2025-06-18

連歌のルール(19)~もう一つのルール「賦物」[4]

 
古典文庫が刊行した全8巻の『千句連歌集』
さまざまな賦物の実例を参照することができる

定型化された賦物

前回書いたとおり、上賦下賦方式と呼ばれる賦物の形式は室町時代には形骸化し、発句だけに適用されるようになり、使用される賦物も固定化されていきます。

三条西実隆と牡丹花肖柏の編と伝えられる賦物篇には、連歌に使うことができる賦物が網羅されています。これを見れば賦物の全体像が一望できますので、紹介しましょう。

まず上賦下賦の賦物です。表の左の列が課される賦物、右の列はその場合に使用可能な文字です。(漢字の新字と旧字は統一できていません)

賦物「何」に該当する文字
山何石 林 原 鳥 鵑 路(ミチまたはヂ) 主
出 入 蕨 風 隠 河 陰 垣 田 橘
椿 梨 卯木 井 雲 草 下 澤 木 松
守 眉 藍 嵐 櫻 里 霧 雉 岸 
衣(キヌ) 北 雪 百合 回(メクリ) 水
柴 人 姫 女 口 蟬 關 菅 手 鳩
畑 鬘 裹(ツト) 榊 木綿 祭 烟 寺
彥 梅 露 霞 心 鷹裹 聲(鷹鈴) 越
錦 使
何路(ミチまたはヂ)家 今 古 市 石 細 通 夢 西 苔
下 船 遠 山 浦 隱 狩 夜 浪 水
旅 宮 空 雲 雲居 別 作 長 中 驛
海 河 野 車 闇 濱 二 天 朝 夕
東(アツマまたはヒガシ) 關 坂 岸 田
都 湊 神 谷 目 鹽 戀 冰 陰 馳
何木帚 錦 常盤 歳 千 唐 笠 瓦 立 古
玉 染 見馴 磯馴(ソナレ) 杣 枝 杖
流 埋 萠 盤 櫻 梅ノ 花ノ 匂 並
栽 浮 沈 老 若 黑 白(シラ) 赤 朽
爪 山 宿 枕 松 冬 船 日 二 一
百 本 名 節 琴 弓 鹽 副 御 輪
谷 庭
何人家 市 里 古(イニシヘまたはフル) 稲
浦 宮 花 贄 殿 庭 船 嶋 千
千早(チハヤ) 遠方 老 若 友 神 唐
貌(カタチ) 狩 通 桂 田 旅 民 鷹
山 杣 染 空 月 都 名 使
官(ミヤツカヘ) 釣 常 中 網 網代 樵
村 本津 昔 歌 舞 現 鸕(ウ)飼 江
翁 田舎 衰 思 雲ノ上 上 心 天
天津 道行 下(シモ) 諸 外 遠津 鄰
夢 東 便 宿 政 文 木 氏 櫻 遠近
捨 白 礒馴(ソナレ) 苗
何船春 夏 秋 冬 魚 筏 出 入 稲 板
石 磐 初 早 鳩 荷 帆 泊 小(ヲ)
鳥 御 友 千 
度(ワタシまたはワタリ、渡) 唐 桂 河
夜 朝 夕 柴 片破 妻迎 馬 浮
鸕(ウ) 浦 篗(ウツホ) 草
興津(沖津) 上リ 下リ 枝 車 屋形 松
蒹ノ葉 水 百 捨 橋 島 引
木(コノ)葉 御調 諸越 鈴 杉 釣 市
湊 向 海
朝何市 機 匂 庭 戶 狀 鳥 渡 風 東風
