2022-08-31

早川来之 冬野虹と同じ墓園に眠る俳人(前編)


京都・本法寺の長谷川等伯像

はるかもめ???

「『はるかもめ・しゃらい』ってどういう人か、わからないかしら?」と妻の冬野虹が言う。私は人名辞典や俳句辞典を調べましたが、虹の生前にはとうとうその人物のことはわかりませんでした。

* * *

いきさつはこうです。虹の8歳年上のお姉さん、裕代は33歳で亡くなりました。母親は婚家から遺骨を分けてもらい、縁のある京都・上京区の日蓮宗本山、本法寺の共同墓地にそれを納め、春秋の彼岸に供養をしていました。

裕代は虹がもっとも慕った人で、子どものころから姉の後をついて歩いていました。彼女の創作にとって、姉の早すぎる死への無念の思いは、重要な創作動機になっていたと思います。そんなことがあって、彼女が京都に行くときには必ず本法寺の墓にお参りしていました。

墓地の入り口に、由緒ありげな墓が一基立っています。そこには「春鷗舎来之墓」ときれいな字で彫られてあります。


春鷗舎来之墓

何か粋な人物めいた名前。俳人でしょうか、それとも川柳人でしょうか。そこに虹は興味を持ったのですが、正体はつかめませんでした。

春鷗舎来と石に刻まれているを見るたび春の雪ふる  冬野 虹

ところが先日「蕪村全集」の中の蕪村年譜を調べていて、思わず「アッ」と声を上げました。安永4年(1775年)のところに次のような事項が載っていたのです。

○秋 嵐山編『猿利口』刊行(明和9年8月自序、安永4年秋・春鷗舎来之跋

なんと、こんなところにハルカモメ氏の名前があるではありませんか。この人は蕪村と同時代の俳人だったわけだ。 

あらためてネットで調査を再開しました。20年前に検索した時と比べて公開されている情報ははるかに充実していて、さまざまなことがわかってきました。まずこの人物の名前は「早川来之」であり、別号が春鷗舎・四明窓だったということです。つまり、「はるかもめ・しゃらい」ではなく、「しゅんおうしゃ・らいし」が正しかったのです! 1714年生-1795年9月27日没、享年82歳。蕪村より2歳年上ですが、没年は蕪村の11年後、高井几董よりも6年遅く、当時としては長寿であったことがわかります。大坂生まれで京都・小川今出川上ルに居住したといいます。

来之は松木竿秋(1696-1772)門下、さらに竿秋は松木淡々(1674-1761)の弟子でした。淡々はもと江戸で榎本其角に師事し、其角の死後に京都に転居しました。『朝日日本歴史人物事典』で「松木淡々」を引くと

淡々は、経営の才があり、生活も豪奢を極め、性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は、晦渋で、高踏を装って人を弄するところがあり、詩としての価値は認められない。

と散々の書かれようです。何はともあれ来之はその淡々の孫弟子であったわけです。

梅を愛した能書家の俳人

来之が跋を書いた嵐山編『猿利口』ですが、嵐山は蕪村や几董と親交があった俳人でした。もともと江戸生まれ、京都に移住しましたが、洛西嵐山の風景に魅了され、俳号も竹護窓嵐山と改めました。生前に『猿利口』という撰集(知己の発句を集めたアンソロジー)を編纂していたのですが、出版がかなわぬうちに死去しました。生前から清書稿の作成を頼まれていた来之が跋文も執筆することになった次第でした。

当時の木版出版物は、まず誰かが清書稿(版下)を書き、それをなぞって版木を彫り、刷りに回します。来之は『猿利口』だけでなく、炭大祇の遺稿である『大祇句選』の版下も書いていたようです。門流を越えて彼が版下制作を依頼されたのは、おそらく来之が達筆であったことが理由ではないかと私は推測しています。下の画像は彼の自筆ですが、すっきりとして端正ですね。ひいき目かもしれませんが、恬淡たる性格が感じられるように思います。墓碑の「来之」の字と比べていただけると、墓の春鷗舎来之と俳人早川来之が同一人であることが確認できます。(墓碑銘は生前に自分で書いておいたのでしょう)

では『猿利口』に収録された来之の発句を見てみましょう。3句掲載されています。

吹/\て月のこぼるゝ野分かな
深草を粟に追るゝうづらかな
拵(こしらへ)て親に引(ひか)せる鳴子かな

1句目、「野分」に「夕の月」が付合です(俳諧の付合についてはこちらを参照)。強風が月を吹き飛ばしたというのは類想の多い表現ですが、そういう典型的な風景を詠むことが来之にとっては望ましい句境なのでした。

2句目は「深草」と「粟」がともに「鶉」の付合です。「粟鶉」は古来和歌にも詠まれ、画題ともされてきたテーマ。全体としては藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里」の本歌取りで、粟畑から鶉が追い立てられている情景です。

