2025-04-24

連歌のルール(2)~百韻の構成、打越と去嫌とは何か

 
山田孝雄『連歌概説』(岩波書店、1937)

先日の連句の会「草門会」で、連句の先輩である山地春眠子さんから山田孝雄博士の『連句概説』を貸していただきました。連句を読解するための必読書と言われる名著で、小説家の石川淳も「連歌の方式を知るためには、山田孝雄氏の『連歌概説』を読むがよい」とお勧めしている一冊です。

今まで歯が立たなかった連歌の式目も、この本を命綱にしてようやく理解できるようになってきました。それがこのブログで式目の解説を書いてみようと思い立ったきっかけです。

式目を解読していくに先立って、連歌の常識と言うべき懐紙構成、および去嫌(さりぎらい)の考え方について説明しておきます。今回は予備知識の解説なので、式目の解説は次回からになります。連歌について十分わかっているよという方は読み飛ばしてもらって結構。

百韻の懐紙構成

連句(俳諧連歌)の場合は36句の「歌仙」が標準形式とされていますが、連歌では100句構成の「百韻」が標準とされています。以下の解説も、百韻を前提として叙述することにします。

連歌は紙を横長に折った懐紙に記入していきますが、百韻ではこれを4枚使います。最初の紙を初折(しょおり)、次は二の折、三の折と呼び、最後は名残の折(名残)と呼称します。

初折の表には8句、裏には14句、次が二表、二裏、三表、三裏、名残表と続きそれぞれ14句ずつ記入、名残裏は8句を記します。合計100句というわけです。初折表の8句をとくに「表八句」といい、その一句目を「発句」、二句目を「脇」と呼びます。

初折表、初折裏、二折表……と続く各パートが「面(おもて)」となります。百韻の場合は8・14・14・14・14・14・14・8という八面の構成になります。全体は途切れずに連続的に推移していきますが、折単位、あるいは面単位でのまとまりが意識される場合もあります。

100句の間に花を詠み、月を詠み、恋を詠んでいきます。また春・夏・秋・冬の季節を当てはめ、途中を雑(無季)の句でつないでいきます。

打越と去嫌とは何か

句を付けていくうえでいちばん重要なのは、同じ題材や表現を繰り返さないということです。その際にキーとなるのは、「打越を嫌う」という考え方。

連句でA句、B句、C句...というように付いていく場合、A句とB句はひとつの世界を作る必要がある。またB句とC句もひとつのまとまりを作る。ところがA句とC句は全然別のことを述べなければならない。AとCが似ていると、狭い表現領域をぐるぐる回ってしまうことになるからです。連歌は川の流れのように、とどまることなく進んでいかなければなりません。

後ろから見て、C句を付句、B句を前句、A句を打越と呼びます。C句においてA句と似た題材や表現を嫌うことを、「打越を嫌う」と言う。

とくに似かよった題材の場合には、二句前(打越)を嫌うだけではなく三句前(大打越)と近づくのも嫌いますし、場合によっては「同じ面で再使用してはいけない」「一巻の中で一回しか使ってはいけない」などという制約がある題材もあります。このような、繰り返しについての禁則ルールを「去嫌(さりぎらい)」と言い、連歌式目の大半は去嫌について具体的な例を示したものだと言えます。

実例で懐紙構成を確認

実際の連句に例をとって、百韻がどう構成されているかを確認してみましょう。以下に示すのは、「文和千句第一百韻」(1355)の連歌から、季節と事物区分を抜き取って進行表にしたものです。

初表初裏
11旅、人倫
22春花
3山類、水辺3
4秋月光物、夜分、山類4降物、山類
5光物、聳物5冬月光物、夜分、水辺
6降物、聳物6水辺
7降物、衣裳7水辺、鳥
8居所、衣裳8旅、人倫
9述懐、人倫
10述懐
11秋恋降物、衣裳
12秋恋夜分
13木、草
14水辺、草
二表二裏
1旅、水辺1釈教
2旅、聳物、山類2人倫
33衣裳、虫
44述懐、降物、衣裳
5春月神祇、光物、夜分、居所、衣裳5秋恋夜分
6春花木、人倫6秋月恋光物、夜分
77旅、水辺
88旅、山類
9述懐、降物9聳物
10雑恋10居所、人倫
11雑恋11述懐、人倫
12雑恋12述懐、降物
13夜分13夜分
14釈教、居所14人倫
三表三裏
1旅、山類1
2秋月光物、夜分2夜分
3光物3秋恋降物、人倫
44雑恋
5降物、草5水辺
66
7居所、木7神祇
8述懐、衣裳8雑月神祇
9雑恋夜分、人倫9神祇
10雑恋恋、鳥10山類
11旅、山類11述懐、居所
12山類12述懐、居所
13春花水辺、木13人倫
14光物、木14聳物、草
名残表
名残裏
11
2降物2述懐、人倫
33
4秋月光物、夜分、聳物4
5述懐5水辺
66釈教
77神祇、山類、水辺
8雑恋8神祇、木
9雑恋
10雑恋
11雑恋
12
13春花聳物、山類、木
14春月光物

