2023-03-21

堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(3) 芭蕉、連歌師能順を激怒させる

 
小松天満宮。
この社は金沢城と小松城を結ぶ線上にあり、また冬至の日の出線上に神門と本殿が並ぶなど非常に精密に設計され、加賀前田藩にとって重要な意味を持っていたことがわかる
 

連歌師能順、芭蕉に激怒

前回お話ししたとおり、芭蕉は1689年8月6日に小松で生駒万子と合流し、小松天満宮で連歌師の能順に面会するのですが、ここで思いもかけない事件が待ち受けていました。この件を記録しているのは、建部涼袋が約80年後に刊行した『とはじぐさという書籍です。建部は蕉門の志太野坡に俳諧を学び、その後北枝の弟子の和田希因らを師とした人。その彼がどんなことを書いているか、記述を現代語訳してみましょう。

芭蕉という男が、北陸を行脚して加賀の国小松というところに至った。また同じ国の金沢の藩中に万子という人がおり、この男に俳諧の詠みかたを習って、師を尊敬することといえばまるで後家の老婆が仏を拝むような具合であった。

そのころ小松に能順という人がいて、芭蕉がもう熱心に面会することを願ったので、万子をともなって天満宮に行き事の次第を申し上げた。能順は出てこられて、いろいろと会談するうちに、芭蕉は

「かねてから大人が興行された連歌のことなどをあちらこちらでうかがっているうちに、涙がこぼれるほどに感動した御作がございました」

と言った。主人がそれを聞いて、

「どのような歌を聞き知ってそのようにおっしゃるのか」

と問うたので、

「それは

秋風にすすきうち散るゆふべかな

 という歌です。たぐいまれなものと感動しております」

すると主人が言うに

「そんなふうに記憶しているのですか、もう一度言って聞かせてください」

芭蕉がまた同じように暗誦するのを聞いて主人いわく、

「あなたは評判にも似ず、言葉について無知な人ですな。つまらんことに時間を使ってしまった。今宵はことに暇がなかったのだが、万子がぜひにというからお会いしたのだ。このような無知な人と話をしたところで何の意味もない。そこでじっとしているがいい」

と言い、お辞儀をすることもなく奥に入ってしまった。

いったい何に立腹されたのだろうと驚き、万子も芭蕉も、立ったらいいものやら座ったらいいものやら悩んでしまった。能順に侍す若法師が来たので、

「大人は何に機嫌を損じていらっしゃるのでしょう。その理由を聞いて、どのようにでもお詫びを申し上げたいのだが」

と問うと、その法師が答えるには

「大人がひとりごとを言うのを聞くと、『芭蕉は物の良しあしがわかった人間だ』と聞いたから時間を費やして面会したのに、私が詠んだものを「秋風に」と覚えて涙を落とすほど感動したとは何事だ。「秋風は」と置かなければ、ことばの続き具合も止まり具合も良くない。それなのに間違って覚えたまま、他人にも今まで話していたのであろうとは呆れかえる』とだけおっしゃいました。とくに大人は気の短い人ですから、客人のお二人もお帰りいただいて、出直してください」

と言うので、あれこれ言いつくろって二人は退出した。

さて次の日、小松の人々は集まって俳諧連歌を催し、芭蕉を迎えた。だがこの男、思い悩む顔をして口の中で独り言を言っていた。一日そうやっていたが、夕暮になって、

「なんとも間違っていた。『秋風は』としないと中七が整わない。これは畏れ多いことであった」

として、このことをすぐ手紙に書き、左白という者に能順大人のところに持って行ってほしいと言っていったそうだ。

このことは最近、能順のお孫の能俊にお会いしたとき、こんなこともあったとじかに聞かせてくださったものである。そばには羽雪という男もいて、ともに聞いたことなので、わずかの間違いもない。能順は連歌の道を深く考えていらっしゃって、用字の違いを露ほども許さず、機嫌を悪くするほどであったというのは、文芸の道においてたいへん尊敬すべきことである。

