2024-10-18

英一蝶(暁雲) 絵師の俳諧


英一蝶像(高嵩谷筆)

風流才子、俳諧をたしなむ

このブログを書いている2024年10月、サントリー美術館で「英一蝶展 風流才子、浮き世を写す」が開催されています。

英一蝶(はなぶさ・いっちょう)は17世紀後半から18世紀にかけて活躍した絵師。いろいろな種類の絵を描いていますが、風俗を巧みに写した肉筆浮世絵師として知られており、菱川師宣の画風を学んだとされます。江戸初期の画家として非常に重要な存在で、歌川国貞も一蝶の絵に私淑していたそうです。

一蝶は芭蕉一門と親しく、「暁雲」という俳号で俳諧作品を残しています。今回の一蝶展では暁雲の句を収めた俳書が展示され、図録には井田太郎先生の解説による俳諧の解説が収められています。われわれ俳人にとって、この図録は価値がある貴重な資料ですぞ。

では井田先生の解説を参考にしながら、暁雲の発句を見ていきましょう。

青のりや浪のうづまく擦(スリ)小鉢

とろろの上に青海苔を散らして小さな擂鉢で擦っている。その渦巻く様子がまるで波の渦のようだと興じた句です。海苔の鮮やかさが生き生きと感じられる句。このような見立ての句(或るものを他になぞらえた句)は、今日では頭でこしらえた理屈にすぎないといって否定的に評価されがちです。しかし江戸時代の芸術は俳諧にしろ、浮世絵にしろ、散文にしろ、「見立ての芸術」と言えなくもない。見立てを否定すると江戸芸術の否定になってしまう面があるので、むずかしいところです。江戸文学を味わう上では、少し広い気持ちで句を読むことも必要でしょう。

うすものの羽織網うつほたる哉

夏物の薄い羽織の袖を網のようにして、螢を捕まえるよ、という句。ふうわりと広がる袖を螢が照らしている感じで、一蝶の絵の軽妙な筆遣いが目に浮かぶようです。宝井其角が編んだ蕉門初期の撰集『虚栗(みなしぐり)』に収められた句ですが、この直前には有名な「草の戸に我は蓼ふほたる哉 其角」が置かれています。其角と一蝶は非常に気が合う仲よし同士でしたが、二人の句を並べて見せたいという、其角の友を愛する心がよく出ているようです。

袖つばめ舞(まう)たり蓮の小盞(こさかづき)

同じく『虚栗』収録ですが、この句の直前に其角の「傘(からかさ)にねぐらさうやぬれ燕」が置かれています。「袖つばめ」とは燕が空を飛ぶときの袖を振るようなさまを言うそうです。「蓮の小盞」とは「蓮子盃」のことで、白居易の詩を出典とします。燕が舞う景色を肴にして小盃で酒をあおる。イキですねえ。其角の「ぬれ燕」と暁雲の「袖つばめ」、両者を並べて眺めると伊達でかっこいいですねえ。

風流才子、芭蕉と連句を詠む

英一蝶は其角だけではなく、芭蕉とも親しく交わっていました。芭蕉とともに詠んだ百韻連句が『武蔵曲(むさしぶり)』に収められていますので、一部を読んでみましょう。芭蕉が「天和調」と呼ばれる漢文体を積極的に導入していた時期の連句です。

錦どるの巻

初折表

  1. 錦どる都にうらん百(もも)つつじ       麋塒
  2.  壱花ざくら二番山吹             千春
  3. 風の愛三線(さみせん)の記を和らげて     卜尺
  4.  雨双に雷を忘るる             暁雲
  5. うつり盞(さかづき)を退(マカ)リける 其角
  6.  せんじ所の茶に月を汲(くむ)        芭蕉
  7. 霧軽く寒(さむ)や温(アツ)やの語ヲ尽ス   素堂
  8.  梧の夕(ゆふべ)子(じゅし)を抱イて  似春

発句、「京の都にはさまざまな花が錦をなして咲いているでしょうが、江戸の躑躅を持っていって売ってはいかがでしょう」と京の人千春に興じてみせた。このころ躑躅の品種改良が進んで、やがて元禄時代には躑躅の大ブームになるということが背景にあるようです。

脇句、千春は「そうですねえ、京では一番が桜、二番は山吹」と花の名前を挙げて豪華に付けてみせた。

第三、脇句で「壱・二」と来たので「三」味線を出した。「風の愛」は「風和らぐ」の傍題で春の季語。三味線の歌に春風がやさしく吹いていく。

四句目で暁雲(一蝶)の出番です。風がやがて雨を呼び、雷が鳴っているが、双六に夢中でそれにも気づかない。雷は現代では夏の季語になっていますが、当時の歳時記『増山井』では「非季詞」に分類されていて、この句も雑の扱いのようです。

五句目は其角。双六を酒の場の遊びと見て、夕方が夜へと更けてきたので酒の座を退出するとした。

六句目は芭蕉。酒の座を退出して茶の煎じどころで酔いざましの茶を飲む。茶のおもてに映った月をまるごと飲むように。

少し飛ばして、裏の後半、21句目に行きましょう。

  1. 妻恋る花の見入(みいり)タル      似春
  2.  柱杖(しゆぢやう)に蛇を切ル心春      千春
  3. 陽炎の形をさして神(しん)なしと       麋塒
  4.  紙鳶(シエン)に乗て仙界に飛(とぶ)    暁雲
  5. の代は隣の町と戦ひし            其角
  6.  ねり物高く五歩に一楼            芭蕉

21句目、桜につながれた馬(はななれごま)がさかりがついていて、魅入られたように少女がそれを眺めている。

22句目、修行僧は花馴駒の妖気を断ち切るように杖を振り上げる構え。

23句目から二折に入ります。修行僧は「陽炎などというものには実体がないのじゃ。煩悩もまた同じ」と喝破します。

24句目が暁雲です。前句で喝破したのは仙人であると見て、凧に乗って仙界に行こうとしている場面を想像しました。仙人が凧に乗って陽炎の中を飛ぶ風景って、いかにも一蝶の絵に出てきそうな画題で、彼らしい詠みぶりですね。

25句目は其角。中国の春秋時代に、凧に乗って空を飛んだ人物がいたという伝説があるので、秦の時代には凧に乗って隣町を攻撃しただろうと奇想をこらした。ドローン攻撃みたい。

26句目は芭蕉。隣町と競っていたのは、祭の山車(練り物)の高さだったのだ。五歩歩くごとに青楼が一軒あるようなにぎやかな町。其角が戦争を出したのに、それを山車の規模比べだろうとやわらげて解釈したところが、いかにも芭蕉らしい。

