2025-05-26

連歌のルール(9)~3回まで使える語

 

木藤才蔵『連歌史論考 上・下』(明治書院、1971/73)
文部大臣賞・日本学士院賞受賞
連歌の歴史を通覧できると同時に、連歌史年譜や詳細な索引などを備えた充実の名著

一座三句物

続いて三句物です。三句物~五句物は一句物よりも重要度が低いわけではなく、むしろよく使われるので一句や二句では収まらない材料というように考えられます。

今回は「月」「花」が出てくるので、説明も慎重にやりたいと思います。

用語分類・注記
春月単なる春月で1回、(春の)有明で1回、(春の三日月)で1回。
夏月、冬月上に同じ。
ただし有明は秋で1回、他季で1回まで。
三日月は四季を通じて1回のみ。2~3回使ってもよいという話があるが、どうだろうか
単なる神で1回、神代で1回、具体的な神名で1回
同じ懐紙では2回使えない。ただしにせものの花はその中に入らない。
最近では四句物としている。その中で余花を詠んでもよい。
「花・紅葉」と言っても花の4句の中に入る。
花と桜を同じ面に出してはいけない。心の花、にせものの花であっても同様である。
花を三句とすべきかどうかについては議論がある。しかし考えてもしかたあるまい、四句にしろ三句にしろはっきりした論拠があるわけではないのだから
単なる藤で1回、藤原で1回、他の季節で1回。
ただし他の季節など要らないだろうという意見あり
単なる柳で1回、青柳で1回、秋~冬の柳で1回
単なる桜で1回、遅桜・山桜などで1回、桜紅葉で1回。ただし「遅桜・山桜」などを使わず、単なる桜2回でも問題なしとすべきか
紅葉単なる紅葉で1回、梅・桜などの紅葉で1回、草のもみじで1回。
「紅葉の橋」は別に使用できるとするべきか
落葉単なる落葉で1回、松の落葉で1回、柳散るなどで1回
単なる荻で1回、夏か冬の荻で1回、(荻の)焼原で1回。
浜荻は懐紙を替えて詠むこと。
ただし、秋の荻以外は1回でよいという意見あり
薄(すすき)単なる薄で1回、尾花で1回、すぐろ・ほや(のすすき)などと表現して1回
単なる都で1回、名所で1回、旅で1回
単なる塩で1回、塩焼くで1回、潮で1回
単なる滝で1回、名所で1回、滝津瀬で1回。
花の滝、涙の滝などは別に使用できる
単なる岸で1回、名所で1回、彼岸で1回
恋で1回、旅で1回、文字で1回。「玉章(たまずさ)」は3回のうちに含まれる
鷹狩で1回、鷂(はいたか)で1回、獣狩で1回
庭鳥で1回、夜鳥で1回、その他異名で1回。
夜鳥も鶏のことである。夜鳥も異名に入れて、異名で2回とすべきという意見あり
鹿単なる鹿で1回、鹿子で1回、すがるで1回。
かせぎ、かをさしてなどは雑(=無季)である
単なる車で1回、法車で1回、水車で1回。「輦」は3回のうちに含まれる。
水車は自然の物に含まれるであろうか
草花過て、花の草の庵、花の草枕それぞれ表現を替えて1回ずつ。
ただしどう言い換えても1回とすべきという意見あり
単なる燈で1回、釣の灯で1回、法の燈で1回
単なる独で1回、恋で1回、月・松などに1回

いくつか注記します。

「春月」「夏月」「冬月」の項ですが、ここで言う「有明」とは「月がまだ天にありがなら夜の明けかけること。またその時間帯。また夜明けに天に残っている月のこと」です。実は、月を詠まなければいけない場面で、「月」という語を出さずに「有明」を代わりに使うことができるのです。

どういうことか、実例を挙げましょう。前回、秋の時雨について説明したのと同じ個所、「文和千句第三百韻」(1355)の初折表八句を見てみます。

名にしるし色もにほひもふかみ草      素阿
 五月もいまは廿日へにけり      二条良基 
夏引の糸もておれるうすころも       救済
 ねになく蝉のはつ秋のかぜ        暁阿         
もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運 
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿
在明や日のいづるまで残るらん     大江成種
 空行かりの数は見えけり         木鎮 