また芭蕉がひねもすこのことを考えて、自分は間違っていたと思ったのも、尊ぶべきことである。文芸の道にかかわることには、このように私心を去って自分をあざむかず、率直に心清く、こころざしはまっすぐであるべきだと、思うままに記す。 

この文章は80年後に書かれたものであることと、筆者の建部涼袋が癖のある人物であることから、そもそも能順と芭蕉は本当に会ったのか、能順が激怒し芭蕉が謝罪するというようなことが起こったのか、疑う意見もあります。しかしさまざまな状況証拠を積み上げて考えると、ほぼここに書かれているとおりのことがあったのではないかと、私は判断しています。

涼袋は芭蕉に対して、(というよりも芭蕉を神格化する人々に対して)批判的な気持を有していたので、語り口が意地悪になっていますが(とくに生駒万子に対しては辛辣な言いかたになっていますね)、会話の細部が正確かどうかは別としておおよその事実はこのとおりだったのではないか。

それを理解するには、能順(1628~1706)とはどのような人物であったのかを知っておく必要がありますので、そこを説明しましょう。

能順像(小松市立博物館蔵)
 

京都から招聘された大物連歌師

加賀の前田家は先祖を菅原道真であると称していました。菅原道真、すなわち天神は、連歌をつかさどる神として京都・北野天満宮に祀られていましたから、それに倣って前田家は新たに小松天満宮を造営して、大物の連歌師を招聘したいと考えました。

このことには少し解説が必要です。加賀前田家は徳川将軍から見ると巨大な外様大名で、危険な存在として幕府から強くマークされていました。家康は秀忠に「前田を殺せ」とアドバイスしており、1631年には、徳川家光が前田利常の行動を疑い、「前田征伐」を一時検討するという危機がありました。

こうした追及をかわすため、利常は「前田は武力を蓄えるつもりはございません、文化愛好にのめりこんでおります」という姿勢を示します。そのため京風文化を導入し、美術・工芸・芸能などに注力していきます。今日金沢が文化都市、観光都市として栄えるのは、こうした前田藩の政策があったからだと言えます。

「芭蕉忍者説、曾良隠密説」をとなえる人に言わせれば、おくのほそ道の旅行目的の一つは、外様大名の伊達藩や前田藩の情報を収集して幕府に報告することであったということになるのですがね。それくらい前田藩は警戒されていた。

小松天満宮の造営も文化政策の一環だったことでしょう。能順は北野天満宮の宮仕(みやじ)でしたが、「宗祇以来の名人」と噂された俊英で、1656年に前田利常によって百石の扶持をもって小松天満宮初代別当に招聘されました。このとき29歳。新天満宮は翌1657年に完成します。能順は京の北野と小松を往復する生活でしたので、京都文化の移入係としての役割も期待されていたでしょう。

芭蕉と会った1989年には62歳、まさに脂の乗り切った時期だったと言えます。わがご先祖、堤歓生は小松における能順のいちばん身近な弟子であり、師の死後に遺句集『聯玉集』を編纂しています。


小松天満宮社務所。もとはここに梅林院(宮司の住居)があり、
能順と芭蕉はそこで面談したと思われる
 
能順とのエピソードをめぐる証拠

さて、能順激怒事件が実際にあったかどうかについては、いくつかの状況証拠を検討する必要があります。

まず第一に、紀行文「おくのほそ道」では、歩いたルートが実際どおりに記述されておらず、小松に二度行ったことが書かれていない。これは二度目の小松訪問が愉快なものではなく、芭蕉が書き残したくなかったからではないかということが考えられます。

第二に、桜井吏登の『或問珍』や額田風之の『誹諧耳底記』などいくつかの文書で能順の「秋風はすすきうち散るゆふべかな」と芭蕉の「秋風にすすきうち散るゆふべかな」の形が比較して論じられている。激怒事件については触れられていませんが、能順の句について芭蕉が何かを弟子に語っていたことは確かです。

