2022-06-20

吉分大魯 愛された嫌われ者(後編)

岩屋・敏馬神社社殿

写真で楽しむ大魯紀行

先週、神戸・大阪・京都の三都を旅行して吉分大魯の旧跡を訪ねてきました。写真をたくさん撮ってきたので、各地を紹介したいと思います。

内容は二つに分けて、前半は「蕪村・几董の1778年兵庫紀行」、後半は「京都・大阪・神戸の大魯遺跡」となります。

①蕪村と几董の1778年兵庫紀行

安永6年(1777)5月、大魯が問題を起こして大坂を追放され、その彼を力づけるために蕪村と几董が翌春に兵庫の彼の許を訪ねた話は、前々回に書きました。


摂津名所図会(1798年刊)


放逐された大魯が身を落ちつけたのは、灘の敏馬(みぬめ)でした。
敏馬の泊は古代(5~8世紀)には兵庫の中心となっていた湊で、都から船で西へと向かった場合に敏馬までが畿内、ここから先が畿外とされていました。万葉集にさかんに詠まれ、以後も歌枕として讃えられてきた土地です。

玉藻かる敏馬をすぎて夏草の野島の埼に舟ちかづきぬ  柿本人麻呂

ここに置かれた敏馬神社(現・神戸市灘区岩屋中町)は格式の高い式内社として知られています。

大魯は新しい庵を「三選居」と名づけ、蕪村に近況を問う句を送っています。

中秋夜半翁に申遣しける 
広沢はいかに敏馬の月清し  大魯

夜半翁とは夜半亭蕪村のこと。先生は京の月の名所である広沢池で月見をされたでしょうか、敏馬では月が清く照っております、という句。1777年8月の作。

三選居のすぐ裏は漁港だったようですから、上の「摂津名所図会」の赤丸で囲ったあたりが庵の位置ではなかったかと思われます。


敏馬神社の社前。昔は鳥居近くまで浜が広がっていた。


大魯の三選居があったと思われる地域。かつては画面右の国道2号線のところまで浜辺だったが、昭和6年頃から阪神電車の岩屋~元町間トンネル工事で出た残土で海が順次埋め立てられ、国道の南側は神戸製鋼の工場となった。

1778年3月9日、蕪村と几董は大魯の許に向かうため、京から昼舟に乗って浪花に下ります。網島や桜ノ宮などで数日遊んだのち、12日の朝に心斎橋の宿を出発。西国街道を歩き、たそがれどきに灘の脇の浜に到着。脇の浜は敏馬の西に隣接する土地ですが、二人は「井筒亭」という旅館に投宿しました。翌13日、大魯が合流して三吟歌仙「春惜しむ」を巻きます。


脇浜神社(南宮宇佐八幡社)。蕪村と几董が投宿した井筒亭はこの一帯にあった。当時は画面右の道路のあたりまで海であった。

15日には和田岬の隣松院で小句会がありました。ここで「春草」という題が出たことで、『楚辞』に「王孫遊兮不歸、春草生兮萋萋」(君はどこかに行ったきり帰ってこない。春草は盛んに茂っているというのに)という詩句があることを思い出して感極まった蕪村は、

我帰る路いく筋ぞ春の艸(くさ)  蕪村

という句を作って『楚辞を引用した文と画を添え、大魯に与えました。大魯よ、君はいつまでさまよって生きるのか、そして私はどの道を選んで帰ればいいのか、という惜別の心をこめた句文画でした。

漕かへる若草の戸や漁舟(いさりぶね) 几董 

さて、集英社版『古典俳文学大系・蕪村集』によればこの旅行で蕪村は平忠度の墓を訪れたことになっています。しかし講談社版『蕪村全集』によれば、それは12年前(1766年)の秋のことで、彼が讃岐に画業のため行く途中で立ち寄ったのだとしています。講談社版のほうが正確の感じがありますが、今回忠度塚も訪問してみたので紹介しましょう。

平忠度は源平合戦の一ノ谷の戦いで奮戦しましたが、右腕を切り落とされ、岡部六弥太忠澄に討ち取られます。その腕を供養して祀ったのが腕塚、首を落された胴を葬ったのが胴塚として、神戸市長田区に現存しています。