嵐 景 髮 霞 顏 鏡 河 狩
槲(カシハ) 烏 陰 露 霧 霜 
月日(ツクヒ) 雲 日 涼 鳴 菜 柴 起
艸 船 凝(コリ) 冰 水 聲 手 道 出
湿(シメリ) 羽 寢 汐
夕何榮 庭 星 泊 千鳥 渡 霞 顏 風 景
狩 嵐 河 月 日 附日 月夜 露 浪
汐 詠 雲 草 紅 暮 闇 山 烟 舟
凝 冰 聲 手 求食 霧 道 水 霜
時雨 凉 立 躑躅
花何色 蓮 風 笠 籠(カタミまたはカコ) 陰
鬘 橘 染 妻 男 女 波 染 野 心
藍 樓 盛 見 人 摺 薄 筏 垣 瓶
園 山 袋 衣 下 重
花之何春 林 色 錦 匂 所 友 時 枢 庭
契 面 奥 別 陰 鏡 香 鬘 插頭 顏
記念 袂 袖 露 莚 埋木 雲
匣(クシケ) 山 宿(ヤドまたはヤドリ)
淵 故郷 杪 木立 心 木(コノ)間 衣
枝 主 盛 木 雪 都 下(シタ) 本 紐
白雲 白雪 白波 瀧 雫 茵(シトネ) 光
姿 下紐 波
唐何絲 櫓 花 橋 機 萩 錦 鳥 泊 神
鏡 笠 垣 蓬 竹 玉 鼓 名 梨 撫子
薺 梅 桃 筵 紫 紅 國 艸 櫛 匣
車 松 筆 墨 文 琴 紙 衣(コロモ)
綾 絹 藍 葵 木 繪 人 菊 枕 船
聲 菱
靑何色 絲 稻 石 羽 葉 花 袴 摺 田
竹 橘 玉 鷹 椿 浪 苗 菜 梅 馬
麥 海 野 雲 草 山 柳 淵 駒 木立
綠 柴 蝦手 紅葉 鶴 鷺
六月(ミナヅキ)
白(シラまたはシロ)何絲 石 羽 花 萩 鳥 縫 髪
重(ガサネ) 玉 玉椿 鶴 杖 躑躅 浪
雪 雲 眞弓 菅 鷺 木 菊 木綿 尾
布 橿
手(テまたはタ)何色 絲 石 板 風 玉 染 車 文 心
水 引 枕 習 縄 松
下何匂 色 葉 萩 帶 蕨 風 陰 枯 染
露 躑躅 荻 思 艸 焦 心 衣 枝 消
水 道 綠 亂 柴 繪 樋 紐 萠 裳
木 凉 折 根 聲 紅葉 並 萠木
初何花 櫻 色 市 春 秋 冬 鴈 鵑 鶯
紅葉 子ノ日 齋(イモヒ) 萩 穗
鳥(ト)狩 蕨 若菜 若水 風 夜 田
空 卯ノ花 艸 露 時雨 霜 嵐 手枕
染 手 苗 雪 烟 舟 霧 夢 入(シホ)
物 尾花 山藍 夏 鷹
御何池 階 柱 贄 戶 年 幣(ヌサ) 顏 狩
影 神 門 垣 笠 代 田 民 鷹 苑
衣(ソまたはケシ) 袖 空 綱 杖 津 名
渡 歌 井 法 國 寺 山 社 祭 舟
琴 心 手 主 榊 木 注連 火 裳 物
片何山 袴 帆 破 返リ 寄リ 便 結 鶉
下(オロシ) 時 戶 岡 思 田舍 眉 舞
心 祭 戀 手 嵐 岸 亂 敷 時雨 雨
薄何色 板 縹(ハナダ) 花 機 匂 霞 霧
霜 雪 雲 曇 烟 冰 染 紫 紅 靑
綠 朽葉 山吹 衣(ゴロモまたはギヌ)
萠木 紅葉 墨 物
何風春 秋 冬 家 初 羽 葉 早 西 北
