2022-05-31

俳諧のはじまり(おまけ)-藤原定家の連歌、現存最古の長連歌、宗祇と兼載の俳諧観

 
穎原退蔵著作集より「連歌史」

これまで「俳諧のはじまり」シリーズで書ききれなかった話題について、いくつか補足的に付け加えておきたいと思います。

藤原定家の連歌

長連歌(3句以上の連歌)は12世紀前半ごろに発生したと書きましたが、12~13世紀の長連歌で完全な形で残っているものはありません。長連歌を一回限りの座興と見なす傾向があったのか、きちんと保存されることはなかったようです。

そんな中で、藤原定家が後鳥羽上皇にたてまつった「独吟百韻」が、断片的な形で一部記録されています。これは二条良基が『菟玖波集』にて2句単位で採録していったものなのですが、その中で連続する5句を分解して採録したところがあるので、元の形を一部再現できるのです。それを2句ずつ読んでみましょう。

谷深き柴の扉の霧こめて
都をこふる袖やくちなん 

「谷深くに結んだ庵の扉は、霧に閉ざされている」
「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
蝉丸のような、都を追放された人のことをイメージした付けでしょう。

都をこふる袖やくちなん 
霜の後夢も見はてぬ月の前

「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
「かの王昭君は霜のあとでは夢も見ることができないと月の前で嘆いた」
大江朝綱が、匈奴に嫁した宮女、王昭君の故事によって成した漢詩に「胡角一声霜後夢 漢宮万里月前腸」(
『和漢朗詠集』)とあることを踏まえた付句。前の付けでは追放されて谷深い草案に隠棲する人のことが描かれていましたが、この付けでは都を恋うて泣くのは、北方異民族に嫁がされた王昭君のことであると解釈しなおしています。

霜の後夢も見はてぬ月の前 
むすぶちぎりの浅き世もうし

「霜が下りて冬の月が照るような夜は夢も破れがちだ」
「あなたと結んだ関係もしょせんは浅いものだった。なんと憂き世であるか」
ここでは王昭君の逸話を離れて、男女関係の冷え冷えとしたありさまを描くというように読み替えて付けを行っています。

むすぶちぎりの浅き世もうし 
夕顔の花なき宿の露のまに

「人のつながりは浅いもので悲しい」
「(源氏物語の夕顔の君がみまかった後では)その宿の垣根に夕顔の花もなく、まことに露のようにはかないものである」
人生の無常を詠もうとしたもののようです。

いかがでしょうか。前に見た『拾遺和歌集』では、短連歌は語呂合わせによる機知の腕を見せることに終始していました。この定家の連歌では語呂合わせは見られず、引用を織り込みながら唯美的な世界を作り出そうという、定家の意欲がうかがえます。ただし、霧こめて⇒袖やくちなん⇒夢も見はてぬ⇒世もうし⇒露のまに、という具合に、同じような世界がえんえんと続いていて、変化というものが感じられません。連歌が平安和歌の世界を打ち破って動的な力を持つためには、やはり地下連歌の強靭なエネルギーを引き入れることが必要だったのだということが納得されます。

現存最古の長連歌

現在残っている最古の長連歌は、横浜市の金沢文庫(かなざわぶんこ)が管理する三巻の百韻連歌です。金沢文庫は北条氏の一族である北条実時が蔵書を収めた収蔵庫で、鎌倉幕府の滅亡後、収蔵品はかなり散逸しました。残った資料は近接する称名寺が管理しましたが、現在それらは神奈川県が新たに設立した「県立金沢文庫」に引き継がれています。昭和の初期、この資料から百韻連歌が見つかったのです。写経した紙の反故の裏側を使って書かれていて、それは紙が当時貴重品だったということもあるでしょうが、これら連歌がそれほど格式のあるものではない、楽しみのためのものであったことを示すでしょう。その内容は

1332年9月13日 [月は秋]の巻
1333年10月23日 [雨の名を]の巻 
(年代不明)8月15日 [月の名に]の巻 

といったものでした。 

ではこの中から、[月は秋]の巻の表八句を紹介しましょう。

月は秋あきも名あるは今夜哉      一
霧よりいでてはるる嵐に        
白露やむすびもあへずおちつらん    十
おきふす草のさだめなければ      本
里ならで野をやどにする旅ぞうき    一 
かかるいほりは都にもにず       印
雨をきく軒のしづくはさびしくて    如
霜よりのちはあるる冬山        理

各句の下にある「一」「印」「十」「本」「如」「理」 というのは作者名の略称で、おそらくいずれも称名寺の住僧。とくに「十」は同寺の十林という僧であろうと推測されています。

読んでみていかがでしょうか。ずっと淋しげな庭や野の景色が続いていて、また「月」「霧」「白露」「雨」「霜」など天文気象を示す題材が繰り返し登場し、どうも変化に乏しいですね。連歌の技巧が磨かれていくには、まだしばらく時間がかかったようです。

ところで、連歌・連句の発句は季節を詠む、それも当季の季語を用いることを必須とするのですが、この最古の長連歌でもすでに発句で当季を詠んでいる点が注目されます。こうしたルールがのちの俳句の季語システムにつながっていくわけです。

宗祇と兼載の俳諧観

飯尾宗祇は俳諧の価値を低く見ていて、『新撰菟玖波集』にも俳諧の部を設けなかった話をすでに書きました。しかし宗祇自身が俳諧の連歌を作ることもありました。宗祇の独吟俳諧百韻という作品が江戸時代に伝わっていたことはわかっていますが、残念ながら完全な形で今日まで残っていません。しかし1660年刊の北村季吟編『新続犬筑波集』に途中の句がとぎれとぎれに記録されていますので、部分ごとに鑑賞してみましょう。

堂はあまたの多田の山寺
まんじゆうをほとけのまへにたむけおき 
たれみそすくふしゃくそんやある 

多田は兵庫県川西市の地名で、清和源氏発祥の地として源満仲から義家に至る五公を祀る多田神社などの寺社があります。 二句目は「満仲」と「饅頭」をかけて寺の仏に饅頭が供えられている景としました。三句目は饅頭からの連想で、「垂れ味噌を掬う杓子はあるか」と「釈尊は誰を救ってくれるのか」のダジャレを言っています。

次の三句は旅行の場面です。

いと細き手にあかゞりやわたるらん
日々にまさりて旅はたえがた 
関守のこころはきびし銭はなし 

女性の細い手があかぎれで痛々しい。次の句ではそれを旅している姿ととらえ、旅の間じゅうあかぎれがひどくなり耐えがたいと言ってみた。三句目は、旅が耐えがたいのは関守がきびしく通行税を取り立てるのに銭がないからだと、貧乏旅行の様子にとらえ直しました。

このような感じで、通常の連歌よりだいぶんくだけた感じですが、『竹馬狂吟集』のような下品に堕すことはないですね。ただし、酔余の座興で俳諧の連歌をやることがあって、そんな時は宗祇も下ネタの付句を出していたと、支援者で弟子でもあった三条西実隆が証言していますので、宗祇先生、そう堅物一方の人物であったわけでもなさそうです。

猪苗代兼載は宗祇の弟子ということになっていますが、もと心敬の弟子であったとされ、宗祇とは友人関係ではなかったかという説もあります。彼は『兼載雑談』という著作において、「上手の詠み手は、強い句には強く付け、幽玄の句には幽玄で付け、俳諧の句には俳諧を付けるというように、どのような場合でも行き詰ることなく対応するものだ」ということを言っており、俳諧も連歌の一要素と肯定的に見ています。また「狂句も後に上手になるための下地だと思ってやってみればよいだろう」と、むしろ試みることを勧める姿勢がうかがえます。

では兼載の独吟俳諧の作例をところどころ見てみましょう。

拍子打つ風呂の吹きてと聞くよりも
うしろをむきてせをかがめける 
こがつしき流石(さすが)に道をしりぬらん 

「風呂の垢すりをやる者が来たようなので、手を打ってそれを呼ぶ」「後ろを向いて背中をかがめた」と、最初の2句は風呂で背中を流させる情景ですが、3句目で「喝食(かつじき、禅寺の稚児)め、さすがに男色の道を心得て尻を突き出している」と同性愛の場面に切り替えました。宗祇よりもかなり露骨です。

しのびしのびにつまをたづぬる
さひを手に取ながらへるも口惜しや
はだかにならばさていかにせむ

「こっそりと妻のもとを訪ねる」という何かわけありげな1句目に、「サイコロを手に渡世を送るのも口惜しい」と、博打に入れあげているため奥さんのところへはこっそり戻るという解釈にした2句目。3句目では「すってんてんになったらどうしよう」と卑俗な笑いに転じています。