脇句に「五月」が出てきました。五月、六月、あるいは長月、神無月など月名の「月」は月次(つきなみ)の月といって、月を詠んだことにはなりません。各面で一句は月の句を詠まなければなりませんので、七句目で大江成種がそれを詠むことになりました。しかし同じ面に「月」という字を2回使うのはみっともよくないので、代わりに「在明(=有明)」を使いました。句の意味は「明け方の月は太陽がのぼってくるまでは空に残るでしょう」ということです。

式目の注釈では、「有明は秋で1回、他季で1回まで」と、合計2回しか使えないことになっているのですけれども、次回説明する「一座四句物」では有明は4回使えることになっています。これはどう理解すればいいのでしょう。

考えてみたのは、「月の代わりに有明を使うのは2回まで、有明そのものを述べるのは4回まで」ということではないかという解釈ですが、正しいかどうかわかりません。知見の士のアドバイスを求む。

「花」の項、にせものの花とは、浪の花、雪の花など実際の花以外のものを指す語を言います。これらは花を詠んだことにならないので、同じ折でもう一度花を詠む必要が出てきますが、その場合でも面は替えなければいけません。「心の花」も同じ扱い。

春の花でなくても、余花(夏)や花・紅葉(詠みかたにもよりますが無季)でも花を詠んだことにはなります。花・紅葉を詠むとはどういうことか、「専順宗祇百句附」(1468)の例を見てみましょう。

 人のこゝろのかはる世の中        専順 
草も木も折りわすれずよ花もみぢ      専順 

百句附は、専順が示した「人のこゝろのかはる世の中」という短句に対し、長句の付句を専順自身で100通り、宗祇も100通り作って見本帳としたものです。上の付合は専順の作例。「この世の中、人間の心というものは変わりやすいものだなあ」「草や木は季節を忘れず、花は春紅葉は秋と決まりを守るものなのに」ということになります。前年の1467年、応仁の乱が勃発し、裏切りや離合集散が繰り返し起こりました。そんな世の中を嘆いてこのような附句集を作ったのでしょう。この「花もみぢ」は季節としては雑です。

「花」と言えば原則として桜の花を指しますが、前句で菅原道真のことを詠んでいるような場合は梅の花を意味する場合もあります。

「桜」と言ったのでは花を詠んだことにはなりません。その場合は同じ折で別に花を詠まなければなりませんが、しかし面を替える必要があります。

「紅葉」の項、紅葉の橋とは天の川に掛かっている伝説上の橋のこと。

「狩」の項、鷂(はいたか)とは小形の鷹で、やはり鷹狩に用いられました。ただし鷹狩が冬季であるのに対し、鷂は夏から秋にかけての季語だそうです。

「鹿」の項、かせぎとは鹿の古名です。「かをさして(鹿を指して)」というのは、古代中国の秦帝国で、宦官の趙高が皇帝に対し鹿を指して馬と呼んだ故事のこと。

「法」の項、法の車(のりのくるま)とは仏法を羊の車・鹿の車・牛の車の三車にたとえたことを指します。

「独」の項、「月・松などに1回」とは、「月ひとつ」「ひとつ松」などの表現を指します。東日本大震災のあと、陸前高田市の奇跡の一本松が話題になりましたね。ひとつ松というのは古来わが国で大事にされてきた風景でした。

2025-05-25

連歌のルール(8)~2回まで使える語


木藤才蔵『連歌新式の研究』(三弥井書店、1999)
新式の翻刻が見やすく整理されており、また後年の注釈が
加えられているなど、たいへん参考になる

連歌式目の条項には、2とおりの流れがあるように思います。

一つは原理原則から出発して全体を規制しようというルール。もう一つは実際に起こった問題ごとにどう解決するか個別に定めたルール。法律の用語で言えば前者が成文法的、後者が判例法的。数学の用語で言えば前者が演繹的、後者が帰納的ということになりましょう。

ここまで解説してきた式目の条項で言えば、韻字の決まりとか体と用の定めなどは、前者であるように思います。大原則を述べようとする。対して前回から説明している個別の用語についての定めは後者でしょう。

前者の決まりは論理体系的ですが、実際には守りきれずに例外やルール改訂が頻発しています。後者のほうは実践的ですが、個別に新しい定めを追加していくので煩雑です。前者はおもに堂上連歌(公家中心の連歌)、後者はおもに地下連歌(それほど身分の高くない専門家による連歌)によって発案されてきたのではないかという気がしますが、どうでしょうか。

