2022-08-12

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(2)-能楽の場合

  


伊藤正義校注『謡曲集』(新潮日本古典集成)

謡曲でも「寄合」が大事なはたらき

前回は「寄合」が連歌においてどのように用いられたかを解説しましたが、近年になって謡曲(能楽)でも寄合がさかんに使われていることがわかってきました。伊藤正義先生が新潮日本古典集成『謡曲集 上・中・下』の中で、詞に含まれる寄合を注記によってつぎつぎ指摘することで明らかにされたのです。

ではセリフの中でどのような寄合が使われているか、能の演目ごとにいくつか見てみましょう。赤字で表示した同士が寄合です。

[葵上]
三つの車にのり(/乗り)の道 火宅の門をや出でぬらん
[安達原]
・異草(ことくさ)も交じる茅 うたてや今宵敷きなまし
・空かき曇る雨の夜の 鬼一口に食はんとて
[姨捨]
・物凄まじきこの原の 風も身に沁む 秋の心 今とても なぐさめかねつ更科や 姨捨山の 夕暮れに まつも桂も交じる木の 緑も残りて秋の葉の はや色づくか一重山 薄も立ちわたり
[隅田川]
・げにや舟競ふ 堀江の川の水際に 来居つつ鳴くは都鳥
[忠度]
・わくらはに問ふ人あらば須磨のに 藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ げにや漁りの海士小舟 藻塩の 松の風 いづれか淋しからずといふことなき 
 恥づかしや亡き跡に 姿を返すの中 覚むる心はいにしへに 迷ふあまよの物語り 

有名な演目の中から例をいくつか挙げてみました。謡曲においては古歌や漢籍や物語からの引用がさかんに行われていることは自明なのですが、伊藤先生の功績により連歌とも関連性があることが知られるようになったのです。

なぜ謡曲に「寄合」が使われた?

なぜ、連歌用のテクニックである「寄合」が謡曲でも使われたのか? この問題については私は詳しくありませんし、実際どこまで究明されているのかも知りません。推測を交えて言うならば、

  1. 能の作者(世阿弥など)は、寄合書を座右に置き参照しながら作詞していたのではないか。前回挙げた(今日まで残っている)寄合書は、おおむね15世紀末に成立したもので、世阿弥よりも時代的には後になるが、これらの寄合書の原形となる先行的な資料がもともとあったのではないか。二条良基(14世紀)らが寄合語を集めていたという記録もあるそうだ。

  2. そもそも謡曲の創作に、連歌師が指導するなり助言を与えるなりといった関わりがあったかもしれない。たとえば琳阿弥という曲舞(くせまい)作者は同時に連歌師でもあったが、足利義満に仕え、世阿弥の能にも影響を与えたとされる。

といった可能性があると思います。

連歌と能楽は室町時代を代表する芸術であり、幽玄を理想とする美学には共通するところが見られますが、具体的に連歌師と能楽師がどのような関係をもっていたかについてははっきりしない点があります。今後の解明が期待されます。

さて、次回はいよいよ俳諧に寄合がどのような影響を与えたかを考えてみます。

*  *  *

今回の内容は落合博志「和歌・連歌・平家と能および早歌-諸ジャンルの交渉ー」を参考にさせていただきました。

2022-08-11

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(1)-連歌の場合

 
連珠合璧集(一条兼良編、1476)

知っておきたい「寄合」の話

皆さん、「寄合(よりあい)」って知ってますか?
もしあなたが、俳人とか連句人とか能楽愛好者とかであるなら、多少の知識はあったほうがいいかもしれません。連歌や、俳諧や、謡曲の成立には、寄合という考えが非常に大きく影響しています。たとえば松尾芭蕉がやった仕事の価値を知るためには、彼がどのように寄合を活用しその一方でどう乗り越えていったかを理解することが不可欠ではないでしょうか。