この先まだまだ連句は続きますが、今回はここまでにしておきましょう。

    風流才子、幕府ににらまれ、流罪となる

    一蝶と其角は実によく気が合ったようですが、二人とも当時の幕府のやり方を苦々しく見ていたらしい。時は将軍綱吉の治下で、「生類憐みの令」が出て生き物を殺生してはいけないとされた。一蝶も其角も自由人ですから、こういうウルサイ禁令には腹が立ってしかたがない。

      浅草川逍遥
    の義は山の瀬やしらぬ分(ぶん)      其角

    という句があります。これは古来、謎句とされてきた作なのですが、今泉準一によればこれは幕政への批判の句だという。浅草川というのは隅田川の浅草付近のことで、このあたりで獲られた鯉は江戸市民にとって貴重なたんぱく源でした。ところが生類憐みの令で漁獲が禁止されてしまった。「鯉の義は」というのは、「鯉の話なんだが」ということ。「山吹の瀬や」というのは、山吹色、つまり賄賂の金次第なのだよなあ、「知らぬ分」見て見ぬふりをするのは、ということ。つまり見張りの川番も賄賂さえ出せば鯉を獲らせるのだという、皮肉の句らしい。露骨に幕府を批判したりするとたいへんなことになるので、わざと謎めいた表現にしたのでしょう。

    さて、元禄11年(1698年)、47歳の一蝶は逮捕されて三宅島に流罪となります。罪状についてははっきりしないのですが、生類憐みの令に違反して釣りをしたからという説があります。しかし5年前にも一度入牢しており、どうも一蝶は幕府から「不届きな奴」と目をつけられていたようなのです。

    入牢の理由について興味がある方は、Wikipediaで「英一蝶」の項目を見ていただくといいでしょう。彼の絵画との関係で興味ぶかいのは、「朝妻舟図」の絵が綱吉と柳沢吉保を風刺しているとして幕府の逆鱗に触れたというものです。当時、吉保が自分の愛人を綱吉に差し出して出世を計ったという噂がありました。一蝶の絵は舟に乗った白拍子(遊女)を描いた絵ですが、女の頭上に「柳」の木が描いてある。柳沢吉保の女を暗示しているというわけ。意図的に風刺をしたのかどうかはわかりませんが、「朝妻舟図」は一蝶の絵の中でもあでやかで美しく、私が好きなものなので、気になる話です。

    一蝶は三宅島から其角に宛てて

    初松魚(はつがつを)カラシガナクテ涙カナ

    という句を書き送ります。三宅島では鰹は釣れるけれども、薬味の辛子が手に入らない。辛子を口にすると辛くて涙が出るけれども、三宅島では辛子が無いせいで涙するのですという句。其角はこれに答えて

    其カラシキイテ涙ノ松魚カナ

    と返信します。一蝶の身を思いやり涙を流す其角でした。

      風流才子、赦免され、芭蕉と其角をしのぶ

      三宅島に流された者は二度と戻ってこれないというのが相場でしたが、将軍綱吉が死去したことから特赦が行われ、宝永6年(1709)に一蝶は江戸に帰ってきます。其角は1707年に死去しすでにこの世の人ではありませんでした。

      一蝶は芭蕉と其角をしのぶ絵と画賛を作っています。その絵というのが箍掛職人と臼目切職人を描いたもの(箍掛臼目切図)で(画像は図録で見てください)、箍掛(タガカケ)とはタガが外れた桶や樽をもう一度締めなおし修理する仕事、臼目切(ウスメキリ)とは摩滅した碾き臼の目を刻みなおす仕事。どちらも流しの仕事で、明日をも知れぬその日暮らしという職人たちです。その絵の画賛を現代語に訳して紹介しましょう。

      昔のことは夢に似ている。夢から覚めたら覚めたでこれが現実とは言えない。ある日、其角と二人で深川の芭蕉庵を訪問したことがあった。夕べに帰る途中、二人で次のような句を作った。

      たがかけのたがたがかけて帰るらん 暁雲

      (あの箍掛職人は誰の持ち物の箍をはめて帰るところなのだろう)

      身をうすのめとおもひきる世に   其角

      (臼目を切るように「自分の身は臼の目のようにやがて消えてしまうものだ」とこの世を「思い切る」ことであるよ)

      芭蕉も其角も世を去り失せてしまったのに、自分だけが思いがけず生き残るとは、今日深川に立ってみると世の中のことは予想もできないものだなあ。

      一蝶は1724年に死去。墓は高輪の承教寺にあります。墓石には辞世の歌

      紛らはすうき世のわざのいろどりも有りとや月の薄ずみのそら

      が彫られています。

      ちなみに其角の墓があった上行寺は、当時は承教寺のすぐそばに所在した(現在は伊勢原市に移転)のですが、これは偶然でしょうか?

      承教寺の英一蝶墓

      2023-03-24

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(6) 歓生の生涯とその後の堤家

      堤歓生が鐘を奉納した大川町の西照寺

      堤家の出自

      ここで堤歓生の出自、そして堤家と私との関係についてお話ししましょう。

      歓生について、小松の連歌研究家である後藤長平が「素仏蔵小松俳諾史資料解題」の中で次のように書いています。

      姓は堤氏、通称越前屋宗右エ門、泥町(現大川町)に住す。利家公尾山城に入城の折、越前より随伴せし商人との事、その住居跡は今も堤町として残れり。後、利常公小松入城に従い来松せしと言う。天満宮能順の連歌の門に入り、第一人者となった。

      また作家の北條民雄は『新修浅井了意』の中で次のように書いています。

      堤家はもと京都の公卿であったが、故あって越前に下り、後金沢の堤町に居を占め、更に小松町泥町に移住した。其当時は俗称稲荷角におり、後に中町へ移転したが、火災のため居宅を焼き、其後いつとなく廃絶したのである。たゞ現在堤家の分家である堤八郎右衛門氏が残り、龍助町に居住せられている。

      歓生時代の家業も未詳であるが、越前屋七郎右衛門と称した事は明かである。 

      これらを整理すると

      • 堤家はもともと京都の公卿であった。(私の親族は、「自分たちに公卿の血が流れているとはとても思えん」と言っておりますが)
        それが越前に移住し、商人となった。
      • 戦国時代、前田利家は織田信長に臣従し、越前一向一揆を鎮圧した。この功により越前(福井県)に領地を与えられた。賤ケ岳の戦いの後の1583年、利家は秀吉から加賀2郡を与えられ、本拠を尾山城(金沢城)に移した。
        堤家はそれに従って金沢に移住した。もともと越前の商人であるから越前屋を名乗った。
      • 後に堤家は小松市泥町に移った。
      • 歓生は「越前屋宗右衛門」とも「越前屋七郎右衛門」とも名乗っていた。