こころぼそくもときつくるこゑ
鶏がうつぼになるとゆめに見て

「軍が鬨の声を上げているのに、それが心細いとはこれいかに」という謎句に対し、「鶏が皮を剥がれて矢入れの靭にされちゃう夢を見たので、時をつげる声も心細いんだよ」とトンチで応じたもの。この付けは『竹馬狂吟集』にも匿名で採用されています。

戦国時代の連歌は宗祇のような芸術志向一色だったわけではなく、実際には大衆的な笑いを採り入れた俳諧も盛んに行われていたことがわかるでしょう。

さて、俳諧というジャンルが成立するまでの歴史を10回プラス1回で書いてみました。次回からは、個々の俳人の作品を時代順にこだわらず読んでいきたいと思います。

2022-05-27

俳諧のはじまり(10)-俳諧についてのQ&A

前回までに俳諧が独立したジャンルになるまでの歴史をざっと眺めてきましたが、連歌や連句や俳句について、門外漢の方にはまだいろいろわからないことがあると思います。Q&Aの形で疑問に答えてみましょう。

Q1.連句って、近代になってからの呼び名だと聞きましたが、江戸時代の俳人たちは自分たちがやっている連句を何と呼んでいたのでしょうか。

A1.まずややこしいのは、昔は連句というのは、漢詩の「聯」を二人以上の作者で作ることを言ったのです。つまり漢詩を共同制作するのが「連句」、和歌を共同制作するのが「連歌」だったんですね。

では江戸時代は俳諧連歌をどう呼んでいたかというと、正式名称は「俳(誹)諧之連歌」です。下の画像、左は蕉門(芭蕉派)の連句、右は一茶が加わった連句ですが、どちらも巻頭に「諧之連歌」と書いてあります。


しかし「ハイカイノレンガ」というのは長くて舌を噛みそうです。そのため日常的には単に「俳諧」と言っていたのではないかと思います。俳諧というのは発句も含めた概念なので、必ずしも連句だけを示す語とも言えないのですが、現実的には連句を指す場合に常用されていたようです。

「連俳(れんぱい)」と言っている例もあって、この名称は現在でも使われることがあります。ただし江戸時代には「連歌と俳諧」をまとめて称する意味で用いられた場合もあるので、注意が必要です。

俳諧之連歌を連句と呼ぶのが一般的になったのは、高濱虚子が1904年にそれを提唱してからだとされています。しかし江戸時代にも散発的に「連句」の語が使われている例が見られます。

Q2.連歌と連句(俳諧)って、要するにどこが違うのでしょう。

前回見たとおり、初期の俳諧はトンチ、語呂合わせ、下ネタなどで読者を笑わせることを目的とした形式でした。ところがそれが洗練されてきて、とくに松尾芭蕉に至ると、俳諧の芸術化が図られるようになりました。そうなると連歌と俳諧の違いがよくわからなくなってきます。芭蕉も「連歌と俳諧は心は同じである」と言っています。

しかし和歌・連歌と俳諧を分ける特色が一つあって、それは和歌・連歌では「歌語」を使うのに対し、俳諧では「俳言(はいごん・はいげん)を使うということです。芭蕉の弟子であった河野李由と森川許六が編纂した『篇突』には、「『五月雨』(さつきあめ)は俳言であり、『五月の雨』は連歌である。卑俗なことばを使うのが俳諧だと思うのは大きな間違いだ」ということが書かれています。五月雨と五月の雨がどう違うのか、現代の普通の人間にはさっぱりわかりませんが、「卑俗なことばを使うのが俳諧ではない」というのは芸術的な俳諧を目指す蕉門の人々が強く主張したかったところでしょう。

服部土芳著の『三冊子』によれば、芭蕉自身は、梅翁(西山宗因)が『俳諧無言抄』に書いていたことを信奉していたようで、それを引用してまず音読みの文字を使用した語は俳言であり、屏風・几帳・拍子・律の調子・例ならぬ・胡蝶などの語はいずれも俳言であるとしています。歌語は原則として訓読みのやまとことばを使うということです。また和歌が嫌う特定の語があって、たとえば桜木・飛梅・雲のみね・霧雨・小雨・門出・浦人・賤女などの詞も歌語ではなく俳言であるとしています。

歌語と俳言の違いについてはいろいろな人がいろいろなことを言っていて、何が適切なのかわかりにくいのですが、端的に言うと和歌・連歌はことばをその本意に従って使う。俳諧は本意にこだわらずにリアリズムを採り入れて詠む。というのがいちばんの大本ではないかと思います。たとえば和歌では、鴬や蛙は啼き声を賞美すべきものと考えますが、芭蕉は

鴬や餅に糞する縁の先
古池や蛙飛こむ水のをと

と、啼き声ではなく糞だとか水音だとかを描いてみせるのです。

和歌・連歌では本意に沿って物を描こうとするので、その結果先例のない表現を嫌う、見たことのない表現を排するという方向性が出てきます。有名な話としては、平安時代の「六百番歌合」の会で、「見し秋を何に残さん草の原ひとつにかはる野辺のけしきに 藤原良経」の歌に対し、「草の原なんて、聞きなれない表現で耳ざわりが良くない」という論難がなされます。これに対して判者の藤原俊成は「草の原という表現は、源氏物語の『花宴』巻中の和歌にちゃんと使われている。源氏物語も読んでいないような歌詠みはダメである」と言って良経の和歌を高く評価したのです。このように、いかに先行する作品を踏まえて表現できているかということが和歌の評価基準として大きなポイントだったわけで、それは連歌に引き継がれます。

そうなると、「本歌取り」ということが和歌・連歌では非常に重要視されます。古典の教養が必須になり、たとえば白楽天の詩を翻案して詠みこんだりすると「すごーい」ということになるわけです。

俳諧でも本歌取りをまったくやらないというわけではなく、芭蕉はむしろ積極的に古典を採り入れていますが、重要度が和歌・連歌ほど高くはないということですね。

Q3.発句と俳句って、どこが違うのでしょう。また「俳句」という語はいつごろから使われるようになったのですか。

発句というのはあくまで連歌や連句の第1句目を意味します。したがって、その後に付句がつくことを想定します。俳句は独立した詩形なので、付句を想定しません。

というのが表向きの解説ですが、連歌から俳諧が分かれて以降には、必ずしも付句を想定しない発句も多く作られたのではないかと私は思っています。たとえば1674年刊の『歳旦発句帳』(井筒屋庄兵衛編)は新年の発句だけを集めた本で、発句だけを鑑賞する下地がもともとあったからこういう句集が編まれたことが考えられます。芭蕉も、同じ句を発句だけで発表する場合と連句の中で使用する場合では句形を変えたりしていますから、発句を独立した詩として考える面もあったのだろうと思います。

発句は格調高くなければいけない、そのために切字を使用しなければならないという考えがあるのですが、服部土芳は「芭蕉先生はむしろ軽い発句を好まれていた」としています。また「先生は、切字を使っても切れていない句、使っていなくても切れている句があるとしていた」と言っています。芭蕉の考えかたは柔軟で、あまり外形に拘泥した作句姿勢には賛成しなかったようです。今日でも、俳句はもともと発句であるから格調高くなければいけないと言って現代俳句を批判する人がいますが、時代とともに表現する内容も変わるのですから、古い格調に固執するのはいかがなものかと思います。

「俳句」という語が最初に使われた時期ですが、私がたどれた限りでは、榎本其角編の『虚栗』(1683年)、『句兄弟』(1694年)にその例を見ることができました。ただし、明確に発句を俳句と言いかえたといった感じではなく、「俳諧の中の一句としての発句」という程度の表現です。これ以前の定清作の俳諧集『尾蝿集』(1663年)にも「俳句」の語が見られるということですが、私は未見です。

発句という呼称を排してはっきり俳句という名称を採用したのは、正岡子規であることに間違いありません。子規は連句の価値を否定し、それによって俳句を独立した文学にしようと考えたわけですから、連句を前提とする「発句」の名称のままでは具合が悪かったわけです。

2022-05-26

俳諧のはじまり(9)-ついに俳諧オンリーの撰集が


竹馬狂吟 新撰犬筑波集

ダブルでびっくり『竹馬狂吟集』

宗祇が『新撰菟玖波集』から俳諧を追放してしまったことは前回述べましたが、こうなると当然、俳諧好きの連歌師たちは面白くありません。じゃあ俳諧は俳諧で独立した撰集を編もうじゃないかということになる。

