2022-05-08

俳諧のはじまり(1)-「俳諧」の語源

藤原清輔「奥義抄」(『日本歌学大系 第壱巻』より)

俳諧の語源

12世紀の歌人、藤原清輔が著した歌学書「奥義抄」には、こんなことが書いてあります。

漢書云、誹諧者滑稽也。史記滑稽伝考物云、滑稽酒器也。 

どういうことかというと、中国の本には「誹諧とは滑稽のことである」と書いてあり、滑稽については司馬遷の『史記』の「滑稽列伝」の注釈に「滑稽とは漏斗状の酒器のことである(転じて酒が漏斗状の酒器から絶え間なく流れ出るように、よくしゃべること)」と書いてあるというのです。

「滑稽列伝」では戦国時代~前漢時代の「滑稽な」人物数人が紹介されているのですが、これらは奇抜な比喩や言説で主君を諫めた人々なのです。たとえば次のような話が語られています。

戦国時代の斉の国に、楚の国が攻め入ってきた。斉の威王は趙の国に救援を求めようと、臣下の淳于髠(じゅんうこん)をつかわし金百斤と車馬四十頭を贈らせようとした。すると于髠は大笑いし、冠の紐が全部切れてしまうほどであった。威王がなぜ笑うのかと聞くと、「今日出仕するとき、農民が道端で豚の蹄1個と酒1碗をささげ『山のように穀物が実りますように』と祈っていました。供えるものがケチなのに、求めるものが欲張りなのでおかしくなりました」と答えた。そこで威王は贈り物を黄金千鎰と白璧十対と車馬四百頭に増やした。受け取った趙は喜び、援軍を派兵。楚はそれを見て退却した。

つまり滑稽というのは単純に愉快な言説をまきちらすのではなく、ことばの力によって諷諫を行い、政治・社会を正しい方向に導くという意味を持っていた。「滑稽」同様に「誹諧」もそのような性質をもった用語だったのでしょう。

杜甫の俳諧体詩

時代が下って、8世紀の唐の時代、杜甫が「俳諧体」という形式の詩を作っています。2篇から成る詩なのですが、ここでは「其の二」のほうを現代語訳して紹介しましょう。夔州(現在の重慶市の北東部)に転居したものの、そこでの生活の粗末さと風俗の異様さに音を上げているといった詩です。

たわむれに俳諧体の詩を作り 

うっとうしい気持ちを晴らす その二 

 

西の方では蛮族が住む青羌坂を越えたが 
南に来ては 白帝城にとどまっている
ここでは虎が人家の壁を乗り越えてくるし
小麦粉をフライにした変わった菓子を贈りあっている
瓦の割れ目を見て神の言葉を占い
焼き畑では火がはじけて燃えている
ここでは何が正しくて何が間違っているのか言ってもしかたない 
ただ枕を高くして儚い人生を笑って過ごすのさ 

夔州での暮らしがいかになじめないものであったとしても、「虎が人家の壁を乗り越えてくるし」といったあたりはかなり誇張した表現と言わざるをえないでしょう。杜甫の「俳諧体」は物事を大げさに表現してみせるスタイルを指すようです。

史記や杜甫の詩を例にして、中国における「滑稽」「俳諧(誹諧)」の意味を見てきましたが、どうもこれらの語には日本人が「滑稽」「俳味」というようなことばから連想するような、「だじゃれ」「飄逸」「下ネタなどのエログロ」といったニュアンスは見られないようです。杜甫の詩にしても、内容は大笑いするようなものではなくてむしろ苦いものだと言えるでしょう。手八丁口八丁で人の心に迫るような表現術、それが中国語の「俳諧」なのかもしれません。

(付記)
唐末の士大夫に鄭綮(ていけい)という人がいたのですが、この人物について「十八史略」は次のようなことを書いています。

朝廷の士大夫に鄭綮という人物がいた。恢諧を好む者だった。しばしば歇語の詩(終りの語を省略して言外に諷刺をこめる詩)を作って時世を嘲笑していた。皇帝はその詩を読んで面白いと思い、綮を宰相に任命した。役人からそのことを聞いて綮は信用しなかったが、事実だとわかって「歇語の詩を書くオレが宰相になるようでは、世の中終わりだなあ」と言った。

鄭綮は世の中を批判することは得意だったけれども、行政経験などはなかったので、そんな人物が宰相に任命されるようじゃ世も末だと嘆いたわけです。実際、この10年後に昭宗皇帝は暗殺され、間もなく唐朝は滅亡します。

さて、鄭綮が好んでいた「恢諧」というのは、滑稽、俳諧とほぼ同じ意味のようです。鄭綮の詩というのは韻律の規則を厳格に守らず、内容的には社会を諷刺するものであったということなので、やはり漢文学における俳諧は諷諫ということと結びついているのでしょう。