      後藤長平は堤家について「その住居跡は今も(金沢市)堤町として残れり」としています。しかし『金沢市史によれば「堤町」の名は前田氏入城前の佐久間氏時代からある地名だとしており、堤家にちなんで町の名がついたわけではなさそうです。(逆に町名から堤姓を名乗った可能性はありますが)

      小松城が築かれ、前田家第2代藩主利常がそこを隠居所として入城したのが1639年です。利常死没の1658年まで城下の整備が続いたということですから、堤家が小松に移ったのはその頃ではないかと考えられます。

      次に小松での堤家の住居ですが、現在、梯川(かけはしがわ)小松大橋の橋畔に「ぬれて行や人もおかしきあめの萩 はせを」の句碑が建ち、ここが歓生亭であったとされています。しかし古地図を元に見ていくと、実際の歓生亭があった「泥町(ひじまち)稲荷角」はもう100メートルほど西だったのではないかと思われます。区画整理と小松大橋の架橋のため、街区が作り替えられ、橋畔に好適な空き地ができたのでそちらに句碑を設置されたのでしょう。



      歓生亭があったのは上写真の句碑の場所ではなく、
      100メートルほど西の下写真のあたりと思われる

      梯川の河畔に所在したということから、堤家越前屋は水運を利用した物資の輸送と売買を行っていたのではないかと考えられます。「泥町越前屋七郎左衛門は1688年に山上屋に代わって町年寄となった」という記録があるそうで、七郎左衛門は七郎右衛門の間違いだと思いますから、小松家は町年寄が務まるくらいの富商であったということが言えるでしょう。

      西照寺の釣鐘-七郎右衛門と八郎右衛門

      歓生の家は堤七郎右衛門家で、分家に堤八郎右衛門家がありました。そしてわが祖母は八郎右衛門のほうの家系なのです。その意味では歓生は私の直系の祖先ではないかもしれません。

      ただ、最終的に七郎右衛門家は廃絶して八郎右衛門家が堤家を継ぐことになったので、歓生をご先祖様と呼んでも許されるでしょう。

      歓生と初代八郎右衛門は、兄弟ではなかったかと私は想像します。そうでなかったとしても従兄弟ぐらいの関係ではあったろうと思います。そう考える理由は、兄弟であると見ると年代的に符合するということ(後述)。また七郎右衛門と八郎右衛門はどちらも越前屋を名乗っていたので、同じ地域に住む親しい家族で、協力して商売をやっていたと推理するのが自然であることなどです。

      堤家と同じ泥町(現・大川町)に西照寺という真宗大谷派の寺院があります。ここに、1684年に歓生(越前屋七郎右衛門)が奉納した釣鐘が現存します。太平洋戦争中に金属供出にあいそうになったものを、現地の運動でかろうじて残りました。鐘の銘は著名な仮名草子作者である浅井了意によるもので、なぜ了意がこれを書いたのかは仔細不明ですが、そういう伝手を持っていた歓生の交遊の広さが察せられます。

      そして同時に鐘楼を寄進したのが、越前屋八郎右衛門なのです。このことからも両者が非常に近しい血縁にあったことが確実視されます。


      西照寺の釣鐘
       

      梵鐘に刻まれた銘。
      「願主 小松住 越前屋七郎右衛門尉 堤氏 歓生」
      の文字が
      はっきり読み取れる。

      歓生の生涯

      堤歓生とはどのような人物であったか。生没年すらわかっていないのですが、年代的に考えて生年は1630~40年ごろ、没年は1723年またはそれ以後ではなかったかと推定します。そう考えると、鐘を寄進したのが数えで45~55歳、町年寄になったのが49~59歳、芭蕉を迎えたのが50~60歳という勘定で、だいたい自然な年齢はこびではないかと思います。

      いっぽう八郎右衛門のほうですが、最後にこの名跡を名乗っていたのが第八世で、その息子、堤重恭は1879年生まれ。乱暴ですが一世代を30年として計算すると、初代八郎右衛門は1639年前後生まれということになり、歓生と兄弟とするとうまく勘定が合います。荒っぽすぎて何の証拠にもならない計算ですがね。

      歓生がいつごろから能順に師事したかはわかっていませんが、最も古い資料(1681年)に先の計算を適用すると、42~52歳ですので、これくらいの年齢あるいはそれより若く入門したかと考えられます。1706年に能順が死去すると、翌年に師の発句集『聯玉集』を刊行。師の菩提を弔うためか、出家して「慶阿」を名乗りました。最後に連歌が記録されているのが1723年なので、上記のように没年を推定してみました。80歳以上生きた勘定で、当時としては相当な長生きです。

      彼の没後の1856年に発句集『新梅の雫』が刊行されました。

      その後の堤家

      北條民雄の記述によれば、七郎右衛門家は後に小松市中町に移住しています。その理由は不明ですが、仮に商業を続けていたとすると、梯川を使った水運が下火になったことが理由の一つに考えられないでしょうか。

      北陸本線の福井~富山間が開通したのが1899年。それ以降は物流の中心は鉄道になり、梯川河畔に大きな店を構える必然性がなくなって、駅により近い中町に移ったのではないか。


      小松市中町の現況。堤七郎右衛門家はこのあたりに転居した
       

      北條の言う「火災のため居宅を焼き」というのは、1930年3月28日に起こった「橋北(はしきた)の大火」です。小松市街の北半分を焼き尽くす大火事で、中町も泥町も焼失します。北條の記述ではその後七郎右衛門家は廃絶したとのことですが、火事による没落が原因なのか、単に家系が絶えたのかは不明です。

      いっぽう八郎右衛門家のほうは龍助町に移住していたとのことですが、こちらは1932年10月22日に起こった「橋南(はしみなみ)の大火」に襲われます。小松市は2つの大火によって主要部がほとんど焼尽するという悲劇に見舞われたのでした。八郎右衛門家はかろうじて蔵だけが残り、火災後はここに居住しながら再建を図りました。

      小松市龍助町。この付近に堤八郎右衛門家は居住した

      俳人・堤芹村

      堤八郎右衛門を最後に名乗っていたのは第八世ということですが、その息子が堤重恭(つつみ・しげやす、1878年12月25日~1944年2月21日)でした。当時堤家はだいぶん零落していたようで、重恭は若いうちは畳用の藺草を編んだ莚を仕入れて担いで売るというような仕事もしていたと聞きます。

