的な句→聴覚的な句→思いの句→思いの句→動作の句→動作の句
    というように2句ずつ詠むポイントを変えていく。

    [付けの技法についての几董の考え

    前章で発句から5句目までの詠みかたについて、「話者自身を描く句(自)/他人を描く句(他)」「モノを描く句(体)/動きを描く句(用)」「人間を描いた句(人情)/叙景の句(景気)」といった区別によって説明した。一巻の連続のさせ方、4句目5句目の進行はこの規則に沿ってよく理解するべきである。

    人情の句で景気の句をはさむとか、景気の句で人情の句をはさむといったやりかたはよくない。このようなやり方は俗に「観音びらき」と言って、タブーとされている。あるいは人情を2句続け、次は景気を2句続けというように縞を織るように2句ずつ付けるやり方をすると、一巻が無難に進むけれども盛り上がりが欠けてしまう。とは言っても景気の句は2句続けて対にしたい。これを俗に「延ばす法」と言う。次に人情・起情の句が出ることを期待するのである。

    人情が2句続き、3句目も人情となる場合は、「前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける(向附)」の手法を導入することで自の句他の句を区別し、そのようにして4句5句と続けていくこともできる。このような変化を入れていかないと、一巻の盛り上がり場所がないことになってしまう。昔の連句には人情が5~6句続いた例もある。よく考えてみること。

    景気の句であってもそこに「見・聞・思・行」の文字が含まれていれば、人事の句だとして人情句との打越を嫌う考えがある。句にもよるけれども、そういうことを言い出すと「花」とか「ほととぎす」といった題材の句でもそこには見る、聞くといった人の動作が関わることは避けられない。こういうことを全部チェックしはじめると細かい詮索におちいってしまって、一巻の勢いがなくなる。句にはこめられた情感があり、作者の意図があるので、景気の句であっても情感を含むものがありうる。情を含むように見えても叙景の句がある。このへんをよくわかった上で議論すべきである。たとえば昔の物語や草紙などに、地の詞(会話や歌を除いた地の文)があることに当てはめて考えてみるといい。連句一巻は、物語を上手に書き綴るのと同じと考えてみるのも、助けになるだろう。

    2022-08-31

    早川来之 冬野虹と同じ墓園に眠る俳人(後編)

    京都・本法寺の仁王門

    来之の連句

    1790年の来之編「春興集」から、来之一門の連句を読んでみましょう。正月の顔見世ということで、全員が一句ずつ付け、付け終わった24句目で終了としています。

    1  うぐひすや夜は梟梅の月     来之
    2  ふまぬ垣ねの雪のむら消     秋水
    3  陽炎にいとけの車さしよせて   花竺
    4  膝にはらりとこぼす別飯     芹水
    5  かほり来る桧原おろしの折々に  雪馬
    6  海岸遠く鐘かすかなり      雅石

    来之の発句は「鴬」に「梅」の配合で、もうベタベタに月並です。ですが以前のブログで説明したように、井原西鶴は「梅に鴬、松に雪、藤に松、紅葉に鹿、花に蝶、水に蛙というような決まった付けをするのが正しい道である」 と言っている。月並が良いという考えなんですね。関西では西鶴のような俳諧観が根強く残っていたと見るべきでしょう。こういう状況を見て芭蕉は「京都大阪では蕉風は根付かないなあ」と嘆いたわけですし、吉分大魯は「芭蕉を復興させるぞ~」と紋切型を排し、自分の実体験に基づく俳諧を実現しようとしたのでした。

    古俳諧というのは、芭蕉や蕪村といった大作家の句だけを見ていたのでは、彼らが何を改革しようとしたのかがよくわかりません。来之のようなマイナーポエットの句も読んでこそ改革の意味がわかるというものです。

    第三では子ども用の牛車が垣根近くに寄せられます。4句目、これは若様が養子に出されようとしている状況で、別れを悲しんで子は膝にご飯をこぼしてしまいます。

    7  綰柳の詩をさまざまに作りなし  松波
    8  横川の室へ艾まいらす      眠花
    9  ありふれた品を小重に取あはせ  素流
    10 やはらかものをまいどいたゞく  錦車
    11 大せつな御主を忍ふ我恋は    羅扇
    12 きへもやりたき霜の足跡     仙國