南 東 東風 帆 神 時津 天津 雨 山
河 夜 谷 上(ウハ) 下 夕 朝 浦 濱
野 荻 興津 松 手 湊 島 關 道 鹽
板間 裏
何水春 夏 秋 冬 山 河 谷 磐 絲 花
石 井 若 下 田 玉 流 雲 雨 冰
手 朝 夕 澤 沼 池 雪 瀬 關 忘
埋 立 伏(フシ)
何屋板 石 磐 廬 市 放 穂 田 萱 瓦
鳥 蟲 蒸 蒹 馬 車 長 松 草 竹
東 篠 御 柴 關 濱 礒 杉 苔 鹽
旅 水 鹿火 蓬 妻
何所出 入 絲 置 田 立 朝 宮 繪 涼
宿直
何田山 春 夏 秋 冬 石 池 小(ヲ) 初
濱 湊 遠 岡 門 神 澤 席 野 古
靑 櫻 御 水 忍 刈 荒 心
何草春 夏 秋 冬 入(イリまたはイレ) 礒
初 葉 祓 庭 新(ニヒ) 千 茅 若 唐
陰 一夜 百夜 百 鏡 插頭 田 記念
手 手向 露 月 下 七 村 埋 浮 野
翁 思 戀 山 二葉 靑 朝 夕 水 御
芝 富(トミ) 教(鷹狩) 落(鷹狩) 壁
蔭(ヒカゲ) 葵
何馬板 早 友 老 若 竹 夏 冬 靑 木
白 繪 放 母(ハハ) 初 御 餝 兔
移(ウツシ) 野 上(ノボリ)
競(キソヒまたはクラベ) 引 毛 牧
何手衣 旗 麻 織 片 綱 染 上 御 蛛
山 朝 蒹 百 蕨 柏 松
何心花 片 世 現 下 戀 人 野
山(鷹ニアリ)
何衣色 彩(イロドリ) 香 羽 葉 花 染 摺
狩 初入 織 五百機 毛 唐 艸 旅 玉
小(サ)夜 夏 秋 冬 薄 卯ノ花 斑
古(フル) 苔 露 分 山分 海 麻
著(キ)馴 蓑代 緑 白 白妙 下 單
涼 布 鶉 墨 鹽 雨
何文石 稲 内 外 鳥 年 門 唐 夜 田
立 便 昔 古(フル) 結 大和 忍 筥
本 手
何物初 置 注(シルシ) 宿直 織 唐 染 作
餝(カザリ) 御貢 檜 御衣 國津 取 木
何鳥初 放チ 庭 千 唐 山 水 夜 田 寢
鳴(ナイ) 浮 野 雲 花 朝 都
白(シラまたはシロ) 菅 色 島 嶋津
渚(ス)
何色櫻 柳 山吹 梔子 木 絲 石 五 初
花 縹(ハナダ) 櫨 常盤 金 光 榮 枯
羽 葉 染 上 下 薄 萠木 紅 紫 二
一 聲 淺 水 草 今樣 白 火 雀 暮
墨 苗 靑 橘 山鳩 日 綠 制
何世神 君 千 御 萬 浮 三 七 一 常
何袋花 風 麻(ヌサ) 匂 笠 手 尾 弓
何垣花 松 艸 竹 梅 苗代 八重 一重
妻(ツマ) 蒹(アシ) 磐(イハ) 神 玉
中 袖 高 篠 柴 園 ヒメ マセ
千何木 人 鳥 代 年 草 舟 町 島 里
入(シホ) 重 度 夜 機 秋
枝(エまたはエタ) 聲
玉何雹 橋 江 嶋 河 井 水 垣 裳 鬘
木 楊 松 椿 枝 柏 篠 簾 藻 蟲
帚 牀 鏡 箏 杵 姬 匣 手箱 作
手繦(タスキ) 敷 殿 有憚 串

