2025-06-21

連歌のルール(22)~和漢聯句のルール[2]

松尾芭蕉と山口素堂による和漢歌仙「破風口に」の巻(1692年)
『古典俳文学大系 第5巻 芭蕉集』より

和漢篇を読む

前回は和漢聯句とは何かをご説明しましたので、今回はその式目である連歌新式「和漢篇」を読んでみましょう。これも一条兼良/宗砌編の『連歌初心抄』から転用されたものです。

  1. おおよそのルールは連歌の式目を適用すべきである。

  1. 和漢ともに最長で連続五句までとする。ただし、漢の部分で対句を構成している場合には六句に及んでも可とする。

漢詩の部分を対句構成にしている場合は、奇数だと対句になりませんから六句までは認めるということですね。ただし能勢朝次先生によれば、漢句が五句まで連続することはまれであったということです。 

  1. 景物や草木などの使用回数制限は、連歌の定めを和漢を通じて適用する。ただし、雨・嵐・昔・古・暁・老などの類は、和と漢でそれぞれ使用することができる。

ここは一座一句物~一座五句物のことを言っています。一座二句物だったら、和と漢通じて2回しか使えないということです。ただし「雨・嵐・昔・古」等の一座一句物は、和と漢で一回ずつ使えるとしています。「暁・老」は二句物ですが、二句使えるのは特殊なケースだけなので、これも一句物に準ずるとしています。 

    1. 同季は七句を隔てる必要がある。同字並びに恋・述懐等は五句を隔てる必要がある。これらは連歌式目と同じ。ただし、それ以外の七句隔て物は五句隔てでよい(月と月などの類)。五句隔て物は三句隔てでよい(山類と山類、水辺と水辺、木類と木類といった類である。ただし、日と日、風と風といった場合は同字の定めが優先されるので五句隔てである)。三句隔ては二句隔てでよい。打越を嫌うものについては連歌式目に同じ。

    句去りについてのルールですが、連歌式目よりも規制をゆるめています。土芳が「和漢聯句の法式がおおよそ俳諧の法式となった」と言っているのはこのへんのことを指していると思います(俳諧のルールは連歌よりもゆるやか)。

    1. 山類・水辺・居所等における「体」と「有」の区別はこれを適用しない。

    「体」と「用」の区分は連歌においても難しいのですが、まして和漢聯句では適用困難なので、使用しないことになっています。

    1. さまざまな物の異名については、その本体によって季を定める。ただし使用数については本体とは別に数える。たとえば「金烏」は日のこと、「銀竹」は雨のこと、「金衣」は鶯のこと、「烏衣」は燕のこと、「霜蹄」は馬のこと、「鯨」は鐘のことといったたぐいである。連歌における異名の扱いの例に従うこと。

     この項については能勢先生が非常にわかりやすく解説されていますので、そのまま引用します。

    この条は、漢句において特に多くあらわれる異名のものについての注意である。連歌であれば鶯とか燕とか雨とかいう語そのままに用いるのであるが、漢詩文ではそうした普通の名称の他に、金衣とか鳥衣とか銀竹とかいう語を用いる例が多い。必ずしも酒落た名称を好むということばかりでなく、平仄の関係から、こうした使用をしなくてはならない場合もあるのである。それで、そうした異名を用いる場合には、式目の上からいかにこれを扱うかということを述べたのである。そして、(一)異名の季はその本体の季に準ずる。例えば金衣は春のごときである。(二)異名を用いて作ったものは、その数においては本体の数の中には加えないというのである」

    1. 漢句における季節その他の区分について
    カテゴリ用語注釈
    暖、淑気、焼痕、踏青、芳草 など
    花の意味が含まれている場合
    同上
    新緑 霖 暑 炎熱 など
    草木の茂りを意味する場合
    清和四月
    初涼、新涼、冷爽、金気、黄落など
    臘、探梅、春信、守歳 など
    草木の枯を言う場合。枯枝を薪として拾うのである
    書信を意味する場合
    家に招く客の場合は除く
    一葉身舟を言う場合
    「帰」の字、漂泊 など
    「錦」の字、御溝葉、私語 など
    人倫人名姓は人倫とはならない。ただし場合にもよる
    述懐
    名利、浮跡、出所 など
    世を意味する場合
    水辺一糸釣糸を意味する場合
    釈教禅、定、錫 など

