2023-03-22

堤歓生 芭蕉と連句を巻いた私のご先祖(4) 冑の下のきりぎりす

多太神社

あなむざんやな

1689年8月6日に芭蕉が能順と面談し、能順の激怒にあって退散した話は前回記しました。小松の俳人たちも経緯を聞いて青ざめたことでしょう。

翌7日、芭蕉を慰める気持もあってでしょうか、翁、歓生(亨子)、鼓蟾の3人で連句を巻きます。脇は亨子が務めているので、おそらく歓生亭が句座であったと思われます。発句は

あなむざんやな冑(かぶと)の下のきりぎりす 翁

でしたが、若干の説明が必要です。この句は7月25日に多太神社に参詣し、そこで斎藤実盛の甲冑と言われるものなどを実見して作ったものでした。

斎藤実盛について
斎藤実盛は源平合戦当時の、戦いで命を落とした武将。
源義仲(木曽義仲)の幼時、父の源義賢が相模国で親戚の源義平に殺されてしまった。義平は義仲も殺すように家来に言ったのだが、斎藤実盛は幼い子を匿って、木曽に送り遣わした。
長じた義仲は平家追討の軍を起こすが、その頃は実盛は平家に仕えており、敵対して戦うことになった。殺された敵将の首を見て義仲は「これは斎藤別当ではないか。しかし年齢からして白髪のはずなのに、髪も髭も黒いのはどういうわけだ」といぶかしがった。実盛のことを知る樋口兼光を呼び出すと、「実盛は敵に老人と侮られないように、戦に出るときは鬢も髭も黒く染めて出ると言っていた」と証言するので、首を池で洗ってみると、はたして白髪が表れた。

芭蕉の発句は「むざんやな甲の下のきりぎりす」の形で「おくのほそ道」には収録され、『卯辰集』では「あなむざんや甲の下のきりぎりす」となっていますが、現地での初形は「あなむざんやな」でした。

樋口兼光が実盛の首を見せられたときに発したことばは、『平家物語』では「あな無慚や」ですが、謡曲『実盛』では「あなむざんやな」となっています。つまり芭蕉は掲句を発想するときに平家物語ではなく謡曲のほうをベースにして引用したことになります。

和歌や連歌や貞門俳諧では、本歌取りは主に和歌から取っていたのですが、談林時代になって当時流行していた謡曲から引用することが行われました。今で言えば、ニューミュージックから歌詞を借りるようなものですね。芭蕉も談林出身でしたから、謡曲の詞が口をついて出たというわけ。


多太神社の芭蕉句碑。ここでは「あなむざん甲の下のきりぎりす」の形を採用している
 
それではその連句を読んでいくことにしましょう。形式は歌仙、6・12・12・6という構成になります。

あなむざんやなの巻
初折表

  1.  あなむざんやな冑の下のきりぎりす   翁
  2.   ちからも枯し霜の秋草        亨子
  3.  渡綱よる丘の月かげに        鼓蟾
  4.   しばし住べき屋しき見立る      翁
  5.  酒片手に雪の傘さして        亨子
  6.   ひそかにひらく大の梅       鼓蟾

芭蕉の発句を受けて、亨子(歓生)は脇で物寂しい風景を素直に付けます。

第3では悲劇的な調子を離れて、渡し守が月の照る秋草の中で綱を縒っているよと普通の叙景に転じました。秋の発句なので月は第3までに出す。

4句目、この地に流れてきた人間か、仮の住まいとなる家を見立てようと地元の渡し守に様子をたずねている。

5句目、屋敷というのは別墅のことで、そこでは雪見酒を楽しむのだ。

初折裏

  1.  や二ながるる煤のいろ      
  2.   音問(おとづ)る油隣はづかし    亨子
  3.  初恋に文書(かく)すべもたどたどし  鼓蟾
  4.   世につかはれて僧のなまめく     翁
  5.  提を湯にあづけるむつましさ    亨子
  6.   玉貰ふて戻る山もと        鼓蟾
  7.  柴の戸は納たたく頃静(しづか)也  翁
  8.   朝露ながら竹輪(たけわ)る藪   亨子
  9.  鵙す人は二十(はたち)にみたぬ貌  鼓蟾
  10.   よせて舟かす月の川端        
  11.  鍋持(もた)ぬ芦は花もなかりけり  亨子
  12.   去の軍(いくさ)の骨は白暴(のざらし) 鼓蟾

裏に入って1句目、前句が「大年の梅」と年末の情景だったため、掃除の煤が庭の流水に混じっているとした。明快に季語が入っているわけではないので、雑の句。

2句目、「おとづる油」とはどういう意味か難解ですが、「行灯の油が切れかけてジジジと音をたてるのが隣家に聞こえて恥ずかしい」という解釈に従っておきます。煤が流れ出るわ、油が音をたてるわ、近所迷惑。

