2022-08-14

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(3)-連句の場合

 
高瀬梅盛『俳諧類船集』(1677年刊)

今回は「寄合」がどのように俳諧(連句)に引き継がれていったか、また松尾芭蕉はどのようにこの技法を扱ったかという話をします。


「寄合」から「付合」へー『俳諧類船集』

俳諧は西暦1500年頃に連歌から分離していくのですが、「寄合」の技法は俳諧にも引き継がれます。しかし連歌と俳諧では材料として使う用語も表現する世界も違うので、俳諧独自の寄合集が必要になってきました。たとえば1645年に松江重頼が刊行した『毛吹草』は俳諧創作のためのマニュアル本ですが、中には寄合を集めた章も含みます。

そのような背景のもと、画期的な集が刊行されました。1669年に京都の高瀬梅盛が著した『便船集』、そして1677年にその全面増補改訂版として同じ梅盛が刊行した『俳諧類船集』です。

『俳諧類船集』は連歌の寄合集とは若干性格が違うものになっています。まず収録される題が歌語に限定されず、俳言の範囲まで拡張されて増え、見出し題が『連珠合璧集』は886だったのが、『俳諧類船集』では約2700題に達しています。また『連珠合璧集』はあくまで文学の中での連想語を示すものだったのに対し、俳諧類船集』は各題に解説を加え、時には歴史・民俗・博物を語る辞書的な要素を持たせています。

もう一つ大きな相違点は、連歌で「寄合」と呼ばれていたものが俳諧では「付合」と名称が変わっている点です。そのため俳諧類船集』は「寄合集」ではなく、「付合辞典」「付合語集」などと形容されます(連句では次の句を付けること自体も「付合」と言うのでややこしいのですが)。「日本国語大辞典」では寄合と付合の違いについて

寄合が用語、題材など形式的なものに関係があるのに対して、(付合は)もっと広く情趣、心情など内容的なものまでをさす。

と説明しています。これだけだといま一つわかりにくいですね。後で実例を見ながらあらためて検討します。

俳諧類船集』の一項目、「納豆」を引用してみましょう。

[ナトウ]
汁 観音寺 浜 寺の年玉
作善の斎非時一山の参会などの汁は無造作にしてよし。浄福寺の納豆はことによしとぞ。念仏講やおとりこしや題目講はめんめんの思ひ思ひの信仰なり。

そもそも「納豆」という大衆的な食物は、連歌で使われることはありませんし、連歌寄合集にも出てきません。いかにも俳諧的な主題です。付合語(寄合)として挙がっているのは、「(納豆)汁、(滋賀の)観音寺、(浜松の)浜名納豆、寺の年玉(年始のふるまい)」の4つです。さらに解説が加わり、「法事のときや寺の食事では納豆汁は簡単に作って良い。奈良の浄福寺の納豆はとくにうまいそうだ。念仏講、浄土真宗の報恩講、日蓮宗の題目講では納豆汁が振る舞われるが、それぞれの信仰に基づくものである」と書いてあります。これを見ると、江戸時代の関西における納豆文化がよくわかり、貴重な民俗資料ともなっています。

芭蕉はどのように付合を利用したか

芭蕉は実際の連句でどのように「付合」を用いていたか、作品に即して見ていきましょう。ここで例とするのは、1679年、芭蕉が36歳の時の作品「見渡せば」の巻です。桃青と名乗って談林の影響下にあった時代で、後年の蕉風連句とは趣が異なります。小西似春、土屋四友との百韻連句で、この2人が関西に行脚するにあたっての送別吟でした。四友は脇句のみを付けていて、実質的には芭蕉(桃青)と似春の両吟です。百韻という長い作品なので、付合に関係するところを拾い読みしましょう。付合は『俳諧類船集』に準拠して判断します。(以下類船集と略記)

連句の鑑賞に付き合うのが面倒くさいという方は、飛ばして最後のまとめだけ読んでもらってもかまいません。

1 見渡せば詠(ながむ)れば見れば須磨の秋   桃青
2 桂の帆ばしら十分の月            
四友
3 さかづきにふみをとばする雁鳴て       
似春
4 
山は錦に歌よむもあり            似春