平忠度の腕塚堂(左)は細い路地の奥にある。
路地の入口の道標にある指印が妙になまなましい。


平忠度の胴塚

忠則古墳一樹の松に倚れり 
松にかへたるやどり哉  蕪村

蕪村は「忠則」と書いていますが、忠度のことです。忠度が戦死したとき、矢を入れた箙に「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙が結ばれていました。蕪村の句は、「忠度は桜の花のもとに宿ろうと言ったが、今その墓は桜の代わりに松の下に立っているよ」と詠んだものです。腕塚も胴塚も、今は石造物などが立っているだけで松の木を見ることはありません。

また、腕塚・胴塚は明石市にもあって、蕪村が訪ねたのはそちらである可能性も否定できません。

神戸市の腕塚・胴塚は阪神淡路大震災で崩落し砕けるという悲劇に見舞われました。今では写真のとおり元に近い状態に修復されています。

脇の浜の井筒亭で蕪村は次のような句を詠んでいます。

几董とわきのはまにあそびし時  
違(すぢかひ)にふとん敷(しき)たり宵の春  蕪村

蒲団をそれぞれ部屋の対角線になるように敷いて、頭と頭を近づけて夜語りを楽しんだということでしょう。蕪村がいかに几董のことを信頼し可愛がっていたかがよくわかる話です。「大魯をどうすればいいだろう」などと相談し合ったでしょうか。

3月19日に二人は船便で浪花に戻り、22日に京に帰宅しました。

京都・大阪・神戸の大魯遺跡

さて、次は大魯にゆかりのある京阪神の土地を訪ねてみましょう。

時間をさかのぼって、大魯(当時は馬南)が阿波藩を脱藩し、京に向かった1766年のころの話です。彼は一時期、市内の「釜座通下立売上町」に住んでいたことがわかっています。これは今の京都府庁舎付近に相当します。



京都府庁舎(上)とその付近(下)の現況

この当時は蕪村は画業に精力を費やしていて、屏風制作のために京と讃岐を行き来しているような状態でしたから、大魯が蕪村ではなく岡田文誰に入門したのも無理からぬことでした。やがて蕪村門に転じ、1770年の9月にはこの住居を引き払ったことを几董が記録しています。

1773年夏、大魯は江戸へ修行に出かけることを志しましたが、途中寄った浪花の暮らしが気に入ってしまい、過書町に居を定めました。「過書船」とは淀川を航行し京と大坂を結んでいた船のことで、「過書町」はその船方が住んでいた町。今でいう大阪市中央区北浜3~4丁目に該当します。もっとわかりやすく言うと淀屋橋付近です。


淀屋橋交差点

同年9月21日、この新居を訪ねた几董は大魯と大いに意気投合、

新蕎麦に汁のよしあし分りけり 几董 

の句を残しました。「新蕎麦」は過書町の新居を象徴し、「汁のよしあし分りけり」は大魯が俳諧の正邪を見極める力があることを暗示しているのかと思います。

1776年秋、大魯は同じ浪花の呉服町(ごふくちょう)に転居します。師からその祝句として

夜を寒し寝心とはむ呉服町 蕪村 

が届きました。10月には蕪村は呉服町の大魯を訪問しようと浪花に向かいますが、舟中で風邪をひき弟子たちの看病を受けることになってしまいました。

その呉服町ですが、中央区高麗橋4丁目に「伏見呉服町之碑」が立っています。


伏見呉服町之碑

呉服町の発祥はそもそも、豊臣秀吉の大阪城築城にさかのぼります。秀吉は伏見の呉服商たちにこの地に移住するよう命じたのでした。せっかく各地から集めて囲った美女たちから「アパレルの店がない大坂なんて行くのいや~ん」と言われるのを恐れたのでしょうか。(笑)

実際の呉服町はこの碑よりもう少し東寄り、心斎橋筋と魚の棚筋に挟まれた一角であったようです。かの越後屋(現・三越)も店を出していたとか。繁華街に家を構えて、大魯はわが世の春を謳歌していたことでしょう。

