2025-06-12

連歌のルール(17)~もう一つのルール「賦物」[2]

 
歌人の系譜

承久の変で世の中が一変

承久の変(1221年)で朝廷勢力が敗北したことは、当時の世の中に衝撃を与えました。それまでは天皇(上皇)や殿上人を中心とする朝廷勢力と鎌倉幕府とは、二元的に国を統治していましたが、この事件により朝廷は幕府の権力に屈し、武士が貴族より優位に立つことがはっきりしたのです。

連歌会を催す場所も変わりました。それまで熱心に主催していた後鳥羽上皇や順徳上皇が配流となったので、当分内裏や仙洞御所で連歌会が行われることはなくなりました。九条家や西園寺家などの権門貴族の自宅が開催場所となって、藤原定家もそれらの邸宅に赴いたり、あるいは自宅で会を開いたりするようになったのです。朝廷での連歌が再開するようになるのは後嵯峨院の時代(1250年前後)になってからでした。

そんな中、定家の息子の藤原為家、孫の藤原為氏、藤原信実、二条良実、一条実経などの歌人たちが連歌の指導的な役割を担っていきます。彼らはそれぞれ自家用の連歌式目を定めていたようで、式目といっても簡単なものだったでしょうが、これが後の連歌本式へとつながっていったと思われます。

上賦下賦式/賦物のルールが固まっていく

従来の連歌を縛るルールも変化していきます。それまでの源氏国名連歌だとか、黒白連歌だとかは、制約が大きすぎて面倒ですよね。一回やったらもう飽きてしまいそうです。

そこでルールの簡約化が図られ、「上賦下賦(うわふしたふ)式」と呼ばれる賦物のシステムが固まってくるのです。

上賦とは、たとえば「賦夕何」というようにテーマが与えられます。これは「夕●」という熟語があるとして、「●」に当たる漢字を必ず入れ込むという決まりです。この場合「夕栄(ゆうばえ)」「夕星」「夕千鳥」「夕霧」等々の熟語が考えられるので、「栄」「星」「千鳥」「霧」などのうちどれかを各句に詠むことが義務付けられます。

下賦の場合は「賦何水」というような出題になります。上下が先ほどとは逆になり、「●水」の「●」に当たる漢字を入れることになります。「春水」「山水」「井水」「田水」等々の熟語から「春」「山」「井」「田」などの文字のうちどれかを詠み込みます。

賦物は2つ提示され(複式賦物)、長句で入れるもの、短句で入れるものを分けます。今のところ最も古い上賦下賦式の連歌は、1241年以前に張行されたと思われる「仁和二年書写東大寺要録の裏文書」(部分のみ存)で、賦何屋何水というテーマが与えられています。長句では「●屋」、短句では「●水」の●に当たる漢字を使うという縛りです。こういう縛りを、全百句について守っていきます。

凝り性の後鳥羽上皇がいなくなって、連歌人たちももう少し楽な賦物に変えようと思ったのでしょうか。

連歌の新しい担い手たち

承久の変以後、「地下連歌師」と呼ばれる新しい連歌人が登場します。殿上人(堂上連歌師)とは違うもっと低い身分の人たちです。中でもその中心となったのは僧侶たちでした。僧侶といっても、下級貴族から出家した人々だったのですが、中にはさらに下層出身の法師もいたようです。

彼らは後鳥羽上皇の時代から存在したのか、定家ら殿上人からの感化で連歌を始めたのか、あるいは自然発生的にこの時代に下から起こった動きなのかはよくわからないのですが、僧侶たちは寺社の桜の下で連歌会を開き、一般の人々から出句をつのったのでした。これを「花の下連歌」と呼び、もともとは神仏に連歌を奉納する宗教行事だったのではないかとも見られます。

花の下連歌の場となったのは、京の毘沙門堂、法勝寺、清水寺地主権現といった場所でした。

早い時期の花の下連歌師として、寛元~建長年間(1249~56)に活動した道生、寂忍、無生といった名の僧がいました。木藤久蔵先生は道生周辺の地下連歌師たちが文永年間(1264~1275)になって連歌本式の式目をとりまとめたのではないかと推測しています。実際、道生が式目を作成していた痕跡がありますし、花の下連歌は一般から付句を募ったので、どの句を採用するか明確な成文法を決める必要があったからではないかというのです。連歌本式は、おそらく「初折表十句、名残裏二句」の形式を前提としていたことでしょう。