私が子どものころは、残されている最古の俳諧撰集は山崎宗鑑編の『新撰犬筑波集』だと言われていました。それ以前に『竹馬狂吟集』という集があったことは知られていたのですが、現物が見つからなかったのです。ところが昭和35年にその実物が発見され、40年代に内容が広く知られるようになって、俳文学の世界を大いに驚かせました。

驚かせたのは二重の理由から。一つはもちろん、文学史研究上の価値によってです。もう一つは、その内容があまりにも下品だったから。『新撰犬筑波集』だって上品なものではありませんが、『竹馬狂吟集』も猥褻で露骨。えーっ、俳諧って元はこんなにお下劣だったの? と、びっくりだったわけです。

ではその『竹馬狂吟集』を読んでいきましょう。撰者名は不明、序文によれば1499年の成立です。「竹馬」は当然「菟玖波」をパロディ化した命名で、『新撰菟玖波集』への反骨意識がはっきりしています。『新撰菟玖波集』編纂からわずか4年後の1499年に成立しているので、宗祇の生前から反発が生まれていたことがわかります。

巻第一から第四までが発句で、各巻に春・夏・秋・冬が当てはめられています。第五~第十が短連歌形式で、それぞれ春・夏・秋・冬・恋・雑の巻とされています。作者名はいっさい記入されていません。まず発句から。

北野どの御すきものや梅の花

「北野天満宮に祀られている菅原道真は梅の花が好きだったよなあ」というのが表の意味。裏の意味は、「北の殿」には北政所などと言うように「奥方」の意味があるので、「奥方は(妊娠したので)酸っぱいものが好きになった、梅干しとか」ということで、トンチの句。

西浄へゆかむとすればかみなづき 

「西方浄土へ行こうと思ったが、今は神さまがいない神無月だった」という意味と、西浄はトイレを指すことから「トイレに行ったら紙がなかった」という意味を掛け合わせた句。

見えすくや帷雪のまつふぐり

 「淡雪が降ると、松ぼっくりが雪に透けて見える」という意味と、「薄い帷子を透かして○ンタマが見えてるぜ」という意味の掛け合わせ。

続いて短連歌のほうに行きましょう。

足なくて雲の走るはあやしきに
何をふまへてかすみたつらん 

「『雲走る』というが、雲には足がないじゃないか、不思議なことだ」「『霞立つ』というが、霞は何をふまえて立つのかね」対句のようにして冗談を言っています。中ではまだしも上品な部類の連歌。

曾我兄弟は仏にぞなる
蓮葉(はちすば)にかはずの子どもならびゐて

曾我兄弟の父は河津祐泰。仏は蓮台の上に乗ることから、「河津の息子の曾我兄弟は成仏して蓮台の上に並んでいるよ」「蓮の葉に蛙の子が並んでいるよ」と二通りの意味をかけた冗談。

おそろしきにてつかぬ物かげ
絵にかける鬼の持ちたる臼と杵

「おそろしくてつかない(近づけない)物影とは何だろう」「鬼が臼と杵を持っている絵のことさ。絵に描いた餅だからつかない(搗かない)のだ」つかないという動詞を読み替えてのトンチ。

ところで、こういう具合に短連歌において短句(七七)が先に出されて長句(五七五)が後に応える場合、鑑賞する人は「五七五七七」の形に直して味わうのか、それともこのままの形で味わうのかと疑問に思うかもしれません。清少納言の時代のような、一首を二人で共作するような連歌の場合はおそらく「五七五七七」の形に脳内変換していたと思いますが。長連歌が始まって以後は七七の形に後から五七五が付くのは普通のことになりますので、変換はせずにそのままで解していたでしょう。

おそれながらも入れてこそ見れ
我が足や手洗(たらひ)の水の月のかげ

だんだん下品になってきます。いったいナニをナニに入れるんだ、と思わせておいて、「月が映る清らかな盥の水に足をいれるのは恐れ多いね」とトボケた付け。

およばぬ恋をするぞをかしき
われよりも大若俗(おほわかぞく)のあとに寝て

巻第九の恋の部から。「不相応な恋をするなんておかしなことだ」と、身分不相応の恋のことかと思わせておいて、「自分よりも背丈の大きい若衆の後ろで寝ていると、身体のサイズが違いすぎてうまくヤレないのだ」と男色の話にしてしまった歌。恋の部といってもこんな歌ばかりです。

垣のあなたをのぞきてぞ見る
我ひとりにぎりて寝たる夜もすがら

これも恋の部から。覗き見して、何を握ったんでしょうねえ。説明不要。

いまぞ知りぬる山吹の花
あやまつて漆の桶に腰かけて

「今はじめて山吹の花を知った」「知りぬるっていうのは尻塗るということで、誤って漆塗りの便器に腰かけてしまったので尻が○ンコまみれの山吹色になったんだよ」汚いですねえ、臭いですねえ。

こういう俳諧が優れたものだと言う気は毛頭ありませんが、俳句の出発点には卑俗なエネルギーがあったということは頭に入れておいてもいいでしょう。俳句をやたらと繊細で清らかで美しい方向にだけ持っていくのは偏った考えかなという気がします。

俳諧というジャンルの誕生

『竹馬狂吟集』の約50年後、山崎宗鑑撰の『誹諧連歌抄』が出ました。実は宗鑑はこの撰集を何度も書き直してそのたびに人手に渡していたらしく、そのため内容の異なるたくさんの版が残されています。これらの諸本が統一されて版本になる途中で、何者かが『新撰犬筑波集』という書名を付け、現在ではそれが撰集名として流通しています。元となる自筆の諸本は1524年~1540年の間に成立。

続いて刊行された俳諧の書籍が荒木田守武『守武千句』です。守武は伊勢神宮内宮の神官でした。独吟で千韻の俳諧連歌を詠んだもので、1536年に着手し1540年に伊勢大神宮に奉納。

山崎宗鑑や荒木田守武の俳諧については、もし機会があれば別途鑑賞することにしましょう。

このようにして戦国時代の終りに俳諧は独立したジャンルとなり、以後、連歌と俳諧は別の道をたどることになります。したがって俳諧の誕生は西暦1500年前後のこととして良いでしょう。ただし、宗鑑も守武も専門の俳諧師というわけではなく、連歌師でもあったことには注意が必要です。

2022-05-22

俳諧のはじまり(8)-宗祇が築いた連歌黄金時代

 
新撰菟玖波集

宗祇の連歌は面白い?

室町時代から戦国時代にかけて、連歌の黄金時代が到来します。足利将軍家が愛好したことが大きく、幕府は京都・北野天満宮に連歌所(れんがしょ)を設置しました。各地の守護大名もまた競って連歌会を催するようになります。

この時代のヒーローが飯尾宗祇で、彼は全国の守護大名を訪れては歓迎を受け、プロ連歌師として生活しました。ちなみに宗祇に至る連歌道の系譜をざっと書くと次のようになります。

善阿(ぜんな) ⇒ 救済(ぐさい、きゅうぜい) ⇒  二条良基 ⇒ 勝部梵灯庵 ⇒ 高山宗砌(そうぜい) ⇒ 飯尾宗祇(そうぎ) ⇒ 猪苗代兼載(けんざい)

この系譜図では周阿、了俊、心敬など重要な名前を省き、また宗祇の弟子の実隆、肖柏、宗長などの名前も入れていません。便宜的なものだと思ってください。

実は私、宗祇がちょっと苦手。彼の代表作で連歌の最高峰のような扱いを受けているのが「水無瀬三吟百韻」(1488年)ですが、これがつまらないんだなあ。平板な叙景句が多くて、薄味の作品で。

正統連歌を理解できない私はひねくれものなのだろうか、と悩んだのですが、ある日連歌文学の研究家の先生が似たことを言っているのを読んでびっくりしました。新潮日本古典集成の『連歌集』で校注を行っている島津忠夫先生です。「水無瀬三吟百韻」は宗祇、肖柏、宗長が詠んだ連歌で、3人が同じ順番でぐるぐる付句を付けていく、いわゆる「膝送り」の方法で詠まれている。しかしこうした固定した付け順だと、なかなか意表を突いた句が出にくい。しかもこの連歌は後世の手本になるような一巻にしようという宗祇の意図が見えて、指導の縛りが感じられるというのです。それに対し「新撰菟玖波祈念百韻」(1495年)は、16人が参加して緊張感みなぎるやりとりを見せており、かなり趣が異なるとしています。

そこでここでは「新撰菟玖波祈念百韻」のほうを鑑賞してみましょう。百韻の場合、「初折表(8句)」「初折裏(14句)」「二折表(14句)」「二折裏(14句)」「三折表(14句)」「三折裏(14句)」「名残表(14句)」「名残裏(8句)」という8部構成になります。歌は懐紙を二つに折って、その表と裏に句を書いていき、百韻の場合は4枚の紙の表裏を使う。8部の境目ははっきり切れているわけではなく、歌の流れはずっと連続していくのですが、進行を管理していく上で折を一つの目安にします。