     和歌や連歌では原則として漢語(音読みの語)は使いません。漢句の場合はもちろん漢語を使用するので、季節や部立の分類も和句とは別にみる必要があるわけです。

    さて、今回で式目の解説は終了です。次回は最終回、参考文献や目次を掲載する予定です。

    2025-06-20

    連歌のルール(21)~和漢聯句のルール[1]


    18世紀の俳人、横井也有(蘿隠)が友人の堀田六林(未足)と詠んだ漢和聯句
    也有は漢和聯句を復興する試みを数編残した
    横井也有全集 第三巻』より)

    連歌新式には最後に「和漢篇」という一章が付属しています。和漢聯句の式目を定めたものです。和漢聯句とは和文の句と漢詩の句を混ぜて作る連歌です。のちに俳諧(連句)の式目は和漢篇からの影響を大きく受ける(服部土芳の『三冊子』にその指摘あり)ので、連句人にとってはこちらも重要です。読んでみましょう。

    和漢聯句とは何か

    聯句は中国で行われた形式で、複数の作者が漢詩を共同制作するものです。日本にも輸入されて、平安時代には聯句の会があり、藤原公任や藤原斉信などがこの詩形を試みていました。

    やがて鎌倉時代になって、文永(1264~75)の頃から、日本語の句と漢文の詩を混ぜ合わせる和漢聯句が始まりました。日本語から始まる場合は和漢聯句、漢文から始まる場合は漢和聯句と称します。

    和漢聯句については、能勢朝次先生の「聯句と連歌」(『能勢朝次著作集 第七巻』所収)にわかりやすい解説が収められていますので、それを参考にします。まずは実作品の例として、「後小松院御独吟和漢聯句」(1394年)を読んでみましょう。後小松天皇が一人で詠んだ百韻聯句で、これも能勢先生の著書からの引用です。

    和漢聯句の場合、百韻なら百句、五十韻なら五十句で構成されるのですが、和と漢の比率が定まっているわけではなさそうです。全部読むのはたいへんなので、初折表のみにしておきましょう。

    ちる雪の花にいとはぬ嵐哉(冬)
      歳寒梅独歳寒うして梅ひとりかんばし(冬)
      北窓晨呵筆北窓あしたに筆を呵し
      南陌暁霑南陌(なんばく)裳をうるおす
    霧薄き外山の月に旅だちて(秋月)
     秋かぜ遠く分る草むら(秋)
      断続乱蛩響断続して乱蛩(らんきょう)響き(秋)
      去来飛鳥去来して飛鳥忙はし

    全体の構成ですが、まず「和」の部分は奇数番目に来た場合は長句(五七五)、偶数番目に来た場合は短句(七七)で詠むことになっています。「漢」のほうは、一行五字(五言)で詠み、偶数番目に来た場合には脚韻を踏む(赤字で韻を示しています)という形になっています。季の配置規則は連歌に準じているようです。