2025-06-10

連歌のルール(16)~もう一つのルール「賦物」[1]


式目の解説は前回でいったん終わり。今回からは「賦物(ふしもの)」のルールについてお話しします。

賦物とは、各句に特定の語(文字)を詠み込まなければいけないという、縛りのことです。

賦物のルールは時代とともに変化しましたので、その理解のためにもう一度、連歌の歴史を振り返ってみたいと思います。平安時代から室町時代へ、連歌形式がどのように変わってきたかという物語にお付き合いください。

謎多き「連歌本式」

連歌が百韻を正式とするようになったのは、後鳥羽上皇の時代、つまり1200年ごろだっただろうと推測されています。

承久の変を経て、鎌倉時代中期に立案された式目が連歌本式です。その実物は遺っておらず、条項の一部を猪苗代兼載が復活記録しているということは第1回に述べました。兼載の記録で注目されるのは、初折表が十句であり、名残裏が六句であるとされている点です。

二条良基以降の新式での百韻懐紙構成と、兼載が記録する本式の構成では次のような違いが出ます。カッコでくくったのが懐紙単位となります。

二条良基の新式 [8・14][14・14][14・14][14・8]
兼載記録の本式 [10・14][14・14][14・14][14・6]

現存する古い百韻連歌は1320年の「鹿児島県新田神社賦何目百韻」や1332年の「鎌倉金沢称名寺阿弥陀堂百韻」でしたが、これらはすでに新式の懐紙構成で進行していました。それ以前の実例がなかったので、本式が行われていた鎌倉中期の百韻がどのようなものであったかは、断片等をもとに推測するしかありませんでした。

冷泉家での大発見

藤原定家の末裔である、京都市上京区の上冷泉家は邸内に「御文庫」と呼ばれる非公開の土蔵を有していましたが、所蔵品が1980年から順次整理公開され、その結果国宝級の貴重な古文書がつぎつぎ発見されました。藤原俊成自筆の『古来風躰抄』、藤原定家自筆の『明月記』などです。これら文書は現在、財団法人冷泉家時雨亭文庫が管理しています。

連歌の面でも大発見がありました。「承空本私家集」の紙背文書として、「永仁五年(1297)賦何木百韻」という、連歌本式に則った最古の百韻連歌がほぼ完全な形で見つかったのです。紙背文書(しはいもんじょ)とはウラガミのこと。承空本とは、僧・承空が昔の和歌を書き写した個人的な書写本ですが、その裏紙から百韻連歌が見つかったのでした。昔は紙は貴重でしたから、ウラガミも積極的に再利用されていたわけです。

この連歌は次のような懐紙構成をとっています。

承空本紙背文書 [10・14][14・16][16・14][14・2]

初折表が10句なのは兼載の記録と同じですが、以下の構成が食い違っていて、最後名残裏が2句である点が目を引きます。断定的なことは言えませんが、永仁五年賦何木百韻のフォルムこそが連歌本式を体現していたのではないか。兼載は過渡期の作品しか知らなかったのではないかという推定が可能と思われます。

本式時代の連歌が発掘されたことにより、初期百韻に関する研究が大いに進展を見せたのでした。賦物についても実態がわかってきたのです。

いろは連歌

ここで時間を巻き戻して、平安時代12世紀の連歌についてお話ししましょう。

連歌はもともと、「五七五」に「七七」を付ける、あるいは「七七」に「五七五」を付けるという2句1組の短連歌として始まったものでした。ところが「五七五」「七七」「五七五」...というように3句以上にわたって句を続けていく鎖連歌が平安末期に始められるようになりました。最古の記録として、1130年ごろに3句による連歌が作られた話が『今鏡』に記されています。