百句全部鑑賞するのはたいへんなので、ここでは1か所だけ紹介しましょう。三折裏の四句目(全体では六十八句目)から、2句ずつペアにして解釈していきます。

露をみるにも老が身ぞうき    宗祇
風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍 

「すぐ消えてしまう露を見るたびに年取った自分のありさまが悲しい」「この日暮れには、風が吹けば露が消えるように自分も命を散らすのかと思われます」と老い先の短さを嘆くやりとりです。

風にだにさそはるるやと待つ暮に 宗忍
うはの空にはなどかすぐらん   恵俊 

「風が私を誘ってくれるのかと夕暮に待っていたのに」「なぜ上空を吹き過ぎて行ってしまうのか」前句を読み替えて、老いの嘆きの話ではなく風に呼びかける体に付けました。「なぜ私のところに来てくれないの」という恋の雰囲気もちょっぴりあります。

うはの空にはなどかすぐらん   恵俊
をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清

「なぜ上空を行ってしまうのか」「ほととぎすが繰り返し鳴いてこそ、都らしさというものなのに」過ぎていくのは風ではなく、ほととぎすのことであると読み替えました。このように、連歌や連句は前々句と前句の世界を、付句によってひっくり返していくことを必須とする文芸です。

をちかへりなかば都ぞほととぎす 玄清
みすはみどりの軒のたち花    兼載

「ほととぎすが繰り返し鳴いてこそ、都らしいというものだ」「都では夏になると緑の御簾が掛けられ、軒には橘の花が開いているよ」ほととぎすは実際に鳴いていると見て、都の景を色鮮やかに描いてみせました。物悲しい風情が続いていたのを一新して絵画的な華やぎに転じた、みごとな付句です。

みすはみどりの軒のたち花    兼載
袖ふるる扇に月もほのめきて   宗祇

緑の御簾が掛けられ、軒には橘の花が開いている」「袖が触れあう逢瀬、扇には月のほの明りが指している」ここで恋へと転じます。宗祇の付句は古今集の「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖のかぞする」(読み人知らず)の歌を踏まえたもの。連歌ではこのように、本歌取りや寄合(よりあい、定番の組み合わせ)を活用した付けが常套的に行われます。

袖ふるる扇に月もほのめきて   宗祇
まねくは見ずやくるる河つら   恵俊

袖が触れあう逢瀬では、扇に月のほの明りが指している」「扇で入日を招いているのをご覧になりませんでしたか? 川のおもては暮れていきます」恋を続けながら、舟遊びの景色というように設定し直していきます。

これくらいにしておきましょう。この連歌では、猪苗代兼載が凝った面白い付けを連発して活躍しています。出した句の数も宗祇の14句に次ぐ13句です。一巻全体としては、兼載の派手な立ち回りを、宗祇は鎮めるようにおだやかに付ける、というような場面が多く見られるようです。後に兼載は撰集の撰をめぐって宗祇と対立し、師弟は袂を分かつことになるのですが、弟子が新風を求める一方で師匠は格調を重んじるというような路線の違いがあったのかもしれません。

俳諧が勅撰集から外される

1495年、宗祇は弟子たちとともに新たな連歌撰集『新撰菟玖波集』を編纂しました。これは准勅撰連歌集として公に認められます。上記の「新撰菟玖波祈念百韻」は、撰集が無事に完成することを祈って編纂者たちが集まって事前に行った連歌でした。

この集は二条良基の『菟玖波集』同様、連歌の中から二句単位で付合の実例を抜きだして集めたものです。連歌一巻を丸ごと収載するということはやっていません。作品は室町時代のものに限定されており、作者の中では足利義政・義尚の父子、また日野富子の名前に目が行きます。宗祇らが将軍家の庇護を受けていたことがよくわかります。

特記されるのは、『菟玖波集』に設けられていた「俳諧」の部が、こちらの集では廃されていることです。宗祇は『老のすさみ』の中で次のように言っています。

愚意に思ひ侍る、連歌正風(しょうふう)は、前による心誹諧になく、一句のさま、常のことをも、詞(ことば)の上下をよく鎖りて、いかにも安らかに云ひ流し、物にうてぬ所を心にかけまほしく侍るなり。

「私見で思うに、連歌の正しい姿は、前の句に寄っていく心が俳諧的ではなく、普通のことを詠む場合でもことばを上下にうまく連続させ、いかにもゆったりと流れるように言い表わし、他からの動揺を受けないような境地をめざすようにしたいというところにあります」

この宗祇の言いかたを見れば、彼が俳諧を低いものに見なして、正統ではないと考えていたことがはっきりしています。彼は『新撰菟玖波集』を編纂することで連歌の価値をいっそう高め、和歌と肩を並べるところまで社会的評価を上げようという野心を持っていた。そのため俳諧のような優雅ではない分野は勅撰集から排除しようと考えたと思われます。

いっぽう発句について見れば、巻十九と巻二十は「発句」の部になっており、 宗祇がやはり発句を重んじていたことがわかります。中には有名な

世にふるもさらに時雨の宿りかな 宗祇

の句が収録されています。 のちに芭蕉はこの句を踏まえて「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の句を作ることになります。

足利将軍と日野富子の発句を見ておきましょう。

すみのぼる月のしらみね雲もなし 慈照院入道贈太政大臣(義政) 
桜をやちらぬはなとはおもふらん 常徳院贈太政大臣(義尚)

下水ににごらぬいけのはちすかな 従一位富子

応仁の乱で世の中が乱れに乱れていた当時、権力者たちがこういう浮世離れした句を作っていたということには、「なんかな~」という気がしないでもありませんね。

宗祇や兼載と俳諧のかかわりについては、もう少し述べたいことがありますが、だいぶん長くなってきましたのでそれは別の回に譲りましょう。

2022-05-17

俳諧のはじまり(7)-小童も小法師も夢中、連歌が大ブームに

 


菟玖波集

花の下連歌

13世紀後半、すなわち鎌倉時代の後半になると、連歌が大衆的なブームになります。地下連歌が中心になるにつれて、上品ぶらず、難しい教養が要らず、ウィットが試される無心連歌が庶民に受け容れられ、誰もが参加できるようになったためです。

あちらこちらの寺社で「花の下(もと)連歌」と呼ばれる興行が開催されるようになり、大勢が投句して優れた付句には賞品が出るという、賭博的な要素も加わりました。

無住著の『沙石集』には、田舎の小童や阿闍梨に仕える小法師が日常会話の中で連歌をやりとりしていた様子が描かれています。

その中でプロの連歌師が生まれ、花の下連歌を取り仕切り、付句の取捨選択をする役割を担いました。そうした「花の下連歌師」と呼ばれた人々は、文芸で食っていったわが国最初の職業文人と言えるでしょう。

菟玖波集の俳諧連歌

南北朝~室町時代に入ると連歌はいよいよ活気づきます。そんな中で、重要な連歌集が編纂されます。二条良基編の『菟玖波集』(つくばしゅう、1356年成立)です。連歌専門の撰集としては史上初めてのもの。勅撰和歌集に倣って全20巻で構成し、これは翌年、勅撰に準じるものとして公に認められました。

連歌集といっても、長連歌全体を収めているわけではありません。一巻の連歌の中から連続する二句を抜きだし、たくさん集めて一冊にしているのです。これは、連歌は一巻全体の構成や流れを楽しむものとしてよりも、付けや転じのテクニックを玩味するものとして扱われていたことを示すのかな、という気がします。

この集にはさまざまな有名人が登場します。足利尊氏、足利義詮や佐々木道誉(導誉)などの太平記のヒーロー、『徒然草』の著者鴨長明、作庭で有名な夢窓国師、過去の有名歌人である藤原公任、西行法師、後鳥羽院、藤原定家などなど。足利尊氏らの名前があることは、連歌の担い手が公卿から武家・大名へと移っていくプロセスをよく表しています。

『菟玖波集』の巻第十九には「俳諧」の部が設けられ、129首が収められています。いよいよここから本格的に俳諧がスタート、という感じです。では、その俳諧連歌を読んでみましょう。

親に知られぬ子をぞまうくる    作者不詳
我が庭にとなりの竹のねをさして  読人知らず

「親に隠れて子ができてしまいました」とスキャンダルっぽい前句に、「それは竹のことだヨ。隣家の竹がうちの庭に根を伸ばして筍(竹の子)ができたんだよ」と落ちをつける。こういう歌になると、われわれが思う滑稽味に近づいてきます。

夕にのぼる月の遠山      作者不詳
枝は椎木を折る猿の一さけび  導誉法師

佐々木道誉の付句を読んでみましょう。「夕べに月は遠山からのぼる」「猿が椎の枝木を折り、一叫びしている」滑稽という歌ではありませんが、猿の叫びなどというものを描くところに俳諧性を感じたのかもしれません。其角の「声かれて猿の歯白し岑の月」の句を連想させます。

橋本のきみには何か渡すべき 前右大将頼朝
ただ杣山のくれてあらばや  平 景時

次は源頼朝と梶原景時の歌です。「橋本の遊女には何を渡せばいいだろう」「山の木材(のようにチップ)でも与えておけばいいでしょう」というのですが、「くれ」は「榑」(板材のこと)と「呉れる」を掛けていて、また「暮れたら遊びに行けますよ」のニュアンスもあるようです。やっぱり頼朝は女好き! 景時は策士!