この連歌は二条良基邸で張行(ちょうぎょう)されたもので、良基自身も加わっています。現存する連歌の中では比較的古い作品です。

「鳥、木、山類...」などと記したところは、それぞれの句で詠まれた事物を連歌の分類に沿って区分してみたものです。分類については別途説明しますので、今のところはこんなものかと思っていてください。

見ていってわかるのは、同じ事物を打越で詠むのが避けられているということです。二句続けて似た題材を詠むのはかまわないのですが、三句目はそこから離れなければなりません。一句おきに似た題材を詠むのもダメです。

ただし、三裏の7句目から9句目にかけて三句連続で神祇(神社や神に関することがら)が出てきていることに気づくでしょう。ここは例外規則があって、恋句は五句まで続けてよい、旅・神祇・釈教・述懐・山類・水辺・居所は三句まで続けてよいとされているのです。(詳しくは別の回に説明します)

月の句は、すべての面で詠む、ただし名残裏だけは詠まなくてもよいという規則になっています。上の例では8回詠まれていますね。気になるのは、三裏の8句目、「雑月」と書いておきましたが、これは「月読宮」という神社をテーマとしていて、実際の月を詠んだわけではありません。こういう場合は月を詠んだことにならないのですけれど、二条良基はどう考えていたでしょうか。

俳諧(連句)では月の座が決められていて、たとえば歌仙なら表5句目、裏8句目、名残表11句目が目安となっていますが、連歌ではそのような定座は決まっていません。それぞれの面で一回(以上)詠めばいいのです。

花の句は、すべての折で詠む。上の例では4回詠まれています。俳諧(連句)では花の座が決められていて、たとえば歌仙なら裏11句目、名残裏5句目と定まっているのですが、連歌では自由で、折のどこかで出せばよいのです。

さあ、連歌についての基礎常識については説明しましたので、次回からいよいよ「連歌新式追加並新式今案等」を読んでいきます。

2025-04-23

連歌のルール(1)~連歌論の種類と式目の歴史

連歌新式追加並新式今案等(牡丹花肖柏、1501)

今回は連歌の規則を勉強していきます。連歌や俳諧は俳句のルーツですから、これらのことも多少は知っておかないと、俳句についての考察がうすっぺらになります。

連歌と俳諧はどのようにして生まれ発展していったのかとか、連歌と連句はどう違うのかといった話は、以前に「俳諧のはじまり」というシリーズにまとめましたので、そちらをご覧ください。

連歌論の種別

鎌倉時代から室町時代にかけて書かれた連歌論にはさまざまなものがありますが、それらは大別して4種類に分かれます。

  1. 連歌故実書
  2. 連歌式目書
  3. 賦物(ふしもの)
  4. 連歌寄合集

それぞれの性格を簡単に言うと、①の故実書は「連歌の歴史、由来、作法、解釈、美意識、精神性」など連歌の本質論を語ったものです。

②の式目書は連歌で守るべき決まりを書いたルールブック。

③賦物は、発句やその他の句ではこういう字を詠みこめという縛りを定めたもの。俳句で言えば題詠とか折句の決め事に近いと言えばわかりやすいかもしれません。

④の寄合集は前句でこういう語が出たら次の句ではこういう語を使うといいよという連想を集めたもので、いわば実践的なアンチョコです。寄合集については「俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門」のシリーズで詳述しましたので、そちらを参照してください。

これらの4種の連歌論のうち、①の連歌故実書は精神的・本質的なことを語ったもので、最重要といえます。ですが②や③のようなルールブックとか、④のテクニック集についてもひととおりマスターしておかないと、①の本質論が何を言っているのかチンプンカンプンということがあるでしょう。そこで今回は②の式目論を中心に連歌の決まりを学んでみます。③の賦物論についても一章を立てて概観しましょう。

一つの連歌書の中に①~④の要素が混ざっている場合がありますので、すべての連歌書が4つに区分されるわけではありません。これらの中から②と③の要素だけを取り出して眺めてみようというわけです。

連歌式目の変遷

鎖連歌(3句以上の連歌)や長連歌(百韻連歌など句数が決まった連歌)がさかんになるのは平安時代末期の12世紀のことです。とくに後鳥羽上皇が連歌を好んだのですが、句数が増えるとそれをどう進行させるかというルールが必要になります。皆が好き勝手に付句を詠んでいくと、同じことの繰り返しになったり、変化が不足して単調になったりと、一巻のバランスが悪くなるからです。バランスを維持するためのルールが式目で、すでに後鳥羽時代(1200年前後)には何らかの式目が定められていたようです。鎌倉時代(13世紀)にはそれらを集成した「連歌本式」がまとめられました。「連歌本式」の実物は現在遺っておらず、15世紀に猪苗代兼載が復元したものが13か条だけ伝えられているのみです。

連歌が盛んになるにつれて、従来の「本式」では対応しきれない場合が増えて新しいルールが必要とされるようになりました。建治年間(1275~78)に作られたのが「建治新式」です。ほかに弘安新式、藤谷式目などと呼ばれる式目もあったとされますが、どれも遺っていないため、同一のものかまったく別の規則であるかは不明です。承久の乱や文永・弘安の役などにより社会が変動する時代に成立していったもので、世の中の動きにつれて連歌も新局面を迎えたということでしょう。

