謡曲でも「寄合」が大事なはたらき
前回は「寄合」が連歌においてどのように用いられたかを解説しましたが、近年になって謡曲(能楽)でも寄合がさかんに使われていることがわかってきました。伊藤正義先生が新潮日本古典集成『謡曲集 上・中・下』の中で、詞に含まれる寄合を注記によってつぎつぎ指摘することで明らかにされたのです。
ではセリフの中でどのような寄合が使われているか、能の演目ごとにいくつか見てみましょう。赤字で表示した同士が寄合です。
[葵上]
・三つの車にのり(法/乗り)の道 火宅の門をや出でぬらん
[安達原]
・異草(ことくさ)も交じる茅莚 うたてや今宵敷きなまし
[姨捨]・空かき曇る雨の夜の 鬼一口に食はんとて
[隅田川]・物凄まじきこの原の 風も身に沁む 秋の心 今とても なぐさめかねつ更科や 姨捨山の 夕暮れに まつも桂も交じる木の 緑も残りて秋の葉の はや色づくか一重山 薄霧も立ちわたり
[忠度]・げにや舟競ふ 堀江の川の水際に 来居つつ鳴くは都鳥
・わくらはに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ げにや漁りの海士小舟 藻塩の煙 松の風 いづれか淋しからずといふことなき
・ 恥づかしや亡き跡に 姿を返す夢の中 覚むる心はいにしへに 迷ふあまよの物語り
有名な演目の中から例をいくつか挙げてみました。謡曲においては古歌や漢籍や物語からの引用がさかんに行われていることは自明なのですが、伊藤先生の功績により連歌とも関連性があることが知られるようになったのです。
なぜ謡曲に「寄合」が使われた?
なぜ、連歌用のテクニックである「寄合」が謡曲でも使われたのか? この問題については私は詳しくありませんし、実際どこまで究明されているのかも知りません。推測を交えて言うならば、
- 能の作者(世阿弥など)は、寄合書を座右に置き参照しながら作詞していたのではないか。前回挙げた(今日まで残っている)寄合書は、おおむね15世紀末に成立したもので、世阿弥よりも時代的には後になるが、これらの寄合書の原形となる先行的な資料がもともとあったのではないか。二条良基(14世紀)らが寄合語を集めていたという記録もあるそうだ。
- そもそも謡曲の創作に、連歌師が指導するなり助言を与えるなりといった関わりがあったかもしれない。たとえば琳阿弥という曲舞(くせまい)作者は同時に連歌師でもあったが、足利義満に仕え、世阿弥の能にも影響を与えたとされる。
といった可能性があると思います。
連歌と能楽は室町時代を代表する芸術であり、幽玄を理想とする美学には共通するところが見られますが、具体的に連歌師と能楽師がどのような関係をもっていたかについてははっきりしない点があります。今後の解明が期待されます。
さて、次回はいよいよ俳諧に寄合がどのような影響を与えたかを考えてみます。
* * *
今回の内容は落合博志「和歌・連歌・平家と能および早歌-諸ジャンルの交渉ー」を参考にさせていただきました。