「橋本」は蕪村が「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と詠んだ京都府八幡市の橋本ではなく、静岡県の橋本宿のこと。また景時は桓武平氏の子孫だったため、公式の場では「平景時」を名乗っていました。景時の付句には別バージョンが伝わって違う解釈もあるようですが、ここでは『菟玖波集』の解説書に従っておきます。

川のほとりに牛は見えけり  作者不詳
水わたる馬の頭や出ぬらむ  読人知らず

「川のほとりに牛が見える」「あれは渡河する馬が水から頭を出しているんだぜ」というのですが、馬は「午」とも書くから、縦棒が上に突き抜けると「牛」になるという頓智を言ったものです。

世の中にふしぎのことを見つるかな 作者不詳
鷲の尾にこそ花は咲きけれ     読人知らず

「世の中には不思議なことがあるもんだなあ」「鷲の尾に花が咲いているよ」というのですが、これは「鷲尾寺で花の下連歌をやってるよ」ということにひっかけています。このように、前句で不思議なことや抽象的なことを言って、付句でその謎を解いてみせるという、大喜利みたいな連歌が出てきます。「○○と掛けて何と解く」という感じです。

発句の部

『菟玖波集』でもう一つ注目されるのが、巻第二十がまるごと「発句」の部になっていることです。連歌の第一句目だけを集めたアンソロジーが、ついに登場します。ここから、後の「発句」そして現在の「俳句」につながる道筋が見えてきたと言えるでしょう。

これらの発句はそれだけ独立して詠まれたわけではなく、あくまで連歌の第一句目を抜きだしたものです。連歌の発句について二条良基は『僻連抄』(へきれんしょう、1345年)の中で「発句は最も大事のものなり」と書いており、長連歌の中で最重要の部分であると強調していました。そのため、良い発句の例を集めてお手本を示そうとしたのでしょう。

発句の部から、いくつか味わってみます。

吹かぬ間も風ある梅の匂かな 二品法親王

「風が吹かない間も梅は香っている。感じられないほどかすかな風の動きがあるのだろう」繊細で美しい句です。

九重のうてなをうつす泉かな 後醍醐天皇御製

「宮中の池の水は九重にもかさなる高殿を映しているよ」リッチな宮殿を描いた、後醍醐天皇らしい豪儀な句。

水をせき月をたゝへて夏もなし 関白前左大臣

「水を堰き止めて月を映せば、夏の暑さも感じなくなる」二条良基自身の句です。この夏はこの句を心に留めて水辺を夜歩きしましょうかね。

川音のうへなる月の氷かな 浄阿上人

「せせらぐ川の上にさす月の光はまるで氷のようだ」ホカロンもなかった昔はさぞかし月の光までさむざむと見えたでしょう。

このころの発句は優雅でのんびりしてますね。次回は宗祇の連歌の話です。

2022-05-16

俳諧のはじまり(6)-和歌も連歌も大変革、藤原定家の時代

 
藤原定家「明月記」断簡
「明月記」には有心無心連歌の開催について多くの記事が残されている
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

12世紀の後半から13世紀初めにかけて、つまり大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と重なる時期に、和歌の世界にも連歌の世界にもさまざまな変化が起こってきます。

有心体

12世紀の後半、藤原俊成・定家の親子が、和歌の世界に改革をもたらします。かつて『古今和歌集時代の和歌は、自分の気持や季節の感慨を(たとえその気持や感慨が演技であったとしても)技巧をこらして表白するといったスタイルであったのに対し、より象徴的かつ夢幻的な言語美を追求するようになり、そのような文体は後に『新古今調』と呼ばれるようになります。

定家は歌論『毎月抄』の中で、和歌には10の詠みぶりがあるとして、幽玄躰、事可然(ことしかるべき)躰、麗(うるわしき)躰、有心(うしん)躰、長高(たけたかき)躰、見(みる)躰、面白(おもしろき)躰、有一節(ひとふしある)躰、濃(こまやかなる)躰、鬼拉(きらつ)躰の10通りを「和歌の十」とし、その中でも有心躰(有心体)を「これ以上に和歌の本質を備えた姿はない」として究極の理想スタイルの位置に据えます。有心体とはどういう文体なのか、『毎月抄』には精神論的な記述しかされていないのでわかりにくいのですが、心のこもった、余情豊かな歌とでも考えておけばいいかと思います。

鎖連歌、長連歌

連歌の世界では、それまで上句と下句の2句で構成される短連歌が行われていたのに対し、それにさらに五七五、続いて七七というように、3句以上続けていく鎖連歌が行われるようになります。何句で構成するという決まりはなく、人数も何人で詠むか定めはありませんでした。いちばん古い記録では、1120~1130年ごろに行われた話が伝わっています。

鎖連歌がさらに磨かれて、決まった数の句数を詠む、長連歌という定型化された形式が生まれます。長連歌とは近代になってそう名付けられたので、当時はそういう名称はなかったようです。長連歌には百韻(句)、五十韻、世吉(四十四句)、歌仙(三十六句)などの形式が定められましたが、とくに百韻形式が正式な完成形と考えられるようになります。鎖連歌の誕生からさほど時をおかず長連歌へと移行したようで、12世紀前半には初期の長連歌が行われた記録があります。

連歌が長くなっていくと、詠みかたのルールを決めないと、統一性がなくなったり同じことの繰り返しになったりして、興がそがれてしまいます。そうした必要性から定められた連歌の規則が式目です。

有心連歌 vs 無心連歌

12世紀後半、連歌は非常に盛んになり、公卿以外の人々も連歌を楽しむようになります。そのような公卿以外の連歌を「地下(じげ)連歌」と言います。

当時は藤原定家を中心として文学としての和歌の純粋化運動が進むわけですが、その反動で、文学をパロディ化して笑いを得ようとする傾向が同時に起こってきます。そうした動きはとくに地下連歌を舞台として活発化します。

そうなると、格調の高い連歌と、誹諧的で滑稽な連歌を対決させてみようじゃないかという興味が起こり、異種格闘技的な催しが行われるようになりました。とくに後鳥羽上皇がそれを好み、前者を「有心連歌」、後者を「無心連歌」と名づけ、両者の対抗連歌を「有心無心連歌」と呼びました。前者チームの代表選手が後鳥羽院、藤原定家、飛鳥井雅経、藤原家隆らの歌人、後者チームの代表が藤原長房、紀宣綱、葉室光親らの非歌人です。

こうした催しで生まれた連歌作品は、完全形では遺っていませんが、中から2句だけ切り出した付合の例が『菟玖波集』に収録されていますので、いくつか見てみましょう。

豊の明りの雪の曙               作者不詳
こはいかにやれ袍(うへのきぬ)のみぐるしや  按察使光親

「豊明節の宴の日の雪の曙に」「何ということだ、こんな日にオレの上着は破れている。見苦しい」前の句は有心歌で美しく詠まれていますが、後の句は無心歌でおどけてみせています。

わたのつくまで額をぞゆふ   作者不詳
大ひけのみ車そひて北おもて  前中納言定家

「綿屑がついて額髪を結っている」「大髭の男が御車に添って北面に立っているのだ」前の句は無心歌で異様な風体の男を描いているのに対し、後の句は有心歌で、それは北面の武士の容姿であろうかと理屈をつけています。

我が心菜種ばかりに成りにけり 作者不詳
人くひ犬をけしといはれて   西音法師

「私の心は菜種のように小さくなってしまった」「人食い犬をけしかけられたのでけし粒のように小さくなったんだろう」前の句は有心歌で自分の心のさまを嘆いたのに対し、後の句は無心歌で、「けし」をひっかけて相手をからかっています。