      重恭は東京に遊学し、中央大学(当時は「東京法学院」)の学生だったころ正岡子規の門を敲き、俳句に手を染め、「堤芹村(つつみ・きんそん)」と号しました。蕪村に倣った号だったとも言われます。『俳文学大辞典』(角川書店刊)は芹村の読みを「せっそん」としていますが、「きんそん」が正しい。

      1902年に子規が没すると、重恭は福井市で弁護士の職に就きます。そのかたわら1909年には俳誌「早苗」を創刊しました。この年の8月から9月にかけて、三千里の旅の途中の河東碧梧桐を金沢と福井で迎えています。またそれと前後して、高浜虚子に福井で面会したことがありました。

      堤芹村は碧梧桐の新傾向系の作家であったと思われがちだが、本当のところは子規に私淑していたのであって、碧梧桐と虚子の両方に距離を置いていたのではないかと、これは芹村のお孫さんのご意見です。

      「早苗」は1年しか続かず、2巻8号で終刊したとのこと。しかし福井に近代俳句の芽を育てた人物として、郷土では大事にされているようで、県のデジタルアーカイブに名前が記録されています。

      堤芹村(重恭)の娘が私の母方の祖母になります。当時福井小町とうたわれたそうで、若いころの写真を見ると確かに美人です。老後の彼女しか知らないこちらにとっては「ほう」と思うばかりですが。

      堤家の家系が私につながったところで、今回のシリーズはおしまい。

      参考文献リスト

      『日本俳書大系第7巻 1926年
      日置謙 校『加越能古俳書大観』 1936年
      小野寺松雪堂『むかしの小松』第1巻(橋北篇) 1949年
      北條民雄『新修 浅井了意』 1974年
      鳥居清『芭蕉連句全註解』第6冊 1981年
      密田靖夫『芭蕉・北陸道を行く 「おくのほそ道」を手がかりとして』 1998年
      後藤子仏(長平)「素仏蔵小松俳諧史資料解題」(「小松市立博物館研究紀要第41号」所収) 2005年
      新修小松市史編集委員会『新修小松市史』 資料編7(文芸) 2006年
      綿抜豊昭『松尾芭蕉とその門流--加賀小松の場合』 2008年
      綿抜豊昭『能順と連歌 展示解説パンフレット』  2020年

      2023-03-23

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(5) 歓生の発句を読む


      堤歓生の発句を収める『俳諧雑巾』
       

      俳諧撰集に採られた歓生の発句

      今回は俳諧撰集や遺句集に収められた歓生の発句を鑑賞していきます。まずは同時代の俳諧撰集のほうから。

      年代的に最も古いのは、1680年編纂の『白根草』です。これは金沢の俳人、神戸友琴が父母を追悼する句を集めて一巻とした撰集です。加越能(加賀・越中・能登)の俳書としては現存する最古のもの。歓生の句は

      無常の色廿の下なる五日哉

      が収録されています。友琴の父が7月25日に、母が2月25日に亡くなったことから、20日からさらに5日下って無常が訪れたよという意味。無季の句ですが、無常のテーマであるから季語は必要ないという考えでしょうか。「廿」は何と読むのか、普通に考えれば「にじゅう」ですが、ニュウ・ハタ・ツヅなどの読みもありえるかもしれません。

      それに続くのが翌1681年に京都談林派の俳人、田中常矩が刊行した『俳諧雑巾』です。この撰集には歓生が24句入集しています。

      蓬莱や麓に銚子の海をたゝへ

      蓬莱は新年に三方(さんぼう)の上に縁起物を盛る飾りですが、もともとは中国の東方にあるとされた神仙の島のことです。秦の始皇帝が不老不死の薬を求めて徐福という人物を蓬莱に派遣したとされ、それは日本のことであったという伝説もあります。歓生は日本よりさらに東、千葉県の沖に蓬莱島はあるんじゃないかと想定して、蓬莱島の山の裾には銚子の海が広がっているよと興じました。

      千金あり質屋の目にも花の時
      きりぎりすなくや霜夜の後家也ける

      こういう句はいかにも談林調の滑稽句です。「桜の花時は千金の価値があるよ、質屋の目にもそう見えるだろうよ」「霜が降りる晩秋にまだ鳴くコオロギは連れ合いがもう死んでしまった後家のコオロギだろう」といった具合。

      天皇(すめろき)の御着替も哉田面(たも)の露
      関守や尿瓶(しびん)にかよふ小夜鵆(さよちどり)

      これらは連歌師らしいというか、本歌取りの句。前句は「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露に濡れつつ」(天智天皇)を踏まえて、こう田の稲の上に露が降りては、天皇も袖が濡れそぼってお着換えあそばす必要があるね」と詠んだ。後句は「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜ねざめぬ須磨の関守」(源兼昌)を引用して「千鳥が通う須磨、こう寒くては関守も催してくるから尿瓶を使う。千鳥の声と音を競ってるよ」と和歌を俳諧の笑いに転じています。

      歓生の句を収録する三番目の撰集は、加賀の杉野閏之と久津見一平が編んだ『加賀染』(1681年)で、7句入集しています。

      麦藁や木幡の里に馬はあれど

      柿本人麻呂の「山科の木幡の里に馬はあれど徒歩よりぞ来る君を思へば」の本歌取り。人麻呂の本歌は「馬はあるのだが用意するのが待ちきれず、山科の木幡の里を歩いてきた。あなたに恋こがれているので」という意味ですが、歓生の句は「木幡の里に本物の馬もいますが、これは麦藁で作った馬の人形」とおどけています。

      このように歓生は俳諧において完全に談林調の世界に身を置いていた。芭蕉と句座を共にした際には、自分が知らなかった種類の俳諧世界を経験していろいろ驚いたのではないでしょうか。

      芭蕉と歓生をつなぐ線

      『俳諧雑巾』の発句編では、歓生の24句は編者である常矩の28句に次ぐ多さです。それに続く利次と宗雅は20句で、比べても歓生の厚遇ぶりが際立っています。これは何を意味するのか。富商である歓生は常矩にとって重要なスポンサーだったのではないか、常矩はお得意様に気を遣ったのではないか。そう考えるのが自然なように思います。

      もう一つ注目されるのは、内藤露沾(ろせん)が13句採用されているところです。露沾は磐城平藩(現・福島県いわき市)の世嗣で本名は内藤義英、俳諧好きの武家として知られていました。『俳諧雑巾』には次のような句が掲載されています。

