2022-09-26

几董『附合てびき蔓』を訳してみた(中編)

 
『蕪村全集 第2巻』(講談社)に収録された「附合てびき蔓」

高井几董著「附合てびき蔓」の現代語訳、2回目です。

『附合てびき蔓』超現代語訳(つづき)

<3.実際の作例に見る付けの手法のいろいろ-発句・脇・第三>

以上の記述は、「几董の考え」とした部分を除けば古人の説の引き写しであり、新たに書いた価値はない。以下に書くことは、連句の実作例に昔からの規則を当てはめて、わかりやすく解釈し、もっぱら初心者向けに要点だけを述べたマニュアルとした。俳諧の練達の士向けのものではなく、初心の未熟な作者のために便利であればと思うだけである。本書を見た人は、この断り書きを読んで著述の意図を理解してもらいたい。

[発句への脇の付け方

鳶の羽もかいつくろひぬ初時雨   去来
ひとふき風の木葉しづまる     芭蕉

発句は「初しぐれ」が季語で、それに対して「鳶」を取り合わせたのが趣向である。「かいつくろふ羽」と表現したところにくふうが見られる。

脇句は「初時雨」に「ひとふき風」と気象同士を付け、「かいつくろふ」という動作の起こりに対し「しづまる」という動きの終了を合わせて一句としての特徴を出したものである。

これが打添(発句の風情をそのままに従って付ける)という脇の付け方である。

市中は物のにほひや夏の月     凡兆
暑し暑しと門々の声        芭蕉

発句は「夏の月」が季語で、それに対して「市中」の「物のにほひ」を取り合わせたのが趣向である。「月の夜」という状況に合わせた句づくりである。

脇句は、「暑し暑し」というのが「夏の夜」の場面に合わせた付けである。月は両句の中間にある。「市中」を「門々」で受けている。「声」は、「物のにほひ」がするということを誰かが声に出して言っているということで、人情を加えた。

これが其場(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、その場所を付句で詠む)という付け方である。

雁がねもしづかに聞(きけ)ばからびずや 越人
酒しひ習ふこのごろの月         芭蕉

この発句は「深川の夜」をテーマとした庵主への挨拶句であり、脇句は挨拶への返答である。これらは贈答の際の良い手本である。解釈は、最近毎晩声がするかりがねであるけれども、深川あたりの静かな芭蕉庵ではそれも嗄れているように聞こえて面白いという発句を受けて、脇では「ふだんは酒を勧めるというような亭主ぶったことはやらないけれども、遠来の珍客であるからそういう人には酒を勧めるようなこともちょっと覚えてきたよ」と言う。ここで「月」は助字の月といって、季語を入れるためにもってきたものであるけれども、月の夜のことであるからあながち助字というだけではないし、発句の「雁」とも縁づいている。
四ッ谷注:「雁」と「月」は付合(『俳諧類船集』)。

これが相対(発句に使われた語と同類語を用いる)という脇の付け方である。

菜の花や月は東に日は西に     蕪村
山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

この脇句は何のくふうもない句のように、道理を知らない人は思うであろう。しかし発句に対してたいへん良く合った脇である。「月は東に日は西に」というのは春の長い日のだいたい16時前後、月齢は10ぐらいと想定し、月も昼のうちから出ていると見たところだが、いちめんに菜種の花盛りで、それ以外何もない景色である。東に西にと頭を回すという動きを出した表現に、脇句で「行」という字を使ったのが手柄である。東・西を見やった設定に対応して山もとを付けており、菜の花の風情を霞によって発展させている。

四ッ谷注:「山」と「月・入る日」は付合(『俳諧類船集』)。

これも打添であり、また時分前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それが発生した時間帯を付句で詠む)の付でもある。

牡丹散て打かさなりぬ二三片    蕪村
卯月廿日のあり明の影       几董

発句は牡丹の優美な姿を描いてみせた風情で、やや衰えた花びらが二ひら三ひら落ちて散ったのを「打重りぬ」と表現したところが作意である。「二三片」と硬い字を使ったのは、季語の「牡丹」も音読みなのでそれに合わせた狙いである。

脇は、発句の季節を見定めて卯月二十日ごろ(5月中旬)とし、時間帯は早朝と決めて「有明の影」とし、散った牡丹の花びらの上に露などがきらきら光って、有明月の光もうるわしく、いい天気の様子が見えてくるようにした。牡丹には「二十日草」という別名があるので「廿日」と決めたのだな、などと理屈を考えてしまうと、この脇句は大いに気品が下がってしまうから勘弁してほしい。

これが打着(発句の内容を包みこむような大きな場面・背景を詠む)という脇であり、其時(前句に詠まれた出来事の起こった状況を想定し、それにふさわしい出来事や風俗を描く)という付け方でもある。