連歌の式目にはこのような二重性があるということを把握しておくと理解しやすいように思います。

一座二句物

さて今回は、一巻で2回まで使用できる「一座二句物」の解説です。一句物とほぼ同じレベルで重要な語群ですが、言い換えたり使う場所を替えたりすることで変化をつけることが可能なため、二句までOKということになったと思われます。

あくまで2回「使ってもよい」ということであって、必ず使うべきだというわけではありません。

数が多いので、表形式にしてサクサク説明していきましょう。

用語分類・注記
「暁」で1回、「其暁」で1回使える
「神の代」「君の代」でそれぞれ1回ずつ使える
春風「春風」「春の風」でそれぞれ1回ずつ使える。
ただし近年では、このように言い替える必要はないとされている
秋風、松風上に同じ
五月雨「五月雨」で1回、「梅雨」で1回使える。「梅雨」の用法についてはよくわからない点がある
夕、今日
「いほ」で1回、「いほり」で1回使えるが、言い換えなくてもよい
故郷(ふるさと)里を名所として詠むか、または単に古びた里として詠んで1回。旅の回として詠んで1回
単なる岡で1回、名所の岡を詠んで1回
池、湊上に同じ
宿単なる宿で1回、旅の宿で1回。
他に「やどり」として使ってよい。
「魚のやどり」「露のやどり」などの表現は別に使ってよい(最多で4回使える)
単なる庭で1回、寺や皇居の庭で1回。
「庭訓」などとしても1回使えるが、これは特殊なケースである
春の雁(帰雁)、秋の雁それぞれ1回。
「残る雁」は南へ渡らない雁、北へ帰らない雁の両方の意味があるから、春か秋のどちらかで詠む
猿と言って1回、ましらと言って1回使える
「旅」という字単なる旅で1回、旅衣などと言って1回だが、最近では言い換えなくてもよいとしている
単なる老で1回、鳥・木などに用いて1回
単なる男で1回、桂男などと言って1回
棹姫、橋姫の類このような同類のものを2回使う場合は、懐紙を替えること
単なる命で1回、虫の命などとして1回
「なりにけり」「おもひしに」「物を」この類の詞は所を替えて使うこと(同じ折を避けよということか?)
恋しく・恋しき、うらみ・うらむこのようにして(活用形や品詞を替えて)2回。ただし必ずしも言い替えなくてもいいとされる
時雨秋と冬でそれぞれ1回
単なる朝で1回、けさと言って1回
鶴で1回、たづで1回
名残恋の名残で1回、花の名残などで1回
面影単なる面影で1回、花や月の面影で1回
さびしき同内容であっても違う表現であればもう1回可
玉緒「命」とは1回だけ併用できるが、懐紙を替えること(「虫の命」などは別)
単なる梢で1回、花や松の梢で1回。「梢の秋」は別に扱う
仏法で1回、法令で1回。「法師」は別に扱う
稲葉「をしね」と言い換えてもう1回
単なる塵で1回、塵の世などとして1回
「岡、池、湊」などの場合とは違って、名所以外であっても2回使える
単なる海で1回、名所の海を詠んで1回。「わたつみ」などはこれと別に使用できる
野辺、小野2回のうち1回は名所であること
軒、垣「軒端」「かきほ」などと言い換える必要はない。「籬」はこれと別に使用できる
単なる籬で1回、霧の籬として1回
待恋、逢恋、別恋など2回使える。他の恋の詞も同様
をち(=遠)、はなし、もなし2回使う場合は長句と短句で使い分けること
単なる詞で1回、「ことのは」と言い換えてもう1回。「言の葉の道」は別に使用できる
単なる筵で1回、法の筵、苔筵、草筵などとして1回。
ながめ
夏の涼しさで1回、それ以外で1回

いくつか注記します。

「暁」の項の「其暁」とは、弥勒が釈迦入滅後5億7千万年後にこの世界に現れるという、その暁のこと。

「五月雨」の項、当時はさみだれのほうが主で、つゆは少ない表現だった。なぜ「梅の雨」と言うのだろう、梅の青い実がこのころ落ちるのを梅の雨と言ったのだろうかといぶかるニュアンス。