    ちる雪の花にいとはぬ嵐哉
      歳寒梅独芳

    「この嵐、吹きすさぶ雪も落花だと思えば厭わしくはない」「寒い歳末になったが、 梅だけはかぐわしく咲いている

      北窓晨呵筆
      南陌暁霑裳

    「そんな寒い朝、北窓に向かい筆先を息で温める」「南の街路では明け方の露が人の裳裾を濡らしている」ここは対句になっています。

    霧薄き外山の月に旅だちて
     秋かぜ遠く分る草むら

    「前句で裳裾を濡らしていたのは旅人なのであろう。うっすらと霧がかかる外山に月が残る暁に旅立つのだ」「旅人の眼前の草むらを、秋風が遠くまで吹き分けていく」

      断続乱蛩響
      去来飛鳥忙

    「秋風の草むらではコオロギが断続的に乱れ鳴きする声が響く」「空では飛ぶ鳥が行ったり来たりして忙しい」ここも対句になっています。

    和→漢、漢→和とつながるところでは、前句のムードを引き継ぐことを重視していますが、漢(奇数)→漢(偶数)の個所は対句技法を使って対比的に作っていますね。

    和漢聯句とはこんなものだ、と理解していただいたところで、次回は和漢聯句の式目を見ていきます。

    2025-06-19

    連歌のルール(20)~「連歌初学抄」からの付則

     
    一条兼良の花押

    「連歌新式」の式目の後には、「連歌初学抄」という一章が設けられていて、一条兼良/宗砌編の同名の書からいくつかの条目が引用されています。賦物に関する決まりその他です。これも参考になる規定ですから、現代語に訳してみましょう。


    賦物に関する条項

    鎌倉時代には、賦物は題と考えられていた。百韻なり五十韻なりのすべての句にその賦物が適用された。近年は発句のみ賦物を課すことになっている。脇句以下の句ではまったくこれを取らない。今となっては何の意味もないようなものであるが、昔の習わしを忘れないようにしているのみである。

    発句に賦物を取るにあたっては、二通りの解釈ができるような取り方をすべきではない。たとえば、「賦何人」に対して発句で「山桜」を詠むべきではない。「山人」として取ったのか「桜人」として取ったのか、どちらとも解されてしまうからである。三通りの解釈ができてしまう取り方もだめである。

    最初の段落は、前回までに解説した賦物の歴史の話です。

    次の段落は読んでいただければわかる内容でしょう。

    一字露顕の賦物はとくに面白みがあるため、近年でも百韻連歌のすべての句にこれを適用する。二字反音、三字中略、四字上下略に関しては、千句連歌の発句にのみ採用する場合がある。 

    一字露顕だけは全百句に適用するとなっています。しかし実際には、室町時代後半にはそのようなことはなくなっていたようです。

    二字反音、三字中略、四字上下略については、通常の百韻連歌ではもう採用されないけれども、千句連歌の際には変化をつけるために途中の百韻で設定されることがあるとしています。

    鎌倉時代には、賦物の字は百韻の間に使用することはできないとなっていた。南北朝時代には面八句(おもてはっく)の間は使用してはならないとされていた。近年ではその決まりがなくなっているのはいささか残念である。それでも、最近でも第三句までは賦物の字に配慮すべきだとの意見もある。

    鎌倉時代までは、賦物が「山何」 だったら百韻の間じゅう「山」の字は使えなかった。それが初折表八句の間は使えないということに短縮され、今ではそのタブーすらなくなったということです。ただし編者は、第三までは配慮するべきだと考えていたようです。

    発句と脇句で使った字

    同字は五句嫌う決まりにはなっているが、発句と脇句で使用した漢字および物名に限っては、面八句ではたとえ五句を挟んだとしてもこれを使えない。 

    物名については第3回で触れましたが、要するに形式名詞以外の、実質のある名詞と思ってよいでしょう。発句と脇句で使用した漢字と名詞は、初折表では使えないということです。

    面十句(おもてじゅっく)

    一の懐紙の裏二句目までは、恋・述懐・名所などを詠んではならない。 

    初折裏の最初の二句目まで、つまり発句から十句の間の決まりについて語られています。この最初の十句を面十句と呼びます。これは連歌本式で初折表が十句だったことの名残りとされます。

    恋・述懐・名所に限らず、神祇・釈教も面十句では嫌われたようです。面十句は「序・破・急」の構成で言えば「序」に当たるので、あまり激しい題材は扱わないほうがよろしいという考えでしょう。

    2025-06-18

    連歌のルール(19)~もう一つのルール「賦物」[4]

     
    古典文庫が刊行した全8巻の『千句連歌集』
    さまざまな賦物の実例を参照することができる

    定型化された賦物

    前回書いたとおり、上賦下賦方式と呼ばれる賦物の形式は室町時代には形骸化し、発句だけに適用されるようになり、使用される賦物も固定化されていきます。

    三条西実隆と牡丹花肖柏の編と伝えられる賦物篇には、連歌に使うことができる賦物が網羅されています。これを見れば賦物の全体像が一望できますので、紹介しましょう。

    まず上賦下賦の賦物です。表の左の列が課される賦物、右の列はその場合に使用可能な文字です。(漢字の新字と旧字は統一できていません)