発句は桃青。関西に旅立つ二人のために、須磨の秋を詠んでみせました。藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の本歌取りです。

脇句、発句の「詠(ナガメ)」に対して「月」が付合です。月の定座は百韻の場合7句目ですが、発句が秋の際には第三までに月を出す決まりなのでここで出しました。中国の伝説では月には桂の木(中国ではモクセイを指す)が生えているとされるので、月を舟に見立てて、桂で作った帆柱の帆を十分に張っていると詠みました。

第三、前句の「月」に対し「かりがね」が付合。月見の酒宴、雁が飛んでいくのが見える。その脚には文が結び付けられているであろうか、という句意。前漢の蘇武が匈奴に捕らえられた時、雁の脚に救出を求める手紙を結び付けて送ったという故事に基づきます。

4句目、この酒宴を月見ではなく紅葉見に転じました。人々は紅葉の歌を詠んでいます。

5 ゑぼし着て家に帰ると人やいふ        桃青
6 うけたまはりし日傭大将(ひようだいしよう) 
桃青
7 備(そなへ)には鋤鍬魚鱗鶴のはし      
似春
8 
前ははたけに峰高うして           似春

類船集では「錦」に対し「帰る古里」が付合語になっているのですが(故郷に錦を飾る、の慣用句から)、5句目の「家に帰る」はそれに準じているのかもしれません。山は紅葉の錦で、人は烏帽子で身を飾るのです。

6句目、烏帽子をかぶった日雇い人足の大将が仕事を仰せつかって、その帰り道。

7句目ですが、類船集では「鋤」の付合に「日傭」が挙がっています。ということは、六句目「日傭」から七句目「鋤」への付は「題」⇒「付合」ではなく「付合」⇒「題」という連想になっています。以前見た連歌、「水無瀬三吟」ではそういう逆モーションはなかったのですが、俳諧では普通にあることのようです。
日傭大将は仕事の備えとして鋤、鍬、鶴嘴を置いているよという句意。大将を侍大将になぞらえて、「鶴翼・魚鱗の陣」の口調を滑稽に織り込んでいます。

8句目、「鋤」の付合に「田畑」があるので畑をもってきました。

ここから少し飛ばして、29句目に行きます。二ノ表の真ん中あたりです。

29 狼や香の衣に散紅葉            桃青
30 骸(かばね)導く僧正が谷         
似春
31 一喧嘩岩に残りし太刀の跡         
桃青
32 処(ところ)立のく波の瀬兵衛(せひょうえ)似春

29句目は「狼に衣」のことわざをもじったもので、狼が香染の衣を着て人に化けている。

30句目、類船集では「骸」の付合に「狼」が出ているのですが、「狼」⇒「骸」の逆モーションの付になっています。

31句目、鞍馬の僧正が谷は牛若丸が武芸の稽古をした場所で、岩に太刀で切りつけた跡が残るという故事に基づく。

32句目、前句の喧嘩はやくざ者の出入りと読み替えて、「波の瀬兵衛」という架空の人物がショバを譲った話ということにしました。

33 今ははやすり切果て飛ほたる        桃青
34 賢の似せそこなひ竹の一村(ひとむら)   似春
35 鋸を挽て帰りし短気もの          桃青
36 おのれが胸の火事場空しく         似春

33句目、「波の瀬兵衛」は今や零落して擦り切れた蛍も同然の姿です。

34句目、蛍は実際に飛んでいるものと見なして、それが竹の一叢に迷い込んでいった。昔の中国に「竹林の七賢」という、竹林の中の室で清談を交わした賢人たちがいましたが、この蛍が迷い込んだのは賢人ぶった偽物がいる竹林。
「蛍」に「庭の若竹」が付合とされます。