寄合とは、連歌で特定の歌語が用いられた場合、次の付句ではどのような単語・表現を用いたら良いかという、定番の組み合わせのことです。室町時代以降、寄合を集めた作歌マニュアルが作られ、それが「寄合集(寄合書)」と呼ばれる、辞書的な書物となりました。

寄合集の見出し語の中から季節に関するものだけを拾い出して、季語に解説を加えたのが今日の俳句歳時記であるという見かたもできると思います。ですから、季語の成り立ちというものを理解するうえでも、寄合について知っておくのは望ましいことです。

百聞は一見にしかず、寄合集の一つである『連珠合璧集(れんじゅがっぺきしゅう)』を見てみましょう。その「女郎花(おみなえし)」の項目を引きます。

女郎花トアラバ、
うしろめたく おほかる 男山 一時 妻こふ鹿 花のすがた 嵯峨野 馬遍照  むせる粟 
名にめでてをれるばかりぞ女郎花我おちにきと人な 僧正遍昭

意味するところは、
「前句で女郎花という語が出たら、次の付句では『うしろめたく おほかる 男山 一時 妻こふ鹿 花のすがた 嵯峨野 馬  むせる粟』などの表現を使うといい」
ということです。これらの寄合は、古歌や源氏物語、伊勢物語などに前例となる出典を持つ組み合わせです。たとえば「馬」のあとに小さく「遍照」と書いてありますが、これは「僧正遍照(遍昭)の歌を出典とする寄合ですよ、そのことを踏まえて付けなさいよ」という注釈で、実際に遍昭の歌が引用されています。歌の前に「古」と記入されているのは、出典が『古今和歌集』であることを示しています。

『寄合集』のいろいろ

連歌を作る人への便宜のために、さまざまな連歌師が「寄合集」を編集しました。代表的な例を挙げると

  • 『連歌作法』 大胡修茂編 1472年成立
  • 『連歌寄合』 恵俊?編 1473年成立
  • 『連珠合璧集』 一条兼良編 1476年成立
  • 『連歌付合の事』 猪苗代兼載?編 1488年?
  • 『宗祇袖下』 宗祇編 1489以前成立
  • 『宗長歌話』 宗長編 1490年成立

などがあります。これらの内容には重なるところもあれば、独自の寄合を挙げている場合もあって、寄合というのは厳密な規定ではなく各連歌師の美意識が反映していると言っていいでしょう。

この中で内容的に充実していて、見出し語がわかりやすく分類整理され、連歌の研究にも活用されることが多いのは『連珠合集』です。編者の一条兼良は室町時代の大歌学者で、みずから「菅原道真以上の学者」と豪語し、宗祇も古典について彼の教えを受けています。「連珠合璧集」を読みたい方は『中世の文学 連歌論1』(三弥井書店刊)「日本文学Web図書館 和歌・連歌・俳諧ライブラリー」に全文が収録されています。参考まで。

後の時代になると、俳諧に特化した寄合集も作られるようになりますが、それについては後述します。

「水無瀬三吟」における寄合

では寄合が実際にどのように利用されたか、連歌作品を実例にして見てみることにしましょう。使用する資料は、宗祇、肖柏、宗長の三人による有名な連歌「水無瀬三吟百韻」の冒頭部分です。連歌といえば水無瀬三吟、と言われるくらい教科書的に扱われる作品。寄合集は『連珠合璧集』を使いながら照合してみます。

1 雪ながら山もとかすむ夕(ゆふべ)かな 宗祇

発句は宗祇。後鳥羽上皇の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ」の歌を本歌取りしたものです。これに何を付けるかですが、寄合集の「雪」の題には次のように寄合が示されています。

雪トアラバ、
ふる つもる ふかき あさき 白 はらふ あと 浪 うづむ あつむる 消 花 梅 桜 卯花 菊 月 富士 こしぢの山 友待 鏡の影 白ゆふ 松

発句は春の雪を詠んだものであるから、脇句も春でなければなりません。そこで次の詠み番である肖柏はここから「梅」を選んで付句を考えます。

2 行く水とほく梅にほふ里        肖柏

梅がなぜ雪の寄合かというと、これは万葉集に「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人」という、梅の落花を雪に見立てた歌があるからです。この関係から、脇句の「梅」も白梅と理解するとよいでしょう。