「故郷(ふるさと)」の項、故郷は本来は「昔の都の跡」の意味になります。

「雁」の項、「残る雁」とは本来、北に残って南に渡らない雁(秋)と、南に残って北へ帰らない雁(春)の両方を指しました。「日本国語大辞典」で調べても、「残る雁」は春と秋の両方の季語としていますが、今日の俳句歳時記が春としてしか扱わないのは問題。

「老」の項、「鳥・木などに用いて1回」というのは老鶯、老木などを指すのでしょう。

「男」の項、「桂男」というのは月の別称です。月には桂(モクセイ)の大木が生えていて、呉剛という男がそれを伐ろうとしているという伝説に基づきます。

「時雨」の項、時雨は万葉集や古今集では秋のものとして詠まれていました。それが徐々に冬のものとして詠まれるようになったわけで、連歌ではこの時代、秋冬両方で扱われていました。実例を挙げます。「文和千句第三百韻」(1355)より、まず初折5~6句目の秋の時雨を挙げます。

もみぢせぬ木ずゑの露の先(まづ)落て   永運
 のちはしぐれの山のあさ霧        周阿   

前句は「紅葉」「露」と秋の句になっており、後句でも「朝霧」が出てきますから、「時雨」が秋を指していることは明らかです。

同じ連歌の二折表14句目~二折裏1句目には冬の時雨が出てきます。

 なみにはふらぬ橋のしら雪        周阿
村雲は時雨なからのとだへにて     二条良基

前句が「白雪」ですからこの一連は冬季を指しており、後句の「時雨」は冬となります。 

2025-05-23

連歌のルール(7)~1回しか使えない語


濱千代清『連歌-研究と資料』
桜楓社、1988)

ここから個々の表現に関する各論になります。一座(一巻)の中で1回しか使ってはいけない表現、2回しか使ってはいけない表現...と使用数を決める例示が続きます。なぜそのような規制が設けられたのかという理由を考えることが大事でしょう。

一座一句物

一巻で1回しか使ってはならないという、重い題材です。注記として

一部の例だけ挙げる。とくに目につくものである。これらはどれも一座の中で一句にしか使えないものとする。挙げていないものもこれに準じる。 

とあります。数が多いので、表形式で一覧にしましょう。

用語分類・注記
若菜、款冬(カントウ=山吹)、躑躅、杜若、牡丹、橘、女郎花、檜原、櫨植物(うゑもの)
鶯、呼子鳥、貌鳥(春)、郭公(ホトトギス)、螢、蟬、日晩(ヒグラシ)、松虫、鈴虫、蛬虫(キリギリス)、熊、虎、龍、猪動物(うごきもの)
鬼、女鬼は生類と打越すことを嫌う。鬼は虫であるという旧説がある。しかし鬼神のことは理解しがたいものであるから、しいて議論すべきではない
昔、古、夕暮、昨日、夕立、急雨、雨、碪(きぬた)、嵐、木枯、朝月、夕月、隠家、外面(とのも)、なるこ、ひた、枢、閨雨と嵐は最近では一座二句物として扱われる
松虫、鈴虫、蛬、虫新式では、虫は一座一句物とされてきた。しかし近年では、単なる「虫」で一句、「松虫」「鈴虫」は懐紙を替えさえすれば(別の折にすれば)それぞれ一句ずつ使用できるとしている。「蛬」「機織」は面を替えれば使用できる
春雨、小雨、雨そそぎ、雨夜など「雨」をサメ、アマと読む場合は、雨とは別に一回使ってよい
馬と駒は同じである。ただし「意馬」「隙行く駒」など寓意的な意味で用いる場合は別物である。馬の代わりに駒を用いるのは、鶴とたづのようなケースと同じである
遅日「永日」とは併用できない
春寒「冴返る」などと表現を変えても併用は不可
秋寒「ややさむき」「夜寒」などと表現を変えても併用は不可
居所としては扱わない
鳥獣の床は別扱いとする

「松虫、鈴虫、蛬、虫」以下の項目は、それ以前の項目の注記ないし追加ということでしょう。最後の「床」のところに「鳥獣の床は別扱いとする」というのは、鳥の巣、獣の巣は人間の床とは別にするということだと思われます(「水鳥の玉藻の床」「臥猪の床」などと言う)

