戯咲歌、物名歌、無心所著歌
前回は中国文学における「俳諧・誹諧」の使用例について書きましたが、この語がわが国に輸入されて最初に用いられた例としては、『古今和歌集』(10世紀はじめ)の巻第十九「雑体」に収められた「誹諧歌(ひかいか)」があります。
それに先立つ源流になる和歌として『万葉集』(8世紀)巻第十六に収められたいくつかの歌があります。俳諧(誹諧)の語は使っていませんが「戯咲歌(戯笑歌)」「物名歌」「無心所著歌」などと呼ばれているユーモラスな歌です。今回はそれを見ていくことにしましょう。
まずは「無心所著歌(むしんしょじゃくか)」を二首。
我妹子が額に生ふる双六の牡(ことひ)の牛の倉の上の瘡
我が背子が犢鼻(たふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸(さが)れる
前の歌は「僕の彼女の額に生えている双六盤の大きな牡牛の倉の上のできもの」
後の歌は「私の彼氏がふんどしにする丸い石の吉野山に冬の鮎がぶら下がっている」
という意味(?)ですが、何が何だかわからないですね。ダダの詩かシュルレアリスムの自動記述みたいな歌ですが、実はわざと作った「意味の通じない歌(無心所著歌)」なのです。後の歌は舎人親王が「意味の通じない歌を作ってみせたものがいれば褒美をやろう」と言い、それに応えて安倍朝臣子祖父という者が詠んだもの。
この「無心」という概念は後に俳諧が和歌から分かれていくうえで重要なはたらきをするので、俳人ならば知っておいてよい語彙です。
次に、応答形式で相手を揶揄した歌。
寺々の女餓鬼申さく大神(おほみわ)の男餓鬼賜(たば)りてその子はらまむ 池田朝臣
仏造るま朱(そほ)足らずは水溜る池田の朝臣(あそ)が鼻の上を掘れ 大神朝臣奥守
大神朝臣奥守という人は餓鬼さながらにガリガリに痩せていた人なのでしょう。池田朝臣はそれを嘲笑して、「寺の女餓鬼たちが大神の男餓鬼の子を孕みたいって言ってたぜ」と呼びかけます。いっぽう池田朝臣は鼻が赤かったのでしょう、それを皮肉って大神朝臣奥守は「仏像を作るのに使う朱砂が足りないんだったら、水溜まる池の田んぼこと池田朝臣の鼻を掘ってみるといいよ」と返したのでした。
続いて、大伴家持が吉田連老石麻呂という人をからかって作った二首で、「戯咲歌(ぎしょうか)」とされているものです。
石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ
痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
「石麻呂さんに忠告いたします。夏痩せに効くという鰻をつかまえて食べなさいよ」「でも、痩せているといっても命あっての物種、鰻を取ろうとして川で溺れたりしなさんな」。石麻呂さん、痩せていたのでしょう。痩せている人はみすぼらしいとされていた、メタボ万歳の時代です。
今度は「物名歌(ぶつめいか)」です。
婆羅門(ばらもん)の作れる小田を食む烏瞼(まなぶた)腫れて幡桙(はたほこ)にをり 高宮王
「バラモン僧が作る田んぼの米を食うカラスはまぶたが腫れて仏事の幡桙の上に止まっている」という歌で、これもあまりよく意味がわかりませんが、実は「いくつかの単語を歌の中に詠みこむ」という課題をもうけて作った歌なのです。おそらく「婆羅門、小田、烏、瞼、幡桙」が与題だったのでしょう。こういう歌を「くだらない」と言って切り捨てるのは簡単なのですが、今日の俳句で「題詠(兼題、席題)」ということが行われるのは物名歌の名残りと言えなくもないので、歴史的観点からするとなかなか興味深いものがあります。
一二の目のみにはあらず五六三四(ごろくさむし)さへありにけり双六の頭(さへ)
「1や2の目だけじゃないぞ、5、6、3、4までもあったぞ、双六の骰子の目は」という、まったく馬鹿馬鹿しい歌ですが、「双六の1から6までの数字を詠んでみよ」ということで作られた物名歌です。この歌で注目すべきは、数字をカウントすることが主眼となっているという点です。以後和歌や俳諧では数字を詠み込むことがずっと伝統になっていくのですが、とくに俳句は数字をカウントすることと相性がよい形式だと言えます。
奈良七重七堂伽藍八重ざくら 松尾芭蕉
桜より松は二木を三月ごし 松尾芭蕉
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に 高濱虚子
牡丹百二百三百門一つ 阿波野青畝三人は二階からくる実朝忌 冬野 虹娘三人昆蟲館の五月闇 田中裕明
こんな感じです。数字は俳句においてどういう意味を持つのかというのは大いに論じられるべきテーマだと思いますが、そのはじまりは万葉集のこのような歌にあるのですね。