和歌や連歌というのは、前例を重視する文学で、先例がない表現というものを嫌います。そのため本歌取りが盛んに行われるのですが、毎句ごとに本歌を探してそれを翻案するというのは大変です。そこで、本歌のエッセンスというべき寄合の関係を寄合書にまとめて、それを利用することで先例を踏まえた付けを実現できるようにしたのだろうと思います。

脇句では「梅」が出てきたので、次の第三ではその寄合を見てみましょう。

梅トアラバ、
雪 鴬 誰が袖ふれし 色香 月 山里 軒端 垣ね 窓 あるじ はるやむかし はやくをつ 南の枝 柳 桜 八重

次の詠み番である宗長はここから「柳」を選んで第三を発案します。

3 川かぜに一むら柳春みえて       宗長

梅と柳の組み合わせは漢詩でさかんに詠まれたもので、「花紅柳緑」という成語があるほどです(ここで言う花とは梅のことでしょう)。その影響から万葉集でも「梅の花しだり柳に折り交へ花にまつらば君に逢はむかも」など、梅と柳を詠んだ歌が多く収録されています。なお、松尾芭蕉にも「梅柳さぞ若衆かな女かな」という発句があることには注意したいところです。芭蕉も寄合はよく理解していたということが言えるのです。

梅と柳、という色の対比から考えて、ここでは脇句の梅を紅梅と読み替えたと言っていいと思います。このように付句によって前句のイメージを読み替えるのが、連歌や連句の醍醐味です。

ここで「川」が出てきたので、次はその寄合を考えます。

川トアラバ、
水 ながれ ふち 瀬 舟 筏の類。又、涙 思などいふ詞にて付べし。

この中から「舟」が選ばれます。

4 舟さすおとはしるき明(あけ)がた   宗祇

川と舟が縁語であることは言うまでもないでしょう。

5 月は猶(なほ)霧わたる夜にのこるらん 肖柏

百韻の場合は、月の定座は7句目ですが、この連歌では引き上げて5句目に出しています。「暁」と「残月」が寄合なので、前句の「明がた」に応じてここで月を出してしまおうということかもしれません。

次は「月」の寄合です。

月トアラバ、
光 かげ 出入 久堅の空 秋の夜 桂 都 鏡 弓 舟 友 心のくま 霜 雪 空行 林

ここから「霜」が選択されます。ただし、秋の句は3句以上続けるのが原則なので、秋の霜を描きます。

6 霜おく野はら秋はくれけり       宗長

月の光に白く照らされた情景を霜が下りた様子に例えるのは古くから行われたことで、『拾遺集』には「今夜かくながむる袖のつゆけきは月の霜をや秋とみつらん よみ人知らず」の歌があります。

次は「霜」に注目して寄合をさぐります。

霜トアラバ、
をく 消 ふる むすぶ 寒 草のうら枯 木葉 色づく 虫のこゑかるる をくてのいなば 暁 夏の夜 かね 月 菊 まさご もとゆひ 白妙の衣うつ 露こほる

ここから「草のうら枯」が選ばれました。

7 なく虫の心ともなく草かれて      宗祇

「草枯」は冬の季語ですが、ここでは「鳴く虫」のほうが強く秋季となります。虫の心も知らず容赦なく草は枯れていくといった景色です。

さて、全百韻のうち最初の七句を引用して、寄合がどのように使われているかを見てきました。連歌の付がすべて寄合を使っているわけではないのですが、しかし連歌を詠むうえでは寄合の知識が当然の前提とされていたこと、連歌を鑑賞するためには寄合の理解が重要であることはわかっていただけたでしょう。寄合について何も知らずに連歌を論じようとすると、とんちんかんなことになります。