    賦物「何」に該当する文字
    山何石 林 原 鳥 鵑 路(ミチまたはヂ) 主
    出 入 蕨 風 隠 河 陰 垣 田 橘
    椿 梨 卯木 井 雲 草 下 澤 木 松
    守 眉 藍 嵐 櫻 里 霧 雉 岸 
    衣(キヌ) 北 雪 百合 回(メクリ) 水
    柴 人 姫 女 口 蟬 關 菅 手 鳩
    畑 鬘 裹(ツト) 榊 木綿 祭 烟 寺
    彥 梅 露 霞 心 鷹裹 聲(鷹鈴) 越
    錦 使
    何路(ミチまたはヂ)家 今 古 市 石 細 通 夢 西 苔
    下 船 遠 山 浦 隱 狩 夜 浪 水
    旅 宮 空 雲 雲居 別 作 長 中 驛
    海 河 野 車 闇 濱 二 天 朝 夕
    東(アツマまたはヒガシ) 關 坂 岸 田
    都 湊 神 谷 目 鹽 戀 冰 陰 馳
    何木帚 錦 常盤 歳 千 唐 笠 瓦 立 古
    玉 染 見馴 磯馴(ソナレ) 杣 枝 杖
    流 埋 萠 盤 櫻 梅ノ 花ノ 匂 並
    栽 浮 沈 老 若 黑 白(シラ) 赤 朽
    爪 山 宿 枕 松 冬 船 日 二 一
    百 本 名 節 琴 弓 鹽 副 御 輪
    谷 庭
    何人家 市 里 古(イニシヘまたはフル) 稲
    浦 宮 花 贄 殿 庭 船 嶋 千
    千早(チハヤ) 遠方 老 若 友 神 唐
    貌(カタチ) 狩 通 桂 田 旅 民 鷹
    山 杣 染 空 月 都 名 使
    官(ミヤツカヘ) 釣 常 中 網 網代 樵
    村 本津 昔 歌 舞 現 鸕(ウ)飼 江
    翁 田舎 衰 思 雲ノ上 上 心 天
    天津 道行 下(シモ) 諸 外 遠津 鄰
    夢 東 便 宿 政 文 木 氏 櫻 遠近
    捨 白 礒馴(ソナレ) 苗
    何船春 夏 秋 冬 魚 筏 出 入 稲 板
    石 磐 初 早 鳩 荷 帆 泊 小(ヲ)
    鳥 御 友 千 
    度(ワタシまたはワタリ、渡) 唐 桂 河
    夜 朝 夕 柴 片破 妻迎 馬 浮
    鸕(ウ) 浦 篗(ウツホ) 草
    興津(沖津) 上リ 下リ 枝 車 屋形 松
    蒹ノ葉 水 百 捨 橋 島 引
    木(コノ)葉 御調 諸越 鈴 杉 釣 市
    湊 向 海
    朝何市 機 匂 庭 戶 狀 鳥 渡 風 東風
    嵐 景 髮 霞 顏 鏡 河 狩
    槲(カシハ) 烏 陰 露 霧 霜 
    月日(ツクヒ) 雲 日 涼 鳴 菜 柴 起
    艸 船 凝(コリ) 冰 水 聲 手 道 出
    湿(シメリ) 羽 寢 汐
    夕何榮 庭 星 泊 千鳥 渡 霞 顏 風 景
    狩 嵐 河 月 日 附日 月夜 露 浪
    汐 詠 雲 草 紅 暮 闇 山 烟 舟
    凝 冰 聲 手 求食 霧 道 水 霜
    時雨 凉 立 躑躅
    花何色 蓮 風 笠 籠(カタミまたはカコ) 陰
    鬘 橘 染 妻 男 女 波 染 野 心