35句目、偽賢人はいたって短気なので、鋸で竹を伐って帰っていってしまった。

36句目、短気者が竹を鋸で切ったのは、燃える怒りをしずめるためだったのだが、おかげで胸の中の火事も消えていった。
ここで前句の「鋸」を類船集で調べると、解説のところに「火けし道具に鋸は重宝とぞ」という一文があります。火事が起きると、町火消などは周囲の建物を鋸で切り倒して延焼を防いでいたことがわかります。つまりここでの「火事場」という付は、単に付合語を参照して付けられたのではなく、解説に書かれたような状況を広くイメージした上で考えられているということです。
連歌の場合は、寄合集とは連想される単語・成語を並べたもので、実際それらの語はそのままの形で使用されていたのですが、俳諧の付合は必ずしも特定の語に拘束されず、全体として付合集が示すような情趣を表現できていればそれで良しと考えられました。
「日本国語大辞典」で「寄合が用語、題材など形式的なものに関係があるのに対して、(付合は)もっと広く情趣、心情など内容的なものまでをさす」と定義していたのは、このへんの事情を言っていると思われます。

ここからまた飛んで、64句目を読みます。三折表の折端(最終句)から三折裏にかけての部分です。

64 秋を通さぬ中の関口            桃青
65 寂滅の貝ふき立(たつ)る初嵐       似春
66 石こづめなる山本の雲           桃青
67 大地震つづいて龍やのぼるらむ       
似春
68 長(たけ)十丈の鯰なりけり        桃青

64句目、この秋、関所は人を通さない。

65句目、「貝ふき立つる」というのは山伏のことなのですが、類船集には「関」の付合として「偽山伏」というのが上がっています。義経の一行が山伏に変装して逃げようとして、安宅の関で止められたという謡曲「安宅」の筋に基づく。このように、「偽山伏」という直接の付合語を用いずに、山伏を暗示する「貝ふき立る」で代替することができるというのが、連歌ではありえない、俳諧ならではの表現です。初嵐の中、物寂しいほら貝を吹く山伏が、関所で足止めを喰らったという句意。

66句目、「石こづめ」とは人を穴の中に入れて、小石を無数に投げ入れて生き埋めにする処刑法。句意がわかりにくいのですが、山伏が石子詰めにされて、その山の麓からは雲が立ちのぼっているということでしょうか?

追記:「石子詰め」について民俗学者の方から貴重な教示をいただきました。山伏の石子詰めというのは、修験道の究極の到達点である「土中入定」を指すそうです。生きたまま土中に埋めてもらい、即身仏としてミイラ化する儀式。桃青さんはそういうこともよく知っていたんですね。

67句目、石子詰めにされたのは実は龍の化身で、大地震とともに龍が雲となって天に昇っていった。

68句目、その龍は実は巨大な鯰であった。ここの付合がなかなか面白いのですが、類船集の「鯰」の項目は次のように記述されています。

[ナマヅ]
刀の鞘 地震 人の肌 瓢 池 竹生島 弁才天
近江の湖にはことに大なる鯰のすめるとかや。泥ふかき堀の底おほくすめる物也。神のの池にも大なる有とぞ。此日本国は鯰がいただきてをるといひならはせり。

前句の「地震」から「鯰」の題が連想されるという、ここも逆モーションの付合です。で、問題は「此日本国は鯰がいただきてをるといひならはせり」の部分で、鯰が地底で地震を起こすという俗信がここで語られています。ですが図像学的に言うと、江戸時代初期までは地震を起こすのは地の底にいる龍だと考えられていたのです。それがどこかで鯰に置き換えられていきました。そして鯰が地震を起こすということを記したわが国最古の書籍は、この類船集なのです(正確に言うと前身の『便船集』にすでに記述があります)。だから芭蕉が「鯰」⇒「地震」という連想をしたということは、彼が類船集を手元に置いて参照していた可能性がきわめて高いことの証拠になると考えられます。