「網羅されています」と上で書きましたが、室町初期までの連歌ではこれ以外の文字も賦物には使われていたようです。また今日の目で見ると、なぜこの漢字の組み合わせが熟語になるのかよくわからないものがあります。そのあたり、原文にも次のような注が付いています。

このほかにも古い賦物は数多くあるが、適切でないものは省略した。

来歴が不明な賦物については、採用するかどうか適宜判断すること。 

「山何」「何路」「何木」「何人」「何船」の5種は「五ケ賦物(ごかふしもの)」と呼ばれ、とくによく用いられていました。また「朝何」「夕何」「花何」「花之何」「唐何」「靑何」「白何」「手何」「下何」「初何」の10種は「十ケ」としてそれに次ぐ頻度で採用されました。

前回ご紹介した大原野千句では、五ケから4種、十ケから2種が採られていましたね。

上賦下賦以外の賦物

これら上賦下賦以外に、特殊な賦物が4種定義されています。おそらく、アクロバティックな縛りを課していた鎌倉初期のルールの名残でしょう。同音異義がある語、音を抜いたりひっくり返したりしても別の語になる語を使うという賦物です。以下の表にそれらを示します。具体例のところはあくまで例示です。

賦物その内容具体例その説明
一字露顕
一音の語で同音意義があるものを用いる
火が同音
香が同音
菜が同音
二字反音
二音の語で逆から読むと別の語になるものを用いる
逆から読むと縄
逆から読むと綱
水(みつ)逆から読むと罪
三字中略
三音の語で真ん中の一音を抜くと別の語になるものを用いる
中を抜くと紙
菖蒲(あやめ)中を抜くと雨
中を抜くと唐
四字上下略
四音の語で最初と最後の一音を抜くと別の語になるものを用いる
鶯(うくひす)上下を抜くと橛(くひ)
玉章(たまつさ)上下を抜くと松
苗代(なはしろ)上下を抜くと橋

この表だけ見てもピンと来ないと思うので、それぞれ実例を挙げましょう。

葉守千句(1487)第七百韻は「一字露顕」が賦し物になっていますが、その発句は次のとおり。

夜やさむき鳥の音せぬ水もなし    宗長

「夜」は「世」と同音だから、これを用いました。

文安雪千句(1445)の追加(千句詠み終えた後に付け足す8~22句程度の連歌)は「二字返音」が賦物。発句は

松が枝や雪をぞぬさと手向草     久色

「松」は逆から読んだら「妻」なのでこれを用いました。

顕証院会千句(1449)の第七百韻は「三字中略」が賦物。発句は

池水の玉藻や月のかがみ草      宗砌

「玉藻」は真ん中の一音を抜くと「田面」なのでこれを用いました。(「かがみ」の中一音を抜くと「紙・髪・神」などになるのでそちらの可能性もありますが)

賦物についての説明は以上で終わりです。次回は式目に戻って、付則の部分を解説していきます。

2025-06-16

連歌のルール(18)~もう一つのルール「賦物」[3]

 連歌師の系譜と式目の変遷

複式賦物から単式賦物へ

承久の変以後、地下連歌師と呼ばれる比較的低い身分の連歌師が登場し、13世紀後半には彼らの主導により連歌本式と呼ばれる標準的な式目が生まれたという話を前回書きました。また賦物が簡略化され、上賦下賦(うえふしたふ)方式に移行したことも紹介しました。

鎌倉時代前半には「複式賦物」と言って、長句(奇数句)と短句(偶数句)では違う賦物を適用することになっていました。「賦何屋何水」とあれば、長句では何屋、短句では何水が賦されるのです。

ところがこんな区別も面倒くさくなったのでしょうか、まもなく長句も短句も区別せず、どちらにも同じ賦物を課す方式に移行していきました。これを「単式賦物」と呼びます。

知られるうちで最後の複式賦物の連歌は、1250年の「園城寺賦山何山水連歌」です。一方、もっとも古い単式賦物の連歌は前々回紹介の、冷泉家から発見された1297年の「永仁五年賦何木百韻」。13世紀後半に複式から単式への交代が起こったと思われ、つまり連歌本式の完成と単式賦物への移行はほぼ同じ時期に実現したと考えられるのです。

実際に永仁五年賦何木百韻の初折表十句を見てみましょう。「●木」という熟語の●に相当するものを必ず全句に詠み込まなければならないというルールです。下線を引いたのが●に相当する音で、右端に緑字で示したのが復元した熟語です。

永仁五年正月十日「賦何木連歌」

はなを雪げに月ぞかすみける     経ゝ 〔山木〕
 春はあらしのふきもよはらで     了ゝ 〔弱木〕
ちるほどのにほひをしたふ梅が枝に    〔圧木〕
 をのがねもろくなけるうぐひす    道ゝ 〔頚木〕
さびしさはひとくともなきいほりにも  経ゝ 〔一木〕
 そよとをどろく庭のをぎ原      房主 〔置木〕
あさぢふやむしのうらみもかなしきに  経ゝ 〔浅木〕
 あきよりほかのゆふぐれもがな    小ゝ 〔寄木〕
このごろはしぐれにいつもぬれぬ   経ゝ 〔袖木〕
 行旅は物うかりけり        道  〔冬木〕

●の部分は元どおりの字ではなくてもかまいません。たとえば第三は、〔圧木(をしき)〕という熟語を設定したうえで「匂ひを慕う」と文節をまたがる形で音を取っています。

建治新式

13世紀の中ごろに道生その他の連歌師が活躍したことはすでに書きましたが、13世紀末から14世紀前半に活躍した次世代の地下連歌師に善阿がいました。善阿のもとからは信昭、順覚、十仏といった弟子がつぎつぎ出ましたが、中でも救済は室町初期の連歌界を担う存在となります。