    7句目、「綰柳」というのは、中国では親しい人との別れにあたっては柳の枝を輪にして送別する風習があった。そのような別れの詩をいろいろに作っている。1~3句目が春の句であったのに、6~8句目でまた春に戻ってしまうのは、正月の連句であることを意識したのでしょうか。

    8句目の「横川の室」は源氏物語の宇治十帖を意識した表現。作者の眠花はこの中で唯一の女性です。

    11~12句目は恋の座。このあたり、歴史的かなづかいに怪しいところが散見されますが、昔の人はけっこうおおざっぱです。

    13 野烏の有明月に啼さはき     梅風
    14 餓民をすくふ一倉の粟      鷺郷
    15 こと腹を出てかしこき君なれや  故園
    16 神人(
    じにん)が公事の時得てしかな 蓬雨
    17 斧入て進(しんず)るにあき花の山  秋虹
    18 長い羽織は誰も着ぬ春      巴山

    13句目はカラスが鳴き騒ぐ不吉な情景。はたして14句目で飢饉が到来しますが、為政者の賢明な判断により粟が放出されます。15句目、嫡出のお世継ぎが退いて、異腹の兄弟が殿様になり、賢い判断をなさった。16句目、殿様が賢い人に代わった機会を逃さず神社の人が裁判を起こす。17句目、裁判に勝って山の所有が認められ木を伐っているが、それにも飽きてきた。このへん、また春に逆戻りです。

    19 たま/\の御影供休に飛出行   移石 
    20 女房もてとて伯母のうるさき   漢水
    21 薄いものあとまで見ゆる秋の月  驢丹
    22 小刀添し盆の御所柿       百長
    23 次の間は皆昼酒に酔たふれ    春山
    24 とう/\と鳴滝殿の滝      竹之 

    19句目、御影供に参るため思いがけず店が休みになったので、使用人は実家に戻ろうと飛び出していく。20句目、実家に戻ったものの伯母さんから説教。 

    芭蕉時代の連句は解釈が難しく、評釈書に頼らないとなかなか理解できないのですが、安永・天明期以降になるとかなりわかりやすくなっています。とくに来之一門の連句は、良くも悪しくも飛躍が少ないので読みやすいと言えるでしょう。

    撰集に採られた句

    来之の発句は同時代に編まれたいくつかの撰集に採録されています。まずは黒柳維駒(これこま)編の「五車反故(ごしゃはうぐ)」(1783)より。維駒は蕪村の高弟であった黒柳召波の息子です。父の十三回忌の追善として刊行したもので、もともと召波が集めていた撰集に維駒が最近の句を補足して完成させたもの。

    野の宮や笹の古葉の落る音

    嵯峨野の野宮神社あたりの竹林を、そのままに描いた句。

    次は西村呂蛤編の「雁風呂」(1792)より。呂蛤は几董門下で、几董没後、夜半亭四世を継ぎました。こうやって見ると、来之は几董、維駒、呂蛤と蕪村系の俳人たちと比較的よく付き合っていますね。蕪村自身も一度、来之の「春興集」に句を寄せたことがあります。来之と蕪村一門では俳諧観が合うとは思えないのですが、だいたい今日でも関西の俳人たちには関東と違って流派の垣根を越えて自由に付き合う気風があります。几董はとくに人当たりがよくて広く交際できる性格でしたから、来之とも行き来できたことでしょう。

    卯の花を血になよごしそ郭公(ほとゝぎす) 
    筆柿の紅葉見事や光悦寺

    「ほととぎす」と「卯の花」は付合。そして「啼いて血を吐くほととぎす」という定番の言いまわしに従っていますね。「筆」と「柿」も付合。来之らしい徹底的に紋切り型を目指した句です。

    もう一つ、蝶夢編の「新類題発句集」(1791)より。蝶夢は蕉風俳諧の復興を願って芭蕉一門の俳諧の集成などに努めた人で、従来の発句を季語別に収集した「類題発句集」を編纂しましたが、続いて当代の作品を集めた「新類題発句集」を刊行したのでした。

    そめて行一むら雨やかきつ機
    葉桜や寺行ぬける人ばかり
    茅の輪から秋にし生るゝこゝろかな
    岩橋の明ゆく顔や煤はらひ

    一句目は「そめていくひとむらさめやかきつばた」と読みます。雨の菖蒲園を美しく詠じました。二句目は、桜の時節は皆足を止めて花に見入っていたけれど、葉桜のころともなれば誰もが目を向けることなく寺を通り抜けていくよという句。実感があって私はわりと好きな作です。四句目、「岩橋」というのは葛城山に石橋を架けようと一言主の神に命じたところ、顔が醜いので夜しか働こうとしなかったという伝説を踏まえます。煤払いが終わって顔が汚れて真っ黒になっているが、あたかも一言主の神が夜の仕事を終えたときの顔みたいだねと言ってみた句でしょうか。