      持統天皇今朝袖軽し山姿
      汗拭蚤ぞながるゝ泉川
      生れ子のはじめて涼し四方の里 

      当時江戸住まいの露沾は、談林派の(とくに西山宗因の)パトロンでした。常矩も顧客に敬意を表して13句掲載したのではないかと想像されますし、しかも掲載位置がいい。春の部は巻頭から2句目が露沾、夏の部では1句目、秋の部では3句目と下にも置かぬもてなしです。冬の部では巻末に置いて大トリを演じてもらっています。

      芭蕉も露沾の庇護を受けており、おくのほそ道の旅に出る際には挨拶に訪れました。その際に二人の間で交わされた連句(付合)が残っています。

      松嶋行脚の餞別
      月花を両の袂の色香哉    露沾
       蛙のからに身を入る声   芭蕉

      『俳諧雑巾』で露沾と歓生がともに多数入集していることから考えて、両者はお互い名前を知っていたはずです。

      小松の俳人たちは芭蕉を歓迎し、第1回目の訪問の際には旅立ちを再三引き留めるほどでしたが、ひょっとすると露沾から歓生に「芭蕉をよろしく頼む」というような事前の一筆が行っていなかっただろうか?と妄想します。実際のところは、生駒万子や立花北枝らの金沢チームが歓生に芭蕉を紹介したと考えたほうが自然でしょうが...。少なくとも芭蕉と歓生が会話した際には、露沾のことが話題に出たに違いありません。


      いわき市波立海岸の内藤露沾句碑

      遺句集『新梅の雫』

      すでに述べたとおり、芭蕉が小松を去った後の歓生は俳諧に距離を置き、連歌一本となります。能順師の不興を避けるためではなかったかと、私は考えています。

      歓生没後に発句集『新梅の雫』が編まれます(制作年不明)。序文を書いているのは歌人・連歌師の鈴木正通。『新梅の雫』は全編が『新修小松市史 資料編7(文芸)』に収録されています。

      発句集といっても連歌の発句なので、俳諧の発句とはだいぶん勝手が違います。それを踏まえた上で、読んでいきましょう。

      日の影も薄くれなゐや夕霞
      梅一木匂ひは四方の春の風
      いづれより乱初(みだれそめ)にし萩の露 

      どれも「夕霞」「梅が香」「萩の露」の本意をそのままなぞった作りになっています。連歌の場合は意外な表現を避けて、おだやかに本意に従って作らなければいけません。古風でゆったりした詠みぶりです。

      直貞男子出世に 
      今年生の竹は世をつぐ行衛かな
      万子悼
      香に触し袖や露のみ梅の雨

      俳諧でも挨拶性ということが言われますが、連歌の発句はそれ以上に挨拶性が強いように感じられます。前句は直貞という人に男子が生まれたことを、今年竹に見立てて祝ったもの。後句は生駒万子を追悼した句で、「香に触し袖」というのは私とともに能順師の薫陶に接したということでしょうか。その袖も涙で濡れるということを、「露」「梅雨」と季節の違う季語(しかもどちらも水分)を二重にダメ押しすることで強く言っています。

      行水(ゆくみず)に焼火涼しき蛍哉
      夏の夜の月の行衛や稲光

      歓生の連歌発句では季重りが多い。前句では「涼しき」「蛍」、後句では「夏の夜」「月」「稲光」が重なっています。その結果、彼の発句は「味が濃い」感じがします。歓生の特徴なのか、連歌の特性なのかは私にはわからないのですが、彼の俳諧の発句ではそれほど季重りばかりということもなかったので、連歌ならではということかもしれません。

      須磨の浦にて 
      さもあらば荒よ関屋の秋の月
      荻の葉に露吹結ぶ風も哉
      紅葉して木の間に青し秋の海 

      秋の句を3句挙げてみました。秋の風景といっても芭蕉のようにさびさびとした侘びた眺めを提示するのではなく、様式美を追求したカッチリした作りを目指しているということが言えるのではないでしょうか。

      同じ歓生の発句でも、俳諧と連歌ではだいぶん肌触りが違うということを感じていただければと思います。

      次回は最終回。歓生の出自、生涯、そして私に至る家系について語りたいと思います。

      2023-03-22

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(4) 冑の下のきりぎりす

      多太神社

      あなむざんやな

      1689年8月6日に芭蕉が能順と面談し、能順の激怒にあって退散した話は前回記しました。小松の俳人たちも経緯を聞いて青ざめたことでしょう。

      翌7日、芭蕉を慰める気持もあってでしょうか、翁、歓生(亨子)、鼓蟾の3人で連句を巻きます。脇は亨子が務めているので、おそらく歓生亭が句座であったと思われます。発句は

      あなむざんやな冑(かぶと)の下のきりぎりす 翁

      でしたが、若干の説明が必要です。この句は7月25日に多太神社に参詣し、そこで斎藤実盛の甲冑と言われるものなどを実見して作ったものでした。

      斎藤実盛について
      斎藤実盛は源平合戦当時の、戦いで命を落とした武将。
      源義仲(木曽義仲)の幼時、父の源義賢が相模国で親戚の源義平に殺されてしまった。義平は義仲も殺すように家来に言ったのだが、斎藤実盛は幼い子を匿って、木曽に送り遣わした。
      長じた義仲は平家追討の軍を起こすが、その頃は実盛は平家に仕えており、敵対して戦うことになった。殺された敵将の首を見て義仲は「これは斎藤別当ではないか。しかし年齢からして白髪のはずなのに、髪も髭も黒いのはどういうわけだ」といぶかしがった。実盛のことを知る樋口兼光を呼び出すと、「実盛は敵に老人と侮られないように、戦に出るときは鬢も髭も黒く染めて出ると言っていた」と証言するので、首を池で洗ってみると、はたして白髪が表れた。

      芭蕉の発句は「むざんやな甲の下のきりぎりす」の形で「おくのほそ道」には収録され、『卯辰集』では「あなむざんや甲の下のきりぎりす」となっていますが、現地での初形は「あなむざんやな」でした。

      樋口兼光が実盛の首を見せられたときに発したことばは、『平家物語』では「あな無慚や」ですが、謡曲『実盛』では「あなむざんやな」となっています。つまり芭蕉は掲句を発想するときに平家物語ではなく謡曲のほうをベースにして引用したことになります。

      和歌や連歌や貞門俳諧では、本歌取りは主に和歌から取っていたのですが、談林時代になって当時流行していた謡曲から引用することが行われました。今で言えば、ニューミュージックから歌詞を借りるようなものですね。芭蕉も談林出身でしたから、謡曲の詞が口をついて出たというわけ。