1277年ごろ、連歌本式を改めた建治新式という新しい式目が生まれました。連歌本式が作られてから数年しか経ていないタイミングで、この時期は目まぐるしく連歌のスタイルが変化していったようです。この新式を制定したのが善阿ではないかという推定がなされています。

もっとも本式と新式はある日突然切り替わったわけではありませんでした。善阿が主催したと思われる鷲尾(八坂神社と清水寺の中間)の花の下連歌では「新式本式あひ分かれ」た興行があり、新式チームと本式チームが同時に張行するという形も試みられたようです。

建治新式がどのようなものであったか、詳細は不明ですが、あるいは懐紙構成を初折表8句、名残裏8句とする、その後定番となったフォームだったかもしれません。

賦物規定の崩壊と形骸化

1333年に鎌倉幕府が滅亡し、建武中興、そして南北朝の混乱時代に突入するのですが、この時期に連歌の復興・地位向上を目指した貴族が二条良基でした。良基は堂上連歌が力を失い、地下連歌にこそ有力な歌人がいることを見てとり、救済に師事します。

良基は『僻連抄』(1345)の中で、「最近、百韻全部に賦物を取りとおすことは少なくなった。無理に取らなくても、問題とする必要はない」ということを書いています。建武中興以降、賦物のルールが時勢に合わなくなってきたことを悟ったのでした。しかし『筑波問答』(1372)では「最近は初折表の八句すら賦物を取りとおすことができていないのは残念なことである」と言っています。

良基としてはせめて初折表ぐらいは賦物を守ってほしいのに、それすら叶わなくなっているというのです。その結果やがて、「発句だけ賦物を守っていればよい」ということになってしまいました。良基が主催した連歌ですら、発句にしか賦物を取っていません。

なぜ形式的な賦物のルールは維持されたのか

たとえば「水無瀬三吟」(1488)は賦何人連歌とされていますが、発句の

雪ながら山もとかすむ夕かな     宗祇

が「山人」から「山」を取っています。しかし脇句以下は賦物を意識していません。

こうなると、難題をクリアさせる言語ゲームとして発生したはずの賦物がまったく機能しなくなっています。心敬(1406~1475)は「最近では先に発句を作って、それに合う賦物を後に考えるようなことをやっている。これでは何の意味もない」と憤っています。

空洞化した賦物システムがその後もなぜ残ったかですが、私は各巻の目印の意味があったのではないかと想像しています。連歌の中には、「千句連歌」というものがあります。百韻の連歌を十個集めたセットで、百韻それぞれの巻同士の間には必ずしも関係はありません。たとえば1571年に細川藤孝(幽斎)が催した「大原野千句」は次のような構成になっています。

第一 賦何路  第二 何人  第三 何衣
第四 何船  第五 賦山何  第六 賦二字返音
第七 賦何墻  第八 賦初何  第九 賦何水
第十 賦唐何

全部の巻で賦物が異なっています(二字返音については次回説明します)。後になって個々の百韻を思い出すとき、「大原野千句の第三」と指し示すよりも、「賦何衣の巻」と言ったほうが記憶を呼び起こしやすいでしょう。そのような象徴的な目印として賦物のシステムは維持されたのではないでしょうか。

2025-06-12

連歌のルール(17)~もう一つのルール「賦物」[2]

 
歌人の系譜

承久の変で世の中が一変

承久の変(1221年)で朝廷勢力が敗北したことは、当時の世の中に衝撃を与えました。それまでは天皇(上皇)や殿上人を中心とする朝廷勢力と鎌倉幕府とは、二元的に国を統治していましたが、この事件により朝廷は幕府の権力に屈し、武士が貴族より優位に立つことがはっきりしたのです。

連歌会を催す場所も変わりました。それまで熱心に主催していた後鳥羽上皇や順徳上皇が配流となったので、当分内裏や仙洞御所で連歌会が行われることはなくなりました。九条家や西園寺家などの権門貴族の自宅が開催場所となって、藤原定家もそれらの邸宅に赴いたり、あるいは自宅で会を開いたりするようになったのです。朝廷での連歌が再開するようになるのは後嵯峨院の時代(1250年前後)になってからでした。