    藍 樓 盛 見 人 摺 薄 筏 垣 瓶
    園 山 袋 衣 下 重
    花之何春 林 色 錦 匂 所 友 時 枢 庭
    契 面 奥 別 陰 鏡 香 鬘 插頭 顏
    記念 袂 袖 露 莚 埋木 雲
    匣(クシケ) 山 宿(ヤドまたはヤドリ)
    淵 故郷 杪 木立 心 木(コノ)間 衣
    枝 主 盛 木 雪 都 下(シタ) 本 紐
    白雲 白雪 白波 瀧 雫 茵(シトネ) 光
    姿 下紐 波
    唐何絲 櫓 花 橋 機 萩 錦 鳥 泊 神
    鏡 笠 垣 蓬 竹 玉 鼓 名 梨 撫子
    薺 梅 桃 筵 紫 紅 國 艸 櫛 匣
    車 松 筆 墨 文 琴 紙 衣(コロモ)
    綾 絹 藍 葵 木 繪 人 菊 枕 船
    聲 菱
    靑何色 絲 稻 石 羽 葉 花 袴 摺 田
    竹 橘 玉 鷹 椿 浪 苗 菜 梅 馬
    麥 海 野 雲 草 山 柳 淵 駒 木立
    綠 柴 蝦手 紅葉 鶴 鷺
    六月(ミナヅキ)
    白(シラまたはシロ)何絲 石 羽 花 萩 鳥 縫 髪
    重(ガサネ) 玉 玉椿 鶴 杖 躑躅 浪
    雪 雲 眞弓 菅 鷺 木 菊 木綿 尾
    布 橿
    手(テまたはタ)何色 絲 石 板 風 玉 染 車 文 心
    水 引 枕 習 縄 松
    下何匂 色 葉 萩 帶 蕨 風 陰 枯 染
    露 躑躅 荻 思 艸 焦 心 衣 枝 消
    水 道 綠 亂 柴 繪 樋 紐 萠 裳
    木 凉 折 根 聲 紅葉 並 萠木
    初何花 櫻 色 市 春 秋 冬 鴈 鵑 鶯
    紅葉 子ノ日 齋(イモヒ) 萩 穗
    鳥(ト)狩 蕨 若菜 若水 風 夜 田
    空 卯ノ花 艸 露 時雨 霜 嵐 手枕
    染 手 苗 雪 烟 舟 霧 夢 入(シホ)
    物 尾花 山藍 夏 鷹
    御何池 階 柱 贄 戶 年 幣(ヌサ) 顏 狩
    影 神 門 垣 笠 代 田 民 鷹 苑
    衣(ソまたはケシ) 袖 空 綱 杖 津 名
    渡 歌 井 法 國 寺 山 社 祭 舟
    琴 心 手 主 榊 木 注連 火 裳 物
    片何山 袴 帆 破 返リ 寄リ 便 結 鶉
    下(オロシ) 時 戶 岡 思 田舍 眉 舞
    心 祭 戀 手 嵐 岸 亂 敷 時雨 雨
    薄何色 板 縹(ハナダ) 花 機 匂 霞 霧
    霜 雪 雲 曇 烟 冰 染 紫 紅 靑
    綠 朽葉 山吹 衣(ゴロモまたはギヌ)
    萠木 紅葉 墨 物
    何風春 秋 冬 家 初 羽 葉 早 西 北
    南 東 東風 帆 神 時津 天津 雨 山
    河 夜 谷 上(ウハ) 下 夕 朝 浦 濱
    野 荻 興津 松 手 湊 島 關 道 鹽
    板間 裏
    何水春 夏 秋 冬 山 河 谷 磐 絲 花
    石 井 若 下 田 玉 流 雲 雨 冰