さて、「鬼」と「女」が同じグループに入れられているのが大問題です。これには猛然と抗議の声が聞こえてきそうです。そもそもなんで「女」だけが特別扱いされ、しかも「鬼」と一緒にされるのだと。(ただしあとで「男」も一座二句物として出てきます)

室町時代の女性観を現代の人権意識で評するのは無理がありますが、天文17年(1548)に里村紹巴の門弟であった宗巴が著した連歌新式注解では、「連歌では女はたいていの場合鬼に結びつけて詠まれる。安達ケ原の黒塚のごときである。また伊勢物語にも、女たちを鬼と詠んだ例がある」としています。

そもそも応安新式(1372)にはこの項目は入っていなかったのです。一条兼良改訂の連歌新式今案(1452)で鬼と女が入ってきた。謡曲「黒塚」が作曲されたのは今案成立と前後する時期でした。この能楽がヒットしたので、鬼だ女だということを連歌に使う人間が出てきて、それを規制するためにこのような定めを入れたのではないかと私は想像するのですが、どうでしょうか。

近年、謡曲の詞章に連歌が大きな影響を与えているということが明らかになっていますが、逆に謡曲が連歌のほうに影響を与えることがあったのではないかと考えてみたいのです。

一座一句物はどのようにして選ばれたのか

「一座一句物」は、おそらくは「あまり美意識の立った重い表現を何度も使うと、反復感が強まって連歌の流れが渋滞してしまう。印象が強い語は一回だけ使うことにしよう」ということで決められたのだと思います。

どの表現を「一座一句物」にしようというのは、どのようにして決められたのでしょうか。濱千代清先生は

「なぜ若菜や山吹が挙げられて、すみれやわらびがないのか、夕立が一句物で五月雨が二句物であるのは何を基準にしたかということになると、全く見当がついていない」(「一座一句物をめぐって」~『連歌-研究と資料』桜楓社、1988)

と問題を立てています。これについて、濱千代先生はいくつかの可能性を挙げています。まず、式目のこの条最初の注記に「一部の例だけ挙げる」「挙げていないものもこれに準じる」とあるところから、これらはあくまで「例示」であるというのです。雅趣のある表現は本来みな一座一句物なのであり、ここに挙がっているのはその一部でしかないと。例外として二句以上使ってよいものが、このあと「一座二句物、三句物...」と数え上げられていく。一句物は例示なので、ごく少数しが挙げていないが、二句物以下は具体的に指示する必要があるのでもっと数が多くなっていると。

もうひとつ、先生は「百首歌」の題との関連性を指摘しています。百首歌というのは、決めた主題(季語、恋のテーマなど)について百首の歌を詠進したもの。これらの主題に、一句物と共通するものがあるとしています。

例として、「堀河百首」(1106年頃)で立てられた主題を挙げてみましょう。赤字部分が連歌新式の一座一句物と重なるものです。

堀河百首の題
立春、子日、霞、鶯、若菜、残雪、梅、柳、早蕨、桜、春雨、春駒、帰雁、換子鳥、苗代、菫菜、杜若、藤花、款冬
更衣、卯花、葵、郭公、菖蒲、早苗、照射、五月雨、盧橘、螢、蚊遣火、蓮、氷室、泉、荒和祓
立秋、七夕、萩、女郎花、薄、刈萱、蘭、荻、雁、鹿、露、霧、槿花、駒迎、月、擣衣、虫、菊、紅葉、九月尽
初冬、時雨、霜、霰、雪、寒蘆、千鳥、氷、水鳥、網代、神楽、鷹狩、炭竈、埋火、除夜
初恋、不被知人恋、不遇恋、初遇恋、後朝、遇不遇恋、旅恋、思、片思、恨
暁、松、竹、苔、鶴、山、河、野、関、橋、海路、旅、別、山家、田家、懐旧、夢、無常、述懐、祝

うーむ、この程度では百首歌の主題と一座一句物の間に関連性があるかどうか、何とも言えないところです。

むしろ実作的に、地下連歌師たちから「これは一句物にしておいてほしい」と要請があったものが入っているような気がします。一句物に挙がった主題は優美なるものが多く、「できるだけ百韻の中で使ったほうがよい」表現として取り上げられているように見えますが、「熊、虎、龍、鬼」のように、激しい用語で、優美とは言えないものも混じっています。これらは「ひんぱんに使うと連歌が荒れてしまうから、使うとしても百韻に一句程度にしてもらいたい」と連歌師が望んだのではないかというのが、わが試論なのです。