このあと問題の事件を起こし、彼は兵庫へ追放され、蕪村たちがその慰安に訪れた話は上に書いたとおり。

師匠たちの訪問から2か月後の5月22日、大魯は京の几董のもとを訪問し、そのまま逗留します。どうやら病気を得て、その療養に来たようです。几董の家である春夜楼がどこにあったのか、正確な位置はわかりませんでしたが、鴨川の東岸の東丸太町あたりではなかったかと想像しています。


丸太町橋の上より鴨川東岸を望む


東丸太町界隈。道の左側は京大医学部

6月6日、大魯、几董らは蕪村の夜半亭を訪問、大魯は9日まで師の家に泊めてもらいます。当時の住居は仏光寺通烏丸西入ルにあり、蕪村にとって最後の家でした。


下京区仏光寺通烏丸西入ルの与謝蕪村宅跡。
実際にはここにかつて路地があり、その奥が蕪村宅だったらしい。

6月15日にも大魯は夜半亭に一泊、16日に兵庫へ向けて出立しました。大魯、先生にはすっかり甘えきっていますね。

いったん病は小康を得た大魯でしたが、9月ごろまた病状悪化し京にやって来ます。足腰が立たなくなった彼の起き臥しまで几董が面倒をみたということですから、おそらく春夜楼の近くに部屋でも借りたことでしょう。10月には、蕪村もこの分では命は長くもつまいと見てとるようになります。

病しきりなるころ京師に旅寝して
初雪じや大きな雪じや都かな  大魯 

大魯が病の復常をいのる 
痩脛や病より起つ鶴寒し  蕪村

11月13日、大魯没。遺言にしたがって、金福寺(こんぷくじ)に葬られます。5年後に蕪村も世を去りますが、墓は大魯の隣に建てられました。


金福寺の蕪村の墓と
大魯の墓(赤丸)

金福寺には蕪村一門の江森月居、松村月溪(呉春)の墓があり、また青木月斗もここに眠っています。それらの墓石が大きくて立派なのに対し、大魯のはたいへん小ぶりなつくりになっています。彼の人望のなさと経済的困窮ぶりがうかがえるのですが、大好きだった師のすぐ横に墓所を得たことに、きっと満足していることでしょう。

さて、『穎原退蔵著作集・第13巻』によれば大魯の息子である春魯が「寛政六年父の十七回忌に当り、兵庫八棟寺に--今移されて築島寺の境内にある--大魯墳を建てた」とあります。神戸市兵庫区島上町の築島寺(来迎寺)に行ってみたところ、大魯墳と言えるような墓は見当たらず、代りに平成時代に建てられた大魯の句碑がありました。


築島寺の大魯句碑「花鳥のそろへば春のくるゝかな」

推測ですが、大魯墳は区画整理なり、あるいは震災の被害なりによって潰され、その代わりに寺で大魯の句碑を建てたのではないでしょうか。

同じく穎原退蔵によれば、春魯の墓というのが神戸夢野墓地にあったということなのですが、この霊園は昭和40年代に市立鵯越墓園に統合されました。何か情報を得られるかと、源義経の一ノ谷の戦いの故事で有名な鵯越まで行ってみましたが、墓園事務所で尋ねてみても墓がどうなったかはわからないということでした。


史跡鵯越」の石碑

以上が今回の京阪神紀行で得られた収穫です。大魯については「おまけ」として、もう一回記事を書きたいと思いますので、よろしければお付き合いください。

2022-06-18

吉分大魯 愛された嫌われ者(中編)

京都・金福寺の大魯の墓

友人との連句

前回に引き続き、吉分大魯です。今回はまず、彼の連句を読んでいくことにしましょう。

芭蕉の連句に比べて、蕪村やその門下の連句は文人趣味的で重要性が低いと言われることが多いようです。たしかに芭蕉のようなダイナミスムはないかもしれませんが、蕪村たちの連句にも味わい深い付けが見られ、明朗な雰囲気があって、そう侮ったものでもないだろうと私は思っています。