    手 朝 夕 澤 沼 池 雪 瀬 關 忘
    埋 立 伏(フシ)
    何屋板 石 磐 廬 市 放 穂 田 萱 瓦
    鳥 蟲 蒸 蒹 馬 車 長 松 草 竹
    東 篠 御 柴 關 濱 礒 杉 苔 鹽
    旅 水 鹿火 蓬 妻
    何所出 入 絲 置 田 立 朝 宮 繪 涼
    宿直
    何田山 春 夏 秋 冬 石 池 小(ヲ) 初
    濱 湊 遠 岡 門 神 澤 席 野 古
    靑 櫻 御 水 忍 刈 荒 心
    何草春 夏 秋 冬 入(イリまたはイレ) 礒
    初 葉 祓 庭 新(ニヒ) 千 茅 若 唐
    陰 一夜 百夜 百 鏡 插頭 田 記念
    手 手向 露 月 下 七 村 埋 浮 野
    翁 思 戀 山 二葉 靑 朝 夕 水 御
    芝 富(トミ) 教(鷹狩) 落(鷹狩) 壁
    蔭(ヒカゲ) 葵
    何馬板 早 友 老 若 竹 夏 冬 靑 木
    白 繪 放 母(ハハ) 初 御 餝 兔
    移(ウツシ) 野 上(ノボリ)
    競(キソヒまたはクラベ) 引 毛 牧
    何手衣 旗 麻 織 片 綱 染 上 御 蛛
    山 朝 蒹 百 蕨 柏 松
    何心花 片 世 現 下 戀 人 野
    山(鷹ニアリ)
    何衣色 彩(イロドリ) 香 羽 葉 花 染 摺
    狩 初入 織 五百機 毛 唐 艸 旅 玉
    小(サ)夜 夏 秋 冬 薄 卯ノ花 斑
    古(フル) 苔 露 分 山分 海 麻
    著(キ)馴 蓑代 緑 白 白妙 下 單
    涼 布 鶉 墨 鹽 雨
    何文石 稲 内 外 鳥 年 門 唐 夜 田
    立 便 昔 古(フル) 結 大和 忍 筥
    本 手
    何物初 置 注(シルシ) 宿直 織 唐 染 作
    餝(カザリ) 御貢 檜 御衣 國津 取 木
    何鳥初 放チ 庭 千 唐 山 水 夜 田 寢
    鳴(ナイ) 浮 野 雲 花 朝 都
    白(シラまたはシロ) 菅 色 島 嶋津
    渚(ス)
    何色櫻 柳 山吹 梔子 木 絲 石 五 初
    花 縹(ハナダ) 櫨 常盤 金 光 榮 枯
    羽 葉 染 上 下 薄 萠木 紅 紫 二
    一 聲 淺 水 草 今樣 白 火 雀 暮
    墨 苗 靑 橘 山鳩 日 綠 制
    何世神 君 千 御 萬 浮 三 七 一 常
    何袋花 風 麻(ヌサ) 匂 笠 手 尾 弓
    何垣花 松 艸 竹 梅 苗代 八重 一重
    妻(ツマ) 蒹(アシ) 磐(イハ) 神 玉
    中 袖 高 篠 柴 園 ヒメ マセ
    千何木 人 鳥 代 年 草 舟 町 島 里
    入(シホ) 重 度 夜 機 秋
    枝(エまたはエタ) 聲
    玉何雹 橋 江 嶋 河 井 水 垣 裳 鬘
    木 楊 松 椿 枝 柏 篠 簾 藻 蟲
    帚 牀 鏡 箏 杵 姬 匣 手箱 作
    手繦(タスキ) 敷 殿 有憚 串

