2022-05-26

俳諧のはじまり(9)-ついに俳諧オンリーの撰集が


竹馬狂吟 新撰犬筑波集

ダブルでびっくり『竹馬狂吟集』

宗祇が『新撰菟玖波集』から俳諧を追放してしまったことは前回述べましたが、こうなると当然、俳諧好きの連歌師たちは面白くありません。じゃあ俳諧は俳諧で独立した撰集を編もうじゃないかということになる。

私が子どものころは、残されている最古の俳諧撰集は山崎宗鑑編の『新撰犬筑波集』だと言われていました。それ以前に『竹馬狂吟集』という集があったことは知られていたのですが、現物が見つからなかったのです。ところが昭和35年にその実物が発見され、40年代に内容が広く知られるようになって、俳文学の世界を大いに驚かせました。

驚かせたのは二重の理由から。一つはもちろん、文学史研究上の価値によってです。もう一つは、その内容があまりにも下品だったから。『新撰犬筑波集』だって上品なものではありませんが、『竹馬狂吟集』も猥褻で露骨。えーっ、俳諧って元はこんなにお下劣だったの? と、びっくりだったわけです。

ではその『竹馬狂吟集』を読んでいきましょう。撰者名は不明、序文によれば1499年の成立です。「竹馬」は当然「菟玖波」をパロディ化した命名で、『新撰菟玖波集』への反骨意識がはっきりしています。『新撰菟玖波集』編纂からわずか4年後の1499年に成立しているので、宗祇の生前から反発が生まれていたことがわかります。

巻第一から第四までが発句で、各巻に春・夏・秋・冬が当てはめられています。第五~第十が短連歌形式で、それぞれ春・夏・秋・冬・恋・雑の巻とされています。作者名はいっさい記入されていません。まず発句から。

北野どの御すきものや梅の花

「北野天満宮に祀られている菅原道真は梅の花が好きだったよなあ」というのが表の意味。裏の意味は、「北の殿」には北政所などと言うように「奥方」の意味があるので、「奥方は(妊娠したので)酸っぱいものが好きになった、梅干しとか」ということで、トンチの句。

西浄へゆかむとすればかみなづき 

「西方浄土へ行こうと思ったが、今は神さまがいない神無月だった」という意味と、西浄はトイレを指すことから「トイレに行ったら紙がなかった」という意味を掛け合わせた句。

見えすくや帷雪のまつふぐり

 「淡雪が降ると、松ぼっくりが雪に透けて見える」という意味と、「薄い帷子を透かして○ンタマが見えてるぜ」という意味の掛け合わせ。

続いて短連歌のほうに行きましょう。

足なくて雲の走るはあやしきに
何をふまへてかすみたつらん 

「『雲走る』というが、雲には足がないじゃないか、不思議なことだ」「『霞立つ』というが、霞は何をふまえて立つのかね」対句のようにして冗談を言っています。中ではまだしも上品な部類の連歌。

曾我兄弟は仏にぞなる
蓮葉(はちすば)にかはずの子どもならびゐて

曾我兄弟の父は河津祐泰。仏は蓮台の上に乗ることから、「河津の息子の曾我兄弟は成仏して蓮台の上に並んでいるよ」「蓮の葉に蛙の子が並んでいるよ」と二通りの意味をかけた冗談。

おそろしきにてつかぬ物かげ
絵にかける鬼の持ちたる臼と杵

「おそろしくてつかない(近づけない)物影とは何だろう」「鬼が臼と杵を持っている絵のことさ。絵に描いた餅だからつかない(搗かない)のだ」つかないという動詞を読み替えてのトンチ。

ところで、こういう具合に短連歌において短句(七七)が先に出されて長句(五七五)が後に応える場合、鑑賞する人は「五七五七七」の形に直して味わうのか、それともこのままの形で味わうのかと疑問に思うかもしれません。清少納言の時代のような、一首を二人で共作するような連歌の場合はおそらく「五七五七七」の形に脳内変換していたと思いますが。長連歌が始まって以後は七七の形に後から五七五が付くのは普通のことになりますので、変換はせずにそのままで解していたでしょう。

おそれながらも入れてこそ見れ
我が足や手洗(たらひ)の水の月のかげ

だんだん下品になってきます。いったいナニをナニに入れるんだ、と思わせておいて、「月が映る清らかな盥の水に足をいれるのは恐れ多いね」とトボケた付け。

およばぬ恋をするぞをかしき
われよりも大若俗(おほわかぞく)のあとに寝て

巻第九の恋の部から。「不相応な恋をするなんておかしなことだ」と、身分不相応の恋のことかと思わせておいて、「自分よりも背丈の大きい若衆の後ろで寝ていると、身体のサイズが違いすぎてうまくヤレないのだ」と男色の話にしてしまった歌。恋の部といってもこんな歌ばかりです。

垣のあなたをのぞきてぞ見る
我ひとりにぎりて寝たる夜もすがら

これも恋の部から。覗き見して、何を握ったんでしょうねえ。説明不要。

いまぞ知りぬる山吹の花
あやまつて漆の桶に腰かけて

「今はじめて山吹の花を知った」「知りぬるっていうのは尻塗るということで、誤って漆塗りの便器に腰かけてしまったので尻が○ンコまみれの山吹色になったんだよ」汚いですねえ、臭いですねえ。

こういう俳諧が優れたものだと言う気は毛頭ありませんが、俳句の出発点には卑俗なエネルギーがあったということは頭に入れておいてもいいでしょう。俳句をやたらと繊細で清らかで美しい方向にだけ持っていくのは偏った考えかなという気がします。

俳諧というジャンルの誕生

『竹馬狂吟集』の約50年後、山崎宗鑑撰の『誹諧連歌抄』が出ました。実は宗鑑はこの撰集を何度も書き直してそのたびに人手に渡していたらしく、そのため内容の異なるたくさんの版が残されています。これらの諸本が統一されて版本になる途中で、何者かが『新撰犬筑波集』という書名を付け、現在ではそれが撰集名として流通しています。元となる自筆の諸本は1524年~1540年の間に成立。

続いて刊行された俳諧の書籍が荒木田守武『守武千句』です。守武は伊勢神宮内宮の神官でした。独吟で千韻の俳諧連歌を詠んだもので、1536年に着手し1540年に伊勢大神宮に奉納。

山崎宗鑑や荒木田守武の俳諧については、もし機会があれば別途鑑賞することにしましょう。

このようにして戦国時代の終りに俳諧は独立したジャンルとなり、以後、連歌と俳諧は別の道をたどることになります。したがって俳諧の誕生は西暦1500年前後のこととして良いでしょう。ただし、宗鑑も守武も専門の俳諧師というわけではなく、連歌師でもあったことには注意が必要です。