それに続く事例が『古今著聞集』に残されています。1165年頃のこと、時代としては平治の乱が終わり、後白河法皇が院政を敷いたというタイミングです。連歌の会が開かれたのですが、そこではイロハニホヘトの47文字をそれぞれ句の頭に詠み込むという縛りが決められていました。47文字ということですから、四十七韻か、あるいは少しのばして五十韻の連歌を目指したのではないかと思います。

その座で、

 うれしかるらむ千秋万歳

という句が出た。「う」で始まる短句なので、次は「ゐ」で始まる長句を詠まなければいけないのですが、付けが難しく誰も句を出せないでいた。そこへ、小侍従という女性が

ゐはこよひあすは子日(ねのひ)とかぞへつつ

という句を出したので、皆から喝采を浴びたのでした。前句は「何と嬉しいことではないか、千年万年と世が栄えることは」というもので、後句は「暦では今日は亥の日、明日は子の日、そうやって数えているうちに千年万年を経ていくのですね」とつないだわけ。「ゐ→亥の日」と発想し、暦日つながりで付けたたところがお見事。作者の小侍従は「待宵の小侍従」とのニックネームを持つ閨秀歌人でした。

あらかじめ何句詠むと決めていない場合を鎖連歌、五十韻なり百韻なり句数を決めて詠むのを長連歌と、今日区別しています。

小侍従が賞賛を受けたイロハ順の連歌を「いろは連歌」と呼んでいます。初期の鎖連歌あるいは長連歌は、こうした制約をクリアしていく言語ゲームとして行われていたようです。

後鳥羽時代の縛りのルール

後鳥羽上皇が連歌を好み、この頃に百韻を定番の形式とするようになっていったことは先に述べたとおりですが、縛りに関しても特徴的な制約が生じました。

後鳥羽時代の連歌は完全な形では見つかっていませんが、後年に二条良基が編纂した『菟玖波集』に付句が断片的に収録されているため、実態がある程度推測できます。そこに見られる趣向は次のようなものです。

  1. 源氏国名連歌(源家長が上皇に奉った独吟百韻)…長句には源氏物語の巻名を詠み込み、短句には国名(出雲、伊勢、近江など)を詠み込む
  2. 黒白連歌(藤原家隆が上皇に奉った独吟百韻)…長句には黒いもの、短句には白いものを詠み込む
  3. 三字中略四字上下略連歌(藤原定家が上皇に奉った独吟百韻)…三字中略とは三音の語のうち真ん中の一音を省いても意味をなす語を使うこと(ちぎり→ちり、となるため「ちぎり」を使える)。四字上下略とは四音の語で最初と最後の音を省いても意味をなす語を使うこと(ゆふかほ→ふか(鱶)となるため「夕顔」を使える)。長句で三字中略を詠み込み、短句で四字上下略を用いる
  4. 草木連歌(1218年4月の連歌会での百韻。上皇、定家、家隆らが参加)…長句には草を、短句には木を詠み込む)

こういうアクロバティックな言語ゲームを当時の有力な歌人たちが楽しんでいたわけです。

後鳥羽上皇は1221年に政変を企て(承久の変)、その失敗により隠岐に流されます。連歌をめぐる環境が激変し、連歌の担い手も、長連歌の進行ルールも改まっていきました。やがて連歌本式の立案ということになるのですが、続きは次回。

2025-06-09

連歌のルール(15)~同種のテーマを何句続けてよいか


島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集』
連歌について知りたいという人には、最初の一冊としてお勧めしたい本
巻末の解説がすぐれています

句数について

連歌では2句前(打越句)と類似した事物を詠んではならないことになっています。ということは、3句同じ世界を扱ってしまうと自動的に打越と重複するので、同一のテーマは2句までしか続けられないことになります。

ところが、特定のテーマに関しては3句以上続けてもかまわない、あるいは続けなければいけないという決まりがあります。それがこの「句数」と題された規定です。

春の句、秋の句、恋の句は五句まで続けてよい。春の句、秋の句は三句は続けて詠むこと。恋の句が一句で終わってしまうのは残念なことだとの意見がある。

の句、冬の句、旅、神祇、釈教、述懐(懐旧と無常はこの内に含まれる)、山類、水辺、居所は三句まで続けてよい。

春と秋は3~5句続けること、恋は2~5句続けることと決められています。ただし、一度春・秋を離れたら間に7句以上を挟まないと同じ季節には戻れませんし、恋を離れたら間に5句挟まないと次の恋は詠めません。これについては第12回で説明しました。