まとめ-芭蕉連句における付合の意味

「見渡せば」の巻の分析から、次のようなことが言えるかと思います。

  • 連歌の寄合では「題」⇒「寄合」という連想が中心であったのに対し、俳諧では「題」⇒「付合」と「付合」⇒「題」の両方がある。
    このことは、連歌の言語感覚では特定の歌語が題として重視され、その下に寄合がぶら下がるというヒエラルキー構造を持っていたのに対し、俳諧では題も付合も平等な相互関係にあるというフラットな言語観があったと考えられる。
  • 連歌の場合は寄合は寄合集に記載してある語彙をほぼそのまま利用するのに対し、俳諧の場合は情趣さえ通うなら付合の表現は変えていいとされた。連歌が「形重視」であるのに対し、俳諧は「内容重視」で自由度が高い。
  • 付合を利用した句を出しているのはもっぱら似春で、桃青はごく少ない。このことは、芭蕉が付合集に寄りかかったマンネリ発想を好んでいなかったことを示すのであろう。鯰の句をはじめ、桃青にも付合を使った句が皆無ではないので、そうしたやりかたを否定してたわけではないだろうが、採用に積極的ではなかった。こうした芭蕉の志向は、この後の蕉門俳諧の傾向に大きな影響を与えることになろう。

芭蕉と付合(寄合)の関係については、もう一度続きを書くつもりです。

俳諧類船集』の原文を読みたいという方は、『連珠合璧集』同様に「日本文学Web図書館 和歌・連歌・俳諧ライブラリー」に全文が収録されています。

2022-08-12

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(2)-能楽の場合

  


伊藤正義校注『謡曲集』(新潮日本古典集成)

謡曲でも「寄合」が大事なはたらき

前回は「寄合」が連歌においてどのように用いられたかを解説しましたが、近年になって謡曲(能楽)でも寄合がさかんに使われていることがわかってきました。伊藤正義先生が新潮日本古典集成『謡曲集 上・中・下』の中で、詞に含まれる寄合を注記によってつぎつぎ指摘することで明らかにされたのです。

ではセリフの中でどのような寄合が使われているか、能の演目ごとにいくつか見てみましょう。赤字で表示した同士が寄合です。

[葵上]
三つの車にのり(/乗り)の道 火宅の門をや出でぬらん
[安達原]
・異草(ことくさ)も交じる茅 うたてや今宵敷きなまし
・空かき曇る雨の夜の 鬼一口に食はんとて
[姨捨]
・物凄まじきこの原の 風も身に沁む 秋の心 今とても なぐさめかねつ更科や 姨捨山の 夕暮れに まつも桂も交じる木の 緑も残りて秋の葉の はや色づくか一重山 薄も立ちわたり
[隅田川]
・げにや舟競ふ 堀江の川の水際に 来居つつ鳴くは都鳥
[忠度]
・わくらはに問ふ人あらば須磨のに 藻塩垂れつつ侘ぶと答へよ げにや漁りの海士小舟 藻塩の 松の風 いづれか淋しからずといふことなき 
 恥づかしや亡き跡に 姿を返すの中 覚むる心はいにしへに 迷ふあまよの物語り 

有名な演目の中から例をいくつか挙げてみました。謡曲においては古歌や漢籍や物語からの引用がさかんに行われていることは自明なのですが、伊藤先生の功績により連歌とも関連性があることが知られるようになったのです。

なぜ謡曲に「寄合」が使われた?

なぜ、連歌用のテクニックである「寄合」が謡曲でも使われたのか? この問題については私は詳しくありませんし、実際どこまで究明されているのかも知りません。推測を交えて言うならば、

  1. 能の作者(世阿弥など)は、寄合書を座右に置き参照しながら作詞していたのではないか。前回挙げた(今日まで残っている)寄合書は、おおむね15世紀末に成立したもので、世阿弥よりも時代的には後になるが、これらの寄合書の原形となる先行的な資料がもともとあったのではないか。二条良基(14世紀)らが寄合語を集めていたという記録もあるそうだ。

  2. そもそも謡曲の創作に、連歌師が指導するなり助言を与えるなりといった関わりがあったかもしれない。たとえば琳阿弥という曲舞(くせまい)作者は同時に連歌師でもあったが、足利義満に仕え、世阿弥の能にも影響を与えたとされる。

といった可能性があると思います。

連歌と能楽は室町時代を代表する芸術であり、幽玄を理想とする美学には共通するところが見られますが、具体的に連歌師と能楽師がどのような関係をもっていたかについてははっきりしない点があります。今後の解明が期待されます。

さて、次回はいよいよ俳諧に寄合がどのような影響を与えたかを考えてみます。

*  *  *

今回の内容は落合博志「和歌・連歌・平家と能および早歌-諸ジャンルの交渉ー」を参考にさせていただきました。

2022-08-11

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(1)-連歌の場合

 
連珠合璧集(一条兼良編、1476)