第三に、これは大きな話ですが、能順と芭蕉では身分に大きな差があったということです。そもそも連歌というのは、室町時代に北野に連歌会所が設けられ、足利将軍も連歌を学んでいた。江戸時代に入っても、将軍の御前で連歌が興行された(将軍はすぐ退席したそうですが)。それに対して俳諧というのは下層の者が楽しむ歴史の浅い形式でしかない。まして能順は加賀藩に知行を与えられたお抱え連歌師であり、芭蕉のようなフリーランスとは対等に話すような身分ではありません。それなのに弟子たちが「芭蕉だ、芭蕉が来る」と大騒ぎしていることを、能順は非常に苦々しい気持ちで聞いていたのではないでしょうか。会う前から芭蕉に対し不愉快な奴という感情があったかもしれません。

第四に、なぜ芭蕉は山中から小松に戻ったかということです。宗祇を尊敬する芭蕉としては、宗祇以来の才能と噂される連歌師能順に会ってみたいという気持は当然あったでしょう(能順は宗祇の『角田川』-『吾妻問答』の別名-を筆写するなど、熱心な宗祇研究家でした)。いったん山中温泉に行ってから戻ったのは、最初の小松滞在時に能順の都合が悪かったということもありえますが、もう一つ、藩士の生駒万子のような身分のある人間でなくては、高位の能順に取り次げなかった、金沢で忙殺されていた万子が小松に来るまで時間がかかったということがないでしょうか。いかに弟子とはいっても町人の歓生では紹介者として役不足だったのではないか。

第五に、前回紹介したように、芭蕉は山中温泉から出した塵生宛の手紙の中で「小松天満宮に自句を奉納する」ということを約束していますが、これが実行された形跡がない。芭蕉としては能順に面談したあと、お願いして奉納を済ませる計画だったのでしょうが、最初から話し合いが決裂してしまってはとても無理無理ということだったでしょう。

第六に、芭蕉が小松を去って以降、堤歓生は俳諧をまったくやらなくなってしまいました。それ以前はいろいろな俳諧句集に彼の名を見ることができるのですが、以後は彼の名が消えて、連歌一本になります。これはやはり、歓生が師の激怒に恐れをなして俳諧から距離をとったからではないかと想像されます。芭蕉との連句では、「亨子」と号を変えていましたね。ひょっとすると能順のご機嫌が悪いことに気づいて、記録から名前を隠そうとしたのかもしれません。

能順と芭蕉は決裂していないということを、とくに石川県では主張する人がいるのですが(芭蕉さんに嫌な思いをしてほしくなかったという気からでしょう)、これだけ状況証拠が揃ってしまうと、二人の間に何も問題がなかったとするのは難しいのではないかと思います。


能順一族の墓。菩提寺の誓円寺が火事で焼失し墓だけ市街地に残る

連歌と連句の美的基準の違い

文学的に見て、

秋風はすすきうち散るゆふべかな   能順
秋風にすすきうち散るゆふべかな   (芭蕉の誤記憶)

の2つの表現にはどういう違いがあったのかということを考えてみましょう。

芭蕉の記憶していた形だと、「秋風に芒が散っていた」という、文字通りの写実句になります。彼が好む蕭条とした侘びた風景が現実のものとして描かれているリアリズムを良いと思ったのでしょう。ところが能順の句だと「秋風といえば、それは夕暮に芒が散っているような景色を意味する」というニュアンスが出てきます。実景というよりも、秋風とは何かを観念的に把握し直してみたという感じです。

ここに、連歌と連句(俳諧)の美的基準の大きな差異があります。連歌は、既成の美意識を踏まえてそれをうまく言い換えることに価値を置いていた。新しいことはむしろ言ってはいけないのです。それに対して俳諧は、少なくとも芭蕉以降の俳諧は、自分が経験したことを重視して、リアリズムによって新しい真実を発見しようとした。

能順と芭蕉では、出発点から美的基準がまったく違うのです。能順激怒エピソードはその両者の差異が表面化した出来事だと言えるでしょう。芭蕉は「連歌と俳諧は心は同じである」と言っていましたが、小松での経験によって「なかなかそう簡単には行かないものだ」とあらためて思い知ったのではないでしょうか。