次回は、謡曲(能楽)と寄合の関係についてを取り上げます。

2022-06-21

吉分大魯 愛された嫌われ者(おまけ)


敏馬神社門前の常夜燈(寛政六年、1794)

蕪村・大魯・几董の三吟歌仙

1778年3月13日、脇の浜の井筒亭で蕪村・大魯・几董の三人が歌仙「春惜しむ」を巻いたことをお話ししました。今回は大魯シリーズのおまけとしてこの連句を鑑賞してみたいと思います。

1 春惜しむけふの獲(えもの)や魚ふたつ 几董
2 踏(ふめ)ば崩るゝ山吹の崖      
大魯
3 長閑(のどか)さや陸奥の使を給りて  蕪村

発句は几董。灘の湊の漁獲をめた句です。あるいは二つの魚とは蕪村と几董のことで、大魯に対して「いい獲物が釣れましたね」と挨拶したのかもしれません。

脇句、『蕪村全集』の注では「山あいの渓流の風情」としていますが、これはいかがなものでしょうか。発句は浜の漁港を描いているのに、脇でいきなり山中の景色に飛ぶと取るのは納得できません。上の写真に見るように、敏馬神社は海食台地の斜面に建てられているので、この「山吹の崖」も敏馬の崖を指していると理解するのが普通でしょう。几董の賞め句に対して、「山吹が咲くけれども踏めばすぐ崩れてしまうような田舎の崖です」と謙遜したもの。

蕪村の第三では、陸奥へ使者に任じられて向かうのどかな風景に転じました。

4 早歌うたへる従者(ずさ)持にける  几董
5 いろいろに夜の変り行月の雲     大魯
6 秋の浅瀬を漕わたる舟        蕪村

4句目、「早歌(そうか)」とは鎌倉~室町時代に流行した宴席での歌。使者が連れている従者はのんきに歌の練習。5句目は、実際に月見の宴席の情景と前句を読み替えています。月に雲がかかったりまた照ったりする様子を「夜の変り行」と表現したのはなかなかうまい付け。

7  稲刈て和睦調ふ向村(むかふむら)  几董
8  罪ある人の子を孕みけり       大魯
9  よき衣の虱を捫(ひね)る日もなくて 蕪村
10 初瀬籠(はつせごもり)の花も過行(すぎゆく) 几董
11 雨の跡水あたゝかに筧もる      大魯
12 雉子鳴方に地震(なへ)やふりけん  蕪村
13 家中衆(かちゅうしゅ)の紅裏(もみうら)見ゆる遥(はるか)也 几董
14 老し冶郎(やろう)の旅に馴たる   大魯

15 明安き夜を片われの月なれや     蕪村
16 卯花(うのはな)させる車引すて   几董
17 舞扇泪見せじとかざすらん      大魯

18 波そゞろなる由井の浜風       蕪村

裏に入ります。7句目、夏の間は水争いなどで紛争があった川向こうの村とも、稲刈りが終わると仲直りできたよ。8句目、紛争の原因は罪人の子を女が孕んだことにあったと読み替え。大魯らしい激しい恋句です。9句目ではこの不義の恋は上臈のものと解釈し直し、上等な衣の虱をのんびりひねりつぶすような日々もやってこないという嘆きにしています。10句目、花の定座は本来17句目ですがここで早く出しました。初瀬籠とは長谷寺に籠ることで、とくに女性の信仰が厚かった。

12句目、雉が地震を知らせたとする。雉は地震を予知すると古代から考えられていて、1645年刊行の『毛吹草』(俳諧創作用のシソーラス辞典)にも「地震」の関連語に「雉」が出てきます。13句目、前句は狩を遠くから見ている場面ととって、藩の家中の武士たちが着る狩衣の裏の紅が見えているとしました。14句目、「冶郎」は男娼のこと。同じ折の中で二度目の恋です。15句目、月の定座は本来14句目ですが一つ下げ(こぼし)ました。夏の月。16句目は、枕草子』に車に卯の花を挿して時鳥を聴きに行った話があるのを踏まえています。「夏の月」に「卯の花」は定番の組み合わせ。こういう定例の組み合わせを「寄合(よりあい)」と言い、とくに連歌では重視します。17句目、なんとこの折三回目の恋に入ります。貴人の男女が夜明けに別れるさま。18句目、由比ヶ浜で静御前が源頼朝を前に舞った故事を踏まえ、静が義経を思って泣く場面としました。