知っておきたい「寄合」の話

皆さん、「寄合(よりあい)」って知ってますか?
もしあなたが、俳人とか連句人とか能楽愛好者とかであるなら、多少の知識はあったほうがいいかもしれません。連歌や、俳諧や、謡曲の成立には、寄合という考えが非常に大きく影響しています。たとえば松尾芭蕉がやった仕事の価値を知るためには、彼がどのように寄合を活用しその一方でどう乗り越えていったかを理解することが不可欠ではないでしょうか。

寄合とは、連歌で特定の歌語が用いられた場合、次の付句ではどのような単語・表現を用いたら良いかという、定番の組み合わせのことです。室町時代以降、寄合を集めた作歌マニュアルが作られ、それが「寄合集(寄合書)」と呼ばれる、辞書的な書物となりました。

寄合集の見出し語の中から季節に関するものだけを拾い出して、季語に解説を加えたのが今日の俳句歳時記であるという見かたもできると思います。ですから、季語の成り立ちというものを理解するうえでも、寄合について知っておくのは望ましいことです。

百聞は一見にしかず、寄合集の一つである『連珠合璧集(れんじゅがっぺきしゅう)』を見てみましょう。その「女郎花(おみなえし)」の項目を引きます。

女郎花トアラバ、
うしろめたく おほかる 男山 一時 妻こふ鹿 花のすがた 嵯峨野 馬遍照  むせる粟 
名にめでてをれるばかりぞ女郎花我おちにきと人な 僧正遍昭

意味するところは、
「前句で女郎花という語が出たら、次の付句では『うしろめたく おほかる 男山 一時 妻こふ鹿 花のすがた 嵯峨野 馬  むせる粟』などの表現を使うといい」
ということです。これらの寄合は、古歌や源氏物語、伊勢物語などに前例となる出典を持つ組み合わせです。たとえば「馬」のあとに小さく「遍照」と書いてありますが、これは「僧正遍照(遍昭)の歌を出典とする寄合ですよ、そのことを踏まえて付けなさいよ」という注釈で、実際に遍昭の歌が引用されています。歌の前に「古」と記入されているのは、出典が『古今和歌集』であることを示しています。

『寄合集』のいろいろ

連歌を作る人への便宜のために、さまざまな連歌師が「寄合集」を編集しました。代表的な例を挙げると

  • 『連歌作法』 大胡修茂編 1472年成立
  • 『連歌寄合』 恵俊?編 1473年成立
  • 『連珠合璧集』 一条兼良編 1476年成立
  • 『連歌付合の事』 猪苗代兼載?編 1488年?
  • 『宗祇袖下』 宗祇編 1489以前成立
  • 『宗長歌話』 宗長編 1490年成立

などがあります。これらの内容には重なるところもあれば、独自の寄合を挙げている場合もあって、寄合というのは厳密な規定ではなく各連歌師の美意識が反映していると言っていいでしょう。

この中で内容的に充実していて、見出し語がわかりやすく分類整理され、連歌の研究にも活用されることが多いのは『連珠合集』です。編者の一条兼良は室町時代の大歌学者で、みずから「菅原道真以上の学者」と豪語し、宗祇も古典について彼の教えを受けています。「連珠合璧集」を読みたい方は『中世の文学 連歌論1』(三弥井書店刊)「日本文学Web図書館 和歌・連歌・俳諧ライブラリー」に全文が収録されています。参考まで。

後の時代になると、俳諧に特化した寄合集も作られるようになりますが、それについては後述します。

「水無瀬三吟」における寄合

では寄合が実際にどのように利用されたか、連歌作品を実例にして見てみることにしましょう。使用する資料は、宗祇、肖柏、宗長の三人による有名な連歌「水無瀬三吟百韻」の冒頭部分です。連歌といえば水無瀬三吟、と言われるくらい教科書的に扱われる作品。寄合集は『連珠合璧集』を使いながら照合してみます。