次は時代が少し下って、1254年の歌。

えせきぬかつぎなほぞねりまふ 作者不詳
玉かづら誰に心をかけつらん  常盤井入道太政大臣

「上臈ぶって衣をかぶってまだ踊っている女、ありゃあ偽物だぜ」「彼女は誰に心をかけているのだろう」前の句は無心歌で女を揶揄していますが、後の句は有心歌で、「玉かづら」と「かけ」の枕詞を使って優美に表現してみせました。

万葉集の「無心所著歌」は「意味の通じない歌」という意味でしたが、この時代の「無心歌」は「滑稽、品の無い歌」という意味になっています。そしてこの無心歌が「俳諧」の起こりとなるのです。

(付記)
ところで、無心衆のひとりとして名前が出てくる葉室光親ですが、後鳥羽上皇の側近で、承久の乱では院に思いとどまるよう諫言したがかなわず、乱ののちに北条義時によって処刑されてしまいます。光親、『鎌倉殿の13人』に出てこないかなあ。

俳諧のはじまり(5)-平安時代の連歌

 
枕草子


清少納言の連歌

平安時代も10世紀になると、短歌の上の句、下の句を別々の人間が作る連歌がひんぱんに作られるようになりました。その例として、清少納言が『枕草子』第106段に書いているエピソードがあります。あらましをギャク調で紹介すると

二月末ごろ、風が吹いて雪も少し降っている日、使いがやってきて「藤原公任様からです」と懐紙を渡された。そこには
すこし春あるここちこそすれ
って書いてある。ヤベエ、七七じゃん。これ、上の句を付けろってことだよね。公任さまだけじゃなくて、ほかにも何人かその場にいて、返事を待ってるんだって。ダサイ句付けたら笑い者になっちゃうよ~、どうしよう。使いは「早く、早く」って急かすし。ぶるぶる震えながら、
空寒み花にまがへてちる雪に
と書いて返した。どうかなあ、ウケるかなあ。 

という話です。「空寒み花にまがへてちる雪にすこし春あるここちこそすれ」というのは、「寒空の中、梅の花に見間違えるように雪が降っているのを見ると、少し春が来たような気がします」という意味の歌になったわけですね。実はこれは白楽天の漢詩「三時雲冷多飛雪、二月山寒少有春」を踏まえた歌になっています。さすが~、清少納言チャンの教養すごーい、というところですが、この話の終りは次のようになっています。

あとで左兵衛督の中将さまから聞いたところによると、源俊賢宰相さまなんか、「おおぉ、彼女を内侍とするよう陛下に奏上しよう」とおっしゃってたそうなんですの。おほほ。

最後はしっかり自慢話になっています。

この話から、連歌では上句を先に作るばかりではなく、下句を出してあとから上句を考えさせる例が出てきたことがわかります。

連歌というジャンルの確立

古今和歌集に続く勅撰和歌集では、連歌が収録されるようになります。『後撰和歌集』(959頃成立)では1首、『拾遺和歌集』(1007年頃成立)では6首採録で、徐々に連歌が盛んになっていく様子がうかがえます。『拾遺和歌集』の撰者が藤原公任で、上のエピソードで清少納言に連歌を仕掛けた張本人であることからすれば、とくに彼は連歌を好んだのでしょう。ただし、前回のブログで述べたとおり、大衆レベルでは連歌的な掛け合いの歌が古代からずっと引き続き存在していた可能性があり、平安期になって急に連歌が盛り上がったのかどうかは何とも言えないところです。

次の『後拾遺和歌集』(1086年成立)には連歌は見られませんが、続く『金葉和歌集』(1126年成立)では初めて「連歌」の部立てが設けられています。このあたりで、連歌が一つのジャンルとして公式に認められたと言っていいでしょう。

では、『拾遺和歌集』の連歌を見てみましょう。

春はもえ秋はこがるゝ竈山(かまどやま)   作者不詳
霞も霧も煙(けぶり)とぞ見る        元輔

「筑前の竈山では、その名のとおり春は火が燃えるように草木が萌え、秋にはこげるように紅葉するよ」「そこでは霞も霧も煙のように見える」 上句の「春」には下句の「霞」、「秋」には「霧」、「竈」には「煙」が関連する語として対照するように作られた歌。

人心うしみつ今は頼まじよ          作者不詳(女)
夢に見ゆやとねぞ過ぎにける         良岑宗貞

「約束を信じてお待ちしていたら、丑三つ時を過ぎてしまいました。ああいやだ、もうあなた様のことはもう信じないことにします」「あなたに夢で逢えるかと思って寝てしまいましたら、子の時が過ぎていました(約束を破ったわけではありません)」上句の「うしみつ」は「丑三つ時」と「憂し見つ」をかけ、下句の「ね」は「子の時」と「寝る」をかけています。時間をキーにした付け合わせ。

流俗の色にはあらず梅花(むめのはな)    右大将実資
珍重すべき物とこそ見れ           致方の朝臣

「俗っぽい色ではないよ、この梅の花は」「大事にすべきものだと見ております」単純な歌ですが、和歌は普通やまとことばで詠まれるべきものとされており、漢語を使いません。ここではわざと「流俗」という漢語を使い、下句も「珍重」と漢語で応えたのが付けの技術であるわけです。

これらの例からわかるのは、どの歌も五七五/七七の短歌を上句、下句に分けて応答したもので、それ以上続かないということです。このように三十一音で完結する連歌を「短連歌」と呼びます。

また、付けの形としては、上句の用語と同種の用語を下句でも使うというやりかたばかりで、連句で言えば「物付」という方法に近くなっています。そのため一首としては機知を競うことが主眼で、ことば遊びの性格が強くなっていると言えるでしょう。

勅撰和歌集の誹諧歌

次に誹諧歌を見ていきましょう。『古今和歌集』の後、間を置いて『後拾遺和歌集』に21首、それからまた飛んで『千載和歌集』(1188年成立)に22首が集められています。もちろん、誹諧歌の章がない時代でも滑稽な歌が作られなかったわけではありませんし、通常の部立ての章に滑稽な歌が紛れこんでいる場合もあります。あくまで撰者の編纂方針がそうであったということです。

ここでは『千載和歌集』の誹諧歌を読んでみます。実を言うとこれらの誹諧歌はさして滑稽でもなく面白くもない感じがします。前々回のブログで、1100年ごろには誹諧歌とは何ぞやということがよくわからなくなっていたと書きましたが、どうも誹諧歌についての理解が迷走しているような気がします。

今日かくる袂に根ざせあやめ草うきは我身にありと知らずや 道因法師

「今日、五月五日の節会で掛けるこの袂に、あやめ草よ根を張りなさい、泥(うき)がわが身にはあるのだから-私は憂き身であるので」「うき」を泥と憂き身の両方にかけてシャレを言ってみましたという歌。

「秀句」という語がシャレを意味するようになりこの語がよく使われるようになったのは11~12世紀ごろで、ダジャレによる軽口が平安中期以降もてはやされたようです。そのせいか、『千載和歌集』の誹諧歌にもダジャレをベースとしたものが多いように思います。

朝露を日たけて見れば跡もなし萩のうら葉にものや問はまし 藤原為頼朝臣

「朝露を昼になってから見れば、その跡もない。どこに行ってしまったのか、萩の先っぽの葉に訊ねてみようか」どこが誹諧なのかよくわかりませんが、植物を擬人化して見たところを滑稽としたようです。前の歌もそうですが、『千載和歌集』の誹諧歌には擬人法の句が多く見られます。

人の足を抓(つ)むにて知りぬ我(わが)かたへふみをこせよと思ふなるべし 良喜法師

「説法のため高壇にのぼるときに、女から足をつねられたよ。私にお手紙ちょうだいということらしい」 僧侶に言い寄ろうとする女の好色を描いた歌で、品のない所作をなまなましく描いたところが誹諧的ということらしい。

極楽ははるけきほどと聞きしかど勤めていたる所なりけり 空也上人

空也上人の誹諧歌を一首紹介しましょう。「極楽とは遥か彼方にあるものと聞いていたが、お勤めをしている場所がまさに極楽なのですよ」誹諧どころか釈教歌のような作ですが、極楽が目の前に見えているという把握が誹諧的であるとされたらしい。どうもそのへんの区分には理解しにくいところがありますね。

2022-05-13

俳諧のはじまり(4)-連歌のみなもと

酒折宮(さかおりみや)


歌垣・嬥歌

俳諧の源流としては、一つは前回ご紹介した誹諧歌があり、もう一つは連歌があります。

連歌については、「もともと和歌というものがあって、それが応答歌に発展し、やがて上の句と下の句を別々の人が作る連歌が生まれた」というように何となく理解している人が多いのではないでしょうか。しかし私はこれは逆ではないか、唱和歌や応答歌、あるいは連歌に近いものが最初にあって、それが洗練されていったのが和歌なのではないかという考えをもっています。