最初に取り上げるのは、大魯がまだ馬南と名乗っていたころ、高井几董と二人で作った両吟歌仙「ほととぎす」の巻です。両吟とは2人連句のこと。歌仙とは36句形式の連句で、表(6句)、裏(12句)、名残の表(12句)、名残の裏(6句)の4部分から構成されます。1773年夏の作で、几董が編んだ蕪村一門の撰集『あけ烏』の冒頭を飾る一巻です。

1 ほとゝぎす古き夜明のけしき哉  几董
2 橘にほふ窓の南(みんなみ)   馬南

発句は几董。早朝にほととぎすを聴くと、古人が詠んだ夜明の景色が思い起こされる、と詠い出します。『あけ烏』という集名は榎本其角の「それよりして夜明烏や子規(ほととぎす)」の句を意識して命名したものなので、この発句も其角の烏や時鳥の句の景色を意識したものと思われます。

対して馬南は「橘にほふ」と嗅覚を示唆しながらやはり夏の景色を詠んでいきます。

 橘にほふ窓の南(みんなみ)   馬南
3 貴人より精米一俵たまはりて   馬南

前句を隠居した官人の家と設定して、隠居してもやはり橘を植えて風流を楽しんでいる風情です。そこへ都の貴人から米一俵が届きます。

3 貴人より精米一俵たまはりて   馬南
4 秋は来れども筆ぶせう也     
几董

米一俵をいただいたのに、筆不精で返事も書いていない。前句までの唯美的な世界を離れて俗っぽい人事へと転じ、同時に秋の季を出すことで次の月の定座を準備します。

4 秋は来れども筆ぶせう也       几董
5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 
几董

不精者ではあるが、月の夕べに蚊が出てくるとさすがに耐えがたく、落葉や小枝をくすべて蚊よけにする。

5 残る蚊に葉柴ふすべる月夕(ゆうべ) 几董
6 木槿の垣の隣したしき        
馬南

蚊よけの火を起こしていると、隣の人も月を眺めに庭に出ていて、ムクゲの垣根ごしに親しく話をします。連句では秋の句は3句以上続けることを原則としますので、「木槿」という秋の季語を出しました。

6 木槿の垣の隣したしき        馬南
7 そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱  
几董

7句目から「裏」に入ります。表六句では極端な表現や奇抜な題材を避けますが、これ以降から自由に詠んでいいことになります。「そとしたる」は「ちょっとした」の意味。ちょっとした法事のために作った小重箱を、隣人にも配りましたよということ。

ここから解釈をスピードアップしましょう。二人の詠み順も交互になって、勢いがついていきます。

7  そとしたる仏吊(とむら)ふ小重箱  几董
8  
傘かるほどの雨にてもなし      
馬南
9  暁の戸を腹あしく引立て       几董
10 
きぬ被き居るふるぎれの音      
馬南
11 神無月それさへ人のまこと也     几董
12 春見のこしたかへり花さく      馬南
13 阿弥阿弥が水ながれこす魚の骨    几董
14 けさ殺されし蛇(くちなは)のさま  馬南
15 足軽の辛く作れるとうがらし     几董
16 魂棚の灯の消なんとする       馬南
17 軒のつま月さしかかる風落て     几董
18 しらべあはざる笛の一声       
馬南

9句目は、夜明けまで談判したのに合意に至らず、腹を立てて戸を引き立てて雨をものともせず外に出たということでしょうか。10句目は恋の句、腹を立てたのは女性で、男が来なかったのでかづいた衣の音をたてながら戸を開けたととりました。「ふるぎれ」というところが女の貧しさを思わせて泣かせます。11句目、女は神頼みをしようとするがあいにく神無月。これも人の世の真実だなあ。

13句目、「阿弥」とは京の東山で寺の塔頭が経営している数々の料亭。そこから流れる排水に魚の骨が混じっている。殺生戒も何もあったものじゃない。14句目、そんな阿弥坊主、蛇も平気で殺してしまうよ。「魚」に「蛇」と近いもの同士(動物同士)を付け合わせるのは「物付」というやりかた。残酷な情景を続けて盛り上げようという算段でしょう。