室町時代に入ってこれら式目を集大成したのが、連歌界の巨人、二条良基です。まず彼は連歌故実書であり式目書でもある「僻連抄」(1345)を執筆。さらに師匠の救済(ぐさい)の指導を仰いで改稿し、「連理秘抄」(1349)を作成しました。これらのうち式目に関する部分を抜き出して改訂したものが「応安新式」(1372)です。独立した「応安新式」自体は遺っていないのですが、のちの「連歌初学抄」(一条兼良、1452)から原形を把握することが可能になっています。

「連歌初学抄」では、一条兼良が宗砌(そうぜい)の意見を基に応安新式に加筆を加えており、これが「連歌新式今案」です。さらに牡丹花肖柏が増補・改編を加えたものが「連歌新式追加並新式今案等」(1501)。

この後も新たな式目は作られていくのですが、話が煩雑になりますので、われわれが連歌の式目を学ぶ上ではこの「連歌新式追加並新式今案等」を教科書にしていくのがわかりやすいでしょう。次回からその内容を読んでいきます。

2024-12-17

呉春(松村月渓) 美食家の絵師俳人

呉春展ポスター(大和文華館)

呉春展を観に行った

2024年10月から11月にかけて、奈良市の大和文華館で「呉春展」が開催されました。

呉春(ごしゅん、1752~1811)は蕪村から絵を学び、俳諧の座をともにした、絵師俳人でした。あくまで画業が主ですが、俳号を月渓(げっけい)と言い、それほど多くはありませんが俳諧作品を残しています。

呉春展のカタログの巻末には月渓全発句が掲載されていましたので、今回は主にこれを鑑賞してみたいと思います。国会図書館デジタルコレクションでは月渓の句集が無料で閲覧できますので、そちらで読むことも可能です。

造幣役人、絵師となる

呉春の本名は松村文蔵と言い、京都の金座年寄役だった松村匡程の息子として生まれました。金座というのは金貨を鋳造していた組織で、今で言えば造幣局といったところです。呉春自身も若いころは金座役人をしていました。

ところで「呉春」は中国風に画名を名乗ったので、「松村呉春」とは呼ばれません。俳号のほうは「松村月渓」とされていたようです。

蕪村に入門して絵を学んだのは、20歳前後ではないかと言われています。師の画風をよく学んで、俳画風の省筆が効いた絵を描いていますが、蕪村の絵が軽妙そうでありながら意外と鋭く、一気に核心を突くような筆使いを見せるのに対して、呉春の絵はゆったりと優美で、彼のまろやかな性格がうかがえます。

呉春の絵を勝手に転載するのは問題がありそうなので、代表作「白梅図屏風」は逸翁美術館のHPをご覧ください。

若き絵師、句座に参加する

月渓の句が初めて俳書に見えるのは、1773年の句会稿『耳たむし』の中で、この22歳の頃から俳諧にも傾注したと考えられます。

仏壇に雨の漏る夜や郭公(ほととぎす)      1773

ホトトギスといえば梅雨のころに鳴くものと古来相場が決まっています。その梅雨時のあばら家の様子を巧みに描いた句。

白雨(ゆふだち)のくらまぎれより鵜舟かな    1773

「くらまぎれ」とは「くらやみに紛れた場所」の意味。漕ぎ出した鵜舟が夕立に降られてしまった。木陰に入って雨を避けていたのでしょうか、そろそろ雨も止みそうなのでゆっくりと進み始める。

したしたと漁火にしみ込しぐれ哉         1774

これも雨の中の漁を描いた句。「したした」というオノマトペアがうまい。

これら三句を読むと、「さすが絵師の俳諧、描写力にすぐれている」と言いたくなるのですが、実際には月渓の句は写生的というよりも、情味が濃く季題趣味のものが多い。情味といっても品格が落ちるようなことはないのですが、蕪村の句に比べると全体にのどかな感じです。

