花の下連歌
13世紀後半、すなわち鎌倉時代の後半になると、連歌が大衆的なブームになります。地下連歌が中心になるにつれて、上品ぶらず、難しい教養が要らず、ウィットが試される無心連歌が庶民に受け容れられ、誰もが参加できるようになったためです。
あちらこちらの寺社で「花の下(もと)連歌」と呼ばれる興行が開催されるようになり、大勢が投句して優れた付句には賞品が出るという、賭博的な要素も加わりました。
無住著の『沙石集』には、田舎の小童や阿闍梨に仕える小法師が日常会話の中で連歌をやりとりしていた様子が描かれています。
その中でプロの連歌師が生まれ、花の下連歌を取り仕切り、付句の取捨選択をする役割を担いました。そうした「花の下連歌師」と呼ばれた人々は、文芸で食っていったわが国最初の職業文人と言えるでしょう。
菟玖波集の俳諧連歌
南北朝~室町時代に入ると連歌はいよいよ活気づきます。そんな中で、重要な連歌集が編纂されます。二条良基編の『菟玖波集』(つくばしゅう、1356年成立)です。連歌専門の撰集としては史上初めてのもの。勅撰和歌集に倣って全20巻で構成し、これは翌年、勅撰に準じるものとして公に認められました。
連歌集といっても、長連歌全体を収めているわけではありません。一巻の連歌の中から連続する二句を抜きだし、たくさん集めて一冊にしているのです。これは、連歌は一巻全体の構成や流れを楽しむものとしてよりも、付けや転じのテクニックを玩味するものとして扱われていたことを示すのかな、という気がします。
この集にはさまざまな有名人が登場します。足利尊氏、足利義詮や佐々木道誉(導誉)などの太平記のヒーロー、『徒然草』の著者鴨長明、作庭で有名な夢窓国師、過去の有名歌人である藤原公任、西行法師、後鳥羽院、藤原定家などなど。足利尊氏らの名前があることは、連歌の担い手が公卿から武家・大名へと移っていくプロセスをよく表しています。
『菟玖波集』の巻第十九には「俳諧」の部が設けられ、129首が収められています。いよいよここから本格的に俳諧がスタート、という感じです。では、その俳諧連歌を読んでみましょう。
親に知られぬ子をぞまうくる 作者不詳
我が庭にとなりの竹のねをさして 読人知らず
「親に隠れて子ができてしまいました」とスキャンダルっぽい前句に、「それは竹のことだヨ。隣家の竹がうちの庭に根を伸ばして筍(竹の子)ができたんだよ」と落ちをつける。こういう歌になると、われわれが思う滑稽味に近づいてきます。
夕にのぼる月の遠山 作者不詳
枝は椎木を折る猿の一さけび 導誉法師
佐々木道誉の付句を読んでみましょう。「夕べに月は遠山からのぼる」「猿が椎の枝木を折り、一叫びしている」滑稽という歌ではありませんが、猿の叫びなどというものを描くところに俳諧性を感じたのかもしれません。其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を連想させます。
橋本のきみには何か渡すべき 前右大将頼朝
ただ杣山のくれてあらばや 平 景時
次は源頼朝と梶原景時の歌です。「橋本の遊女には何を渡せばいいだろう」「山の木材(のようにチップ)でも与えておけばいいでしょう」というのですが、「くれ」は「榑」(板材のこと)と「呉れる」を掛けていて、また「暮れたら遊びに行けますよ」のニュアンスもあるようです。やっぱり頼朝は女好き! 景時は策士!
「橋本」は蕪村が「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と詠んだ京都府八幡市の橋本ではなく、静岡県の橋本宿のこと。また景時は桓武平氏の子孫だったため、公式の場では「平景時」を名乗っていました。景時の付句には別バージョンが伝わって違う解釈もあるようですが、ここでは『菟玖波集』の解説書に従っておきます。
川のほとりに牛は見えけり 作者不詳
水わたる馬の頭や出ぬらむ 読人知らず
「川のほとりに牛が見える」「あれは渡河する馬が水から頭を出しているんだぜ」というのですが、馬は「午」とも書くから、縦棒が上に突き抜けると「牛」になるという頓智を言ったものです。
世の中にふしぎのことを見つるかな 作者不詳
鷲の尾にこそ花は咲きけれ 読人知らず
「世の中には不思議なことがあるもんだなあ」「鷲の尾に花が咲いているよ」というのですが、これは「鷲尾寺で花の下連歌をやってるよ」ということにひっかけています。このように、前句で不思議なことや抽象的なことを言って、付句でその謎を解いてみせるという、大喜利みたいな連歌が出てきます。「○○と掛けて何と解く」という感じです。
発句の部
『菟玖波集』でもう一つ注目されるのが、巻第二十がまるごと「発句」の部になっていることです。連歌の第一句目だけを集めたアンソロジーが、ついに登場します。ここから、後の「発句」そして現在の「俳句」につながる道筋が見えてきたと言えるでしょう。
これらの発句はそれだけ独立して詠まれたわけではなく、あくまで連歌の第一句目を抜きだしたものです。連歌の発句について二条良基は『僻連抄』(へきれんしょう、1345年)の中で「発句は最も大事のものなり」と書いており、長連歌の中で最重要の部分であると強調していました。そのため、良い発句の例を集めてお手本を示そうとしたのでしょう。
発句の部から、いくつか味わってみます。
吹かぬ間も風ある梅の匂かな 二品法親王
「風が吹かない間も梅は香っている。感じられないほどかすかな風の動きがあるのだろう」繊細で美しい句です。
九重のうてなをうつす泉かな 後醍醐天皇御製
「宮中の池の水は九重にもかさなる高殿を映しているよ」リッチな宮殿を描いた、後醍醐天皇らしい豪儀な句。
水をせき月をたゝへて夏もなし 関白前左大臣
「水を堰き止めて月を映せば、夏の暑さも感じなくなる」二条良基自身の句です。この夏はこの句を心に留めて水辺を夜歩きしましょうかね。
川音のうへなる月の氷かな 浄阿上人
「せせらぐ川の上にさす月の光はまるで氷のようだ」ホカロンもなかった昔はさぞかし月の光までさむざむと見えたでしょう。
このころの発句は優雅でのんびりしてますね。次回は宗祇の連歌の話です。