彳(たたずめ)ば猶ふる雪の夜路かな 几董
我(わが)あとへ来る人の声寒    樗良

発句はひたすらに降りつのる雪の夜の歩行を描く風情である。さすがに歩き疲れて、しばしたたずんでみると、いよいよ雪の勢いが強まる感じなので、休んでいるわけにもいかず、またやるせなく行こうとする様子である。「雪の夜道」と言ったところがくふうで、「猶」という字が一句の眼目になっている。

脇句は、行くも立ち止まるも難儀な大雪の夜に歩くのは自分だけかと思っていたら、また後からも来る人がいて、その人が「さて悪い雪だ」とつぶやく声がいかにも寒そうだと感慨を催した句だ。「声寒」は「声寒げなる」の下半分を略した形。一般的に脇を漢字で留めるべきとするのはことば足らずがないようにするためだが、この句では「寒げなる」というべきところことば足らずが生じている。しかし内容がよく完結していれば、ことばがどうであっても、発句と脇に筋が通ったことになる。これらを見て、完結しているかしていないかの判断について了解してみるとよい。

これも相対であり、有心前句をよく踏まえて、その世界をひっくり返したりせずに言外に想定される状況を補って、詩情豊かに表現する)の付けでもある。

冬木だち月骨髄(コツズイ)に入夜哉 几董
此句老杜が寒き腸(ハラワタ)    蕪村

発句は月の光が鋭く冴えわたる夜に、冬枯れの木の姿がすっかり丸見えになっているさまを描いてみせたところが趣向であり、「月の光も骨身にしむような夜じゃ」というところを「月も骨髄に透るばかり哉」と作ったものである。

脇句は常識的に発句の景色や情を引き継がず、一句の風骨はまるで杜甫の詩を見るようであると発句を褒めたところが趣向である。「寒き腸」というのも、杜甫の「詩腸(詩情)」を思いつつ季節を考慮した会釈(前句の人物や事物に対し、その属性〈容姿、服装、持ち物、体調、付属品などを想定して軽く詠む)にした。こういうのは規格外の脇で、達人でなければ思いつくこともできないやり方である。

芭蕉編のアンソロジー『次韻』所収の連句に
鷺の足雉脛(きじはぎ)長く継(つぎ)そへて    桃青
這句以荘子可見矣(このくそうじをもってみるべし) 其角
とある作例に倣ったものだ。

[脇起りの連句

時には古人の発句を利用し、脇句から始める連句がある。それを「脇起り」という。

花の後まだある春が五日ある    古人
その花見ざる袖の春雨

この発句は、もはや桜はことごとく散ってしまったが、春はまだ4、5日も残っている、このあと4月になるまでの間はどのような春の雰囲気であろうかと、花過ぎの時節にことづけて春への思いを残したところが趣向である。「五日」という数に特段の必然性はない。

脇は、その情景を反映しつつ、「この古人は逢ったことも見たこともない人だが、名前と作品は聞き及んでいて、かねてから慕わしく思っていた」というニュアンスを挨拶ににじませて、発句では「花の後」と過去現在を示しつつ「五日ある」という未来を想像したのに対し、「その過ぎた花すら私は見なかった」と感懐を起こして、「今となっては袖を涙で濡らすばかりだ」と嘆いて「袖の春雨」と結んだものである。「花」「春」という字は発句にもあるのをわざわざ脇でもこの二字を使ったのは、脇起りならではのやり方だ。

しかし脇起りだから発句にある文字を使わなければいけないということはない。ただ、今現在の人と古人とでは違うところがあるということをよく心得て、気を配って脇を付けること。

また夢の中で神仏の暗示を得てできた句を発句とする場合は、夢に見た句は神が詠んだものとみなし、作者名には「御」の字を書いておく。脇は夢を見た人が付けて、以下続けていく。このような場合の決まった方法はないけれども、発句を神の句と心得て、脇にその啓示を受けた心で作るのである。そういうわけでこれも脇起りに同じと言ってよい。また、夢、祝言、奉納の類の連句では、脇の最初の音に「五音相通(ごいんそうつう)」「十韻連声(じゅういんれんせい)」などの手法を用いるかどうかは、その時の宗匠の意見に任せるのがよい。
四ッ谷注:「五音相通」「十韻連声」とは発句の最後の音と脇の最初の音で韻を踏む押韻法で、前者は同じ子音を使用、後者は同じ母音を用いるやり方。

[発句・脇に対する第三の付け方

置炭やさらに旅とも思はれず    越人
雪をもてなす夜すがらの松     知足
海士(あま)の子が鯨を告る貝吹て 芭蕉
四ッ谷注:「置炭」は茶人が炭を継ぎ足すこと。