我頭巾猫にもきせてみたる哉           1774 

猫の頬の灰も払ふやとしのくれ          1775

月渓は相当の猫好き。愛猫家には共感できる句でしょう。

蝸牛角にちからの見ゆるかな           1775 

カタツムリよがんばれ、がんばれ。なんだか西村麒麟さんの句みたい。 

しら露や力なき葉のうらおもて          1775 

露が降りるころになると葉っぱもしおれてくるというのは、理屈ぽい常識ではありますが、「力なき」とか「うらおもて」あたりのことばづかいは上手。

うら枯の表へ出たるふくべかな          1775 

葉っぱが枯れてくるとヒョウタンが目立ってきて、自己主張。 

太夫との結婚、そして悲劇

月渓が蕪村から教わったのは絵画や俳諧だけではなく、遊びもだいぶん教授してもらったようです。島原遊郭によく通ったことが伝えられています。

1778年、27歳のとき、彼は島原の太夫、雛路を妻に迎えます(俗名はる)。夫婦仲は悪くなかったようです。

ところが1781年、実家に帰るはるが乗った船が沈没、彼女が水死するという悲劇が起きました。3年ばかりで終わった夫婦生活でした。

是生滅法と翌日(あす)降る雪の響かな      1778 

「是生滅法」とは涅槃経に出てくることばで、「生命のあるものは、いつかは必ず滅びて死に至る」という意味。後年彼は

うき恋を女夫(めをと)になれば田うゑ哉     1786 

という句を作っていますが、好いた惚れたといっていっしょになっても結婚すれば一介の夫婦、二人で田植えをやっているようなものだと回想したのかもしれません。

さらにこの年の夏、父の匡程が江戸で客死しました。相次ぐ身内の死に、月渓は髪を剃って法体となり、摂津の池田(現・大阪府池田市)に転居しました。

このころの月渓は、絵師としては駆け出しで経済的に余裕がなかったように思われます。池田では、蕪村門の呉服商、川田田福の出店に居候していたとのこと。ひょっとすると父の死によって家の財政がきびしくなり、京から池田に移住せざるをえなかったのかもしれません。

池田に住んだのは6年前後にすぎないのですが、池田市はこのことを誇りに思い、郷土の芸術家として顕彰しています。池田の逸翁美術館(阪急系財団)は呉春の絵画を多数収集・収蔵しています。

蕪村の厚情と死別

1783年、月渓は灘で酒造業を営む資産家の松岡士川を訪ねました。士川は蕪村門の俳人であり、かつて同じ蕪村門の吉分大魯が大坂で不始末をしでかして追放された際には、士川を頼って灘に落ち伸びています。蕪村は月渓に推薦状を持たせます。「この月渓という男は君子であって、以前ご迷惑をおかけした大魯や月居のようなゴロツキとは人間が違います。人物は私が保証します。絵のほうは当代無双の妙手です。俳諧もとても良い句を作りますし、横笛も吹け、非常に器用です。とくに絵画の技は自分も恐れるくらいの若者です」というように、大絶賛しています。

蕪村としては、月渓が士川から絵画の注文を得て経済的にうるおうように配慮して、紹介してあげたのでしょう。

ところがこの紹介の直後、蕪村は京の自宅で病没します。月渓は蕪村宅に駆けつけ、遺品を整理し、売り立てを行って、遺族の生計のための現金化を計りました。蕪村の娘、くのは婚家で離縁されて実家に戻っていたのですが、このころ再婚の話がまとまっていました。月渓が行った売り立てによる収益は、彼女の婚資にも充当されました。月渓は蕪村の遺品整理を全面的に任されるほど信用があり、また実務処理にも長けていたことがわかります。

整理中、月渓は師の机の上に読みさしの『陶淵明詩集』を見つけました。ページの間に、短冊が挟んであり、

桐火桶無絃の琴(きん)の撫(なで)ごゝろ    [蕪村

の句が書きつけられていました。中国の古代詩人、陶淵明が、琴を弾けなかったけれども酒を飲むと絃を張らない琴を撫でて楽しんでいたという故事にちなんだ句で、この短冊を栞にして蕪村は淵明詩集を読んでいたのです。月渓は短冊に継ぎ紙をしてそこに陶淵明の肖像を描き、売り立てに加えたのでした。

この師弟合作による陶淵明像は現在逸翁美術館に収蔵されています。画像を貼るのは控えておきますが、「蕪村 月渓 陶淵明」で検索するとネット上に出ているのが見つかりますから、ぜひ探してみてください。

美食の人、月渓

蕪村死去の翌々年、月渓は

わびしさや酒麩に酔る秋ひとり          1785         

という句を作っています。句の背景はわかりませんが、師を失った悲しみを詠んだものかもしれません。酒を飲まなくても酒麩だけでよっぱらっちまったよ、という孤独を嘆いた句でしょうか。

ところでこの「酒麩(さかふ)」とは煮物で使う酒塩で煮詰めた麩だそうです。月渓は美食家として有名で、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にはならぬ」と豪語していました。とくに土筆と豆腐が好物であったと、上田秋成が書き残しています。池田時代には「一菜会」というおいしいものを食べる会を催していたといいます。掲句でも、「酒麩」とは洒落た一品を食したものですね。

作風の変化

月渓は1788年ごろには京に住居を移していたようです。蕪村門では彼は高井几董と仲よしで、師の死後も二人は親しく交わっていました。几董は誰からも愛される京都俳壇のキーパーソンでありました。

この1788年、京を焼き尽くす大火がありました。月渓も几董も焼け出されてしまいます。翌1789年には几董が急逝します。蕪村の後継者として期待されていた彼の死は、蕪村一門にとって大きな悲しみでした。

几董追悼の句として、月渓は

寝られねバ聞や霜夜の烏啼            1790        

を寄せています。蕪村、几董という敬愛する二人が世を去って、どうやら俳諧への関心が減退してしまったようで、これ以後は彼は見るべき発句を残していません。

そのころ、友人の画家、円山応挙から「あんたのように文人画ばかり描いていては、食っていけないぞ。宮家から襖絵のような大作を依頼されようと思えば、画風を変えたほうがいい」とアドバイスされます。それを受けて、月渓(呉春)の絵は応挙風の写生的な描法に転じていきます。彼の作品は人気を高め、月渓は「四条派」の祖として仰がれるようになりました。