採用の基準は必ずしも一定したものではなく、問題が起きるたびに一句物を追記していったような気がするのです。

2025-05-20

連歌のルール(6)~「体」と「用」について、および事物の分類

永山勇「連歌における体・用(ゆう)の説」
「国文学言語と文芸」4(1)、1962)

「体」と「用(ゆう)」とは何か

連歌新式の次の項目は非常にややこしい。式目を理解する上での最難関でしょう。さいわい永山勇先生は「連歌における体・用(ゆう)の説」「国文学言語と文芸」4(1)、1962)というすぐれた論考を発表されています。これを参考にします。

まずは式目の現代語訳を見てみてください。

「体」と「用(ゆう)」について

「春」を詠んだ句に「弓」と付けた場合、さらに次の句では「引く」「帰る」「押す」などという語を付けてはならない。これらの語は〈用であるからだ。「本」「末」などの語なら付けてよい、これらはであるからである。打越にの語があった時は、「本」「末」を付けてはならない。

「長」を詠んだ句の次に「縄」を詠んだ場合、さらに次の句では「短」を詠んではならない。これらすべてが〈体〉になってしまうからである。「繰る」「引く」などだったら、これは〈用〉であるから付けてもよい。 

「春」の句に「弓」を付けるとはどういうことでしょうか。これは、「春」は「張る」と同音意義語なので、その連想で「弓を張る」を想起し、付句で「弓」を描いたということなのです。掛詞(かけことば)を利用した付けです。

さて、ここで〈体〉と〈用〉ですが、物本来を示す語が〈体〉、その機能や様相を示す語が〈用〉となります。そうすると「張る」は弓の機能を示す語であるから〈用〉、「弓」は物本体を示すから〈体〉である。

ここで気をつけるべきは、「春(張る)」という語自体には体とか用といった特性はないということです。あくまで付句の「弓」との関係性によって〈用〉という性格が生まれる。

次の付句では、前々句の打越を避けるためにここには弓の〈用〉の語を持ってきてはならない、〈体〉を持ってこなくてはならない。「引く」「帰る」「押す」などは弓との関連で〈用〉を示すからここには持ってこれない。「弓を引く」「返し弓」「(弓の)押手」などの概念があるから、これらの動詞は弓の縁語であり〈用〉を示すのだ。

このへんまではわかりやすいでしょう。そして、ということは〈体〉とは体言(名詞など)で、〈用〉とは用言あるいは修飾語のことだなと早とちりする人がいるかもしれません。しかしコトはそう簡単ではない。

「春(張る)」→「弓」と来た次に、「本」「末」なら付けてよいという。弓の下部が「本」、上部が「末」と呼ばれ、これらも弓の縁語なので、付句に使用できる、これらは〈体〉を示す語だから「春(張る)」の〈用〉とは打越を嫌わないというのです。

まずこのへんでイライラする方がいるでしょう。「弓」に対して「春(張る)」「引く」「帰る」「押す」「本」「末」の6語が縁語であるなんて、いったいどこを調べたらわかるんだ--とむしゃくしゃするかもしれません。

それについては、連歌寄合書を見るのが参考になります。何度か紹介してきましたが、一条兼良の『連珠合璧集』は連歌の連想語をリストにしたもので、これを見ると単語の連想関係がわかってきます。試みに「弓」を引いてみると次のようなものが連想語として挙がっています。

引 本 末 いる はる そり つる 月 杯のかげ 狩人 武士 馬 あづさ をして(押し手) 高円山

上記の6語のうち5語が縁語として挙がっていますし、残る一つの「帰る」についても、「帰」の連想語を調べると「弓」が挙がっています。『連珠合璧集』は中世言語の連想網を知るうえで非常に貴重な資料だと言えます。

次に、「本」「末」が「弓」に対して〈体〉であるというのはどういうことなんだ、「本」も「末」も弓の一部の様相を指す語であるから、〈用〉ではないのかと疑問を持つ向きもあるでしょう。

それについて説明する前に、「連歌における事物の分類」ということについてお話ししたいと思います。

連歌における事物の分類(山類・水辺・居所)