そんな中、定家の息子の藤原為家、孫の藤原為氏、藤原信実、二条良実、一条実経などの歌人たちが連歌の指導的な役割を担っていきます。彼らはそれぞれ自家用の連歌式目を定めていたようで、式目といっても簡単なものだったでしょうが、これが後の連歌本式へとつながっていったと思われます。

上賦下賦式/賦物のルールが固まっていく

従来の連歌を縛るルールも変化していきます。それまでの源氏国名連歌だとか、黒白連歌だとかは、制約が大きすぎて面倒ですよね。一回やったらもう飽きてしまいそうです。

そこでルールの簡約化が図られ、「上賦下賦(うわふしたふ)式」と呼ばれる賦物のシステムが固まってくるのです。

上賦とは、たとえば「賦夕何」というようにテーマが与えられます。これは「夕●」という熟語があるとして、「●」に当たる漢字を必ず入れ込むという決まりです。この場合「夕栄(ゆうばえ)」「夕星」「夕千鳥」「夕霧」等々の熟語が考えられるので、「栄」「星」「千鳥」「霧」などのうちどれかを各句に詠むことが義務付けられます。

下賦の場合は「賦何水」というような出題になります。上下が先ほどとは逆になり、「●水」の「●」に当たる漢字を入れることになります。「春水」「山水」「井水」「田水」等々の熟語から「春」「山」「井」「田」などの文字のうちどれかを詠み込みます。

賦物は2つ提示され(複式賦物)、長句で入れるもの、短句で入れるものを分けます。今のところ最も古い上賦下賦式の連歌は、1241年以前に張行されたと思われる「仁和二年書写東大寺要録の裏文書」(部分のみ存)で、賦何屋何水というテーマが与えられています。長句では「●屋」、短句では「●水」の●に当たる漢字を使うという縛りです。こういう縛りを、全百句について守っていきます。

凝り性の後鳥羽上皇がいなくなって、連歌人たちももう少し楽な賦物に変えようと思ったのでしょうか。

連歌の新しい担い手たち

承久の変以後、「地下連歌師」と呼ばれる新しい連歌人が登場します。殿上人(堂上連歌師)とは違うもっと低い身分の人たちです。中でもその中心となったのは僧侶たちでした。僧侶といっても、下級貴族から出家した人々だったのですが、中にはさらに下層出身の法師もいたようです。

彼らは後鳥羽上皇の時代から存在したのか、定家ら殿上人からの感化で連歌を始めたのか、あるいは自然発生的にこの時代に下から起こった動きなのかはよくわからないのですが、僧侶たちは寺社の桜の下で連歌会を開き、一般の人々から出句をつのったのでした。これを「花の下連歌」と呼び、もともとは神仏に連歌を奉納する宗教行事だったのではないかとも見られます。

花の下連歌の場となったのは、京の毘沙門堂、法勝寺、清水寺地主権現といった場所でした。

早い時期の花の下連歌師として、寛元~建長年間(1249~56)に活動した道生、寂忍、無生といった名の僧がいました。木藤久蔵先生は道生周辺の地下連歌師たちが文永年間(1264~1275)になって連歌本式の式目をとりまとめたのではないかと推測しています。実際、道生が式目を作成していた痕跡がありますし、花の下連歌は一般から付句を募ったので、どの句を採用するか明確な成文法を決める必要があったからではないかというのです。連歌本式は、おそらく「初折表十句、名残裏二句」の形式を前提としていたことでしょう。

2025-06-10

連歌のルール(16)~もう一つのルール「賦物」[1]


式目の解説は前回でいったん終わり。今回からは「賦物(ふしもの)」のルールについてお話しします。

賦物とは、各句に特定の語(文字)を詠み込まなければいけないという、縛りのことです。

賦物のルールは時代とともに変化しましたので、その理解のためにもう一度、連歌の歴史を振り返ってみたいと思います。平安時代から室町時代へ、連歌形式がどのように変わってきたかという物語にお付き合いください。

謎多き「連歌本式」

連歌が百韻を正式とするようになったのは、後鳥羽上皇の時代、つまり1200年ごろだっただろうと推測されています。

承久の変を経て、鎌倉時代中期に立案された式目が連歌本式です。その実物は遺っておらず、条項の一部を猪苗代兼載が復活記録しているということは第1回に述べました。兼載の記録で注目されるのは、初折表が十句であり、名残裏が六句であるとされている点です。