古事記や日本書紀を読むと、ある日突然神様や皇室関係の人が和歌を詠んだかのように書かれていますが、それは不自然というものでしょう。もともと民衆歌謡があって、それが磨かれて和歌になったと理解したほうが納得しやすいと思います。

民衆歌謡の中でもその性質が知られているものに、歌垣があります。これは祭の日に男女が集まって、求愛の歌を交換し、既婚者未婚者を問わず自由恋愛を楽しんだというものです。東国では「嬥歌(かがい)」と言われていました。

歌を交換して愛をはぐくむというのはアジア圏で広く行われていた習慣のようで、私も以前テレビでアジア少数民族の歌垣を見たことがあります。祭に来た若者たちは、男子チームと女子チームに分かれる。男子チームが求愛の歌を歌うと、続いて女子チームがそれに答える歌を歌う、それにまた男子チームが、というように続いていくのです。日本の歌垣がこのような集団での歌の交換だったのか一対一での歌の交換だったのか今一つよくわかりませんが。

こういう場で歌われる歌は、毎回オリジナルで作られるのではなくてスタンダード・ナンバーのようなものがあったのではないか、それを歌うか、あるいは即興でパロディを加えて歌ったのではないかというのが私の想像です。そしてその歌は、和歌形式ではなくて片歌(かたうた)形式、あるいは6音や8音といった偶数音律のものだったかもしれない、とさらに空想しているのです。片歌については後ほどまた触れますが、琉球地方の琉歌は6音や8音で構成されているそうなので、あるいはそれが上代歌謡の原形だった可能性も考えられます。

さて、中国大陸から日本に漢字が伝わり、8世紀までには漢詩などの漢文学も普及するようになった。するとそれに対し、日本でも独自の文学が必要だという、文化的なナショナリズムが高まったことでしょう。そこで大衆歌謡を五七五や七七の形に整理して、政府主導で和歌というジャンルに統合しようという動きが出てきた。大宮人も和歌をさかんに詠むようになった。それらを集大成したのが『万葉集』です。

一方で大衆レベルでは引き続き応答歌の伝統は続いていたので、その影響のもとに和歌のほうでも応答歌、連歌というものが詠まれていったと、そんな感じではないかと思います。

記紀の連歌

以上の考察は私の想像で、文献的な裏付けがあるわけではありません。話半分として聞いておいてください。

では文献では連歌の起こりをどう記述しているかというと、14世紀の歌人、二条良基は『筑波問答』の中で、国生みの際に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が呼び交わしたのがそのはじめであると言っています。伊弉諾尊が「あなうれしゑやうましをとめにあひぬ」、伊弉冉尊が「あなうれしゑやうましをとこにあひぬ」と呼び合ったときのことです。

さらに歌の形での連歌が最初に詠まれたのは、記紀に記述されている日本武尊(やまとたけるのみこと)と従者の秉燭者(ひともしびと)の掛け合いであるとしています。日本武尊は、関東一円を征伐したあと、甲斐の国酒折宮にやってきた。そこで従者たちに

新治(にひはり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる
(筑波を発ってから何夜が経っただろうか)

と問いかけると、 秉燭者が

日日並べて(かがなべて)夜には九夜日には十日を
(日数を数えて、夜は9夜、昼は10日を)

と答えたというもの。連歌のことを「筑波の道」とも呼ぶのは、この故事によるものです。

酒折宮という神社は今でも遺っています。中央本線の線路に近くひっそりとたたずむ、なかなか良い社ですから、一度訪問することをお勧めします。

この応答ですが、短歌形式ではなく片歌(かたうた)形式、すなわち「五七七」形式であるところは注意に値します。(日本武尊のほうは字足らずですが)

良基は触れていませんが、古事記にはもう一つ歌の掛け合いが載っています。神武天皇が乙女たちが遊んでいるのを見て、「あの中のイスケヨリヒメと結婚したい」と言います。その命を受けた大久米命(おおくめのみこと)が媛に伝えると、媛は大久米命の眼を見て

あめつつちどりましととなど黥(さ)ける利目(とめ)
(あなたの眼はなぜアマドリ、鶺鴒(ツツ)、千鳥、頬白(マシトト)みたいに切れているの?

と言い、大久米命は

をとめに直(ただ)に遇(あ)はむと我が黥ける利目
(乙女にこの眼で直接お会いしようと、このように切れた眼をしているのです

答えています。この応答も片歌形式であることに注意が必要です(どちらも字足らずですが)。私が歌垣の歌は片歌だったのではないかと推測するのも、このように上代歌謡がしばしば片歌で記述されているからです。「五七五」や「七七」の形は完結性が高くて、大衆が詠むのはやや難しいのではないか、それに片歌のほうが掛け合いで次々に続けていきやすいリズムなのではないかということも推測の理由です。

万葉集の連歌

良基の『筑波問答』に戻ると、彼は和歌の形での最初の連歌は、さる尼と大伴の家持が合作した次の歌だとしています。

佐保川の水を塞(せ)き上げて植ゑし田を刈れる初飯(はついひ)はひとりなるべし

この歌がどういう意味が、諸説あるのですが、一つの解釈としてこれは大伴家持が尼に「アンタの娘をオレにくれ」、と言った際の歌だというものがあります。それに対して尼が最初「佐保川の水をせき止めて田を植えるように、大切に育ててきた娘であるから(アンタみたいなチャラい男にはやらない)」と言ったのを、家持が下の句を書き換えて「その田んぼの飯を最初に食べるのはオレ一人だ」と改作したのではないか、というのです。面白いですね。

2022-05-11

俳諧のはじまり(3)-古今和歌集の「誹諧歌」

 

古今和歌集


誹諧歌

前回は万葉集のユーモア歌を取り上げましたが、今回は古今和歌集(10世紀初めに編纂)巻第十九の「誹諧歌(ひかいか)」の章を読んでいきます。

「俳諧」と「誹諧」は同じなのか別物なのかというのは昔から議論があって、非常にややこしいのですが、ここでは区別せずに話を進めていきます。

この誹諧歌の章、いかにもユーモア狙いの歌もありますが、どこが笑えるのかよくわからない歌も多くあります。いったい誹諧歌とは何なのか、1100年頃にはにはよくわからなくなっていたようで、源俊頼が著した歌論書『俊頼髄脳』(1113年)には次のように書いてあります。

次に誹諧歌といへるものあり。これよく知れるものなし。又髄脳にも見えたることなし。古今についてたづぬれば、ざれごと歌といふなり。よく物いふ人の、ざれたはぶるゝが如し。

「誹諧歌についてよく知っている人はいない。奥義書の類にも見当たらない。古今集について見てみると、冗談の歌ということだ。口数の多い人がふざけて冗談を言うようなものだ」と言い、さらにこの後では「古今集の誹諧歌にはいかにもそれらしい歌があるものの、そうでもなくてきちんとした表現の歌も混じっている。何か人に知られぬ理由があるのだろうか」といぶかしがっているのです。

誹諧歌の章には公的な場所で詠まれた歌も入っていたりして、猥雑な歌を集めたわけでもないようなのですが、今日はどこが冗談なのかはっきりしている歌を読んでみましょう。

(1) ダジャレの歌

梅の花見にこそ来つれうぐひすのひとくひとくと厭ひしもをる

よみ人知らず

今ではうぐいすは「ホーホケキョ」と鳴くことになっていますが、この歌では「ひとくひとく」と鳴くことになっている。これに「人来る人来る」をひっかけて、「梅の花見に来たのだが、うぐいすめ、人が来る人が来ると言って嫌がっている」という歌です。

山吹の花色衣ぬしやたれ問へど答へずくちなしにして  素性法師

「山吹色の衣、持ち主は誰かと尋ねたけれども答えはない。くちなしの実で染めた衣だったから」というのです。 今でも、「ああ、くちなしの花が咲いている」などと言おうものなら「死人に口無し」とダジャレを言いたがる人がいるものですが、まあ同じレベルの発想ですね。

ねぎ事をさのみ聞きけん社こそ果(はて)はなげきの森となるらめ  讃岐

「(大隅国にはなげきの森という神社があると言うが)人々の願い事をたくさん聞く神社では、嘆きが木になって森をなしていることでしょう」。 「嘆き」を「投げ木」(焚きつけに使う木)にひっかけて、嘆きが森になるとシャレを言っているわけです。