17句目、裏の月の定座は本来14句目ですが、ここでは3句下げています。味の濃い人事句が続いたので、軒端の月を描いて流れを落ちつけました。

19 海士人の蛸打敲(うちたた)く砂の上 馬南
20 小銭とらせて道の案内        几董
21 大雪の跡さりげなく晴わたり     馬南
22 肌足(はだし)に成て見たる傾城   几董
23 川の瀬の浪のうきくさ浪荒き     馬南
24 七日に満る暮のおこなひ       几董
25 桑の弓蓬の矢声響く也        馬南
26 身をなく狐秋やしるらん       几董
27 かり枕雨の更科月ふけて       馬南
28 酒の機嫌に渋柿を喰(くふ)     几董
29 いつの間に冠者は男となりけらし   馬南
30 とし経し公事(くじ)のさらさらと済(すむ) 几董

ここから名残の表です。18句目の「笛」を19句目では海士(あま)の息継ぎの音と捉えなおしました。「殺されし蛇」「蛸打敲く」などと激しい表現を出すところに馬南(大魯)の性格がよく出ています。20句目、浦島太郎のように金を出して蛸を助けてやり、ついでに海士に道案内も頼むという几董の心優しさ。

22句目、雪の上に遊び女が裸足になって乗り、白い足を見せている。恋の句です。

24句目、川の遭難者の回向が七日に達した日暮れである。前句を受けて遭難者の回向の七日間ということだと思います。25句目では男子が生まれて七日目の、桑の弓と蓬の矢を使って行う祝儀というように読み替えました。26句目、弓の音を聞いて狐は自分が狩られるのかと悲しみ、猟期の秋が来たことを知る。

29句目、前句で渋柿を食いながら酒を飲んでいたのは実はまだ少年だと思っていたのだが、いつのまにか立派な男になったものだ。30句目、何年も続いている訴訟があったが、少年が大人になったせいでさらさらと解決することができた。

31 翌(あす)植ん門田の早苗風わたる  馬南
 何におどろく一群の鷺        馬南
33 この宮も正八幡と聞からに      几董
34 
海の朝日の蔀もれ来る        
几董
35 さくら咲あたりの花に培(つちかは)ん 几董
36 名利薄らぐ長安の春         馬南

名残の裏に入ります。33句目、「正八幡大菩薩」と社前で称える人の声に驚いて鷺は飛び立ったのだという解釈。

35句目、桜が咲くと周囲の他の花にも元気を与えるようだ。前句の海の朝日と合わせて、めでたく明るい花の座の句です。36句目(挙句)、長安は名利の都だと言われるけれど、このすばらしい桜を見ていると出世も金儲けもどうでもよくなってくるよ。

『あけ烏』は、「蕪村一派の俳諧新風宣言の書」とも言われます。巻頭に置かれたこの歌仙は几董と大魯の俳句革新の意気ごみがよくうかがえる、気合がこもった作ではないでしょうか。

蘆陰句選

大魯の没後、弟子や几董は遺作の発句をまとめて出版しようと活動します。大魯が大坂時代に蘆陰舎というグループを設立していたことを前回述べましたが、これにちなんで遺句集は『蘆陰句選』(ろいんくせん)と名づけられました。句集から、前回紹介しなかった句をいくつか取り上げて鑑賞します。