二条良基以降の新式での百韻懐紙構成と、兼載が記録する本式の構成では次のような違いが出ます。カッコでくくったのが懐紙単位となります。

二条良基の新式 [8・14][14・14][14・14][14・8]
兼載記録の本式 [10・14][14・14][14・14][14・6]

現存する古い百韻連歌は1320年の「鹿児島県新田神社賦何目百韻」や1332年の「鎌倉金沢称名寺阿弥陀堂百韻」でしたが、これらはすでに新式の懐紙構成で進行していました。それ以前の実例がなかったので、本式が行われていた鎌倉中期の百韻がどのようなものであったかは、断片等をもとに推測するしかありませんでした。

冷泉家での大発見

藤原定家の末裔である、京都市上京区の上冷泉家は邸内に「御文庫」と呼ばれる非公開の土蔵を有していましたが、所蔵品が1980年から順次整理公開され、その結果国宝級の貴重な古文書がつぎつぎ発見されました。藤原俊成自筆の『古来風躰抄』、藤原定家自筆の『明月記』などです。これら文書は現在、財団法人冷泉家時雨亭文庫が管理しています。

連歌の面でも大発見がありました。「承空本私家集」の紙背文書として、「永仁五年(1297)賦何木百韻」という、連歌本式に則った最古の百韻連歌がほぼ完全な形で見つかったのです。紙背文書(しはいもんじょ)とはウラガミのこと。承空本とは、僧・承空が昔の和歌を書き写した個人的な書写本ですが、その裏紙から百韻連歌が見つかったのでした。昔は紙は貴重でしたから、ウラガミも積極的に再利用されていたわけです。

この連歌は次のような懐紙構成をとっています。

承空本紙背文書 [10・14][14・16][16・14][14・2]

初折表が10句なのは兼載の記録と同じですが、以下の構成が食い違っていて、最後名残裏が2句である点が目を引きます。断定的なことは言えませんが、永仁五年賦何木百韻のフォルムこそが連歌本式を体現していたのではないか。兼載は過渡期の作品しか知らなかったのではないかという推定が可能と思われます。

本式時代の連歌が発掘されたことにより、初期百韻に関する研究が大いに進展を見せたのでした。賦物についても実態がわかってきたのです。

いろは連歌

ここで時間を巻き戻して、平安時代12世紀の連歌についてお話ししましょう。

連歌はもともと、「五七五」に「七七」を付ける、あるいは「七七」に「五七五」を付けるという2句1組の短連歌として始まったものでした。ところが「五七五」「七七」「五七五」...というように3句以上にわたって句を続けていく鎖連歌が平安末期に始められるようになりました。最古の記録として、1130年ごろに3句による連歌が作られた話が『今鏡』に記されています。

それに続く事例が『古今著聞集』に残されています。1165年頃のこと、時代としては平治の乱が終わり、後白河法皇が院政を敷いたというタイミングです。連歌の会が開かれたのですが、そこではイロハニホヘトの47文字をそれぞれ句の頭に詠み込むという縛りが決められていました。47文字ということですから、四十七韻か、あるいは少しのばして五十韻の連歌を目指したのではないかと思います。

その座で、

 うれしかるらむ千秋万歳

という句が出た。「う」で始まる短句なので、次は「ゐ」で始まる長句を詠まなければいけないのですが、付けが難しく誰も句を出せないでいた。そこへ、小侍従という女性が

ゐはこよひあすは子日(ねのひ)とかぞへつつ

という句を出したので、皆から喝采を浴びたのでした。前句は「何と嬉しいことではないか、千年万年と世が栄えることは」というもので、後句は「暦では今日は亥の日、明日は子の日、そうやって数えているうちに千年万年を経ていくのですね」とつないだわけ。「ゐ→亥の日」と発想し、暦日つながりで付けたたところがお見事。作者の小侍従は「待宵の小侍従」とのニックネームを持つ閨秀歌人でした。

あらかじめ何句詠むと決めていない場合を鎖連歌、五十韻なり百韻なり句数を決めて詠むのを長連歌と、今日区別しています。

小侍従が賞賛を受けたイロハ順の連歌を「いろは連歌」と呼んでいます。初期の鎖連歌あるいは長連歌は、こうした制約をクリアしていく言語ゲームとして行われていたようです。