もっとも、毒舌家の上田秋成は、応挙一派が隆盛を極めたのは狩野派の画家が下手ばかりになったからにすぎない、応挙や岸駒が画料を吊り上げたせいで絵がやたらと高くなった、月渓は応挙の真似をしたが、彼の弟子はどれも十九文だとこき下ろしています。十九文というのは、今日百円ショップがあるのと同様、当時「十九文ショップ」というのがあって安物を揃えていたので、それになぞらえて皮肉ったもの。

月渓の連句

ここで月渓が加わった蕪村一門の連句を読んでみましょう。1775~76年頃に作られたと推定される歌仙(36句)、「身の秋や」の巻です。参加者は蕪村・月渓・八文字屋自笑・川田田福・寺村百池・江森春面(のちの月居)・几董の七人となっています

身の秋やの巻

オモテ 
  1. 身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)も有(あり)  蕪村
  2.  月を払へば袖にさし入(いる)        月渓
  3. 鐙(くらあぶみ)露けく駒をすすませて    自笑
  4.  餅召さずやと声ひくめたる          田福
  5. やどり古き家名(いへな)のうれしさは    百池
  6.  暮行(くれゆく)空の雪ふりぬべく      春面

蕪村の発句は、小倉百人一首の藤原清輔「ながらへば又此のごろやしのばれむうしとみしよぞ今は恋しき」のなぞり。「もの淋しい秋になったけれども、こんなわびしい秋の宵でもいつかは『あの頃はよかった』と思う日もあるだろう」という意味。

脇句は月渓。発句が秋なので(秋は原則として3句以上続ける)、3句以内に「月」を出さなければいけないというルールがあります。憂き心をのけるように月光を払おうとしたが、光はただ袖の中に入っていくのみであったという、幽玄の句。

第三は屋外の風景に転じて、月光に照らされて輝く露の野原を、騎馬の人が進んでいく。夜に移動するとは、人目をはばかる理由があるのでしょうか。

ところでこの歌仙、後でかなり蕪村が添削した跡が残っているそうです。発句はもとは「かなしさや釣の糸吹秋の風」、脇と第三も「露霜かれて草のおとろひ」「朝の月鳳輦遠く拝むらん」でした。似ても似つかぬ訂正です。「かなしさ」とか「おとろひ」といった暗い題材で始まるのは表六句にふさわしくないと思ったのかもしれません。推敲結果を見て、弟子たちは「ひゃー、これが俺の句か」とびっくりしたことでしょう。

第四、前句で夜に人目をはばかって行くのは落武者であろうと解釈して、「従者が小声で騎馬の主に餅を勧める」と詠んだ。

第五、前句は宿屋の主人が餅を勧めている場面だと読み替えて、「昔から残る古い屋号の宿屋というのは、風情があっていいものだなあ」と旅人が賛美している図。

第六、雪が詠まれて冬の句となります。暮れていく空は今にも雪が降りそうで、その前に良い宿に到着できてよかったと安心しています。ところで、第三で「露」が出ているのにここで「雪」を詠むのは本当はルール違反。露と雪はどちらも「空から降ってくるもの」という認識でともに「降物」に分類されるため、降物は三句去り(間に三句以上挟まなければ詠めない)という規則に反します。

訂正:今日広く普及している連句・俳句季語辞典『十七季』には降物は三句去りと書いてありますが、江戸時代の俳諧指南書『貞享式海印録』では二句去りとなっています。後者に準拠すればこの付はルール違反にはならないようです。

ウラ

  1. 煙たつ竹田の辺り鴨わたる           几董
  2.  明心居士の姪や世にます           自笑
  3. 声だみて物うち語る雨の日に          月渓

裏に入ります。七句目、竹田とは現・京都市伏見区の地名。古来水田地帯として歌に詠まれ、クイナが叩く音などが聞かれたそうです。その水田地帯に鴨が渡って来た。「煙」と「雪の中」は付合(連想関係語)になります。

八句目、「明心居士」とは17世紀の俳人、松永貞徳の別号。「貞徳って昔の人だと思ってたら、まだ姪御さんが生きていて、このあいだ竹田で会っちゃったんだよ」といった感じ。

九句目、姪御さんは雨の日に、だみ声で貞徳先生のことを話して聞かせてくれたんだよ。大打越(三句前)で「雪」が詠まれているのに、また降物の雨をここで詠むのはルール違反。こういうところ、蕪村の連句はちょっと甘いですね。

訂正:上記のとおり、『貞享式海印録』では降物は二句去りなので、この付はルール違反にはならないようです。ただし降物を2回大打越で続けるというのは、展開が弱いようにも思えます。

少し飛ばして、十五句目(裏9句目)に行きましょう。

  1. 能(よき)きぬも着つ又あしききぬも着つ    百池
  2.  暮をうらみてちりがての花          田福
  3. 朧物見車のおもたくて            自笑
  4.  山なだらかに春の水音            月渓