(2)本来上品なことを俗っぽく言う歌

七月六日、たなばたの心を、よみける

いつしかとまたぐ心を脛にあげて天の河原を今日やわたらむ  藤原兼輔

「明日は七夕という日、彦星は早く逢いたいと心がはやり、裾をたくしあげて今日にも天の河原を渡ろうとするのだろうか」ということで、本来みやびな七夕の物語を俗っぽく実況中継風に言ってみせた歌。たくしあげすぎて変なモノまで見えたりしませんように、というような感じでしょうか。

(3)おおげさなことや突飛なことを言う歌

世の中の憂きたびごとに身を投げば深き谷こそ浅くなりなめ よみ人知らず

「世の中がつらいと思うごとに人が身投げをしていたら、遺体が積もって深い谷も浅くなることだろう」と大げさなことを言って面白がっています。

もろこしの吉野の山にこもるともをくれむと思ふ我ならなくに  左大臣

「もしあなたが、中国の吉野山に籠ってしまったとしても、後に残っていようと思う私ではないのに(どこまでもついていく)」。中国に吉野山があるわけはないのですが、そういう奇抜なことを考えてみせたという歌です。今風に言うなら、「もしあなたがニューヨークの比叡山に籠ったとしても」といった感じ。

(4)小理屈をもてあそぶ歌

思へども思はずとのみいふなればいなや思はじ思ふかひなし よみ人知らず

我を思ふ人を思はぬむくいにやわが思ふ人の我を思はぬ

あまり語釈をしても意味がない歌だと思いますので解釈はしませんが、要するに「思ひ」ということをいろいろに言いなしてことば遊びを試みたものでしょう。

巻第十「物名」の歌

古今集でも物名歌はさかんに詠まれていますが、それらは巻第十の「物名(もののな)」に集められています。

薔薇(さうび)

我はけさ初(うひ)にぞ見つる花のいろをあだなる物といふべかりけり 貫之

「薔薇」という題に対して、「さうひ」と詠みこみをしています。万葉集の時代は単純に物の名を入れるという詠み方だったの対して、古今集ではこのように文節をまたがって物名を嵌めこんでいて、手がこんでいます。 

百和香(はくわかう)

花ごとに飽かず散らしし風なればいくそばくわが憂しとかは思ふ  よみ人知らず

「百和香」というのは香の一種なのですが、その音を「ばくわが憂」と無理矢理入れてみせた歌。歌の技巧がずいぶんアクロバティックになっていますね。

中国の誹諧と日本の誹諧

前々回のブログで、中国における「滑稽」「俳諧(誹諧)」の語には日本人が「滑稽」「俳味」というようなことばから連想するような、「だじゃれ」「飄逸」「下ネタなどのエログロ」といったニュアンスは見られないということを書きましたが、古今集を見るとやはり日本の誹諧にはことば遊びの面が強く、中国のものとはかなり違う感じがします。ということは、誹諧歌というのは中国から輸入されたアイデアではなく、もともと日本には独自のユーモア歌があったのだと考えたほうが自然でしょう。紀貫之はそういう歌を集めた上で、彼には十分な漢籍の素養があったので、中国古典の「誹諧」という語を借用して章題に使ったのではないかと思います。

だじゃれとか語呂合わせの文学というのは、世界のいろいろな国・民族で見られるものですが、とりわけ日本では昔から今日までことば遊びが多用されてきています。私見ですが、これは日本語には同音異義語が多くしゃれが言いやすいということが影響しているのではないでしょうか。

だじゃれを軽蔑する人もいますが、しゃれ、語呂合わせには、詩的連想をことばの意味だけではなく音のつながりでもひろげていくという効能があるので、ある意味たいへん有力な表現手段だと思います。詩歌の創作にたずさわる人はダジャレに関心を持つべし、というのが私の考えです。

2022-05-10

俳諧のはじまり(2)-万葉集のユーモア歌

 

万葉集巻第十六の「戯咲歌」

戯咲歌、物名歌、無心所著歌

前回は中国文学における「俳諧・誹諧」の使用例について書きましたが、この語がわが国に輸入されて最初に用いられた例としては、『古今和歌集』(10世紀はじめ)の巻第十九「雑体」に収められた「誹諧歌(ひかいか)」があります。

それに先立つ源流になる和歌として『万葉集』(8世紀)巻第十六に収められたいくつかの歌があります。俳諧(誹諧)の語は使っていませんが戯咲歌(戯笑歌)」「物名歌」「無心所著歌」などと呼ばれているユーモラスな歌です。今回はそれを見ていくことにしましょう。

まずは「無心所著歌(むしんしょじゃくか)」を二首。

我妹子が額に生ふる双六の牡(ことひ)の牛の倉の上の瘡
我が背子が犢鼻(たふさき)にするつぶれ石の吉野の山に氷魚(ひを)ぞ懸(さが)れる 

前の歌は「僕の彼女の額に生えている双六盤の大きな牡牛の倉の上のできもの」
後の歌は「私の彼氏がふんどしにする丸い石の吉野山に冬の鮎がぶら下がっている」
という意味(?)ですが、何が何だかわからないですね。ダダの詩かシュルレアリスムの自動記述みたいな歌ですが、実はわざと作った「意味の通じない歌(
無心所著歌)」なのです。後の歌は舎人親王が「意味の通じない歌を作ってみせたものがいれば褒美をやろう」と言い、それに応えて安倍朝臣子祖父という者が詠んだもの。

この「無心」という概念は後に俳諧が和歌から分かれていくうえで重要なはたらきをするので、俳人ならば知っておいてよい語彙です。

次に、応答形式で相手を揶揄した歌。

寺々の女餓鬼申さく大神(おほみわ)の男餓鬼賜(たば)りてその子はらまむ             池田朝臣
仏造るま朱(そほ)足らずは水溜る池田の朝臣(あそ)が鼻の上を掘れ                    大神朝臣奥守

大神朝臣奥守という人は餓鬼さながらにガリガリに痩せていた人なのでしょう。池田朝臣はそれを嘲笑して、「寺の女餓鬼たちが大神の男餓鬼の子を孕みたいって言ってたぜ」と呼びかけます。いっぽう池田朝臣は鼻が赤かったのでしょう、それを皮肉って大神朝臣奥守は「仏像を作るのに使う朱砂が足りないんだったら、水溜まる池の田んぼこと池田朝臣の鼻を掘ってみるといいよ」と返したのでした。

続いて、大伴家持が吉田連老石麻呂という人をからかって作った二首で、「戯咲歌(ぎしょうか)」とされているものです。

石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ
痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな

「石麻呂さんに忠告いたします。夏痩せに効くという鰻をつかまえて食べなさいよ」「でも、痩せているといっても命あっての物種、鰻を取ろうとして川で溺れたりしなさんな」。石麻呂さん、痩せていたのでしょう。痩せている人はみすぼらしいとされていた、メタボ万歳の時代です。

今度は「物名歌(ぶつめいか)」です。

婆羅門(ばらもん)の作れる小田を食む烏瞼(まなぶた)腫れて幡桙(はたほこ)にをり       高宮王

「バラモン僧が作る田んぼの米を食うカラスはまぶたが腫れて仏事の幡桙の上に止まっている」という歌で、これもあまりよく意味がわかりませんが、実は「いくつかの単語を歌の中に詠みこむ」という課題をもうけて作った歌なのです。おそらく「婆羅門、小田、烏、瞼、幡桙」が与題だったのでしょう。こういう歌を「くだらない」と言って切り捨てるのは簡単なのですが、今日の俳句で「題詠(兼題、席題)」ということが行われるのは物名歌の名残りと言えなくもないので、歴史的観点からするとなかなか興味深いものがあります。

一二の目のみにはあらず五六三四(ごろくさむし)さへありにけり双六の頭(さへ)

「1や2の目だけじゃないぞ、5、6、3、4までもあったぞ、双六の骰子の目は」という、まったく馬鹿馬鹿しい歌ですが、「双六の1から6までの数字を詠んでみよ」ということで作られた物名歌です。この歌で注目すべきは、数字をカウントすることが主眼となっているという点です。以後和歌や俳諧では数字を詠み込むことがずっと伝統になっていくのですが、とくに俳句は数字をカウントすることと相性がよい形式だと言えます。

奈良七重七堂伽藍八重ざくら 松尾芭蕉
桜より松は二木を三月ごし  松尾芭蕉
鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規
ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に  高濱虚子
牡丹百二百三百門一つ    阿波野青畝
三人は二階からくる実朝忌  冬野 虹
娘三人昆蟲館の五月闇    田中裕明

こんな感じです。数字は俳句においてどういう意味を持つのかというのは大いに論じられるべきテーマだと思いますが、そのはじまりは万葉集のこのような歌にあるのですね。