19 雪はれて静に神やわたります     几董
20 杉戸の胡粉(ごふん)日々にこぼるゝ 大魯
21 蜷川が妻も聯句の筆所        蕪村
22 足音なくて入給ふ誰(た)そ     几董
23 押やりし蚊遣燃たつ窓の下      大魯
24 落尽したる渋柿の花         蕪村
25 晴るゝ日に錺摩(しかま)のかちん手染して 几董
26 聟は隣の明くれの皃(かほ)     大魯
27 八朔や礼にほのめく二三人      蕪村
28 いざさらしなの月にゆかまし     几董
29 秋風の右に傾く古烏帽子       大魯
30 手斧はじめの木がくれて見ゆ     蕪村

ここから名残の表。20句目の「胡粉」とは牡蠣殻をさらして粉にしたもので、日本画に使います。社殿の杉戸の絵が古びて粉をこぼしている。21句目、蜷川とは連歌師の蜷川親当(ちかまさ)のことで、蜷川の連歌会ではその妻までが書記(執筆)をやっているよという意味。蕪村らしい、歴史趣味の句です。22句目、遅れてこっそり入ってくるのは誰だ! と蜷川の妻が睨みつけています。23句目では、足音をひそませているのは通ってきた男と取って恋の句にしています。男が蚊遣火を邪魔だと押しのけたら、窓の下で燃え上がってしまった。蚊遣火といっても今の蚊取り線香ではなく、木や葉をくすべたものなので、風が当たるとすぐ燃え上がってしまいます。

25句目、前句で渋柿の花が落ちたのは雨のせいととって、晴れた翌朝には飾磨のかちん染(姫路南部の染め物)の染めたり干したりの仕事をしているよ。26句目、前句を娘の手仕事と理解し、その聟になるのは明け暮れに見ている隣家の男だよと、これもまた恋の句。27句目、8月1日の八朔の行事では親しい人のところへ挨拶回りに行きますが、ほの見えている二三人の中には聟殿も交じっている。28句目、挨拶回りの途中で月見旅行の話になった。月の定座は29句目ですが、1句引き上げ。29句目、更科に旅に行くのは烏帽子をかぶった貴人と想像した。30句目、前句の「古烏帽子」から大工が起工の儀式を行っている様子を連想。

31 ゆかしさに異国の寺号襲ふらん    几董
32 煎茶(せんじちゃ)にほふ夜の静なる 大魯

33 つくづくと我(わが)痩臑の便なさよ 蕪村
34 その事かのこと筆とらせ置く     几董
35 都帰(みやこがへり)花唇をひらく時 大魯
36 万里の海も春の夕凪         執筆

33句目、「便(びん)なし」とは「具合が悪い」の意。34句目は徒然草』に「その事かの事、便宜に忘るななどいひやるこそをかしけれ」とあるのを引用。前句と合わせて老人が遺言を書きとらせている風景とした。35句目、前句は旅先から手紙を書いている場面として、都に帰るのは桜が咲くころだろうと述べる。大魯自身、花時の京にまた戻りたいなあと思っていたかもしれません。36句目の作者、「執筆(しゅひつ)」というのは付句にルール違反がないかどうかチェックする役の人で、実際は蕪村が詠んでいるのですが、連句では挙句を「執筆」として匿名にしておくことがよく行われます。宗匠がみずから挙句を詠んでしまうと、自作自演ぽくなってしまうからでしょうか?