うぐひすの呑(のむ)ほど枝の雫かな

うぐいすが渇きをいやすのにちょうどいいくらいの、ほんの少しの枝しずく。

雨の梅しづかに配る薫かな

雨の中でも香りはムンムン。「配る」の擬人法がうまい。

一もとはちらで夜明ぬけしの花

ケシは一日花で、翌日は散ってしまうのですが、ひともとだけ残っていたのがいとしい。

夏草や花有(ある)もののあはれ也

4月、5月はいろいろな花が咲きますが、6月下旬になるとぐっと減って緑の葉の勢いが勝ってくる。咲いている草はちょっぴり季節に遅れている感じで哀れ。

さみだれや三線(さみせん)かぢるすまひ取

「かぢる」には「(三味線を)弾く」の意味があります。相撲取りが三味線をつまびいている、雨の日のちょっといい風景。あまり強くない感じのお相撲さん。

いなづまや波より出(いづ)る須磨の闇

稲妻に照らされて波から須磨の浦の闇が生まれ出る。豪快で凄絶。

釣瓶(つるべ)にてあたま破れし西瓜かな

せっかく井戸に冷しといたのに。

落柿(おちがき)や水の上また石のうへ

自然はぜいたく、いくらでも落ち放題。

山風や霰ふき込(こむ)馬の耳

寒くて馬が大変。でも耳に散る霰は美しい。

以下『蘆陰句選』に洩れたものも含め、好きなものを挙げておきます。

足袋脱で小石振ふや菫草
蜻蛉や施餓鬼の飯の箸の先
稲妻の貌(かほ)ひく窓の美人哉
埋火に梁(はり)の鼠のいばり哉
山々のあとから不二の笑ひ哉
雀の子瓦一枚ふんで見る
昼顔や魚うち揚る沙のうへ
何人とまぎれ入けむ蚊帳の蝿

蕪村一門のその後

大魯は数え年49歳ぐらいで死去したと思われます。早死にのように思えますが、芭蕉だって51歳で世を去っていることを考えれば、当時としては標準的な寿命かもしれません。

大魯を良き友として支え続けた高井几董ですが、彼も11年後に49歳で没しています。また蕪村の高弟であった黒柳召波は46歳で死去。これらの弟子たちがもう少し長生きしていれば、一門はもっと文学的に栄えたでしょうし、子規を待つまでもなく蕪村の名声は早くから高まっていたかもしれません。惜しまれます。

次回は「写真で楽しむ大魯紀行」をアップします。お楽しみに。

2022-06-10

吉分大魯 愛された嫌われ者(前編)


蕪村周辺の俳人の系譜

今回からは、好きな俳人や関心のある俳人について気ままに書いていきたいと思います。最初は蕪村門下の吉分大魯(よしわけたいろ、1730~1778)を取り上げます。

師情友情

「愛された嫌われ者」とは「冷たいお湯」みたいな言いかたですが、このブログを読んでいただければそれがどういう意味かわかるでしょう。

吉分大魯は破滅型の俳人と言われます。性格に難があったようで、周囲と衝突し、親しい人に絶交を言い渡したり、爪はじきにされて土地を放逐されたりといったことを繰り返し、最後は困窮の中で死去したようです。しかし彼を愛し、彼のことを生涯にわたり思いやった人が2人いました。私はべつに破滅型の文人が好きというわけではないのですが、この2人の温かい心情に動かされるものがあって、大魯のことを取り上げてみようと思いました。

2人とは、師匠の与謝蕪村と友人の高井几董です。蕪村は几董宛の書簡(1770年頃)の中で「京都の俳人には碌な奴がいないが、馬南(大魯の旧号)は俳諧を知る男だ」と言って彼のことをほめています。もっとも、大魯があちらこちらでもめ事を起こすのには手を焼いていたようで、彼が絶交した相手に「何とぞお怒りにならずいさかいを収めて仲良くしてほしい」ととりなしの手紙を送ったり、大魯の死後になってからも彼が生前に迷惑をかけた知人に、「大魯・月居がごときの無頼者」と言って詫びたりしています。かくも煩わされながらも、後述するように大魯が大坂を放逐され兵庫にわび住まいするようになった際には、励ましの手紙を送ったり、几董とともにその住居を訪ねてともに吟行を楽しむなど、彼を応援し続けたのでした。

几董は大魯よりも11歳年下でしたが、この2人はたいへん良く気が合ったようです。几董は人当たりがよく、蕪村門下のまとめ役で、名古屋の加藤暁台や江戸の大島蓼太とも付き合いがあり、およそ大魯とは正反対のタイプの人望家でした。几董と大魯の交わりについては、おいおい記していきたいと思います。

徳島を離れ京へ

大魯は本名を今田文左衛門と称し、阿波(徳島)藩士でした。新蔵奉行として大坂に赴任しましたが、1766年、任地で遊女と駆け落ちして出奔してしまいます。数えで37歳、青春の情熱と言うにはすでにだいぶん年齢が行っていますが、大魯の人柄を言い表わすのによく使われる「直情径行」という表現にふさわしい行動です。

