打越で使ってはいけない語
次は「打越を嫌うべきもの(付・懐紙を替えるべきもの)」の条項です。
本連載の第2回で、「打越を嫌う」という考えを説明しました。連歌の付句は、2句前と同じ世界を詠んではならないのです。これが連歌の基本中の基本の原理であるといえます。
ではどういう題材や語を使うと、打越関係と判断されるのかということを細かく規定したのが本項になります。打越だけではなく、付句としてもダメな組み合わせ、同じ面や同じ折では使えないものも挙がっています。
以下の表で〈〉でくくった用語は、第6回で説明した事物の分類(部立)です。各分類に入る諸事物を指します。部立が右に来たり左に来たりして表記が統一されていませんが、式目の記述順に従います。
まだまだ続きますが、数が多いのでいったんここで切って注を加えます。
〈居所〉の項、「浜庇」とはもともと、波が砂をえぐって庇が出たような地形になっていることを言いましたが、後年「浜辺の家の庇」を指すようになりました。後者の場合のみ居所を嫌うということです。
皇居の故郷の項、ふるさととはもともと昔のさびれた都を指すということは、以前ご説明しました。
松の煙、竹の煙、草の煙、水の煙とは、松林、竹林、草、水などが遠くに霞んで見えることを言います。実例を『大原野十花千句 第十』(1571)の初折4~5句目で見てみましょう。
田中に道はあぜのかたはら 里村昌叱一むらや竹の煙にこもるらん 了玄
〈時分〉は第6回の事物の19分類では説明しなかった部立です。時刻、昼夜、朝暮などを示す語を指します。19分類中の〈夜分〉は時分の一部と見ることができるでしょう。
心の松は「松」を「待つ」にかけて「心中に期待すること」。心の杉は「正直、誠実な心のたとえ」。
月の項の日次の日とは一日とか二十日といった暦の日のこと(太陽ではない)。
浮島原(うきしまがはら)とは静岡県東部、愛鷹山の南方の低湿地。歌枕です。愛鷹山や富士山を連想させる地名なので山類との打越はダメだが、この語自体は山類とは見ないということでしょう。
津の国のなにはのこと、山しろのとはぬについては、次のような例歌があります。
津の国の難波(なには)のことか法(のり)ならぬあそびたはぶれ待てとこそきけ 遊女宮木(『後拾遺集』)
つのくにのみつとないひそやましろのとはぬつらさは身にあまるとも 宮内卿(『新勅撰集』)
前歌は、性空上人が遊女からの喜捨を受け取ることを一瞬ためらったのに対して彼女が詠んだ歌。「摂津の国の難波で身体を売っている私ですが、それが仏法に反するなどということがあるでしょうか。遊び戯れる業も仏の道につながると聞いていますが」ということ。
後歌は、「摂津の国に御津があり、山城の国には鳥羽がありますが、「見つ(見たよ)」なんておっしゃらないで。「とはぬ(訪ねてくださらない)」ことの辛さは身にこたえますのよ」というダジャレの歌。
こうした先歌がもとになって「津の国のなにはのこと」「山しろのとはぬ」などという表現が慣用句のようになっているけれども、あくまで元は地名であるから名所と打越にならないようにということ。
信夫(しのぶ)とは現在の福島県福島市のあたり。そこに「浦」という地名があって、実際は内陸なのですが、海辺と誤解されて「しのぶの浦」という水辺の歌枕になっていました。「忍のうらみ侘」というのは、恋のつらさを我慢し恨み悩むということを「信夫」とひっかけて言っているのですが、あくまでもとは歌枕であることを意識して、水辺や名所を嫌うようにという定めです。福島には「信夫山」という山がありますが、「忍のうらみ侘」ということを言ってしまった場合、「忍の山」「忍の岡」は懐紙が替れば言ってもよいが、「忍の浦」という表現はもう使えません。
付句としても使ってはいけない語
ここからは打越だけではなく、付句としても避けるべき組み合わせになります。
「歎(なげき)を木に掛けた場合」というのは、「歎き」を「投げ木」に掛けるという技法を使っている場合は〈植物〉と嫌うことになります。
「字余りの句」の項は、原文は「可相双条如何。及打越可有斟酌歟。凡無用文字余不可然之由見和歌抄矣」とあるのをこう訳してみたのですが、今一つ自信がありません。知見の士のアドバイスを求む。
同折、同面で使ってはいけない語
これらの例については、とくに注釈は必要ないでしょう。
「三文字の仮名」とは、わかれとわかれ、かへるとかへる、のこるとのこるというような同表現のこと。
以上で打越、同面、同折に関する去嫌の条項の解説は終わりです。実に膨大で煩雑な決め事です。「基本原則だけ決めておいて、あとは宗匠がその場その場で判断すればいいじゃないか」と思う人もいるでしょう。実際、俳諧(連句)のほうでは芭蕉はそのような方針をとっていました。
しかし、これは私の想像ですが、連歌の会はしばしば貴人の前で催されますし、場合によっては足利将軍もそこに参加していました。そんな場所で式目違反を指摘されるのはメンツにかかわることでもあったでしょう。そうなると見解の食い違いから争論が起きることもありえます。また地下連歌の場合は、すぐれた付句に賞品が出るというような賭け事としての性格がありましたから、判定基準をはっきりさせる必要があったかとも思います。そうやって問題になった判例を積み重ねていくうちに膨大な規定となったのでしょう。
連歌の会には「執筆(しゅひつ)」という人がいて、式目違反を発見して指摘する役を担っていました。ある意味宗匠よりも重要な立場です。執筆は膨大なルールを承知している必要があったので、容易ではない仕事でした。
式目記憶用の式目和歌というものがあります。三条西公条・周桂による約600首からなる『式目和歌』(16世紀後半)などはその代表的なものです。
また各用語から関連する規定を逆引きできる辞書のような本が作られました。木食応其による『無言抄』(1586年)、混空による『産衣』(1698年)などが知られています。