大魯、生き生きと詠んでいますね。やはり蕪村先生と親友の几董が相手だと、いちだんと気合が乗ったことでしょう。

2022-06-20

吉分大魯 愛された嫌われ者(後編)

岩屋・敏馬神社社殿

写真で楽しむ大魯紀行

先週、神戸・大阪・京都の三都を旅行して吉分大魯の旧跡を訪ねてきました。写真をたくさん撮ってきたので、各地を紹介したいと思います。

内容は二つに分けて、前半は「蕪村・几董の1778年兵庫紀行」、後半は「京都・大阪・神戸の大魯遺跡」となります。

①蕪村と几董の1778年兵庫紀行

安永6年(1777)5月、大魯が問題を起こして大坂を追放され、その彼を力づけるために蕪村と几董が翌春に兵庫の彼の許を訪ねた話は、前々回に書きました。


摂津名所図会(1798年刊)


放逐された大魯が身を落ちつけたのは、灘の敏馬(みぬめ)でした。
敏馬の泊は古代(5~8世紀)には兵庫の中心となっていた湊で、都から船で西へと向かった場合に敏馬までが畿内、ここから先が畿外とされていました。万葉集にさかんに詠まれ、以後も歌枕として讃えられてきた土地です。

玉藻かる敏馬をすぎて夏草の野島の埼に舟ちかづきぬ  柿本人麻呂

ここに置かれた敏馬神社(現・神戸市灘区岩屋中町)は格式の高い式内社として知られています。

大魯は新しい庵を「三選居」と名づけ、蕪村に近況を問う句を送っています。

中秋夜半翁に申遣しける 
広沢はいかに敏馬の月清し  大魯

夜半翁とは夜半亭蕪村のこと。先生は京の月の名所である広沢池で月見をされたでしょうか、敏馬では月が清く照っております、という句。1777年8月の作。

三選居のすぐ裏は漁港だったようですから、上の「摂津名所図会」の赤丸で囲ったあたりが庵の位置ではなかったかと思われます。


敏馬神社の社前。昔は鳥居近くまで浜が広がっていた。


大魯の三選居があったと思われる地域。かつては画面右の国道2号線のところまで浜辺だったが、昭和6年頃から阪神電車の岩屋~元町間トンネル工事で出た残土で海が順次埋め立てられ、国道の南側は神戸製鋼の工場となった。

1778年3月9日、蕪村と几董は大魯の許に向かうため、京から昼舟に乗って浪花に下ります。網島や桜ノ宮などで数日遊んだのち、12日の朝に心斎橋の宿を出発。西国街道を歩き、たそがれどきに灘の脇の浜に到着。脇の浜は敏馬の西に隣接する土地ですが、二人は「井筒亭」という旅館に投宿しました。翌13日、大魯が合流して三吟歌仙「春惜しむ」を巻きます。


脇浜神社(南宮宇佐八幡社)。蕪村と几董が投宿した井筒亭はこの一帯にあった。当時は画面右の道路のあたりまで海であった。

15日には和田岬の隣松院で小句会がありました。ここで「春草」という題が出たことで、『楚辞』に「王孫遊兮不歸、春草生兮萋萋」(君はどこかに行ったきり帰ってこない。春草は盛んに茂っているというのに)という詩句があることを思い出して感極まった蕪村は、

我帰る路いく筋ぞ春の艸(くさ)  蕪村

という句を作って『楚辞を引用した文と画を添え、大魯に与えました。大魯よ、君はいつまでさまよって生きるのか、そして私はどの道を選んで帰ればいいのか、という惜別の心をこめた句文画でした。

漕かへる若草の戸や漁舟(いさりぶね) 几董 

さて、集英社版『古典俳文学大系・蕪村集』によればこの旅行で蕪村は平忠度の墓を訪れたことになっています。しかし講談社版『蕪村全集』によれば、それは12年前(1766年)の秋のことで、彼が讃岐に画業のため行く途中で立ち寄ったのだとしています。講談社版のほうが正確の感じがありますが、今回忠度塚も訪問してみたので紹介しましょう。