後鳥羽時代の縛りのルール

後鳥羽上皇が連歌を好み、この頃に百韻を定番の形式とするようになっていったことは先に述べたとおりですが、縛りに関しても特徴的な制約が生じました。

後鳥羽時代の連歌は完全な形では見つかっていませんが、後年に二条良基が編纂した『菟玖波集』に付句が断片的に収録されているため、実態がある程度推測できます。そこに見られる趣向は次のようなものです。

  1. 源氏国名連歌(源家長が上皇に奉った独吟百韻)…長句には源氏物語の巻名を詠み込み、短句には国名(出雲、伊勢、近江など)を詠み込む
  2. 黒白連歌(藤原家隆が上皇に奉った独吟百韻)…長句には黒いもの、短句には白いものを詠み込む
  3. 三字中略四字上下略連歌(藤原定家が上皇に奉った独吟百韻)…三字中略とは三音の語のうち真ん中の一音を省いても意味をなす語を使うこと(ちぎり→ちり、となるため「ちぎり」を使える)。四字上下略とは四音の語で最初と最後の音を省いても意味をなす語を使うこと(ゆふかほ→ふか(鱶)となるため「夕顔」を使える)。長句で三字中略を詠み込み、短句で四字上下略を用いる
  4. 草木連歌(1218年4月の連歌会での百韻。上皇、定家、家隆らが参加)…長句には草を、短句には木を詠み込む)

こういうアクロバティックな言語ゲームを当時の有力な歌人たちが楽しんでいたわけです。

後鳥羽上皇は1221年に政変を企て(承久の変)、その失敗により隠岐に流されます。連歌をめぐる環境が激変し、連歌の担い手も、長連歌の進行ルールも改まっていきました。やがて連歌本式の立案ということになるのですが、続きは次回。

2025-06-09

連歌のルール(15)~同種のテーマを何句続けてよいか


島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集』
連歌について知りたいという人には、最初の一冊としてお勧めしたい本
巻末の解説がすぐれています

句数について

連歌では2句前(打越句)と類似した事物を詠んではならないことになっています。ということは、3句同じ世界を扱ってしまうと自動的に打越と重複するので、同一のテーマは2句までしか続けられないことになります。

ところが、特定のテーマに関しては3句以上続けてもかまわない、あるいは続けなければいけないという決まりがあります。それがこの「句数」と題された規定です。

春の句、秋の句、恋の句は五句まで続けてよい。春の句、秋の句は三句は続けて詠むこと。恋の句が一句で終わってしまうのは残念なことだとの意見がある。

の句、冬の句、旅、神祇、釈教、述懐(懐旧と無常はこの内に含まれる)、山類、水辺、居所は三句まで続けてよい。

春と秋は3~5句続けること、恋は2~5句続けることと決められています。ただし、一度春・秋を離れたら間に7句以上を挟まないと同じ季節には戻れませんし、恋を離れたら間に5句挟まないと次の恋は詠めません。これについては第12回で説明しました。

夏と冬は春秋に比べて情趣に乏しい季節とみなされているので、3句が上限、1句で終わりにしてもかまいません。旅、神祇、 釈教、述懐、山類、水辺、居所も同様です。述懐には次のような別規定があって

述懐(懐旧・無常)は三句続けることができる。同じ句に述懐と釈教の両方の要素が入っている場合は、釈教のほうを優先して付けること。

となっているのですが、これは必ずしも守られていなかったのではないでしょうか。たとえば「宗伊宗祇湯山両吟」(1482)の三折表には次のような付合があります。

 仏やたのむ声をしるらむ      宗祇
老いてなほくる玉のをのかずかずに  宗伊

前句は「仏さまは亡き人の声を知っているであろう。その声をもう一度聞きたいのだ」という意味で、述懐であると同時に釈教にもなります。この場合、上の規定によれば、付句として釈教のほうが優先されるはずですが、付句は「年老いて玉を繰りながら、なおも寿命を願っている」ということで、むしろ述懐のほうを優先して詠んでいます。

さて、式目の本文の解説はほぼ終了です。このあと、付則、および和漢聯句の場合の式目が続くのですが、それはいったん措いておいて、次回からは式目とは別のもう一つのルールである「賦物(ふしもの)」について、規定を見ることにします。