3句目は少女が行灯のもとで恋文を書く様子。恋の場に入ります。

4句目、世間の用事にこき使われていた若い僧も、いつか恋を知るようになった。

5句目、僧は身を持ち崩して湯女のもとを訪ねるようになり、提灯を預けて店に上がる。

6句目、精力つけてネとおみやげに卵をもらう。

7句目、山のふもとの草庵に戻れば納豆汁を作るため納豆を叩いている。

8句目、竹を輪切りにするのは花生けか竹筒を作るため。

9句目、「鵙落とし」は眼を縫いつぶしたモズを木に止まらせ、それを囮にして鳥を捕えることを意味する、秋の季語。

10句目、月の定座は初折裏の8句目ですが、2句遅らせる(こぼす)ことで花前に持ってきた。

11句目、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ」のパロディで、鍋も持っていない貧しい水辺の家では花も咲いていない。和歌を本歌取りするところが、連歌師の歓生ならでは。

12句目、春の句は3句以上続ける決まりなので、「去年今年」にひっかけて「去年」を春の季語として使いましたが少々無理。戦場の屍を詠むのも、発句と世界が近すぎていかがなものか。

名残表

  1.  やぶ入の嫁や送らむけふの雨      翁
  2.   霞(かすむ)にほひの髪洗ふころ   亨子
  3.  うつくしき仏を御所に賜(たまはり)て 鼓蟾
  4.   つづけてかちし囲の仕合(しあはせ) 
  5.  暮かけて年の餅いそがしき      亨子
  6.   蕪くなる志賀の古里        鼓蟾
  7.  しらじらと明る夜の犬の声      翁
  8.   舎を唱ふる陵の坊         亨子
  9.  竹ひねて割(われ)し筧の岩水    鼓蟾
  10.   本の早もらふ百姓        
  11.  朝の月囲車に赤をゆすり捨(すて)  亨子
  12.   討(うた)ぬ敵(かたき)の絵はうき秋 鼓蟾 

名残表1句目、「嫁」が出てきて恋の場。女性が出てくるとそれだけで「恋」だという慣習には、私はちょっと疑問を感じるのですが、現代連句でもそれは踏襲しているようです。

4句目、美しい仏像のご加護で囲碁に連勝。

5句目、囲碁を打つのんびりした人と餅搗の忙しさを対比。

8句目、陵近い寺院で舎利供養の声明を上げている。仏教関係の題材が出てくるのが3回目ですが、芭蕉はそれほど気にしなかったのでしょうか。釈教は三句去なのでルール上問題ないのですが、百韻ならともかく歌仙形式は短いので、世界が狭くなっているような...。

9句目で筧の竹が割れる情景が出されますが、裏の8句目で竹を伐る話が詠まれているのでイメージが戻る印象。

11句目の囲車(いしゃ?)は不詳。乳母車のようなものか。

12句目、かたき討ちの相手の似顔絵を持って子連れで追っているが果たせないのがつらい。かたき討ちとはまたもや争いの題材で、どうも鼓蟾は発句に引きずられがち。

名残裏

  1.  良(やや)寒く行ば筑の船に酔ひ 
  2.   守(かみ)の館(たち)にて簫(せう)りて籟(ふく) 亨子
  3.  十二十重(とへはたへ)花のかげ有(あり)時(ひる)の庭 鼓蟾
  4.   杉をわける里人         翁
  5.  鳩の来て天窓(あたま)にとまる世の長閑 亨子
  6.   馳の雑はこぶ神垣         鼓蟾

名残裏2句目、筑紫の守の館まで船で来たというのは、都の貴人が大宰府に到着したとうことであろうか。そこにあった簫を借りて、気晴らしに吹く

3句目、花の座を2句引き上げて(繰り上げて)詠んでいます。

4句目、杉菜とはここでは土筆のことでしょう。

挙句で正月の雑煮を詠んで、めでたく仕上げました。「神垣」は多太神社への挨拶かもしれません。

私ごとき連句の半素人が芭蕉の俳諧をとやかく言うのも何ですが、この一連はいまひとつ発想に飛躍が乏しくて、精彩を欠いているように思えてなりません。詠む順番が決まっている三吟の順付(膝送り)だと、えてしてこういうことになりがちです。それだけではなく、前回紹介した建部涼袋の記述が事実なら、この日芭蕉は能順とどう和解するかをするかを考えどおしで、心ここにあらずで指導に集中できなかったのかもしれません。

せっかく北陸に育てた蕉風俳諧の火が、このようなトラブルのせいで消えてしまわないかと心労していたでしょうか。そうだとすると芭蕉がお気の毒。芭蕉の方にも言い分があったでしょうが、後々現地の俳人たちと能順の間にわだかまりが残らないよう、下手に出て謝るということがあったかもしれません。

当時、俳諧の指導を行うと1回につき銭1貫(4分の1両)指導料を払うというのが相場だったそうです。貨幣価値はいちがいに言えませんが、ざっと2万5000円というところ。歓生としても、わざわざ小松まで戻ってきた芭蕉を手ぶらで送り出すわけにいかないので、興行をお願いしたのではないでしょうか。

何のかんの言っても、芭蕉が小松で多くの俳人たちに歓迎されたことは確かです。おくのほそ道の旅行中、一都市で3回の俳諧の記録が残るのは小松だけでした。加賀前田藩の文化振興策や経済発展によって、小松が豊かな俳諧の土壌を有していたことに間違いはありますまい。

8月8日、芭蕉は北枝に伴われて次の目的地、大聖寺の全昌寺に向かいます。