    本法寺界隈を歩く

    さて、20年前に冬野虹が死去した後、私は分骨して遺灰を本法寺にも納めることにしました。彼女が大好きだった姉と同じ場所に葬ってほしいと思っていたことは間違いないからです。

    この8月も、私は虹のために本法寺の共同墓にお参りし、また来之ゆかりの土地を訪ねてきました。

    本法寺の共同墓

    共同墓に花と線香を供えたあと、今は参る人とてなさそうな来之の墓にも線香をおすそ分けしてきました。墓石の向かって左側面には、彼の時世の句が彫られています。

    今日までは世耳つとめたる案山子かな

    「世耳」とは「世辞」のこと。自分のことを「案山子」と嘲り、生きている間は周囲にお世辞を言いながら身過ぎ世過ぎをしてきましたが、墓の中に入ったらもうその必要はありませんという遺言です。こうした偉ぶらない、世の中を醒めた眼で見ながら少し悲しい気持ちを抱えて人生を送った春鷗舎来之という人物に、いささかの共感の念を持つのは私だけでしょうか。

    来之墓に彫られた辞世の句

    本法寺に隣接するのが表千家の不審菴と裏千家の今日庵です。この地域は日本の茶道の中心地で、茶道関係の会館や商店を見ることができます。前回、古木町には茶道関係者が住んでいたと書きましたが、これは古木町が不審菴や今日庵に近いことに理由があるでしょう。

    本法寺門前から今日庵・不審菴をのぞむ

    来之の住居があった小川通今出川上ルのあたりにも行ってみました。古地図と比べると町の区画が変わっていて、小川通も今出川通もずっと大きな道に変貌していました。本法寺からは歩いて8分ぐらいで、彼がこの寺に葬られたのも自然なこととして理解できます。ひょっとして「早川」という家がないかどうか、道沿いの表札を見て歩きましたが、没後200年以上を経てそんな家が残っているはずもありませんでした。

    小川通今出川上ルの現況

    近くに小さな地蔵堂がありました。この古いお地蔵さんは来之のことを知っているかもしれませんね。


    私は天国だの来世だのといったものの存在を信じていませんし、人間の意識は生きている間がすべてだと考えています。しかし「もしあの世というものがあるとしたら」と想像してあれこれ楽しむのは、生き残った者の権利でしょう。私は天上で来之が捌として連句を巻き、そこに冬野虹が参加している様子を思い浮かべます。虹が提出する奇抜な付句を見て、来之は目を白黒させているだろうなあ、そんな光景を空想してほほえむのです。

    * * *

    本法寺では本阿弥光悦が作庭した「巴の庭」を拝観することができます。また涅槃会のころには長谷川等伯筆の涅槃図が公開されます。もし西陣あたりを観光で訪れることがあれば、よかったら本法寺にもお立ち寄りいただき、共同墓や来之の墓にもお参りくだされば嬉しく存じます。

    早川来之 冬野虹と同じ墓園に眠る俳人(前編)


    京都・本法寺の長谷川等伯像

    はるかもめ???

    「『はるかもめ・しゃらい』ってどういう人か、わからないかしら?」と妻の冬野虹が言う。私は人名辞典や俳句辞典を調べましたが、虹の生前にはとうとうその人物のことはわかりませんでした。

    * * *

    いきさつはこうです。虹の8歳年上のお姉さん、裕代は33歳で亡くなりました。母親は婚家から遺骨を分けてもらい、縁のある京都・上京区の日蓮宗本山、本法寺の共同墓地にそれを納め、春秋の彼岸に供養をしていました。

    裕代は虹がもっとも慕った人で、子どものころから姉の後をついて歩いていました。彼女の創作にとって、姉の早すぎる死への無念の思いは、重要な創作動機になっていたと思います。そんなことがあって、彼女が京都に行くときには必ず本法寺の墓にお参りしていました。