この連載の第2回(百韻の構成、打越と去嫌とは何か)を読んでいただいた方には、連歌の各句の題材が「鳥、木、山類...」などというようにいくつかのカテゴリ(部立)に分類されるということを見てもらいました。題材を分類することで、似通った題材が打越関係で繰り返されないようにチェックしていくのです。

打越が問題とならないように、同種の題材は3句連続で繰り返してはなりません。ところが例外があって、「旅・神祇・釈教・述懐・山類・水辺・居所は三句まで続けてよい」ということになっているとご説明しました

3句続けてよいとはいっても、打越関係で輪廻が生じてしまうとまずい。それを避けるために重視されるのが、〈体〉と〈用〉の関係なのです。たとえ山類の句が3句続くとしても、打越関係で体と体、用と用が重ならないようにする。それによって変化・展開を作り出すようにしようということです。

連歌新式は事物を19通りぐらいに分類していますが、そのうち「山類」「水辺」「居所」については、何が〈体〉で何か〈用〉かを具体的に例示しています。その分類を以下に表にしてみます。

カテゴリ説明体・用の外カテゴリ外
山類山に関する事柄岡、嶺、洞、尾上、麓、坂、岨、谷、島、山の関梯、滝、杣木、炭竃
岩橋、杉、猿、薪、爪木、滝つ瀬、
水辺水に関する事柄海、浦、江、湊、堤、渚、島、沖、磯、干潟、岸、汀、沼、川、池、泉、洲波、水、氷、塩、氷室、清水がもと浮木、舟、流、塩焼、塩屋、水鳥類、蛙、千鳥、杜若、菖蒲、蘆、蓮、真菰、海松、和布、藻塩草、萍、海士、閼伽結、魚、網、釣垂、筏、手洗水、懸樋、下樋砂、苫屋、霞の網、鶴、鷺、螢、小田返す、布曝す
居所住居に関する事柄軒、床、里、窓、門、庵、戸、枢、甍、壁、隣、垣庭、外面(とのも)栖、住居、花のあるじ、露のやどり、簾、筵、懸樋

(肖柏の改訂版は記述を省略していて対比がわかりにくいので、連歌新式の原形の一つである『連理秘抄』を参考にして欠落部を青字で埋めてあります

先に、〈体〉と〈用〉はことば同士の関係性によって決まるので、「春(張る)」という語自体には体とか用といった特性はないと言いましたが、これら3ジャンルについては式目でそれぞれの語の体と用を決めてしまっています。

これらの規定を参照して、永山勇先生は体と用とは何かを解説しています。先生は〈体〉〉、体・用の外をそれぞれ次のように定義します。

  • 「体」とは、その物の実体、形体の一部分、(属性・形状・性質をも含む)あるいは相伴なって離れない関係や永続性を有するものであって、最も関連性が深いもの。
  • 「用」とは、流動性を有するもの、一時的な、臨時的、附加物的な関係のもの、したがって変化し易いものであって、体よりは関連が浅いもの。
  • 「体・用の外」とは、用よりさらに関連が疎遠なもの。(非山類物、非水辺物、非居所物をも含む)

最初の式目の記述に戻ると、「弓」に対してその「本」「末」は、実体・形体の一部分であり永続性を有するから、体であるということになります。一方「張る」「引く」「帰る」「押す」は一時的・臨時的な機能であるから用になります。

さらに、「縄」について「長い」「短い」というのは実体そのものの形状であるから体、「繰る」「引く」は一時的・臨時的な機能であるから用とされます。

3句の並びを「体体体」「用用用」「体用体」「用体用」というようにすると、打越と付句の機能が同じになってしまう。打越と付句は異なる機能にしなければならないというのが、この条項の意味するところです。

表の山類、水辺、居所の区分ですが、たとえば「岡」が体で「梯(かけはし)」が用であるというのはわかる。前者は実体で後者は附加物であるからです。しかし「洞」が体で「滝」が用だというのは理解しづらい。両者ともに山の地形じゃないか、どう違うんだと突っ込みたくなります。実際、これらの体と用の区分は時代により、式目により食い違っているのです。永山先生も「体・用の識別は、心理的なものであり、観念的なものであり、またおのずから主観的なものたらざるをえない」「関連の親疎・深浅という以上、そこに客観的基準というものを確立することは甚だ困難」と認めています。