      多太神社の芭蕉句碑。ここでは「あなむざん甲の下のきりぎりす」の形を採用している
       
      それではその連句を読んでいくことにしましょう。形式は歌仙、6・12・12・6という構成になります。

      あなむざんやなの巻
      初折表

      1.  あなむざんやな冑の下のきりぎりす   翁
      2.   ちからも枯し霜の秋草        亨子
      3.  渡綱よる丘の月かげに        鼓蟾
      4.   しばし住べき屋しき見立る      翁
      5.  酒片手に雪の傘さして        亨子
      6.   ひそかにひらく大の梅       鼓蟾

      芭蕉の発句を受けて、亨子(歓生)は脇で物寂しい風景を素直に付けます。

      第3では悲劇的な調子を離れて、渡し守が月の照る秋草の中で綱を縒っているよと普通の叙景に転じました。秋の発句なので月は第3までに出す。

      4句目、この地に流れてきた人間か、仮の住まいとなる家を見立てようと地元の渡し守に様子をたずねている。

      5句目、屋敷というのは別墅のことで、そこでは雪見酒を楽しむのだ。

      初折裏

      1.  や二ながるる煤のいろ      
      2.   音問(おとづ)る油隣はづかし    亨子
      3.  初恋に文書(かく)すべもたどたどし  鼓蟾
      4.   世につかはれて僧のなまめく     翁
      5.  提を湯にあづけるむつましさ    亨子
      6.   玉貰ふて戻る山もと        鼓蟾
      7.  柴の戸は納たたく頃静(しづか)也  翁
      8.   朝露ながら竹輪(たけわ)る藪   亨子
      9.  鵙す人は二十(はたち)にみたぬ貌  鼓蟾
      10.   よせて舟かす月の川端        
      11.  鍋持(もた)ぬ芦は花もなかりけり  亨子
      12.   去の軍(いくさ)の骨は白暴(のざらし) 鼓蟾

      裏に入って1句目、前句が「大年の梅」と年末の情景だったため、掃除の煤が庭の流水に混じっているとした。明快に季語が入っているわけではないので、雑の句。

      2句目、「おとづる油」とはどういう意味か難解ですが、「行灯の油が切れかけてジジジと音をたてるのが隣家に聞こえて恥ずかしい」という解釈に従っておきます。煤が流れ出るわ、油が音をたてるわ、近所迷惑。

      3句目は少女が行灯のもとで恋文を書く様子。恋の場に入ります。

      4句目、世間の用事にこき使われていた若い僧も、いつか恋を知るようになった。

      5句目、僧は身を持ち崩して湯女のもとを訪ねるようになり、提灯を預けて店に上がる。

      6句目、精力つけてネとおみやげに卵をもらう。

      7句目、山のふもとの草庵に戻れば納豆汁を作るため納豆を叩いている。

      8句目、竹を輪切りにするのは花生けか竹筒を作るため。

      9句目、「鵙落とし」は眼を縫いつぶしたモズを木に止まらせ、それを囮にして鳥を捕えることを意味する、秋の季語。

      10句目、月の定座は初折裏の8句目ですが、2句遅らせる(こぼす)ことで花前に持ってきた。

      11句目、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」のパロディで、鍋も持っていない貧しい水辺の家では花も咲いていない。和歌を本歌取りするところが、連歌師の歓生ならでは。

      12句目、春の句は3句以上続ける決まりなので、「去年今年」にひっかけて「去年」を春の季語として使いましたが少々無理。戦場の屍を詠むのも、発句と世界が近すぎていかがなものか。

      名残表

      1.  やぶ入の嫁や送らむけふの雨      翁
      2.   霞(かすむ)にほひの髪洗ふころ   亨子
      3.  うつくしき仏を御所に賜(たまはり)て 鼓蟾
      4.   つづけてかちし囲の仕合(しあはせ) 
      5.  暮かけて年の餅いそがしき      亨子
      6.   蕪くなる志賀の古里        鼓蟾
      7.  しらじらと明る夜の犬の声      翁
      8.   舎を唱ふる陵の坊         亨子
      9.  竹ひねて割(われ)し筧の岩水    鼓蟾
      10.   本の早もらふ百姓        
      11.  朝の月囲車に赤をゆすり捨(すて)  亨子
      12.   討(うた)ぬ敵(かたき)の絵はうき秋 鼓蟾 

      名残表1句目、「嫁」が出てきて恋の場。女性が出てくるとそれだけで「恋」だという慣習には、私はちょっと疑問を感じるのですが、現代連句でもそれは踏襲しているようです。

      4句目、美しい仏像のご加護で囲碁に連勝。

      5句目、囲碁を打つのんびりした人と餅搗の忙しさを対比。

      8句目、陵近い寺院で舎利供養の声明を上げている。仏教関係の題材が出てくるのが3回目ですが、芭蕉はそれほど気にしなかったのでしょうか。釈教は三句去なのでルール上問題ないのですが、百韻ならともかく歌仙形式は短いので、世界が狭くなっているような...。

      9句目で筧の竹が割れる情景が出されますが、裏の8句目で竹を伐る話が詠まれているのでイメージが戻る印象。

      11句目の囲車(いしゃ?)は不詳。乳母車のようなものか。

      12句目、かたき討ちの相手の似顔絵を持って子連れで追っているが果たせないのがつらい。かたき討ちとはまたもや争いの題材で、どうも鼓蟾は発句に引きずられがち。

      名残裏

      1.  良(やや)寒く行ば筑の船に酔ひ 
      2.   守(かみ)の館(たち)にて簫(せう)りて籟(ふく) 亨子
      3.  十二十重(とへはたへ)花のかげ有(あり)時(ひる)の庭 鼓蟾
      4.   杉をわける里人         翁
      5.  鳩の来て天窓(あたま)にとまる世の長閑 亨子
      6.   馳の雑はこぶ神垣         鼓蟾

      名残裏2句目、筑紫の守の館まで船で来たというのは、都の貴人が大宰府に到着したとうことであろうか。そこにあった簫を借りて、気晴らしに吹く

      3句目、花の座を2句引き上げて(繰り上げて)詠んでいます。

      4句目、杉菜とはここでは土筆のことでしょう。

      挙句で正月の雑煮を詠んで、めでたく仕上げました。「神垣」は多太神社への挨拶かもしれません。

      私ごとき連句の半素人が芭蕉の俳諧をとやかく言うのも何ですが、この一連はいまひとつ発想に飛躍が乏しくて、精彩を欠いているように思えてなりません。詠む順番が決まっている三吟の順付(膝送り)だと、えてしてこういうことになりがちです。それだけではなく、前回紹介した建部涼袋の記述が事実なら、この日芭蕉は能順とどう和解するかをするかを考えどおしで、心ここにあらずで指導に集中できなかったのかもしれません。

