藤原定家「明月記」断簡
「明月記」には有心無心連歌の開催について多くの記事が残されている
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム
12世紀の後半から13世紀初めにかけて、つまり大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と重なる時期に、和歌の世界にも連歌の世界にもさまざまな変化が起こってきます。
有心体
12世紀の後半、藤原俊成・定家の親子が、和歌の世界に改革をもたらします。かつて『古今和歌集』時代の和歌は、自分の気持や季節の感慨を(たとえその気持や感慨が演技であったとしても)技巧をこらして表白するといったスタイルであったのに対し、より象徴的かつ夢幻的な言語美を追求するようになり、そのような文体は後に『新古今調』と呼ばれるようになります。
定家は歌論『毎月抄』の中で、和歌には10の詠みぶりがあるとして、幽玄躰、事可然(ことしかるべき)躰、麗(うるわしき)躰、有心(うしん)躰、長高(たけたかき)躰、見(みる)躰、面白(おもしろき)躰、有一節(ひとふしある)躰、濃(こまやかなる)躰、鬼拉(きらつ)躰の10通りを「和歌の十躰」とし、その中でも有心躰(有心体)を「これ以上に和歌の本質を備えた姿はない」として究極の理想スタイルの位置に据えます。有心体とはどういう文体なのか、『毎月抄』には精神論的な記述しかされていないのでわかりにくいのですが、心のこもった、余情豊かな歌とでも考えておけばいいかと思います。
鎖連歌、長連歌
連歌の世界では、それまで上句と下句の2句で構成される短連歌が行われていたのに対し、それにさらに五七五、続いて七七というように、3句以上続けていく鎖連歌が行われるようになります。何句で構成するという決まりはなく、人数も何人で詠むか定めはありませんでした。いちばん古い記録では、1120~1130年ごろに行われた話が伝わっています。
鎖連歌がさらに磨かれて、決まった数の句数を詠む、長連歌という定型化された形式が生まれます。長連歌とは近代になってそう名付けられたので、当時はそういう名称はなかったようです。長連歌には百韻(句)、五十韻、世吉(四十四句)、歌仙(三十六句)などの形式が定められましたが、とくに百韻形式が正式な完成形と考えられるようになります。鎖連歌の誕生からさほど時をおかず長連歌へと移行したようで、12世紀前半には初期の長連歌が行われた記録があります。
連歌が長くなっていくと、詠みかたのルールを決めないと、統一性がなくなったり同じことの繰り返しになったりして、興がそがれてしまいます。そうした必要性から定められた連歌の規則が式目です。
有心連歌 vs 無心連歌
12世紀後半、連歌は非常に盛んになり、公卿以外の人々も連歌を楽しむようになります。そのような公卿以外の連歌を「地下(じげ)連歌」と言います。
当時は藤原定家を中心として文学としての和歌の純粋化運動が進むわけですが、その反動で、文学をパロディ化して笑いを得ようとする傾向が同時に起こってきます。そうした動きはとくに地下連歌を舞台として活発化します。
そうなると、格調の高い連歌と、誹諧的で滑稽な連歌を対決させてみようじゃないかという興味が起こり、異種格闘技的な催しが行われるようになりました。とくに後鳥羽上皇がそれを好み、前者を「有心連歌」、後者を「無心連歌」と名づけ、両者の対抗連歌を「有心無心連歌」と呼びました。前者チームの代表選手が後鳥羽院、藤原定家、飛鳥井雅経、藤原家隆らの歌人、後者チームの代表が藤原長房、紀宣綱、葉室光親らの非歌人です。
こうした催しで生まれた連歌作品は、完全形では遺っていませんが、中から2句だけ切り出した付合の例が『菟玖波集』に収録されていますので、いくつか見てみましょう。
豊の明りの雪の曙 作者不詳
こはいかにやれ袍(うへのきぬ)のみぐるしや 按察使光親
「豊明節の宴の日の雪の曙に」「何ということだ、こんな日にオレの上着は破れている。見苦しい」前の句は有心歌で美しく詠まれていますが、後の句は無心歌でおどけてみせています。
わたのつくまで額をぞゆふ 作者不詳
大ひけのみ車そひて北おもて 前中納言定家
「綿屑がついて額髪を結っている」「大髭の男が御車に添って北面に立っているのだ」前の句は無心歌で異様な風体の男を描いているのに対し、後の句は有心歌で、それは北面の武士の容姿であろうかと理屈をつけています。
我が心菜種ばかりに成りにけり 作者不詳
人くひ犬をけしといはれて 西音法師
「私の心は菜種のように小さくなってしまった」「人食い犬をけしかけられたのでけし粒のように小さくなったんだろう」前の句は有心歌で自分の心のさまを嘆いたのに対し、後の句は無心歌で、「けし」をひっかけて相手をからかっています。
次は時代が少し下って、1254年の歌。
えせきぬかつぎなほぞねりまふ 作者不詳
玉かづら誰に心をかけつらん 常盤井入道太政大臣
「上臈ぶって衣をかぶってまだ踊っている女、ありゃあ偽物だぜ」「彼女は誰に心をかけているのだろう」前の句は無心歌で女を揶揄していますが、後の句は有心歌で、「玉かづら」と「かけ」の枕詞を使って優美に表現してみせました。
万葉集の「無心所著歌」は「意味の通じない歌」という意味でしたが、この時代の「無心歌」は「滑稽、品の無い歌」という意味になっています。そしてこの無心歌が「俳諧」の起こりとなるのです。