十五句目、人生を振り返ってみると、いい服を着ていた時代も安い服を着ていた時代もあったなあ。

十六句目、いつまでも花を見ていたいのに、日が暮れてきてしまう。桜の花も散るのを惜しそうにしているよ。前句については、花見の席に着飾った人も貧しい身なりの人も混じっているという意味に読み替えています。花の定座は本来十七句目(裏11句目)ですが、前にずらした(引き上げた)形です。花の座は引き上げるのは可ですが、こぼす(後ろにずらす)のは不可とされています。

十七句目、「物見車」とは遊山のために貴人が乗る牛車のこと。花見から帰るのを惜しんで、物見の牛車も重たげにゆっくり進むことであるよ。月の定座は本来十三~十四句目(裏7~8句目)あたりですが、ここまでこぼしています。花の定座はこぼすのは不可ですが、月の定座は可とされています。現代連句でこれほど大きくこぼす例は珍しいのですが、芭蕉や蕪村はけっこう思い切ったこぼしをやっています。

十八句目、月渓はおとなしい叙景句で次へと流します。

ところで、裏の十二句の間に恋句らしいものがまったく見当たらないのは驚きです。蕪村の他の歌仙でも、裏ではっきりした恋がない例がいくつもありました。初折の裏に恋がないのを「素裏(すうら)」と言います。一巻の中で最低一度恋をやれば(名残表でやっておけば)ルール違反ではないのですけれどね。蕪村にとっては恋はそれほど重要な要素ではなかったのでしょうか。

ここからまた飛ばして、名残裏(三十一句目)を読んでみましょう。

ナウ

  1. 秋の情扇に僧の筆すさみ            自笑
  2.  越(こし)みちのくのわかれ路の酒肆     月渓
  3. 声かれて老の鶏脛(はぎ)高き         春面
  4.  なぐさめ逢(あひ)つ通夜の主従(しゆうじゆう) 百池
  5. 深く檜皮(ひはだ)の廊下斜(ななめ)也   几董
  6.  比(ころ)は弥生のやや十日過        田福

三十一句目、秋の風情に心が動いた僧侶は、心のおもむくまま扇に何かを書き付ける。

三十二句目、北陸へ行くか、奥州へ行くかの分かれ道に出た。そこに一軒の酒肆が赤提灯を掲げている。「おくのほそ道」で、芭蕉が同道してきた北枝と別れる際に「物書(かき)て扇引(ひき)さく餘波(なごり)哉」の句を書いてやったという話が出てきますが、そのエピソードからの連想で「扇→みちのく」という発想をしたのでしょう。酒肆が出てくるのは、酒と食事が好きだった月渓らしいところ。

三十三句目、年を取って声が嗄れた鶏は長い脚をしているよ。「鶏」と「憂き別れ(後朝の別れ)」が付合なので、その連想で鶏を出したか。

三十四句目、「通夜」とは葬儀とは限らず、夜通し眠らずに寺社で祈願すること。主人と従者が、「徹夜はつらいなあ」「ご苦労様です」と慰め合っている。前句を、その通夜が明けて鶏が鳴く情景ととらえた。

三十五句目は花の座。通夜が行われたのは花が咲き誇る寺社だったのだが、花を斜めに横切るように檜皮葺きの廊下が伸びている。この句はかなり蕪村が直したらしいのですが、まだちょっとゴタゴタした表現で、美しくないですね。詠んだ高井几董は大器晩成型の俳人で、このころはまだ未熟だったように見えます。

三十六句目(挙句)は田福がさらりと付けました。挙句はこのように軽妙な句が求められます。

月渓の墓

月渓は1811年、60歳で世を去ります。洛南の大通寺に埋葬されますが、同寺が荒廃したため、1889年に蕪村の墓所である洛東の金福寺に改葬されました。今でも洛東を訪れれば蕪村のものと並ぶ呉春の墓に会うことができます。


金福寺の月渓(呉春)の墓(右)
左はその弟、松村景文の墓

2024-10-18

英一蝶(暁雲) 絵師の俳諧


英一蝶像(高嵩谷筆)

風流才子、俳諧をたしなむ

このブログを書いている2024年10月、サントリー美術館で「英一蝶展 風流才子、浮き世を写す」が開催されています。

英一蝶(はなぶさ・いっちょう)は17世紀後半から18世紀にかけて活躍した絵師。いろいろな種類の絵を描いていますが、風俗を巧みに写した肉筆浮世絵師として知られており、菱川師宣の画風を学んだとされます。江戸初期の画家として非常に重要な存在で、歌川国貞も一蝶の絵に私淑していたそうです。

一蝶は芭蕉一門と親しく、「暁雲」という俳号で俳諧作品を残しています。今回の一蝶展では暁雲の句を収めた俳書が展示され、図録には井田太郎先生の解説による俳諧の解説が収められています。われわれ俳人にとって、この図録は価値がある貴重な資料ですぞ。