1 雪ながら山もとかすむ夕(ゆふべ)かな 宗祇

発句は宗祇。後鳥羽上皇の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となにおもひけむ」の歌を本歌取りしたものです。これに何を付けるかですが、寄合集の「雪」の題には次のように寄合が示されています。

雪トアラバ、
ふる つもる ふかき あさき 白 はらふ あと 浪 うづむ あつむる 消 花 梅 桜 卯花 菊 月 富士 こしぢの山 友待 鏡の影 白ゆふ 松

発句は春の雪を詠んだものであるから、脇句も春でなければなりません。そこで次の詠み番である肖柏はここから「梅」を選んで付句を考えます。

2 行く水とほく梅にほふ里        肖柏

梅がなぜ雪の寄合かというと、これは万葉集に「わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人」という、梅の落花を雪に見立てた歌があるからです。この関係から、脇句の「梅」も白梅と理解するとよいでしょう。

和歌や連歌というのは、前例を重視する文学で、先例がない表現というものを嫌います。そのため本歌取りが盛んに行われるのですが、毎句ごとに本歌を探してそれを翻案するというのは大変です。そこで、本歌のエッセンスというべき寄合の関係を寄合書にまとめて、それを利用することで先例を踏まえた付けを実現できるようにしたのだろうと思います。

脇句では「梅」が出てきたので、次の第三ではその寄合を見てみましょう。

梅トアラバ、
雪 鴬 誰が袖ふれし 色香 月 山里 軒端 垣ね 窓 あるじ はるやむかし はやくをつ 南の枝 柳 桜 八重

次の詠み番である宗長はここから「柳」を選んで第三を発案します。

3 川かぜに一むら柳春みえて       宗長

梅と柳の組み合わせは漢詩でさかんに詠まれたもので、「花紅柳緑」という成語があるほどです(ここで言う花とは梅のことでしょう)。その影響から万葉集でも「梅の花しだり柳に折り交へ花にまつらば君に逢はむかも」など、梅と柳を詠んだ歌が多く収録されています。なお、松尾芭蕉にも「梅柳さぞ若衆かな女かな」という発句があることには注意したいところです。芭蕉も寄合はよく理解していたということが言えるのです。

梅と柳、という色の対比から考えて、ここでは脇句の梅を紅梅と読み替えたと言っていいと思います。このように付句によって前句のイメージを読み替えるのが、連歌や連句の醍醐味です。

ここで「川」が出てきたので、次はその寄合を考えます。

川トアラバ、
水 ながれ ふち 瀬 舟 筏の類。又、涙 思などいふ詞にて付べし。

この中から「舟」が選ばれます。

4 舟さすおとはしるき明(あけ)がた   宗祇

川と舟が縁語であることは言うまでもないでしょう。

5 月は猶(なほ)霧わたる夜にのこるらん 肖柏

百韻の場合は、月の定座は7句目ですが、この連歌では引き上げて5句目に出しています。「暁」と「残月」が寄合なので、前句の「明がた」に応じてここで月を出してしまおうということかもしれません。

次は「月」の寄合です。

月トアラバ、
光 かげ 出入 久堅の空 秋の夜 桂 都 鏡 弓 舟 友 心のくま 霜 雪 空行 林

ここから「霜」が選択されます。ただし、秋の句は3句以上続けるのが原則なので、秋の霜を描きます。

6 霜おく野はら秋はくれけり       宗長

月の光に白く照らされた情景を霜が下りた様子に例えるのは古くから行われたことで、『拾遺集』には「今夜かくながむる袖のつゆけきは月の霜をや秋とみつらん よみ人知らず」の歌があります。

次は「霜」に注目して寄合をさぐります。

霜トアラバ、
をく 消 ふる むすぶ 寒 草のうら枯 木葉 色づく 虫のこゑかるる をくてのいなば 暁 夏の夜 かね 月 菊 まさご もとゆひ 白妙の衣うつ 露こほる

ここから「草のうら枯」が選ばれました。

7 なく虫の心ともなく草かれて      宗祇

「草枯」は冬の季語ですが、ここでは「鳴く虫」のほうが強く秋季となります。虫の心も知らず容赦なく草は枯れていくといった景色です。

さて、全百韻のうち最初の七句を引用して、寄合がどのように使われているかを見てきました。連歌の付がすべて寄合を使っているわけではないのですが、しかし連歌を詠むうえでは寄合の知識が当然の前提とされていたこと、連歌を鑑賞するためには寄合の理解が重要であることはわかっていただけたでしょう。寄合について何も知らずに連歌を論じようとすると、とんちんかんなことになります。