夏と冬は春秋に比べて情趣に乏しい季節とみなされているので、3句が上限、1句で終わりにしてもかまいません。旅、神祇、 釈教、述懐、山類、水辺、居所も同様です。述懐には次のような別規定があって

述懐(懐旧・無常)は三句続けることができる。同じ句に述懐と釈教の両方の要素が入っている場合は、釈教のほうを優先して付けること。

となっているのですが、これは必ずしも守られていなかったのではないでしょうか。たとえば「宗伊宗祇湯山両吟」(1482)の三折表には次のような付合があります。

 仏やたのむ声をしるらむ      宗祇
老いてなほくる玉のをのかずかずに  宗伊

前句は「仏さまは亡き人の声を知っているであろう。その声をもう一度聞きたいのだ」という意味で、述懐であると同時に釈教にもなります。この場合、上の規定によれば、付句として釈教のほうが優先されるはずですが、付句は「年老いて玉を繰りながら、なおも寿命を願っている」ということで、むしろ述懐のほうを優先して詠んでいます。

さて、式目の本文の解説はほぼ終了です。このあと、付則、および和漢聯句の場合の式目が続くのですが、それはいったん措いておいて、次回からは式目とは別のもう一つのルールである「賦物(ふしもの)」について、規定を見ることにします。

2025-06-08

連歌のルール(14)~個別に配慮すべきもの(後半)


『能勢朝次著作集第7巻 連歌研究』
能勢先生の著作としては『連句芸術の性格』がとくに著名だが、
連歌についてもその起源を中国の聯句にさかのぼって重要な研究をされている

「分別すべき物(個別に配慮すべきもの)」の章の続きです。

次は去嫌についての規定の補完・追記です。つまり付句、打越等で使用してはいけない/かまわない語の組み合わせの事例です。

原文を読んでいて迷ってしまうところがあります。これらの規定では、「AにB、可嫌之(これを嫌うべし)」「不可嫌之(これを嫌うべからず)」というような書きかたがしばしばされています。これはAとBが

(a) 打越に来ることを問題にしているのか
(b) 付句として並ぶことを問題にしているのか
(c) 打越でも付句でも問題なのか

がよくわからないのです。はっきり区別が書いてある場合もありますが、書いていない場合が多い。常識的に考えれば、似たような題材が並ぶことが問題とされるでしょうから(c)と理解するのが適切でしょうが、私の理解に間違いがあるかもしれないとお断りしておきます。

三句の渡りについて

連歌の去嫌の規定は前句と付句、打越と付句というように2句間の規定なのですが、打越~前句~付句の3句間の関係について述べた部分がありますので、それをまず紹介します。こうした3句間の関係を俳諧(連句)のほうでは「三句の渡り」と呼んでいます。

三句の渡りについての禁制
禁制注釈
平秋に恋の秋を付けて、その次にまた平秋を付けてはいけない平秋とは恋句ではない秋の句のこと
「朽木」という句に「杣」を付けて、その次に杣の名所を付けてはならない
生田という句に「森」を付けて、その次に森の名所を付けてはいけない。隠し題でもだめである

最初の平秋/恋の秋についての項は、秋を詠む場面に入って、恋句がはじまったらその後は秋の間じゅう恋を詠みなさいという定めです。それなら春や夏や冬はどうなんだという疑問が出ます。ところがいろいろな連歌書を見ても「平春」「平夏」等についての言及がほとんどないのです。

連載の第2回では「文和千句第一百韻」(1355)の推移表を作って紹介しましたが、ここでも恋は秋か雑のいずれかで詠まれていて、春夏冬には見ることができません。他の連歌ではたとえば恋が夏季で詠まれている場合もありましたが少数でした。どうやら連歌では秋こそが「恋の季節」であるようです。