発句は炉辺に旅人をもてなす情景であるから、脇も打添付で庭の景色を付けた。さて第三は、その2句に対して鯨がやって来たことを告げる法螺貝を吹く音が聞こえると表現し、「他」の句によって出来事を描写することで前の句を海辺の旅泊と見なした付けである。発句と脇が室内の情景であるのに対し、屋外の出来事を繰り出していくので「転じ」が生じるのである。この場合は向附前句に登場する人物に対し、別の人物を付ける)になっている。

木のもとに汁も膾(なます)もさくら哉 芭蕉
西日のどかによき天気也        珍碩
旅人の虱かきゆく春暮て        曲水

発句は、花の下に遊んで汁にも膾にも落花が降ると景色を賞嘆したが、脇は打添で「西日長閑に」と時分の付で言い流した。「久かたのひかりのどけき春の日にしづごころなく花のちるらん」という紀友則の歌を照らし合わせて見れば、いよいよ面白い。さて脇句は「西日」「長閑な天気」と季節の風景を描いたものだが、第三では人間を出してきて、それが旅人であると趣向をこらし、「虱掻ゆく」と動作を出して姿を見えるようにして、「春くれて」と季節は動かないようにしたのはうまく付けたものだ。こういうのが、「たとえ百句の中にまぎれてしまってもこれこそが第三だとわかる句」と言うのであろう。

この発句は人事を扱いながらも、叙景と解釈された句である。脇は普通の情景描写であるが、第三でもそれを続けてしまうと世界が狭くなるので、しっかりと人を出した。したがって起情の句ということになるのである。

啼々も風に吹るる雲雀かな
烏帽子を直す桜ひとむら
山を焼(やく)有明寒く御簾捲(みすまき)て

発句は、春風に向かって雲雀が上がる叙景。脇句では人情を入れて(人間を出して)発句の雲雀に響かせ、「烏帽子を直す」と姿を描き、「桜一むら」と背景を添えた。さて第三は、烏帽子を直す人とは何者であろうと詮議し、離宮などを想定して「御簾まく」と付けた。この第三、一句としての特徴といい着想といい、達人の手際である。

これは其人(前句に人物が登場する場合、その身分、職業、年齢、性格、服装などの特徴を見定め、それにふさわしい句を付ける)の付である。

なきがらを笠にかくすや枯尾花   其角
温石(をんじゃく)さめて皆氷る声 支考
行灯の外よりしらむ海山に     丈草

この発句は、其角が芭蕉翁を追悼した哀傷の作である。脇はその心を受けて「温石さめて」と言い、「皆氷る声」と門人たちの断腸の思いを述べたものかと思う。第三では一転して、旅泊の句を付けたところが面白い。脇を寒夜が明けてゆく様子と想定して、趣向をこらして「屋外の海山から白んでいく」とした一句としての狙いは第三として上出来である。

この付は会釈である。発句も脇も有心(心をこめた詩情豊かな表現)だからである。

やぶれても露の葉数のばせを哉
木槿の外も垣の間引菜
朝の魚都は月に用ゆらん

発句は、秋風に破れた芭蕉を気の毒と見て「露の葉数」と表現。脇では「木槿の垣」と場面を設定し、「間引菜」という意外なものを持ってきたところがしゃれていて一句としての特徴を出している。さて第三は、垣根の外側は菜畑という叙景に、人情を出して「このへんの近い海辺で獲れた魚だが都のほうではちょうど月見の夜宴に供するのであろう」と遠くを思いやった句である。

これらの事例で、第三の留(て・にて・らんなどしめくくる語)が4句目以降につながっていく具合を理解すると良い。

[第三を文字留(漢字で留める)とする場合について

霜月や鸛(こふ)のつくづく並びゐて          荷兮
冬の朝日のあはれ也けり                芭蕉
樫檜(かしひのき)山家(さんか)の体を木葉降(ふる) 重五

発句はこうのとりがちょんちょんと並んでいる情景。「並びたれ」ではなくあえて「て」で留めた。脇句は通常は体言で留めるのだが、ここでは「あはれ也けり」と言ってかえってうまく納まっている。この場合第三は普通の留め方では面白くない。発句は「霜月や」、脇句は「冬の朝日」と出して、二句が強く結びつきすぎて一体化しており、第三を付けるとらえどころもないのだが、わずかに「朝日」という字を手掛かりにして「樫・檜」という常緑樹をもってきて、「山家の体を木の葉降」と一句を調子よくさせたので、第三らしい姿となり、留め方もめずらしく、三句が作るバランスもよく整っている。「樫・檜」と言って下のほうで「木葉降」とつなげたところに注意して耳を傾けるべきである。
四ッ谷注:几董が言いたいことは、発句も脇句も助詞・助動詞で終わっている(テニハ留)ので、第三もテニハ留だと釣り合いが悪いから、漢字止めにしたということであろう。