平忠度は源平合戦の一ノ谷の戦いで奮戦しましたが、右腕を切り落とされ、岡部六弥太忠澄に討ち取られます。その腕を供養して祀ったのが腕塚、首を落された胴を葬ったのが胴塚として、神戸市長田区に現存しています。


平忠度の腕塚堂(左)は細い路地の奥にある。
路地の入口の道標にある指印が妙になまなましい。


平忠度の胴塚

忠則古墳一樹の松に倚れり 
松にかへたるやどり哉  蕪村

蕪村は「忠則」と書いていますが、忠度のことです。忠度が戦死したとき、矢を入れた箙に「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙が結ばれていました。蕪村の句は、「忠度は桜の花のもとに宿ろうと言ったが、今その墓は桜の代わりに松の下に立っているよ」と詠んだものです。腕塚も胴塚も、今は石造物などが立っているだけで松の木を見ることはありません。

また、腕塚・胴塚は明石市にもあって、蕪村が訪ねたのはそちらである可能性も否定できません。

神戸市の腕塚・胴塚は阪神淡路大震災で崩落し砕けるという悲劇に見舞われました。今では写真のとおり元に近い状態に修復されています。

脇の浜の井筒亭で蕪村は次のような句を詠んでいます。

几董とわきのはまにあそびし時  
違(すぢかひ)にふとん敷(しき)たり宵の春  蕪村

蒲団をそれぞれ部屋の対角線になるように敷いて、頭と頭を近づけて夜語りを楽しんだということでしょう。蕪村がいかに几董のことを信頼し可愛がっていたかがよくわかる話です。「大魯をどうすればいいだろう」などと相談し合ったでしょうか。

3月19日に二人は船便で浪花に戻り、22日に京に帰宅しました。

京都・大阪・神戸の大魯遺跡

さて、次は大魯にゆかりのある京阪神の土地を訪ねてみましょう。

時間をさかのぼって、大魯(当時は馬南)が阿波藩を脱藩し、京に向かった1766年のころの話です。彼は一時期、市内の「釜座通下立売上町」に住んでいたことがわかっています。これは今の京都府庁舎付近に相当します。



京都府庁舎(上)とその付近(下)の現況

この当時は蕪村は画業に精力を費やしていて、屏風制作のために京と讃岐を行き来しているような状態でしたから、大魯が蕪村ではなく岡田文誰に入門したのも無理からぬことでした。やがて蕪村門に転じ、1770年の9月にはこの住居を引き払ったことを几董が記録しています。

1773年夏、大魯は江戸へ修行に出かけることを志しましたが、途中寄った浪花の暮らしが気に入ってしまい、過書町に居を定めました。「過書船」とは淀川を航行し京と大坂を結んでいた船のことで、「過書町」はその船方が住んでいた町。今でいう大阪市中央区北浜3~4丁目に該当します。もっとわかりやすく言うと淀屋橋付近です。


淀屋橋交差点

同年9月21日、この新居を訪ねた几董は大魯と大いに意気投合、

新蕎麦に汁のよしあし分りけり 几董 

の句を残しました。「新蕎麦」は過書町の新居を象徴し、「汁のよしあし分りけり」は大魯が俳諧の正邪を見極める力があることを暗示しているのかと思います。

1776年秋、大魯は同じ浪花の呉服町(ごふくちょう)に転居します。師からその祝句として

夜を寒し寝心とはむ呉服町 蕪村 

が届きました。10月には蕪村は呉服町の大魯を訪問しようと浪花に向かいますが、舟中で風邪をひき弟子たちの看病を受けることになってしまいました。

その呉服町ですが、中央区高麗橋4丁目に「伏見呉服町之碑」が立っています。


伏見呉服町之碑

呉服町の発祥はそもそも、豊臣秀吉の大阪城築城にさかのぼります。秀吉は伏見の呉服商たちにこの地に移住するよう命じたのでした。せっかく各地から集めて囲った美女たちから「アパレルの店がない大坂なんて行くのいや~ん」と言われるのを恐れたのでしょうか。(笑)