      せっかく北陸に育てた蕉風俳諧の火が、このようなトラブルのせいで消えてしまわないかと心労していたでしょうか。そうだとすると芭蕉がお気の毒。芭蕉の方にも言い分があったでしょうが、後々現地の俳人たちと能順の間にわだかまりが残らないよう、下手に出て謝るということがあったかもしれません。

      当時、俳諧の指導を行うと1回につき銭1貫(4分の1両)指導料を払うというのが相場だったそうです。貨幣価値はいちがいに言えませんが、ざっと2万5000円というところ。歓生としても、わざわざ小松まで戻ってきた芭蕉を手ぶらで送り出すわけにいかないので、興行をお願いしたのではないでしょうか。

      何のかんの言っても、芭蕉が小松で多くの俳人たちに歓迎されたことは確かです。おくのほそ道の旅行中、一都市で3回の俳諧の記録が残るのは小松だけでした。加賀前田藩の文化振興策や経済発展によって、小松が豊かな俳諧の土壌を有していたことに間違いはありますまい。

      8月8日、芭蕉は北枝に伴われて次の目的地、大聖寺の全昌寺に向かいます。

      2023-03-21

      堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(3) 芭蕉、連歌師能順を激怒させる

       
      小松天満宮。
      この社は金沢城と小松城を結ぶ線上にあり、また冬至の日の出線上に神門と本殿が並ぶなど非常に精密に設計され、加賀前田藩にとって重要な意味を持っていたことがわかる
       

      連歌師能順、芭蕉に激怒

      前回お話ししたとおり、芭蕉は1689年8月6日に小松で生駒万子と合流し、小松天満宮で連歌師の能順に面会するのですが、ここで思いもかけない事件が待ち受けていました。この件を記録しているのは、建部涼袋が約80年後に刊行した『とはじぐさという書籍です。建部は蕉門の志太野坡に俳諧を学び、その後北枝の弟子の和田希因らを師とした人。その彼がどんなことを書いているか、記述を現代語訳してみましょう。

      芭蕉という男が、北陸を行脚して加賀の国小松というところに至った。また同じ国の金沢の藩中に万子という人がおり、この男に俳諧の詠みかたを習って、師を尊敬することといえばまるで後家の老婆が仏を拝むような具合であった。

      そのころ小松に能順という人がいて、芭蕉がもう熱心に面会することを願ったので、万子をともなって天満宮に行き事の次第を申し上げた。能順は出てこられて、いろいろと会談するうちに、芭蕉は

      「かねてから大人が興行された連歌のことなどをあちらこちらでうかがっているうちに、涙がこぼれるほどに感動した御作がございました」

      と言った。主人がそれを聞いて、

      「どのような歌を聞き知ってそのようにおっしゃるのか」

      と問うたので、

      「それは

      秋風にすすきうち散るゆふべかな

       という歌です。たぐいまれなものと感動しております」

      すると主人が言うに

      「そんなふうに記憶しているのですか、もう一度言って聞かせてください」

      芭蕉がまた同じように暗誦するのを聞いて主人いわく、

      「あなたは評判にも似ず、言葉について無知な人ですな。つまらんことに時間を使ってしまった。今宵はことに暇がなかったのだが、万子がぜひにというからお会いしたのだ。このような無知な人と話をしたところで何の意味もない。そこでじっとしているがいい」

      と言い、お辞儀をすることもなく奥に入ってしまった。

      いったい何に立腹されたのだろうと驚き、万子も芭蕉も、立ったらいいものやら座ったらいいものやら悩んでしまった。能順に侍す若法師が来たので、

      「大人は何に機嫌を損じていらっしゃるのでしょう。その理由を聞いて、どのようにでもお詫びを申し上げたいのだが」

      と問うと、その法師が答えるには

      「大人がひとりごとを言うのを聞くと、『芭蕉は物の良しあしがわかった人間だ』と聞いたから時間を費やして面会したのに、私が詠んだものを「秋風に」と覚えて涙を落とすほど感動したとは何事だ。「秋風は」と置かなければ、ことばの続き具合も止まり具合も良くない。それなのに間違って覚えたまま、他人にも今まで話していたのであろうとは呆れかえる』とだけおっしゃいました。とくに大人は気の短い人ですから、客人のお二人もお帰りいただいて、出直してください」

      と言うので、あれこれ言いつくろって二人は退出した。

      さて次の日、小松の人々は集まって俳諧連歌を催し、芭蕉を迎えた。だがこの男、思い悩む顔をして口の中で独り言を言っていた。一日そうやっていたが、夕暮になって、

      「なんとも間違っていた。『秋風は』としないと中七が整わない。これは畏れ多いことであった」

      として、このことをすぐ手紙に書き、左白という者に能順大人のところに持って行ってほしいと言っていったそうだ。

      このことは最近、能順のお孫の能俊にお会いしたとき、こんなこともあったとじかに聞かせてくださったものである。そばには羽雪という男もいて、ともに聞いたことなので、わずかの間違いもない。能順は連歌の道を深く考えていらっしゃって、用字の違いを露ほども許さず、機嫌を悪くするほどであったというのは、文芸の道においてたいへん尊敬すべきことである。

      また芭蕉がひねもすこのことを考えて、自分は間違っていたと思ったのも、尊ぶべきことである。文芸の道にかかわることには、このように私心を去って自分をあざむかず、率直に心清く、こころざしはまっすぐであるべきだと、思うままに記す。 

      この文章は80年後に書かれたものであることと、筆者の建部涼袋が癖のある人物であることから、そもそも能順と芭蕉は本当に会ったのか、能順が激怒し芭蕉が謝罪するというようなことが起こったのか、疑う意見もあります。しかしさまざまな状況証拠を積み上げて考えると、ほぼここに書かれているとおりのことがあったのではないかと、私は判断しています。

      涼袋は芭蕉に対して、(というよりも芭蕉を神格化する人々に対して)批判的な気持を有していたので、語り口が意地悪になっていますが(とくに生駒万子に対しては辛辣な言いかたになっていますね)、会話の細部が正確かどうかは別としておおよその事実はこのとおりだったのではないか。

      それを理解するには、能順(1628~1706)とはどのような人物であったのかを知っておく必要がありますので、そこを説明しましょう。

      能順像(小松市立博物館蔵)
       

      京都から招聘された大物連歌師

      加賀の前田家は先祖を菅原道真であると称していました。菅原道真、すなわち天神は、連歌をつかさどる神として京都・北野天満宮に祀られていましたから、それに倣って前田家は新たに小松天満宮を造営して、大物の連歌師を招聘したいと考えました。

