これまで「俳諧のはじまり」シリーズで書ききれなかった話題について、いくつか補足的に付け加えておきたいと思います。
藤原定家の連歌
長連歌(3句以上の連歌)は12世紀前半ごろに発生したと書きましたが、12~13世紀の長連歌で完全な形で残っているものはありません。長連歌を一回限りの座興と見なす傾向があったのか、きちんと保存されることはなかったようです。
そんな中で、藤原定家が後鳥羽上皇にたてまつった「独吟百韻」が、断片的な形で一部記録されています。これは二条良基が『菟玖波集』にて2句単位で採録していったものなのですが、その中で連続する5句を分解して採録したところがあるので、元の形を一部再現できるのです。それを2句ずつ読んでみましょう。
谷深き柴の扉の霧こめて
都をこふる袖やくちなん
「谷深くに結んだ庵の扉は、霧に閉ざされている」
「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
蝉丸のような、都を追放された人のことをイメージした付けでしょう。
都をこふる袖やくちなん
霜の後夢も見はてぬ月の前
「都を恋しく思って泣き続け、袖は涙で朽ち果てるほどだ」
「かの王昭君は霜のあとでは夢も見ることができないと月の前で嘆いた」
大江朝綱が、匈奴に嫁した宮女、王昭君の故事によって成した漢詩に「胡角一声霜後夢 漢宮万里月前腸」(『和漢朗詠集』)とあることを踏まえた付句。前の付けでは追放されて谷深い草案に隠棲する人のことが描かれていましたが、この付けでは都を恋うて泣くのは、北方異民族に嫁がされた王昭君のことであると解釈しなおしています。
霜の後夢も見はてぬ月の前
むすぶちぎりの浅き世もうし
「霜が下りて冬の月が照るような夜は夢も破れがちだ」
「あなたと結んだ関係もしょせんは浅いものだった。なんと憂き世であるか」
ここでは王昭君の逸話を離れて、男女関係の冷え冷えとしたありさまを描くというように読み替えて付けを行っています。
むすぶちぎりの浅き世もうし
夕顔の花なき宿の露のまに
「人のつながりは浅いもので悲しい」
「(源氏物語の夕顔の君がみまかった後では)その宿の垣根に夕顔の花もなく、まことに露のようにはかないものである」
人生の無常を詠もうとしたもののようです。
いかがでしょうか。前に見た『拾遺和歌集』では、短連歌は語呂合わせによる機知の腕を見せることに終始していました。この定家の連歌では語呂合わせは見られず、引用を織り込みながら唯美的な世界を作り出そうという、定家の意欲がうかがえます。ただし、霧こめて⇒袖やくちなん⇒夢も見はてぬ⇒世もうし⇒露のまに、という具合に、同じような世界がえんえんと続いていて、変化というものが感じられません。連歌が平安和歌の世界を打ち破って動的な力を持つためには、やはり地下連歌の強靭なエネルギーを引き入れることが必要だったのだということが納得されます。
現存最古の長連歌
現在残っている最古の長連歌は、横浜市の金沢文庫(かなざわぶんこ)が管理する三巻の百韻連歌です。金沢文庫は北条氏の一族である北条実時が蔵書を収めた収蔵庫で、鎌倉幕府の滅亡後、収蔵品はかなり散逸しました。残った資料は近接する称名寺が管理しましたが、現在それらは神奈川県が新たに設立した「県立金沢文庫」に引き継がれています。昭和の初期、この資料から百韻連歌が見つかったのです。写経した紙の反故の裏側を使って書かれていて、それは紙が当時貴重品だったということもあるでしょうが、これら連歌がそれほど格式のあるものではない、楽しみのためのものであったことを示すでしょう。その内容は
1332年9月13日 [月は秋]の巻
1333年10月23日 [雨の名を]の巻
(年代不明)8月15日 [月の名に]の巻
といったものでした。
ではこの中から、[月は秋]の巻の表八句を紹介しましょう。
月は秋あきも名あるは今夜哉 一
霧よりいでてはるる嵐に 印
白露やむすびもあへずおちつらん 十
おきふす草のさだめなければ 本
里ならで野をやどにする旅ぞうき 一
かかるいほりは都にもにず 印
雨をきく軒のしづくはさびしくて 如
霜よりのちはあるる冬山 理
各句の下にある「一」「印」「十」「本」「如」「理」 というのは作者名の略称で、おそらくいずれも称名寺の住僧。とくに「十」は同寺の十林という僧であろうと推測されています。