阿波藩時代から俳諧のたしなみはあったようですが、京に出た彼は岡田文誰の門下の俳人として活動するようになります。当時馬南と名乗っていたことはすでに述べたとおりです。文誰は望月宋屋の弟子であり、宋屋は早野巴人の弟子ですから、巴人門下であった蕪村と近いグループであったことがうかがえます。

1769~70年頃、大魯にとって大きな出来事がありました。生涯の友となる几董との出会いです。1770年2月、彼は親しくなった几董たちとともに伊勢参に出立します。同年3月、蕪村が夜半亭二世を継いで立机すると几董は正式に入門、それに誘われてか大魯も入門を果たし、蕪村の句会「高徳院発句会」に出入りするようになりました。

馬南名義の当時の句を読んでみましょう。

氷より先へ砕(くだけ)し手桶哉

寒い朝、手水などが凍りついているが、その向こうにはやはり氷結したためであろうか、木製の手桶も砕けて壊れているよ、という句。印象鮮明です。

頻(ひとしきり)春しづまつて藤の花

やれ梅見だ、卒業式だ、花見だ、入学式だ、新歓コンパだと、何かと心せわしないのが春ですが、ゴールデンウィークになるとようやく世の中も落ち着いてきます。その最後を締めくくるのが藤の花。大魯の時代もやはり春というのは心騒ぐ季節だったでしょう、五月病にならないように藤の花の香りで疲れを癒したいもの。この作が収録された几董編『あけ烏』は蕪村門の作品を結集した撰集で、蕪村の「不二ひとつ埋みのこして若葉哉」「牡丹散て打かさなりぬ二三片」などを収め、蕪村一派の俳諧新風宣言の書とみなされています。

大坂で蘆陰舎社中を設立

さて、1773年の夏、44歳で彼は剃髪して馬南改め大魯と称するようになります。本気で仏門に帰依する気があったかどうかは怪しいのですが、俳諧の道に邁進する覚悟を示したというところでしょう。

この秋、彼は江戸に行脚して新境地を開こうと考えるのですが、その前に浪花(大坂)に立ち寄ります。すると浪花の暮らしが気に入ったようで、そのままそこに住居を構えてしまいます。今の住居表示で中央区北浜あたりです。

京の几董は大魯の新居を訪れますが、そこで二人はあらためて意気投合し、「衰微した芭蕉の道を復興するぞ~」と気炎を上げたようです。「芭蕉は『京都大坂あたりでは蕉風は根付かないなア』とひそかに嘆いていたが、今やこの地には蕉門の俳士を多く数えるようになった」と几董は大魯の活動を持ち上げています。大魯は周りに集まってくる俳人を集めて「蘆陰舎」というグループを設立し、俳諧宗匠としての生活を開始。このころが彼にとってもっとも得意の時期だったかもしれません。その頃の発句を見てみましょう。

よその夜に我夜おくるる砧かな

夜、近所の家から砧を打つ音が聞こえる。それに遅れて、わが家でも妻が砧を打ち始めた、という句。わが家の砧が遅れるのは、奥さんが内職なり家事なりに追われていたせいでしょうか。この句については蕪村が、「砧という題材は古いようにも思えるけれども、『我夜おくるるというのはなかなか言えない表現だ」とほめています。

河内女(かはちめ)や干菜に暗き窓の機

河内国は江戸時代から河内木綿で有名。家ごとに機を織る風景は、大魯にとっては新鮮に見えたかもしれません。「干菜の陰になっているので暗い窓」と正確に描写したところに、実景をよく捉えたリアリティを感じます。

謎の事件、そして兵庫への流浪

大坂で順調に宗匠としての活動を進め、1776年秋には今の中央区高麗橋付近に転居した大魯でしたが、徐々に持ち前の傲岸不遜な面が顔を出すようになっていきます。すでに1775年2月、蘆陰舎グループの東葘に絶交を言い渡すという出来事があり、蕪村一門と親交があった上田秋成がこの件を蕪村に伝えています。