〈体〉と〈用〉の区分はかなり便宜的なものだと言えるでしょう。

どちらにも区分されない〈体・用の外〉は、同一カテゴリではあるけれども打越を気にせず使用してよい題材。

〈カテゴリ外〉はそもそもその分類に含まれないもの(非山類物、非水辺物、非居所物)であるから、体・用に関して打越が問題になることはない。ただし、例えば山類から非山類に移ったら、次はもう山類に戻れない(山類の打越になるから)ということになります。

実例を一つ見てみましょう。飯尾宗祇らの『水無瀬三吟』(1488)より、脇句から第四までを引用します。

 行く水とほく梅にほふ里      肖柏
川かぜに一むら柳春みえて      宗長
 舟さすおとはしるき明がた     宗祇

「行く水」「川かぜ」「舟さす」と水辺が3句続くのですが、「水」は〈用〉、「川」は〈体〉です。では「舟」はといえば、体・用の外〉ですから、これは気にしなくてもよいということです。

ところが他の式目書では「舟」を〈用〉にしてある場合もあるのです。そうなると「水」の〈用〉と打越が嫌うことになってしまってまずいですね。こんな具合で、体と用の区分は結構危ういところがある

その他の事物の分類

「連歌新式は事物を19通りぐらいに分類している」と述べましたが、山類・水辺・居所以外の16ジャンルも一覧表にしておきましょう。これらのジャンルについては体と用の区分は記述されていません。実際問題として、体と用の関係が問題になるのは、使用頻度の高い上記3ジャンルに限られていたということでしょうか。

具体的な用語の例は連歌新式では一部を除き系統立って挙げられていないので、『連珠合璧集』や『無言抄』(応其編、1603頃)の分類を参照して青字で補足してみました。

カテゴリ説明用語の例カテゴリ外
人倫人間に関する事柄人、我身、友、父、母、誰、関守、主、独、媒、親子月をあるじ、花をあるじ、僧都、山姫、木玉、ふたり
旅に関する事柄旅、宿、中宿、便の文
神祇神社や神に関する事柄神、社、鳥居、しめ、ぬさ、夏祓、野宮、神楽、下照姫、など
釈教仏教に関わる事柄仏、御名、寺、法、尼、弥陀、弥勒、鶴の林、あか水、罪、など
述懐世に生き永らえることの辛さを述べること世、墨染、命、玉の緒
懐旧昔を懐かしむ心情老、思い出、古、昔
無常死や葬送に関わる心情霞の谷、塩干山、かへらぬ道、ながき別、無名の煙、古枕、古衾
恋愛に関すること恋、思、涙、書、名、待心、逢心、別心、面影、独寝、恨、など
光物天体として光るもの月、日、星
降物空から降るもの雨、露、霜、雪、霰
聳物空にたなびくもの霞、霧、雲、煙
名所詩歌に詠まれる著名な場所(多数)
植物(「草」と「木」に分かれる場合も)若草、竹、竹の子、篠、若菜、杜若、菫、山吹、藤、葵、あやめ、まこも、蓮、撫子、夕顔、萩、女郎花、朝顔、葛、荻、すすき、菊、菅、浅茅、蓬、浮草、玉藻、忍草、蘆、葎、なのりそ、みるめ、瓜、若木、老木、朽木、ははきぎ、梅、桜、花、柳、李、卯花、橘、紅葉、桂、松、槙、椿、杉、柏木、榊、柴、その他多数
生類/動物(「鳥」「獣」「虫」「魚」「貝」などに分かれる場合も)鳥、百千鳥、鶯、ほととぎす、雁、雉、雲雀、燕、鶉、鴫、千鳥、鴨、鶏、烏、雀、鷲、鷹、山鳥、鷺、都鳥、鹿、馬、駒、牛、犬、猿、虎、狐、虫、松虫、鈴虫、きりぎりす、蟬、空蝉、螢、蛙、蝶、ささがに、龍、魚、鮎、亀、貝、その他多数
衣裳衣服に関すること衣、袖、唐衣、きぬた、衾、帯、綾、糸、綿、布など
夜分夜の風景螢、蚊遣火、筵枕、床、又寝、神楽、夕闇、いさり