読んでみていかがでしょうか。ずっと淋しげな庭や野の景色が続いていて、また「月」「霧」「白露」「雨」「霜」など天文気象を示す題材が繰り返し登場し、どうも変化に乏しいですね。連歌の技巧が磨かれていくには、まだしばらく時間がかかったようです。
ところで、連歌・連句の発句は季節を詠む、それも当季の季語を用いることを必須とするのですが、この最古の長連歌でもすでに発句で当季を詠んでいる点が注目されます。こうしたルールがのちの俳句の季語システムにつながっていくわけです。
宗祇と兼載の俳諧観
飯尾宗祇は俳諧の価値を低く見ていて、『新撰菟玖波集』にも俳諧の部を設けなかった話をすでに書きました。しかし宗祇自身が俳諧の連歌を作ることもありました。宗祇の独吟俳諧百韻という作品が江戸時代に伝わっていたことはわかっていますが、残念ながら完全な形で今日まで残っていません。しかし1660年刊の北村季吟編『新続犬筑波集』に途中の句がとぎれとぎれに記録されていますので、部分ごとに鑑賞してみましょう。
堂はあまたの多田の山寺
まんじゆうをほとけのまへにたむけおき
たれみそすくふしゃくそんやある
多田は兵庫県川西市の地名で、清和源氏発祥の地として源満仲から義家に至る五公を祀る多田神社などの寺社があります。 二句目は「満仲」と「饅頭」をかけて寺の仏に饅頭が供えられている景としました。三句目は饅頭からの連想で、「垂れ味噌を掬う杓子はあるか」と「釈尊は誰を救ってくれるのか」のダジャレを言っています。
次の三句は旅行の場面です。
いと細き手にあかゞりやわたるらん
日々にまさりて旅はたえがた
関守のこころはきびし銭はなし
女性の細い手があかぎれで痛々しい。次の句ではそれを旅している姿ととらえ、旅の間じゅうあかぎれがひどくなり耐えがたいと言ってみた。三句目は、旅が耐えがたいのは関守がきびしく通行税を取り立てるのに銭がないからだと、貧乏旅行の様子にとらえ直しました。
このような感じで、通常の連歌よりだいぶんくだけた感じですが、『竹馬狂吟集』のような下品に堕すことはないですね。ただし、酔余の座興で俳諧の連歌をやることがあって、そんな時は宗祇も下ネタの付句を出していたと、支援者で弟子でもあった三条西実隆が証言していますので、宗祇先生、そう堅物一方の人物であったわけでもなさそうです。
猪苗代兼載は宗祇の弟子ということになっていますが、もと心敬の弟子であったとされ、宗祇とは友人関係ではなかったかという説もあります。彼は『兼載雑談』という著作において、「上手の詠み手は、強い句には強く付け、幽玄の句には幽玄で付け、俳諧の句には俳諧を付けるというように、どのような場合でも行き詰ることなく対応するものだ」ということを言っており、俳諧も連歌の一要素と肯定的に見ています。また「狂句も後に上手になるための下地だと思ってやってみればよいだろう」と、むしろ試みることを勧める姿勢がうかがえます。
では兼載の独吟俳諧の作例をところどころ見てみましょう。
拍子打つ風呂の吹きてと聞くよりも
うしろをむきてせをかがめける
こがつしき流石(さすが)に道をしりぬらん
「風呂の垢すりをやる者が来たようなので、手を打ってそれを呼ぶ」「後ろを向いて背中をかがめた」と、最初の2句は風呂で背中を流させる情景ですが、3句目で「喝食(かつじき、禅寺の稚児)め、さすがに男色の道を心得て尻を突き出している」と同性愛の場面に切り替えました。宗祇よりもかなり露骨です。
しのびしのびにつまをたづぬる
さひを手に取ながらへるも口惜しや
はだかにならばさていかにせむ
「こっそりと妻のもとを訪ねる」という何かわけありげな1句目に、「サイコロを手に渡世を送るのも口惜しい」と、博打に入れあげているため奥さんのところへはこっそり戻るという解釈にした2句目。3句目では「すってんてんになったらどうしよう」と卑俗な笑いに転じています。
こころぼそくもときつくるこゑ
鶏がうつぼになるとゆめに見て
「軍が鬨の声を上げているのに、それが心細いとはこれいかに」という謎句に対し、「鶏が皮を剥がれて矢入れの靭にされちゃう夢を見たので、時をつげる声も心細いんだよ」とトンチで応じたもの。この付けは『竹馬狂吟集』にも匿名で採用されています。
戦国時代の連歌は宗祇のような芸術志向一色だったわけではなく、実際には大衆的な笑いを採り入れた俳諧も盛んに行われていたことがわかるでしょう。
さて、俳諧というジャンルが成立するまでの歴史を10回プラス1回で書いてみました。次回からは、個々の俳人の作品を時代順にこだわらず読んでいきたいと思います。