次回は、謡曲(能楽)と寄合の関係についてを取り上げます。

2022-06-21

吉分大魯 愛された嫌われ者(おまけ)


敏馬神社門前の常夜燈(寛政六年、1794)

蕪村・大魯・几董の三吟歌仙

1778年3月13日、脇の浜の井筒亭で蕪村・大魯・几董の三人が歌仙「春惜しむ」を巻いたことをお話ししました。今回は大魯シリーズのおまけとしてこの連句を鑑賞してみたいと思います。

1 春惜しむけふの獲(えもの)や魚ふたつ 几董
2 踏(ふめ)ば崩るゝ山吹の崖      
大魯
3 長閑(のどか)さや陸奥の使を給りて  蕪村

発句は几董。灘の湊の漁獲をめた句です。あるいは二つの魚とは蕪村と几董のことで、大魯に対して「いい獲物が釣れましたね」と挨拶したのかもしれません。

脇句、『蕪村全集』の注では「山あいの渓流の風情」としていますが、これはいかがなものでしょうか。発句は浜の漁港を描いているのに、脇でいきなり山中の景色に飛ぶと取るのは納得できません。上の写真に見るように、敏馬神社は海食台地の斜面に建てられているので、この「山吹の崖」も敏馬の崖を指していると理解するのが普通でしょう。几董の賞め句に対して、「山吹が咲くけれども踏めばすぐ崩れてしまうような田舎の崖です」と謙遜したもの。

蕪村の第三では、陸奥へ使者に任じられて向かうのどかな風景に転じました。

4 早歌うたへる従者(ずさ)持にける  几董
5 いろいろに夜の変り行月の雲     大魯
6 秋の浅瀬を漕わたる舟        蕪村

4句目、「早歌(そうか)」とは鎌倉~室町時代に流行した宴席での歌。使者が連れている従者はのんきに歌の練習。5句目は、実際に月見の宴席の情景と前句を読み替えています。月に雲がかかったりまた照ったりする様子を「夜の変り行」と表現したのはなかなかうまい付け。

7  稲刈て和睦調ふ向村(むかふむら)  几董
8  罪ある人の子を孕みけり       大魯
9  よき衣の虱を捫(ひね)る日もなくて 蕪村
10 初瀬籠(はつせごもり)の花も過行(すぎゆく) 几董
11 雨の跡水あたゝかに筧もる      大魯
12 雉子鳴方に地震(なへ)やふりけん  蕪村
13 家中衆(かちゅうしゅ)の紅裏(もみうら)見ゆる遥(はるか)也 几董
14 老し冶郎(やろう)の旅に馴たる   大魯

15 明安き夜を片われの月なれや     蕪村
16 卯花(うのはな)させる車引すて   几董
17 舞扇泪見せじとかざすらん      大魯

18 波そゞろなる由井の浜風       蕪村

裏に入ります。7句目、夏の間は水争いなどで紛争があった川向こうの村とも、稲刈りが終わると仲直りできたよ。8句目、紛争の原因は罪人の子を女が孕んだことにあったと読み替え。大魯らしい激しい恋句です。9句目ではこの不義の恋は上臈のものと解釈し直し、上等な衣の虱をのんびりひねりつぶすような日々もやってこないという嘆きにしています。10句目、花の定座は本来17句目ですがここで早く出しました。初瀬籠とは長谷寺に籠ることで、とくに女性の信仰が厚かった。