    「網羅されています」と上で書きましたが、室町初期までの連歌ではこれ以外の文字も賦物には使われていたようです。また今日の目で見ると、なぜこの漢字の組み合わせが熟語になるのかよくわからないものがあります。そのあたり、原文にも次のような注が付いています。

    このほかにも古い賦物は数多くあるが、適切でないものは省略した。

    来歴が不明な賦物については、採用するかどうか適宜判断すること。 

    「山何」「何路」「何木」「何人」「何船」の5種は「五ケ賦物(ごかふしもの)」と呼ばれ、とくによく用いられていました。また「朝何」「夕何」「花何」「花之何」「唐何」「靑何」「白何」「手何」「下何」「初何」の10種は「十ケ」としてそれに次ぐ頻度で採用されました。

    前回ご紹介した大原野千句では、五ケから4種、十ケから2種が採られていましたね。

    上賦下賦以外の賦物

    これら上賦下賦以外に、特殊な賦物が4種定義されています。おそらく、アクロバティックな縛りを課していた鎌倉初期のルールの名残でしょう。同音異義がある語、音を抜いたりひっくり返したりしても別の語になる語を使うという賦物です。以下の表にそれらを示します。具体例のところはあくまで例示です。

    賦物その内容具体例その説明
    一字露顕
    一音の語で同音意義があるものを用いる
    火が同音
    香が同音
    菜が同音
    二字反音
    二音の語で逆から読むと別の語になるものを用いる
    逆から読むと縄
    逆から読むと綱
    水(みつ)逆から読むと罪
    三字中略
    三音の語で真ん中の一音を抜くと別の語になるものを用いる
    中を抜くと紙
    菖蒲(あやめ)中を抜くと雨
    中を抜くと唐
    四字上下略
    四音の語で最初と最後の一音を抜くと別の語になるものを用いる
    鶯(うくひす)上下を抜くと橛(くひ)
    玉章(たまつさ)上下を抜くと松
    苗代(なはしろ)上下を抜くと橋

    この表だけ見てもピンと来ないと思うので、それぞれ実例を挙げましょう。

    葉守千句(1487)第七百韻は「一字露顕」が賦し物になっていますが、その発句は次のとおり。

    夜やさむき鳥の音せぬ水もなし    宗長

    「夜」は「世」と同音だから、これを用いました。

    文安雪千句(1445)の追加(千句詠み終えた後に付け足す8~22句程度の連歌)は「二字返音」が賦物。発句は

    松が枝や雪をぞぬさと手向草     久色

    「松」は逆から読んだら「妻」なのでこれを用いました。

    顕証院会千句(1449)の第七百韻は「三字中略」が賦物。発句は

    池水の玉藻や月のかがみ草      宗砌

    「玉藻」は真ん中の一音を抜くと「田面」なのでこれを用いました。(「かがみ」の中一音を抜くと「紙・髪・神」などになるのでそちらの可能性もありますが)

    賦物についての説明は以上で終わりです。次回は式目に戻って、付則の部分を解説していきます。

    2025-06-16

    連歌のルール(18)~もう一つのルール「賦物」[3]

     連歌師の系譜と式目の変遷

    複式賦物から単式賦物へ

    承久の変以後、地下連歌師と呼ばれる比較的低い身分の連歌師が登場し、13世紀後半には彼らの主導により連歌本式と呼ばれる標準的な式目が生まれたという話を前回書きました。また賦物が簡略化され、上賦下賦(うえふしたふ)方式に移行したことも紹介しました。

    鎌倉時代前半には「複式賦物」と言って、長句(奇数句)と短句(偶数句)では違う賦物を適用することになっていました。「賦何屋何水」とあれば、長句では何屋、短句では何水が賦されるのです。

    ところがこんな区別も面倒くさくなったのでしょうか、まもなく長句も短句も区別せず、どちらにも同じ賦物を課す方式に移行していきました。これを「単式賦物」と呼びます。

    知られるうちで最後の複式賦物の連歌は、1250年の「園城寺賦山何山水連歌」です。一方、もっとも古い単式賦物の連歌は前々回紹介の、冷泉家から発見された1297年の「永仁五年賦何木百韻」。13世紀後半に複式から単式への交代が起こったと思われ、つまり連歌本式の完成と単式賦物への移行はほぼ同じ時期に実現したと考えられるのです。

    実際に永仁五年賦何木百韻の初折表十句を見てみましょう。「●木」という熟語の●に相当するものを必ず全句に詠み込まなければならないというルールです。下線を引いたのが●に相当する音で、右端に緑字で示したのが復元した熟語です。

    永仁五年正月十日「賦何木連歌」

    はなを雪げに月ぞかすみける     経ゝ 〔山木〕
     春はあらしのふきもよはらで     了ゝ 〔弱木〕
    ちるほどのにほひをしたふ梅が枝に    〔圧木〕
     をのがねもろくなけるうぐひす    道ゝ 〔頚木〕
    さびしさはひとくともなきいほりにも  経ゝ 〔一木〕
     そよとをどろく庭のをぎ原      房主 〔置木〕
    あさぢふやむしのうらみもかなしきに  経ゝ 〔浅木〕
     あきよりほかのゆふぐれもがな    小ゝ 〔寄木〕
    このごろはしぐれにいつもぬれぬ   経ゝ 〔袖木〕
     行旅は物うかりけり        道  〔冬木〕