実際の呉服町はこの碑よりもう少し東寄り、心斎橋筋と魚の棚筋に挟まれた一角であったようです。かの越後屋(現・三越)も店を出していたとか。繁華街に家を構えて、大魯はわが世の春を謳歌していたことでしょう。

このあと問題の事件を起こし、彼は兵庫へ追放され、蕪村たちがその慰安に訪れた話は上に書いたとおり。

師匠たちの訪問から2か月後の5月22日、大魯は京の几董のもとを訪問し、そのまま逗留します。どうやら病気を得て、その療養に来たようです。几董の家である春夜楼がどこにあったのか、正確な位置はわかりませんでしたが、鴨川の東岸の東丸太町あたりではなかったかと想像しています。


丸太町橋の上より鴨川東岸を望む


東丸太町界隈。道の左側は京大医学部

6月6日、大魯、几董らは蕪村の夜半亭を訪問、大魯は9日まで師の家に泊めてもらいます。当時の住居は仏光寺通烏丸西入ルにあり、蕪村にとって最後の家でした。


下京区仏光寺通烏丸西入ルの与謝蕪村宅跡。
実際にはここにかつて路地があり、その奥が蕪村宅だったらしい。

6月15日にも大魯は夜半亭に一泊、16日に兵庫へ向けて出立しました。大魯、先生にはすっかり甘えきっていますね。

いったん病は小康を得た大魯でしたが、9月ごろまた病状悪化し京にやって来ます。足腰が立たなくなった彼の起き臥しまで几董が面倒をみたということですから、おそらく春夜楼の近くに部屋でも借りたことでしょう。10月には、蕪村もこの分では命は長くもつまいと見てとるようになります。

病しきりなるころ京師に旅寝して
初雪じや大きな雪じや都かな  大魯 

大魯が病の復常をいのる 
痩脛や病より起つ鶴寒し  蕪村

11月13日、大魯没。遺言にしたがって、金福寺(こんぷくじ)に葬られます。5年後に蕪村も世を去りますが、墓は大魯の隣に建てられました。


金福寺の蕪村の墓と
大魯の墓(赤丸)

金福寺には蕪村一門の江森月居、松村月溪(呉春)の墓があり、また青木月斗もここに眠っています。それらの墓石が大きくて立派なのに対し、大魯のはたいへん小ぶりなつくりになっています。彼の人望のなさと経済的困窮ぶりがうかがえるのですが、大好きだった師のすぐ横に墓所を得たことに、きっと満足していることでしょう。

さて、『穎原退蔵著作集・第13巻』によれば大魯の息子である春魯が「寛政六年父の十七回忌に当り、兵庫八棟寺に--今移されて築島寺の境内にある--大魯墳を建てた」とあります。神戸市兵庫区島上町の築島寺(来迎寺)に行ってみたところ、大魯墳と言えるような墓は見当たらず、代りに平成時代に建てられた大魯の句碑がありました。


築島寺の大魯句碑「花鳥のそろへば春のくるゝかな」

推測ですが、大魯墳は区画整理なり、あるいは震災の被害なりによって潰され、その代わりに寺で大魯の句碑を建てたのではないでしょうか。

同じく穎原退蔵によれば、春魯の墓というのが神戸夢野墓地にあったということなのですが、この霊園は昭和40年代に市立鵯越墓園に統合されました。何か情報を得られるかと、源義経の一ノ谷の戦いの故事で有名な鵯越まで行ってみましたが、墓園事務所で尋ねてみても墓がどうなったかはわからないということでした。


史跡鵯越」の石碑

以上が今回の京阪神紀行で得られた収穫です。大魯については「おまけ」として、もう一回記事を書きたいと思いますので、よろしければお付き合いください。