では井田先生の解説を参考にしながら、暁雲の発句を見ていきましょう。

青のりや浪のうづまく擦(スリ)小鉢

とろろの上に青海苔を散らして小さな擂鉢で擦っている。その渦巻く様子がまるで波の渦のようだと興じた句です。海苔の鮮やかさが生き生きと感じられる句。このような見立ての句(或るものを他になぞらえた句)は、今日では頭でこしらえた理屈にすぎないといって否定的に評価されがちです。しかし江戸時代の芸術は俳諧にしろ、浮世絵にしろ、散文にしろ、「見立ての芸術」と言えなくもない。見立てを否定すると江戸芸術の否定になってしまう面があるので、むずかしいところです。江戸文学を味わう上では、少し広い気持ちで句を読むことも必要でしょう。

うすものの羽織網うつほたる哉

夏物の薄い羽織の袖を網のようにして、螢を捕まえるよ、という句。ふうわりと広がる袖を螢が照らしている感じで、一蝶の絵の軽妙な筆遣いが目に浮かぶようです。宝井其角が編んだ蕉門初期の撰集『虚栗(みなしぐり)』に収められた句ですが、この直前には有名な「草の戸に我は蓼ふほたる哉 其角」が置かれています。其角と一蝶は非常に気が合う仲よし同士でしたが、二人の句を並べて見せたいという、其角の友を愛する心がよく出ているようです。

袖つばめ舞(まう)たり蓮の小盞(こさかづき)

同じく『虚栗』収録ですが、この句の直前に其角の「傘(からかさ)にねぐらさうやぬれ燕」が置かれています。「袖つばめ」とは燕が空を飛ぶときの袖を振るようなさまを言うそうです。「蓮の小盞」とは「蓮子盃」のことで、白居易の詩を出典とします。燕が舞う景色を肴にして小盃で酒をあおる。イキですねえ。其角の「ぬれ燕」と暁雲の「袖つばめ」、両者を並べて眺めると伊達でかっこいいですねえ。

風流才子、芭蕉と連句を詠む

英一蝶は其角だけではなく、芭蕉とも親しく交わっていました。芭蕉とともに詠んだ百韻連句が『武蔵曲(むさしぶり)』に収められていますので、一部を読んでみましょう。芭蕉が「天和調」と呼ばれる漢文体を積極的に導入していた時期の連句です。

錦どるの巻

初折表

  1. 錦どる都にうらん百(もも)つつじ       麋塒
  2.  壱花ざくら二番山吹             千春
  3. 風の愛三線(さみせん)の記を和らげて     卜尺
  4.  雨双に雷を忘るる             暁雲
  5. うつり盞(さかづき)を退(マカ)リける 其角
  6.  せんじ所の茶に月を汲(くむ)        芭蕉
  7. 霧軽く寒(さむ)や温(アツ)やの語ヲ尽ス   素堂
  8.  梧の夕(ゆふべ)子(じゅし)を抱イて  似春

発句、「京の都にはさまざまな花が錦をなして咲いているでしょうが、江戸の躑躅を持っていって売ってはいかがでしょう」と京の人千春に興じてみせた。このころ躑躅の品種改良が進んで、やがて元禄時代には躑躅の大ブームになるということが背景にあるようです。

脇句、千春は「そうですねえ、京では一番が桜、二番は山吹」と花の名前を挙げて豪華に付けてみせた。

第三、脇句で「壱・二」と来たので「三」味線を出した。「風の愛」は「風和らぐ」の傍題で春の季語。三味線の歌に春風がやさしく吹いていく。

四句目で暁雲(一蝶)の出番です。風がやがて雨を呼び、雷が鳴っているが、双六に夢中でそれにも気づかない。雷は現代では夏の季語になっていますが、当時の歳時記『増山井』では「非季詞」に分類されていて、この句も雑の扱いのようです。

五句目は其角。双六を酒の場の遊びと見て、夕方が夜へと更けてきたので酒の座を退出するとした。

六句目は芭蕉。酒の座を退出して茶の煎じどころで酔いざましの茶を飲む。茶のおもてに映った月をまるごと飲むように。

少し飛ばして、裏の後半、21句目に行きましょう。

  1. 妻恋る花の見入(みいり)タル      似春
  2.  柱杖(しゆぢやう)に蛇を切ル心春      千春
  3. 陽炎の形をさして神(しん)なしと       麋塒
  4.  紙鳶(シエン)に乗て仙界に飛(とぶ)    暁雲
  5. の代は隣の町と戦ひし            其角
  6.  ねり物高く五歩に一楼            芭蕉

21句目、桜につながれた馬(はななれごま)がさかりがついていて、魅入られたように少女がそれを眺めている。

22句目、修行僧は花馴駒の妖気を断ち切るように杖を振り上げる構え。

23句目から二折に入ります。修行僧は「陽炎などというものには実体がないのじゃ。煩悩もまた同じ」と喝破します。

24句目が暁雲です。前句で喝破したのは仙人であると見て、凧に乗って仙界に行こうとしている場面を想像しました。仙人が凧に乗って陽炎の中を飛ぶ風景って、いかにも一蝶の絵に出てきそうな画題で、彼らしい詠みぶりですね。

25句目は其角。中国の春秋時代に、凧に乗って空を飛んだ人物がいたという伝説があるので、秦の時代には凧に乗って隣町を攻撃しただろうと奇想をこらした。ドローン攻撃みたい。

