2022-05-13

俳諧のはじまり(4)-連歌のみなもと

酒折宮(さかおりみや)


歌垣・嬥歌

俳諧の源流としては、一つは前回ご紹介した誹諧歌があり、もう一つは連歌があります。

連歌については、「もともと和歌というものがあって、それが応答歌に発展し、やがて上の句と下の句を別々の人が作る連歌が生まれた」というように何となく理解している人が多いのではないでしょうか。しかし私はこれは逆ではないか、唱和歌や応答歌、あるいは連歌に近いものが最初にあって、それが洗練されていったのが和歌なのではないかという考えをもっています。

古事記や日本書紀を読むと、ある日突然神様や皇室関係の人が和歌を詠んだかのように書かれていますが、それは不自然というものでしょう。もともと民衆歌謡があって、それが磨かれて和歌になったと理解したほうが納得しやすいと思います。

民衆歌謡の中でもその性質が知られているものに、歌垣があります。これは祭の日に男女が集まって、求愛の歌を交換し、既婚者未婚者を問わず自由恋愛を楽しんだというものです。東国では「嬥歌(かがい)」と言われていました。

歌を交換して愛をはぐくむというのはアジア圏で広く行われていた習慣のようで、私も以前テレビでアジア少数民族の歌垣を見たことがあります。祭に来た若者たちは、男子チームと女子チームに分かれる。男子チームが求愛の歌を歌うと、続いて女子チームがそれに答える歌を歌う、それにまた男子チームが、というように続いていくのです。日本の歌垣がこのような集団での歌の交換だったのか一対一での歌の交換だったのか今一つよくわかりませんが。

こういう場で歌われる歌は、毎回オリジナルで作られるのではなくてスタンダード・ナンバーのようなものがあったのではないか、それを歌うか、あるいは即興でパロディを加えて歌ったのではないかというのが私の想像です。そしてその歌は、和歌形式ではなくて片歌(かたうた)形式、あるいは6音や8音といった偶数音律のものだったかもしれない、とさらに空想しているのです。片歌については後ほどまた触れますが、琉球地方の琉歌は6音や8音で構成されているそうなので、あるいはそれが上代歌謡の原形だった可能性も考えられます。

さて、中国大陸から日本に漢字が伝わり、8世紀までには漢詩などの漢文学も普及するようになった。するとそれに対し、日本でも独自の文学が必要だという、文化的なナショナリズムが高まったことでしょう。そこで大衆歌謡を五七五や七七の形に整理して、政府主導で和歌というジャンルに統合しようという動きが出てきた。大宮人も和歌をさかんに詠むようになった。それらを集大成したのが『万葉集』です。

一方で大衆レベルでは引き続き応答歌の伝統は続いていたので、その影響のもとに和歌のほうでも応答歌、連歌というものが詠まれていったと、そんな感じではないかと思います。

記紀の連歌

以上の考察は私の想像で、文献的な裏付けがあるわけではありません。話半分として聞いておいてください。

では文献では連歌の起こりをどう記述しているかというと、14世紀の歌人、二条良基は『筑波問答』の中で、国生みの際に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が呼び交わしたのがそのはじめであると言っています。伊弉諾尊が「あなうれしゑやうましをとめにあひぬ」、伊弉冉尊が「あなうれしゑやうましをとこにあひぬ」と呼び合ったときのことです。

さらに歌の形での連歌が最初に詠まれたのは、記紀に記述されている日本武尊(やまとたけるのみこと)と従者の秉燭者(ひともしびと)の掛け合いであるとしています。日本武尊は、関東一円を征伐したあと、甲斐の国酒折宮にやってきた。そこで従者たちに

新治(にひはり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる
(筑波を発ってから何夜が経っただろうか)

と問いかけると、 秉燭者が

日日並べて(かがなべて)夜には九夜日には十日を
(日数を数えて、夜は9夜、昼は10日を)

と答えたというもの。連歌のことを「筑波の道」とも呼ぶのは、この故事によるものです。

酒折宮という神社は今でも遺っています。中央本線の線路に近くひっそりとたたずむ、なかなか良い社ですから、一度訪問することをお勧めします。

この応答ですが、短歌形式ではなく片歌(かたうた)形式、すなわち「五七七」形式であるところは注意に値します。(日本武尊のほうは字足らずですが)

良基は触れていませんが、古事記にはもう一つ歌の掛け合いが載っています。神武天皇が乙女たちが遊んでいるのを見て、「あの中のイスケヨリヒメと結婚したい」と言います。その命を受けた大久米命(おおくめのみこと)が媛に伝えると、媛は大久米命の眼を見て

あめつつちどりましととなど黥(さ)ける利目(とめ)
(あなたの眼はなぜアマドリ、鶺鴒(ツツ)、千鳥、頬白(マシトト)みたいに切れているの?

と言い、大久米命は

をとめに直(ただ)に遇(あ)はむと我が黥ける利目
(乙女にこの眼で直接お会いしようと、このように切れた眼をしているのです

答えています。この応答も片歌形式であることに注意が必要です(どちらも字足らずですが)。私が歌垣の歌は片歌だったのではないかと推測するのも、このように上代歌謡がしばしば片歌で記述されているからです。「五七五」や「七七」の形は完結性が高くて、大衆が詠むのはやや難しいのではないか、それに片歌のほうが掛け合いで次々に続けていきやすいリズムなのではないかということも推測の理由です。

万葉集の連歌

良基の『筑波問答』に戻ると、彼は和歌の形での最初の連歌は、さる尼と大伴の家持が合作した次の歌だとしています。

佐保川の水を塞(せ)き上げて植ゑし田を刈れる初飯(はついひ)はひとりなるべし

この歌がどういう意味が、諸説あるのですが、一つの解釈としてこれは大伴家持が尼に「アンタの娘をオレにくれ」、と言った際の歌だというものがあります。それに対して尼が最初「佐保川の水をせき止めて田を植えるように、大切に育ててきた娘であるから(アンタみたいなチャラい男にはやらない)」と言ったのを、家持が下の句を書き換えて「その田んぼの飯を最初に食べるのはオレ一人だ」と改作したのではないか、というのです。面白いですね。