朽木と杣の項ですが、杣の名所とは良材が採れる林業の名所ということ。実は滋賀県高島市に「朽木(くつき)」という地名(歌枕)があって、それ自体杣の名所であるわけです。

生田は現在の神戸市三宮生田神社の付近。「生田の森」は名所とされてきました。「隠し題」とは同音異義を使って別の語として詠むことで、たとえば「なげきの森」という鹿児島県の名所を「投げ木」と表現するようなケースです。そのような用い方もダメということ。

打越/付句の去嫌

去嫌については第11回で解説していますが、そこに漏れたものがここで追加されています。

打越を嫌うもの
用語嫌うもの、注釈
海士の小船の泊瀬山〈水辺〉
「海士の小船の」は「泊」の字を出すための枕詞だが、「舟」の連想によって〈水辺〉を嫌う
さかづきの光このように「月」と「光」を合わせたような表現は、月とは間に2句以上挟むこと
秋として扱う
国名国名
間に3句以上挟むこと
付句に嫌うもの
テニヲハ留めの句に対し、同じテニヲハで留まる句を付けてはいけない

テニヲハの用法については連歌の世界でいろいろ論じられているようですが、式目ではこのような記述になっています。

打越にも付句にも嫌わないもの
用語打越を嫌わないもの、注釈
日晩(ひぐらし)
時雨「時」の字
春日(名所)「春」「日」の字

こういう定めになっているとはいえ、打越にも付句にも嫌うべきである
槿(あさがほ)「朝」の字
ただしその理由については不明確という意見あり
稲妻月、日
「木」の字
真木柱、真木戸と「木」の字の間は5句以上挟むこと。良木であるからである
「川」の字
つれなき「無」の字
いさり
舟、海士など
夕ま暮「間」「真」の字
山の雫、軒の雫〈降物〉

嫌うとする考えもあるが、そのいわれははっきりしない。若年、壮年等の年代は順を追って移るものである。親と子、弓と矢を嫌うのとは異なるべきだろう
深き
遠き
浅き
近き
このように「き」で終わる対照語は多く、嫌おうとする傾向があるが、正しくない。打越だけではなく付句でも嫌わない
「何」の字「幾」の字
付句では嫌う。打越では嫌わない
さ夜、さを鹿小船、小篠などの「小」の字
付句では嫌う。打越では嫌わない

付句では嫌わない
民のかまど〈居所〉
夜の明る戸をあくる
付句には嫌う

「打越にも付句にも嫌わないもの」という表題にしましたが、原文ではどちらに嫌わないのかわかりにくいものがあります。とりあえずどちらにも嫌わないと解釈しておきました。

2025-06-07

連歌のルール(13)~個別に配慮すべきもの(前半)

 
穎原退蔵『連歌史Ⅰ』
1933年に穎原博士が京都大学で行った特殊講義「連歌史」に用いた講義ノートで
連歌研究の基礎を作り上げた名著である(『穎原退蔵著作集』第2巻所収)

今回扱うのは、「分別すべき物(個別に配慮すべきもの)」というタイトルの章です。内容は補完・追記であったり、これまでの繰り返しであったりといった感じで、いわば「補遺編」。この章は長いため、前後編に分けて説明します。

いろいろな決まりがあちらこちらバラバラに書き連ねられていてわかりにくいので、同類の条項を集めた上で説明します。

にせものの扱いについて

にせものの扱いについて
以下のとおり、にせものの扱いは一様ではない。今のところこういう扱いになっている。二つの要素が混合している場合は両方に嫌い、混合していない場合は片方は嫌わないとすべきか
用語扱い方
花の波、花の滝〈植物〉と〈水辺〉の両方で打越を嫌う
花の雲〈植物〉と〈聳物〉の両方で打越を嫌う
松風の雨、木の葉の雨〈植物〉と〈降物〉の両方で打越を嫌う
河音の雨〈水辺〉と〈降物〉の両方で打越を嫌う
月の雪、月の霜〈光物〉と〈降物〉の両方で打越を嫌う
ただし夏季を示す表現が入っている場合は降物とは見なさない
桜戸〈植物〉と〈居所〉の両方で打越を嫌う
木葉衣〈植物〉と〈衣裳〉の両方で打越を嫌う
花の雪〈植物〉に嫌い、〈降物〉に嫌わない
涙の雨〈降物〉に嫌わない
浪の雪(冬季)〈水辺〉と〈降物〉の両方で打越を嫌う
波の花〈水辺〉に嫌い〈植物〉には嫌わない
袖の露〈恋〉と〈降物〉として扱うが、涙の心がない句については恋とすべきではないという意見あり
泪の露〈降物〉との打越を嫌う
涙の時雨冬季を示す表現がある場合は〈降物〉との打越を嫌う
一巻の中で冬の時雨が詠まれた後では「涙の時雨」と詠むのを避けるべきだろうか