3句目、「引く」と「鳴子の縄」が付合。子どもが作った鳴子を親が引いて遊んでみせる。こういう句を見ると、来之サンはけっこう子煩悩だったかもしれません。

続いて、新年の刷り物に紹介された句を読んでみます。江戸時代には、各宗匠は正月に一門の発句や連句を掲載した冊子を出版し、自派のPRにつとめていました。それらは「歳旦帳」「春興集」「初懐紙」「除元集」などと名づけられ、門下だけではなく親しい有力俳人からも出句をしてもらっていました。来之もそうしたパンフレットを発行しています。まずは他派の正月冊子に寄稿した彼の発句から見ていきましょう。

梅が香や美人に逢へる夢心 (岡五雲編 1779年「歳旦」より)

梅のよい香りをかぐと、夢の中で美人に逢ったみたいなぽーっとした気持ちになるよという句。彼には「春雨やよき人やどる草の軒」という句もありますから、来之サン、美人には弱かったかも。

何人(なにびと)の栖(すみか)と梅の古木町 (井上重厚編 1782年「初懐紙 落柿舎」より)

「古木町」は京都市上京区の町名で、茶人や風炉師(茶釜用の炉などを作る陶工)が住んでいたといいます。周辺には尾形光琳・乾山の墓所である泉妙寺や本阿弥光悦の江戸屋敷などもありました。来之の家からも近く、このへんは散歩ルートだったかもしれません。風流人たちが住む町を歩きながら、素敵な梅を咲かせているこの家はどなたの御宅かと興味を惹かれた様子です。


京都市上京区古木町の現況

木つたふて香の流るゝや雨の梅 (高井几董編 1787年「初懐紙」より)

来之には梅の句が多い。これは私が目にした出版物の多くが正月の冊子であったことも影響しているでしょうが、それにしても梅が好きだったことは間違いないでしょう。

雪とけや金商人の屋しき跡 (高井几董編 1786年「初懐紙」より)

「金商人(かねあきゅうど)」とは、砂金などを売買する人かあるいは両替商のこと。雪が解けてしまうように、金商人も破産して屋敷はなくなってしまった。金儲けする人間への反発心のようなものが垣間見えます。来之がどのような職業に就いていたのかは明らかではありませんが、あまり蓄財は得意ではなかったかもしれません。

かげろふや捨置く鍬の光より (高井几董編 1780年「初懐紙」より)

来之にはわりと旧弊な感じの句が多いのですが、この句などはモノに即していて比較的新しい視点であると言えます。

鴨川沿いのそぞろ歩き

次に来之自身が宗匠として刊行した正月冊子、「除元集」「春興集」に掲載された彼の句を読んでみます。

今日でも俳句の出版物はそう売れるものではありませんが、当時の正月冊子も販売に多くを期待しての発行とは思えません。門人たちから出句料をとって宗匠の収入とし、関係先へはPRのため無償で配布していたのではと想像します。『春興集』に出句している門人たちの顔ぶれから察するに、来之を京で支えていた主要な門人は30人程度ではなかったかと思います。このほかに、地方在住で点付を乞うてくる門人や、常連ではない作者を加えて、総勢60~90名といったところでしょうか。とくに岡山方面の作者の名前を多く見ることができます。では来之の作品-

物ねぎるよい女房や年の市 1785年「除元集」より)

値切りのうまい奥さんは貴重戦力。

ともに泣医者の麁相(そそう)や涅槃像 1785年「除元集」より)

本法寺は絵師の長谷川等伯と非常に縁が深い寺で、境内には等伯の銅像が立ち、また等伯作の涅槃図を所蔵しています。涅槃図には「耆婆(ぎば)大臣」という医師の祖と言われる人物を描く決まりになっています。医師は人の死にも表情を変えてはいけないのだが、釈迦の命を救えなかったので耆婆大臣はうかつにも泣いているよという句。掲句はあるいは等伯の涅槃図に発想を得たのかもしれません。

む月始の夜春風いまだ寒けれとさすがに月のよそひのなつかしければ酒興にうかれて鴨涯をめぐる
川上にちどり啼なり春の月 1790年「春興集」より)
加茂の水川下よりやぬるみけん 1791年「春興集」より)
川上や藤を潜(くぐり)て筏行 同)

 一句目の前書き、「鴨涯」とは鴨川の岸辺のこと。京都に住んだフランス文学者の生島遼一に『鴨涯日日』『鴨涯雑記』という随筆集があります。鴨川を愛し、その岸辺を歩きながら季節を楽しむ来之のゆったりした心持ちには、共感できますね。

いとゆふや俤かはる北の山 1790年「春興集」より)
残雪や比良のこなたは春の山 同)

山/\のすがたはみえず春の雨」の句もあります。鴨川べりをそぞろ歩きしながら、周囲の山々に思いをはせることが多かったようです。比良山は昔は京の町中からもっとよく見えたと言います。

次回は来之の連句を読んでいきます。