不穏な人間関係はついに1777年夏に火を噴き、大魯が大坂を追い出されるという事件が起こります。いったい何が原因だったのか明らかになっていませんが、住居を追い出されるというただならぬ仕打ちを受けていることから、単なる人間関係のもつれではなく、社会的制裁を科されるような過失を犯したのではないかと見られます。この時に彼は身の悲運を嘆く句を作っています。

浪速津に庵求て五年の月日を過しけるに、さはることの侍りて、やどりたち出る日、友どちに申す。 
江(にごりえ)の影ふり埋め五月雨

かつて住みよいところと思った浪花ですが、今では水路も濁って見えます。

移住先の家を見つける暇も許されず追放され、とりあえず知人のいる兵庫へ向かいます。次は同じ一連の句。

行路茫々然たり 
夏草やまくらせんにも蛇嫌ひ

いっそ夏草の中で野宿でもしようかと思うが、蛇が来ると嫌だと言う。人間、追いつめられるとかえって笑えることを言いだす場合がありますが、この句の大魯がそんな感じです。実際には妻子を連れての彷徨でしたから、泣きたい気持ちだったでしょう。

師の慰問、そして終焉

何とか兵庫の後援者を頼って、今の神戸市灘区岩屋付近の海辺の村に落ち着くことができた大魯でした。しかしこれだけ痛い目に遭っても彼の性格は変わらなかったようで、この年の冬には蕪村と親しかった俳人の三浦樗良に突然絶交の手紙を送りつけています。樗良のほうは、なぜそんなことを言い渡されるのかさっぱりわからなかったようですが。

兵庫時代の句を読んでみましょう。

兵庫草庵背戸の半夜 
船毎に蕎麦呼ぶ月の出汐哉

「半夜」は真夜中のこと。月がのぼって潮が満ちてくるのに合わせて、夜半に漁船が出漁するのでしょう。そうした漁師たちを相手にした蕎麦屋台の商売があったようで、珍しい漁村の風景をうまく描いています。

船中 
あら海へ打火こぼるる寒かな

火打石の火花が荒海へ散っていくという、美しい一瞬の輝きが鋭いタッチで描かれています。これは好きな句。

大魯のことを蕪村はずいぶん心配していて、彼を励ましたり、句を賞賛したりする手紙を送っています。そんな中、嬉しいできごとがありました。1778年3月、師が几董を連れて彼の許を訪ねてきたのです。三人は兵庫の海辺、生田の森、平忠度の墓などを観光して吟行、また三吟歌仙を巻いています。大魯にとってこれほど楽しい時間はなかったことでしょう。

しかし彼に残された時間は多くありませんでした。5月、病魔に襲われ、療養のため京に向かったのです。いちどは小康を得て兵庫に戻ったものの、9月ごろ再び上洛。この間、几董がなにくれとなくその面倒を見ていましたが、死期を悟った彼は年下の友人に、「死んだら蕪村先生が芭蕉庵を再興した金福寺に葬ってほしい」とつぶやきました。

わがたのむ人皆若し年の暮

おそらく病中吟ではなくもっと早い時期の発句だろうと思いますが、気がつくと自分を支えてくれているのは几董をはじめとする若い人ばかりであったという、これまでの自分の傲慢さを思っての苦い自嘲とも自省ともつかぬ心持ちが感じられます。

11月13日、大魯他界。蕪村や几董は追悼句を捧げ、墓は希望通り金福寺に建てられました。

一年後、追善の会を金福寺で開こうとしますが、人が集まりません。蕪村は几董に宛てた手紙で「百池、月渓、自笑、月居、雲良、田福、皆欠席だ。維駒も生前大魯と仲が悪かったのでとても来るまい。大がかりな用意をされると困るので、金福寺の和尚に少人数の会になると伝えておいてくれ」と指示しています。

蕪村も死後は金福寺に葬られ、大魯は今でも師と同じ境内に眠り続けています。

さて、今回は大魯の生涯を中心にして書いてみましたが、次回は彼の連句、また今回触れなかった発句について、作品中心で鑑賞してみようと思います。