本当の波ではない波や本当の雨ではない雨など、いわゆる「にせもの」の扱いについての解説です。一部、にせものではないが二つの要素が混合しているものも混じっています。

「花の波」「花の滝」は花が激しく降るさまを波や滝にたとえたもの。

「花の雲」は桜が咲き連なるさまを雲にたとえたもの。

「松風の雨」は松林に風が吹き付けて立てる音を雨音にたとえたもの。

「木の葉の雨」は木の葉が落ちるさまを雨にたとえたもの。

「河音の雨」は川音を雨の音にたとえたもの。

「月の雪」「月の霜」は月光が白く照らすさまを雪や霜にたとえたもの。ただし夏季として詠まれている場合は、実際の雪や霜でないことは自明であるから、〈降物〉として扱う必要はないということでしょう。

「桜戸」は桜の木のほとりにある家のこと。

「木の葉の衣」とは仙人などが着る、木の葉や木の皮を編んで作った衣。

「花の雪」は花が散るさまを落花に見立てたもの。

「浪の雪」は波に雪が降りかかるさま。

「波の花」は波が泡立つ様子を花に見立てたもの。

体用の説の補完と、事物の分類の補完

次は「水辺体用の事」と題されていて、第6回で解説した体と用の話とダブっています。

もし「波」の句に「浦」の句を付けた場合は、その次の句では水、塩などを詠んではならない。芦、水鳥、舟、橋などを用いるのは構わない。同じ水辺でも別物だからである。

第6回の表を見ればわかるとおり、「波」は用、「浦」は体であるから、その次は水や塩のような用の語は使えない。「芦、水鳥、舟、橋」は体・用の外であるから使えるということです(第6回の表では橋について規定していませんでしたが、この表現からして、橋は水辺ではあるが体・用の外に分類されているようです)。