      このことには少し解説が必要です。加賀前田家は徳川将軍から見ると巨大な外様大名で、危険な存在として幕府から強くマークされていました。家康は秀忠に「前田を殺せ」とアドバイスしており、1631年には、徳川家光が前田利常の行動を疑い、「前田征伐」を一時検討するという危機がありました。

      こうした追及をかわすため、利常は「前田は武力を蓄えるつもりはございません、文化愛好にのめりこんでおります」という姿勢を示します。そのため京風文化を導入し、美術・工芸・芸能などに注力していきます。今日金沢が文化都市、観光都市として栄えるのは、こうした前田藩の政策があったからだと言えます。

      「芭蕉忍者説、曾良隠密説」をとなえる人に言わせれば、おくのほそ道の旅行目的の一つは、外様大名の伊達藩や前田藩の情報を収集して幕府に報告することであったということになるのですがね。それくらい前田藩は警戒されていた。

      小松天満宮の造営も文化政策の一環だったことでしょう。能順は北野天満宮の宮仕(みやじ)でしたが、「宗祇以来の名人」と噂された俊英で、1656年に前田利常によって百石の扶持をもって小松天満宮初代別当に招聘されました。このとき29歳。新天満宮は翌1657年に完成します。能順は京の北野と小松を往復する生活でしたので、京都文化の移入係としての役割も期待されていたでしょう。

      芭蕉と会った1989年には62歳、まさに脂の乗り切った時期だったと言えます。わがご先祖、堤歓生は小松における能順のいちばん身近な弟子であり、師の死後に遺句集『聯玉集』を編纂しています。


      小松天満宮社務所。もとはここに梅林院(宮司の住居)があり、
      能順と芭蕉はそこで面談したと思われる
       
      能順とのエピソードをめぐる証拠

      さて、能順激怒事件が実際にあったかどうかについては、いくつかの状況証拠を検討する必要があります。

      まず第一に、紀行文「おくのほそ道」では、歩いたルートが実際どおりに記述されておらず、小松に二度行ったことが書かれていない。これは二度目の小松訪問が愉快なものではなく、芭蕉が書き残したくなかったからではないかということが考えられます。

      第二に、桜井吏登の『或問珍』や額田風之の『誹諧耳底記』などいくつかの文書で能順の「秋風はすすきうち散るゆふべかな」と芭蕉の「秋風にすすきうち散るゆふべかな」の形が比較して論じられている。激怒事件については触れられていませんが、能順の句について芭蕉が何かを弟子に語っていたことは確かです。

      第三に、これは大きな話ですが、能順と芭蕉では身分に大きな差があったということです。そもそも連歌というのは、室町時代に北野に連歌会所が設けられ、足利将軍も連歌を学んでいた。江戸時代に入っても、将軍の御前で連歌が興行された(将軍はすぐ退席したそうですが)。それに対して俳諧というのは下層の者が楽しむ歴史の浅い形式でしかない。まして能順は加賀藩に知行を与えられたお抱え連歌師であり、芭蕉のようなフリーランスとは対等に話すような身分ではありません。それなのに弟子たちが「芭蕉だ、芭蕉が来る」と大騒ぎしていることを、能順は非常に苦々しい気持ちで聞いていたのではないでしょうか。会う前から芭蕉に対し不愉快な奴という感情があったかもしれません。

      第四に、なぜ芭蕉は山中から小松に戻ったかということです。宗祇を尊敬する芭蕉としては、宗祇以来の才能と噂される連歌師能順に会ってみたいという気持は当然あったでしょう(能順は宗祇の『角田川』-『吾妻問答』の別名-を筆写するなど、熱心な宗祇研究家でした)。いったん山中温泉に行ってから戻ったのは、最初の小松滞在時に能順の都合が悪かったということもありえますが、もう一つ、藩士の生駒万子のような身分のある人間でなくては、高位の能順に取り次げなかった、金沢で忙殺されていた万子が小松に来るまで時間がかかったということがないでしょうか。いかに弟子とはいっても町人の歓生では紹介者として役不足だったのではないか。

      第五に、前回紹介したように、芭蕉は山中温泉から出した塵生宛の手紙の中で「小松天満宮に自句を奉納する」ということを約束していますが、これが実行された形跡がない。芭蕉としては能順に面談したあと、お願いして奉納を済ませる計画だったのでしょうが、最初から話し合いが決裂してしまってはとても無理無理ということだったでしょう。

      第六に、芭蕉が小松を去って以降、堤歓生は俳諧をまったくやらなくなってしまいました。それ以前はいろいろな俳諧句集に彼の名を見ることができるのですが、以後は彼の名が消えて、連歌一本になります。これはやはり、歓生が師の激怒に恐れをなして俳諧から距離をとったからではないかと想像されます。芭蕉との連句では、「亨子」と号を変えていましたね。ひょっとすると能順のご機嫌が悪いことに気づいて、記録から名前を隠そうとしたのかもしれません。

      能順と芭蕉は決裂していないということを、とくに石川県では主張する人がいるのですが(芭蕉さんに嫌な思いをしてほしくなかったという気からでしょう)、これだけ状況証拠が揃ってしまうと、二人の間に何も問題がなかったとするのは難しいのではないかと思います。


      能順一族の墓。菩提寺の誓円寺が火事で焼失し墓だけ市街地に残る

      連歌と連句の美的基準の違い

      文学的に見て、

      秋風はすすきうち散るゆふべかな   能順
      秋風にすすきうち散るゆふべかな   (芭蕉の誤記憶)

      の2つの表現にはどういう違いがあったのかということを考えてみましょう。

      芭蕉の記憶していた形だと、「秋風に芒が散っていた」という、文字通りの写実句になります。彼が好む蕭条とした侘びた風景が現実のものとして描かれているリアリズムを良いと思ったのでしょう。ところが能順の句だと「秋風といえば、それは夕暮に芒が散っているような景色を意味する」というニュアンスが出てきます。実景というよりも、秋風とは何かを観念的に把握し直してみたという感じです。

      ここに、連歌と連句(俳諧)の美的基準の大きな差異があります。連歌は、既成の美意識を踏まえてそれをうまく言い換えることに価値を置いていた。新しいことはむしろ言ってはいけないのです。それに対して俳諧は、少なくとも芭蕉以降の俳諧は、自分が経験したことを重視して、リアリズムによって新しい真実を発見しようとした。

      能順と芭蕉では、出発点から美的基準がまったく違うのです。能順激怒エピソードはその両者の差異が表面化した出来事だと言えるでしょう。芭蕉は「連歌と俳諧は心は同じである」と言っていましたが、小松での経験によって「なかなかそう簡単には行かないものだ」とあらためて思い知ったのではないでしょうか。