    墓地の入り口に、由緒ありげな墓が一基立っています。そこには「春鷗舎来之墓」ときれいな字で彫られてあります。


    春鷗舎来之墓

    何か粋な人物めいた名前。俳人でしょうか、それとも川柳人でしょうか。そこに虹は興味を持ったのですが、正体はつかめませんでした。

    春鷗舎来と石に刻まれているを見るたび春の雪ふる  冬野 虹

    ところが先日「蕪村全集」の中の蕪村年譜を調べていて、思わず「アッ」と声を上げました。安永4年(1775年)のところに次のような事項が載っていたのです。

    ○秋 嵐山編『猿利口』刊行(明和9年8月自序、安永4年秋・春鷗舎来之跋

    なんと、こんなところにハルカモメ氏の名前があるではありませんか。この人は蕪村と同時代の俳人だったわけだ。 

    あらためてネットで調査を再開しました。20年前に検索した時と比べて公開されている情報ははるかに充実していて、さまざまなことがわかってきました。まずこの人物の名前は「早川来之」であり、別号が春鷗舎・四明窓だったということです。つまり、「はるかもめ・しゃらい」ではなく、「しゅんおうしゃ・らいし」が正しかったのです! 1714年生-1795年9月27日没、享年82歳。蕪村より2歳年上ですが、没年は蕪村の11年後、高井几董よりも6年遅く、当時としては長寿であったことがわかります。大坂生まれで京都・小川今出川上ルに居住したといいます。

    来之は松木竿秋(1696-1772)門下、さらに竿秋は松木淡々(1674-1761)の弟子でした。淡々はもと江戸で榎本其角に師事し、其角の死後に京都に転居しました。『朝日日本歴史人物事典』で「松木淡々」を引くと

    淡々は、経営の才があり、生活も豪奢を極め、性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は、晦渋で、高踏を装って人を弄するところがあり、詩としての価値は認められない。

    と散々の書かれようです。何はともあれ来之はその淡々の孫弟子であったわけです。

    梅を愛した能書家の俳人

    来之が跋を書いた嵐山編『猿利口』ですが、嵐山は蕪村や几董と親交があった俳人でした。もともと江戸生まれ、京都に移住しましたが、洛西嵐山の風景に魅了され、俳号も竹護窓嵐山と改めました。生前に『猿利口』という撰集(知己の発句を集めたアンソロジー)を編纂していたのですが、出版がかなわぬうちに死去しました。生前から清書稿の作成を頼まれていた来之が跋文も執筆することになった次第でした。

    当時の木版出版物は、まず誰かが清書稿(版下)を書き、それをなぞって版木を彫り、刷りに回します。来之は『猿利口』だけでなく、炭大祇の遺稿である『大祇句選』の版下も書いていたようです。門流を越えて彼が版下制作を依頼されたのは、おそらく来之が達筆であったことが理由ではないかと私は推測しています。下の画像は彼の自筆ですが、すっきりとして端正ですね。ひいき目かもしれませんが、恬淡たる性格が感じられるように思います。墓碑の「来之」の字と比べていただけると、墓の春鷗舎来之と俳人早川来之が同一人であることが確認できます。(墓碑銘は生前に自分で書いておいたのでしょう)

    では『猿利口』に収録された来之の発句を見てみましょう。3句掲載されています。

    吹/\て月のこぼるゝ野分かな
    深草を粟に追るゝうづらかな
    拵(こしらへ)て親に引(ひか)せる鳴子かな

    1句目、「野分」に「夕の月」が付合です(俳諧の付合についてはこちらを参照)。強風が月を吹き飛ばしたというのは類想の多い表現ですが、そういう典型的な風景を詠むことが来之にとっては望ましい句境なのでした。

    2句目は「深草」と「粟」がともに「鶉」の付合です。「粟鶉」は古来和歌にも詠まれ、画題ともされてきたテーマ。全体としては藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里」の本歌取りで、粟畑から鶉が追い立てられている情景です。

    3句目、「引く」と「鳴子の縄」が付合。子どもが作った鳴子を親が引いて遊んでみせる。こういう句を見ると、来之サンはけっこう子煩悩だったかもしれません。

    続いて、新年の刷り物に紹介された句を読んでみます。江戸時代には、各宗匠は正月に一門の発句や連句を掲載した冊子を出版し、自派のPRにつとめていました。それらは「歳旦帳」「春興集」「初懐紙」「除元集」などと名づけられ、門下だけではなく親しい有力俳人からも出句をしてもらっていました。来之もそうしたパンフレットを発行しています。まずは他派の正月冊子に寄稿した彼の発句から見ていきましょう。