続いて、個別に事物の分類を詳述しています。黒字は私の注、茶色字は原文の注です。

カテゴリ用語注釈
山類
山の関第6回の表では山類の体に分類
泊瀬寺山の関に準じて山類。類似するものは皆同様
鷲嶺山類にはもとは嫌わなかったという意見もある
富士、浅間、葛城山類であり体・用の外とすべきである
非山類
岩橋、薪、爪木、猿、滝津瀬、杣人、炭焼、雪山、蓬杣
宇治河島川の中の島はおおむね非山類
木曽路、鈴鹿路小野や吉野の奥が山類ではないのに準じる
室八島山類とは嫌わない。水辺とも嫌わない
松島山類としては用いない。ただし、郡名以上でないものは山類あるいは水辺であると最近決められたという
田蓑島、三島(摂州、伊豆)
恋山句によっては名所とならない
山がつ、山鳥「山」字とは五句嫌う
すそ野山類と組み合わせなくても山裾の意味に用いる
水辺
須磨、明石上野岡は非水辺。類似するものは皆同様
杜若、菖蒲、芦、蓮、薦、閼伽結、懸樋、氷室、手洗水、都鳥、浦の関第6回の表では氷室が用と規定され、杜若、菖蒲、芦、蓮、薦、閼伽結、懸樋、手洗水、都鳥が体・用の外となっていた
浦の関には言及がないが、山の関との対比で水辺の体か?
清見寺浦の関に準じて水辺。類似するものは皆同様
非水辺難波、難波寺、志賀、篷屋(とまや)、霞網、小田返、布曝、硯水、涙川、月の氷、袖行水、たるひ、軒玉水、苗代、早苗、横川、鷺、菅
居所
用である
第6回の表では『連理秘抄』に基づき非居所としていた
床、御座
非居所
塩屋、宮居、寺、家を出、里神楽「家を出」は釈教である
都、御階、百敷、雲上、九重非居所であり、非名所である
植物
軒菖蒲、末松山、篠枕、稲筵、苔筵、蓬宿、葎宿、夕顔宿、草筵、草を苅る
鶴林植物にはもとは嫌わなかったという意見もある
非植物
草枕、柴戸、松門、杉窓、菅笠、篠庵、浮木、流木、妻木、柴取、木を伐る、しほり、芦鴨、あしたづ、竹宮竹宮は名所である
絵に描かれた草木
催馬楽のタイトルの草木
衣裳の色名としての草木
絵に描かれた草木や催馬楽のタイトルの草木は季節がある場合は季物となる
衣裳の色名はその名によっては季物となる
夜分水鶏、螢、蚊遣火、筵、枕、床(とこ)、又寝、神楽、夕闇、いさり水鶏は水辺でもある
床(ゆか)は昼である
非夜分
浮寝の鳥、心の月、鶉の床、心のやみ、其暁、夢世、常灯、明はてて、明過て、朝ぼらけ、三日月の出、有明の入、鐘のかすむ心の月は釈教
たく火、夕月夜たく火はその影を言っても夜分とはならない
非時分宵、夜のふくる、露更て
衣裳下紐、ひれ
非衣裳
帯、冠、沓、佐保姫の衣
衣々(きぬぎぬ)衣とは打越を嫌うべきという意見あり
木類躑躅、卯花
草類
神祇東遊、求子、野宮
非神祇佐保姫、龍田姫、山姫佐保姫は春、龍田姫は秋
非動物
神楽のタイトルとしての蛬(きりぎりす)秋季としては扱わず、神楽のほうを主として考える
獣類として用いられたこともあるが、別の種類であろう。孔子も「龍のことは私はわからない」と言っている
海を行く船は旅だが、句体によっては旅とすべきではない
名所国の海伊勢の海、のたぐい
非名所名神天照神、日吉神、のたぐい

泊瀬寺(長谷寺)が山の関に準じて山類、清見寺が浦の関に準じて水辺となっています。清見寺は静岡県の清見ケ関に置かれた寺だったので浦の関に準じるというのはわかりますが、奈良県の長谷寺ももともとは関所だったのでしょうか?

鷲嶺とは古代インドのマガダ国首都で、釈迦が説法した地。実際の山ではないので、天文十七年の宗巴注では山類とするのは間違いだとしています。

蓬杣(よもぎがそま)は蓬が生い茂って杣山のようになった場所。また、自分の家を謙遜して言う語。

木曽路、鈴鹿路、小野、吉野の奥は山類ではないとなっています。宗巴注によれば郡名以上の地名の場合には山類や水辺に扱わない。なぜなら郡以上の広さを持つ土地なら、山も海辺も複数あるから特定の山や海を指すことにならないということのようです。松島のほうは郡名ではないから、最近では山類として扱うべきという意見が出ていると記されていますね。

室八島は「室八島に立つ煙」という慣用的な言いかたがあって、具体的な地名として使われないので山類にはしていません。

田蓑島は大阪市佃あたりにかつてあったとされる島。三島は静岡県の三島市のほか、大阪府高槻市南西部の歌枕でもあります。

恋山(こひのやま)は「積る恋の思いを高い山にたとえた」ものなので非山類ですが、山形県の湯殿山を「恋山」とも呼ぶ場合があるとのことなので、その場合は山類。

須磨、明石は源氏物語に登場する重要な海辺の地名で、郡名ではありますが水辺としています。上野岡とは、明石入道が娘の明石の君を住まわせていた「岡辺の宿」のことを指すのではないかと思いますが、岡と言ってしまったらもう水辺にはならない。