12句目、雉が地震を知らせたとする。雉は地震を予知すると古代から考えられていて、1645年刊行の『毛吹草』(俳諧創作用のシソーラス辞典)にも「地震」の関連語に「雉」が出てきます。13句目、前句は狩を遠くから見ている場面ととって、藩の家中の武士たちが着る狩衣の裏の紅が見えているとしました。14句目、「冶郎」は男娼のこと。同じ折の中で二度目の恋です。15句目、月の定座は本来14句目ですが一つ下げ(こぼし)ました。夏の月。16句目は、枕草子』に車に卯の花を挿して時鳥を聴きに行った話があるのを踏まえています。「夏の月」に「卯の花」は定番の組み合わせ。こういう定例の組み合わせを「寄合(よりあい)」と言い、とくに連歌では重視します。17句目、なんとこの折三回目の恋に入ります。貴人の男女が夜明けに別れるさま。18句目、由比ヶ浜で静御前が源頼朝を前に舞った故事を踏まえ、静が義経を思って泣く場面としました。

19 雪はれて静に神やわたります     几董
20 杉戸の胡粉(ごふん)日々にこぼるゝ 大魯
21 蜷川が妻も聯句の筆所        蕪村
22 足音なくて入給ふ誰(た)そ     几董
23 押やりし蚊遣燃たつ窓の下      大魯
24 落尽したる渋柿の花         蕪村
25 晴るゝ日に錺摩(しかま)のかちん手染して 几董
26 聟は隣の明くれの皃(かほ)     大魯
27 八朔や礼にほのめく二三人      蕪村
28 いざさらしなの月にゆかまし     几董
29 秋風の右に傾く古烏帽子       大魯
30 手斧はじめの木がくれて見ゆ     蕪村

ここから名残の表。20句目の「胡粉」とは牡蠣殻をさらして粉にしたもので、日本画に使います。社殿の杉戸の絵が古びて粉をこぼしている。21句目、蜷川とは連歌師の蜷川親当(ちかまさ)のことで、蜷川の連歌会ではその妻までが書記(執筆)をやっているよという意味。蕪村らしい、歴史趣味の句です。22句目、遅れてこっそり入ってくるのは誰だ! と蜷川の妻が睨みつけています。23句目では、足音をひそませているのは通ってきた男と取って恋の句にしています。男が蚊遣火を邪魔だと押しのけたら、窓の下で燃え上がってしまった。蚊遣火といっても今の蚊取り線香ではなく、木や葉をくすべたものなので、風が当たるとすぐ燃え上がってしまいます。

25句目、前句で渋柿の花が落ちたのは雨のせいととって、晴れた翌朝には飾磨のかちん染(姫路南部の染め物)の染めたり干したりの仕事をしているよ。26句目、前句を娘の手仕事と理解し、その聟になるのは明け暮れに見ている隣家の男だよと、これもまた恋の句。27句目、8月1日の八朔の行事では親しい人のところへ挨拶回りに行きますが、ほの見えている二三人の中には聟殿も交じっている。28句目、挨拶回りの途中で月見旅行の話になった。月の定座は29句目ですが、1句引き上げ。29句目、更科に旅に行くのは烏帽子をかぶった貴人と想像した。30句目、前句の「古烏帽子」から大工が起工の儀式を行っている様子を連想。

31 ゆかしさに異国の寺号襲ふらん    几董
32 煎茶(せんじちゃ)にほふ夜の静なる 大魯

33 つくづくと我(わが)痩臑の便なさよ 蕪村
34 その事かのこと筆とらせ置く     几董
35 都帰(みやこがへり)花唇をひらく時 大魯
36 万里の海も春の夕凪         執筆

33句目、「便(びん)なし」とは「具合が悪い」の意。34句目は徒然草』に「その事かの事、便宜に忘るななどいひやるこそをかしけれ」とあるのを引用。前句と合わせて老人が遺言を書きとらせている風景とした。35句目、前句は旅先から手紙を書いている場面として、都に帰るのは桜が咲くころだろうと述べる。大魯自身、花時の京にまた戻りたいなあと思っていたかもしれません。36句目の作者、「執筆(しゅひつ)」というのは付句にルール違反がないかどうかチェックする役の人で、実際は蕪村が詠んでいるのですが、連句では挙句を「執筆」として匿名にしておくことがよく行われます。宗匠がみずから挙句を詠んでしまうと、自作自演ぽくなってしまうからでしょうか?

大魯、生き生きと詠んでいますね。やはり蕪村先生と親友の几董が相手だと、いちだんと気合が乗ったことでしょう。