26句目は芭蕉。隣町と競っていたのは、祭の山車(練り物)の高さだったのだ。五歩歩くごとに青楼が一軒あるようなにぎやかな町。其角が戦争を出したのに、それを山車の規模比べだろうとやわらげて解釈したところが、いかにも芭蕉らしい。

この先まだまだ連句は続きますが、今回はここまでにしておきましょう。

    風流才子、幕府ににらまれ、流罪となる

    一蝶と其角は実によく気が合ったようですが、二人とも当時の幕府のやり方を苦々しく見ていたらしい。時は将軍綱吉の治下で、「生類憐みの令」が出て生き物を殺生してはいけないとされた。一蝶も其角も自由人ですから、こういうウルサイ禁令には腹が立ってしかたがない。

      浅草川逍遥
    の義は山の瀬やしらぬ分(ぶん)      其角

    という句があります。これは古来、謎句とされてきた作なのですが、今泉準一によればこれは幕政への批判の句だという。浅草川というのは隅田川の浅草付近のことで、このあたりで獲られた鯉は江戸市民にとって貴重なたんぱく源でした。ところが生類憐みの令で漁獲が禁止されてしまった。「鯉の義は」というのは、「鯉の話なんだが」ということ。「山吹の瀬や」というのは、山吹色、つまり賄賂の金次第なのだよなあ、「知らぬ分」見て見ぬふりをするのは、ということ。つまり見張りの川番も賄賂さえ出せば鯉を獲らせるのだという、皮肉の句らしい。露骨に幕府を批判したりするとたいへんなことになるので、わざと謎めいた表現にしたのでしょう。

    さて、元禄11年(1698年)、47歳の一蝶は逮捕されて三宅島に流罪となります。罪状についてははっきりしないのですが、生類憐みの令に違反して釣りをしたからという説があります。しかし5年前にも一度入牢しており、どうも一蝶は幕府から「不届きな奴」と目をつけられていたようなのです。

    入牢の理由について興味がある方は、Wikipediaで「英一蝶」の項目を見ていただくといいでしょう。彼の絵画との関係で興味ぶかいのは、「朝妻舟図」の絵が綱吉と柳沢吉保を風刺しているとして幕府の逆鱗に触れたというものです。当時、吉保が自分の愛人を綱吉に差し出して出世を計ったという噂がありました。一蝶の絵は舟に乗った白拍子(遊女)を描いた絵ですが、女の頭上に「柳」の木が描いてある。柳沢吉保の女を暗示しているというわけ。意図的に風刺をしたのかどうかはわかりませんが、「朝妻舟図」は一蝶の絵の中でもあでやかで美しく、私が好きなものなので、気になる話です。

    一蝶は三宅島から其角に宛てて

    初松魚(はつがつを)カラシガナクテ涙カナ

    という句を書き送ります。三宅島では鰹は釣れるけれども、薬味の辛子が手に入らない。辛子を口にすると辛くて涙が出るけれども、三宅島では辛子が無いせいで涙するのですという句。其角はこれに答えて

    其カラシキイテ涙ノ松魚カナ

    と返信します。一蝶の身を思いやり涙を流す其角でした。

      風流才子、赦免され、芭蕉と其角をしのぶ

      三宅島に流された者は二度と戻ってこれないというのが相場でしたが、将軍綱吉が死去したことから特赦が行われ、宝永6年(1709)に一蝶は江戸に帰ってきます。其角は1707年に死去しすでにこの世の人ではありませんでした。

      一蝶は芭蕉と其角をしのぶ絵と画賛を作っています。その絵というのが箍掛職人と臼目切職人を描いたもの(箍掛臼目切図)で(画像は図録で見てください)、箍掛(タガカケ)とはタガが外れた桶や樽をもう一度締めなおし修理する仕事、臼目切(ウスメキリ)とは摩滅した碾き臼の目を刻みなおす仕事。どちらも流しの仕事で、明日をも知れぬその日暮らしという職人たちです。その絵の画賛を現代語に訳して紹介しましょう。

      昔のことは夢に似ている。夢から覚めたら覚めたでこれが現実とは言えない。ある日、其角と二人で深川の芭蕉庵を訪問したことがあった。夕べに帰る途中、二人で次のような句を作った。

      たがかけのたがたがかけて帰るらん 暁雲

      (あの箍掛職人は誰の持ち物の箍をはめて帰るところなのだろう)

      身をうすのめとおもひきる世に   其角

      (臼目を切るように「自分の身は臼の目のようにやがて消えてしまうものだ」とこの世を「思い切る」ことであるよ)

      芭蕉も其角も世を去り失せてしまったのに、自分だけが思いがけず生き残るとは、今日深川に立ってみると世の中のことは予想もできないものだなあ。

      一蝶は1724年に死去。墓は高輪の承教寺にあります。墓石には辞世の歌

      紛らはすうき世のわざのいろどりも有りとや月の薄ずみのそら

      が彫られています。

      ちなみに其角の墓があった上行寺は、当時は承教寺のすぐそばに所在した(現在は伊勢原市に移転)のですが、これは偶然でしょうか?

      承教寺の英一蝶墓