    梅が香や美人に逢へる夢心 (岡五雲編 1779年「歳旦」より)

    梅のよい香りをかぐと、夢の中で美人に逢ったみたいなぽーっとした気持ちになるよという句。彼には「春雨やよき人やどる草の軒」という句もありますから、来之サン、美人には弱かったかも。

    何人(なにびと)の栖(すみか)と梅の古木町 (井上重厚編 1782年「初懐紙 落柿舎」より)

    「古木町」は京都市上京区の町名で、茶人や風炉師(茶釜用の炉などを作る陶工)が住んでいたといいます。周辺には尾形光琳・乾山の墓所である泉妙寺や本阿弥光悦の江戸屋敷などもありました。来之の家からも近く、このへんは散歩ルートだったかもしれません。風流人たちが住む町を歩きながら、素敵な梅を咲かせているこの家はどなたの御宅かと興味を惹かれた様子です。


    京都市上京区古木町の現況

    木つたふて香の流るゝや雨の梅 (高井几董編 1787年「初懐紙」より)

    来之には梅の句が多い。これは私が目にした出版物の多くが正月の冊子であったことも影響しているでしょうが、それにしても梅が好きだったことは間違いないでしょう。

    雪とけや金商人の屋しき跡 (高井几董編 1786年「初懐紙」より)

    「金商人(かねあきゅうど)」とは、砂金などを売買する人かあるいは両替商のこと。雪が解けてしまうように、金商人も破産して屋敷はなくなってしまった。金儲けする人間への反発心のようなものが垣間見えます。来之がどのような職業に就いていたのかは明らかではありませんが、あまり蓄財は得意ではなかったかもしれません。

    かげろふや捨置く鍬の光より (高井几董編 1780年「初懐紙」より)

    来之にはわりと旧弊な感じの句が多いのですが、この句などはモノに即していて比較的新しい視点であると言えます。

    鴨川沿いのそぞろ歩き

    次に来之自身が宗匠として刊行した正月冊子、「除元集」「春興集」に掲載された彼の句を読んでみます。

    今日でも俳句の出版物はそう売れるものではありませんが、当時の正月冊子も販売に多くを期待しての発行とは思えません。門人たちから出句料をとって宗匠の収入とし、関係先へはPRのため無償で配布していたのではと想像します。『春興集』に出句している門人たちの顔ぶれから察するに、来之を京で支えていた主要な門人は30人程度ではなかったかと思います。このほかに、地方在住で点付を乞うてくる門人や、常連ではない作者を加えて、総勢60~90名といったところでしょうか。とくに岡山方面の作者の名前を多く見ることができます。では来之の作品-

    物ねぎるよい女房や年の市 1785年「除元集」より)

    値切りのうまい奥さんは貴重戦力。

    ともに泣医者の麁相(そそう)や涅槃像 1785年「除元集」より)

    本法寺は絵師の長谷川等伯と非常に縁が深い寺で、境内には等伯の銅像が立ち、また等伯作の涅槃図を所蔵しています。涅槃図には「耆婆(ぎば)大臣」という医師の祖と言われる人物を描く決まりになっています。医師は人の死にも表情を変えてはいけないのだが、釈迦の命を救えなかったので耆婆大臣はうかつにも泣いているよという句。掲句はあるいは等伯の涅槃図に発想を得たのかもしれません。

    む月始の夜春風いまだ寒けれとさすがに月のよそひのなつかしければ酒興にうかれて鴨涯をめぐる
    川上にちどり啼なり春の月 1790年「春興集」より)
    加茂の水川下よりやぬるみけん 1791年「春興集」より)
    川上や藤を潜(くぐり)て筏行 同)

     一句目の前書き、「鴨涯」とは鴨川の岸辺のこと。京都に住んだフランス文学者の生島遼一に『鴨涯日日』『鴨涯雑記』という随筆集があります。鴨川を愛し、その岸辺を歩きながら季節を楽しむ来之のゆったりした心持ちには、共感できますね。

    いとゆふや俤かはる北の山 1790年「春興集」より)
    残雪や比良のこなたは春の山 同)

    山/\のすがたはみえず春の雨」の句もあります。鴨川べりをそぞろ歩きしながら、周囲の山々に思いをはせることが多かったようです。比良山は昔は京の町中からもっとよく見えたと言います。

    次回は来之の連句を読んでいきます。