難波、志賀は海・湖のほとりではあるけれども、郡名以上の地名であるし、古都としての印象が強いので水辺とはなりません。難波寺は四天王寺のこと。

涙川は涙がどっと流れること。水辺ではありませんが、伊勢に涙川という歌枕がありますのでその場合は水辺。

月の氷は澄んで氷のように見える月のこと。

簾は第6回の表では『連理秘抄』を参照して非居所にしておきましたが、こちらでは居所の用に分類されています。

鶴林とは釈迦が亡くなった場所のこと。

竹宮は多気宮。伊勢国多気にあった斎宮の宮殿のこと。

東遊(あずまあそび)は東国発祥の神事舞、求子はそこで歌われる歌曲の一つ。

四季の詞

次は春夏秋冬の季節ごとの用語です。今日の季寄せのような感じですが、すべての季語を網羅的に挙げているわけではなく、とくに迷いそうなものだけを取り上げて区分を示したものです。

四季の事物
季節事物注釈
遅桜、松花、荻焼原、氷のひま、荒玉年、あがためし、あらればしり、心の花、白尾鷹、継尾鷹、菜摘、水のぬるむ
鳥巣水辺の巣は夏
鶴の巣は雑
雉子(きぎす)、きじ狩場の雉は冬
春日祭、南祭、須磨の御祓春日祭は正式には春秋2回
南祭とは石清水の臨時祭
須磨の御祓は上巳の日に行う
桜鯛、桜貝名前にちなんで春とすべきという意見あり
桜人、桜田〈植物〉でもある
神祭、榊取、毛をかふる鷹、毛をかふる鳥、鳥屋鷹、平野祭、鶯(時鳥と結びつけて言った場合)
杜若、牡丹杜若と牡丹は春の歌題とする場合があるが、実際の咲く様子から夏とする
若鮎は春、さびあゆは秋
清水結ぶ単なる「清水」あるいは「水を結ぶ」は雑
若葉春という説と夏という説の両方あり。花と結びついた場合は春とする。夏が必要な場合は夏とすべきという意見あり
ねらひがり獣のことである
日晩(ひぐらし)、稲妻、鳩吹、楸、桐、裏枯、蔦、芭蕉、忍草、穂屋つくる、初鳥狩、鳥屋出、小鷹狩、萱、枯野の露、草枯に花残る、初嵐、露霜、露時雨、つかさめし、相撲、千鳥(雁と結びつけて言った場合)、夜寒、身にしむ、初塩、色鳥
鶉衣鶉衣は非動物
放生〈神祇〉でもある
星月夜「月」という字と5句以上挟むこと
秋去衣(あきさりごろも)、願糸七夕の題材
鵙草茎(もずのくさぐき)鵙草茎は植物
扇を置秋にするかどうかは句による
物によっては秋とすべきではないとする説もあるが、どうしても秋としたい場合に強いて用いた例がある
紅葉の橋天の川に架かる橋であるから〈植物〉とはしないが、句によっては〈植物〉との打越を嫌う
思草〈植物〉でもある
忍摺〈植物〉ではない
淡雪、泪の時雨、庭火、木葉衣、紅葉散て物をそむる、北祭、豊明節会、小忌衣、日蔭糸、年内立春北祭は賀茂の臨時祭
豊明節会は夜分ではない
小忌衣と日蔭糸は神祇
椿、柏、蓬、浅茅、忘草、蜻蛉(かげろふ)、鷗、鳰、鳰浮巣、野遊、詞(ことば)の花
松緑緑立、若みどりは春
志賀山越春とする説があるが、近年では春とはしない
あたたかなる「日が暖かい」のは春という意見あり
かすむる(掠むる)ことばのつながりによって霞への連想がある場合は〈聳物〉を嫌うべきであろうか。霞への暗示を含む場合は春季
須磨の長雨夏ともされたが、理由が不明のため雑とする
恋草〈植物〉ではない
頭雪、眉の霜〈降物〉ではない

今日の区分とはかなり異なるところがあります。

いろいろ注釈を加えたいところですが、数が多すぎてきりがありませんので今回は見送らせていただきます。

中で目を引くのは椿が「雑」とされている点です。これは明確に椿の花を詠まないと春にはならない、単なる樹木名の場合は雑ということではないかと思います。

補遺編、次回に続きます。