    ●の部分は元どおりの字ではなくてもかまいません。たとえば第三は、〔圧木(をしき)〕という熟語を設定したうえで「匂ひを慕う」と文節をまたがる形で音を取っています。

    建治新式

    13世紀の中ごろに道生その他の連歌師が活躍したことはすでに書きましたが、13世紀末から14世紀前半に活躍した次世代の地下連歌師に善阿がいました。善阿のもとからは信昭、順覚、十仏といった弟子がつぎつぎ出ましたが、中でも救済は室町初期の連歌界を担う存在となります。

    1277年ごろ、連歌本式を改めた建治新式という新しい式目が生まれました。連歌本式が作られてから数年しか経ていないタイミングで、この時期は目まぐるしく連歌のスタイルが変化していったようです。この新式を制定したのが善阿ではないかという推定がなされています。

    もっとも本式と新式はある日突然切り替わったわけではありませんでした。善阿が主催したと思われる鷲尾(八坂神社と清水寺の中間)の花の下連歌では「新式本式あひ分かれ」た興行があり、新式チームと本式チームが同時に張行するという形も試みられたようです。

    建治新式がどのようなものであったか、詳細は不明ですが、あるいは懐紙構成を初折表8句、名残裏8句とする、その後定番となったフォームだったかもしれません。

    賦物規定の崩壊と形骸化

    1333年に鎌倉幕府が滅亡し、建武中興、そして南北朝の混乱時代に突入するのですが、この時期に連歌の復興・地位向上を目指した貴族が二条良基でした。良基は堂上連歌が力を失い、地下連歌にこそ有力な歌人がいることを見てとり、救済に師事します。

    良基は『僻連抄』(1345)の中で、「最近、百韻全部に賦物を取りとおすことは少なくなった。無理に取らなくても、問題とする必要はない」ということを書いています。建武中興以降、賦物のルールが時勢に合わなくなってきたことを悟ったのでした。しかし『筑波問答』(1372)では「最近は初折表の八句すら賦物を取りとおすことができていないのは残念なことである」と言っています。

    良基としてはせめて初折表ぐらいは賦物を守ってほしいのに、それすら叶わなくなっているというのです。その結果やがて、「発句だけ賦物を守っていればよい」ということになってしまいました。良基が主催した連歌ですら、発句にしか賦物を取っていません。

    なぜ形式的な賦物のルールは維持されたのか

    たとえば「水無瀬三吟」(1488)は賦何人連歌とされていますが、発句の

    雪ながら山もとかすむ夕かな     宗祇

    が「山人」から「山」を取っています。しかし脇句以下は賦物を意識していません。

    こうなると、難題をクリアさせる言語ゲームとして発生したはずの賦物がまったく機能しなくなっています。心敬(1406~1475)は「最近では先に発句を作って、それに合う賦物を後に考えるようなことをやっている。これでは何の意味もない」と憤っています。

    空洞化した賦物システムがその後もなぜ残ったかですが、私は各巻の目印の意味があったのではないかと想像しています。連歌の中には、「千句連歌」というものがあります。百韻の連歌を十個集めたセットで、百韻それぞれの巻同士の間には必ずしも関係はありません。たとえば1571年に細川藤孝(幽斎)が催した「大原野千句」は次のような構成になっています。

    第一 賦何路  第二 何人  第三 何衣
    第四 何船  第五 賦山何  第六 賦二字返音
    第七 賦何墻  第八 賦初何  第九 賦何水
    第十 賦唐何

    全部の巻で賦物が異なっています(二字返音については次回説明します)。後になって個々の百韻を思い出すとき、「大原野千句の第三」と指し示すよりも、「賦何衣の巻」と言ったほうが記憶を呼び起こしやすいでしょう。そのような象徴的な目印として賦物のシステムは維持されたのではないでしょうか。