2022-08-31

早川来之 冬野虹と同じ墓園に眠る俳人(後編)

京都・本法寺の仁王門

来之の連句

1790年の来之編「春興集」から、来之一門の連句を読んでみましょう。正月の顔見世ということで、全員が一句ずつ付け、付け終わった24句目で終了としています。

1  うぐひすや夜は梟梅の月     来之
2  ふまぬ垣ねの雪のむら消     秋水
3  陽炎にいとけの車さしよせて   花竺
4  膝にはらりとこぼす別飯     芹水
5  かほり来る桧原おろしの折々に  雪馬
6  海岸遠く鐘かすかなり      雅石

来之の発句は「鴬」に「梅」の配合で、もうベタベタに月並です。ですが以前のブログで説明したように、井原西鶴は「梅に鴬、松に雪、藤に松、紅葉に鹿、花に蝶、水に蛙というような決まった付けをするのが正しい道である」 と言っている。月並が良いという考えなんですね。関西では西鶴のような俳諧観が根強く残っていたと見るべきでしょう。こういう状況を見て芭蕉は「京都大阪では蕉風は根付かないなあ」と嘆いたわけですし、吉分大魯は「芭蕉を復興させるぞ~」と紋切型を排し、自分の実体験に基づく俳諧を実現しようとしたのでした。

古俳諧というのは、芭蕉や蕪村といった大作家の句だけを見ていたのでは、彼らが何を改革しようとしたのかがよくわかりません。来之のようなマイナーポエットの句も読んでこそ改革の意味がわかるというものです。

第三では子ども用の牛車が垣根近くに寄せられます。4句目、これは若様が養子に出されようとしている状況で、別れを悲しんで子は膝にご飯をこぼしてしまいます。

7  綰柳の詩をさまざまに作りなし  松波
8  横川の室へ艾まいらす      眠花
9  ありふれた品を小重に取あはせ  素流
10 やはらかものをまいどいたゞく  錦車
11 大せつな御主を忍ふ我恋は    羅扇
12 きへもやりたき霜の足跡     仙國

7句目、「綰柳」というのは、中国では親しい人との別れにあたっては柳の枝を輪にして送別する風習があった。そのような別れの詩をいろいろに作っている。1~3句目が春の句であったのに、6~8句目でまた春に戻ってしまうのは、正月の連句であることを意識したのでしょうか。

8句目の「横川の室」は源氏物語の宇治十帖を意識した表現。作者の眠花はこの中で唯一の女性です。

11~12句目は恋の座。このあたり、歴史的かなづかいに怪しいところが散見されますが、昔の人はけっこうおおざっぱです。

13 野烏の有明月に啼さはき     梅風
14 餓民をすくふ一倉の粟      鷺郷
15 こと腹を出てかしこき君なれや  故園
16 神人(
じにん)が公事の時得てしかな 蓬雨
17 斧入て進(しんず)るにあき花の山  秋虹
18 長い羽織は誰も着ぬ春      巴山

13句目はカラスが鳴き騒ぐ不吉な情景。はたして14句目で飢饉が到来しますが、為政者の賢明な判断により粟が放出されます。15句目、嫡出のお世継ぎが退いて、異腹の兄弟が殿様になり、賢い判断をなさった。16句目、殿様が賢い人に代わった機会を逃さず神社の人が裁判を起こす。17句目、裁判に勝って山の所有が認められ木を伐っているが、それにも飽きてきた。このへん、また春に逆戻りです。

19 たま/\の御影供休に飛出行   移石 
20 女房もてとて伯母のうるさき   漢水
21 薄いものあとまで見ゆる秋の月  驢丹
22 小刀添し盆の御所柿       百長
23 次の間は皆昼酒に酔たふれ    春山
24 とう/\と鳴滝殿の滝      竹之 

19句目、御影供に参るため思いがけず店が休みになったので、使用人は実家に戻ろうと飛び出していく。20句目、実家に戻ったものの伯母さんから説教。 

芭蕉時代の連句は解釈が難しく、評釈書に頼らないとなかなか理解できないのですが、安永・天明期以降になるとかなりわかりやすくなっています。とくに来之一門の連句は、良くも悪しくも飛躍が少ないので読みやすいと言えるでしょう。

撰集に採られた句

来之の発句は同時代に編まれたいくつかの撰集に採録されています。まずは黒柳維駒(これこま)編の「五車反故(ごしゃはうぐ)」(1783)より。維駒は蕪村の高弟であった黒柳召波の息子です。父の十三回忌の追善として刊行したもので、もともと召波が集めていた撰集に維駒が最近の句を補足して完成させたもの。

野の宮や笹の古葉の落る音

嵯峨野の野宮神社あたりの竹林を、そのままに描いた句。

次は西村呂蛤編の「雁風呂」(1792)より。呂蛤は几董門下で、几董没後、夜半亭四世を継ぎました。こうやって見ると、来之は几董、維駒、呂蛤と蕪村系の俳人たちと比較的よく付き合っていますね。蕪村自身も一度、来之の「春興集」に句を寄せたことがあります。来之と蕪村一門では俳諧観が合うとは思えないのですが、だいたい今日でも関西の俳人たちには関東と違って流派の垣根を越えて自由に付き合う気風があります。几董はとくに人当たりがよくて広く交際できる性格でしたから、来之とも行き来できたことでしょう。

卯の花を血になよごしそ郭公(ほとゝぎす) 
筆柿の紅葉見事や光悦寺

「ほととぎす」と「卯の花」は付合。そして「啼いて血を吐くほととぎす」という定番の言いまわしに従っていますね。「筆」と「柿」も付合。来之らしい徹底的に紋切り型を目指した句です。

もう一つ、蝶夢編の「新類題発句集」(1791)より。蝶夢は蕉風俳諧の復興を願って芭蕉一門の俳諧の集成などに努めた人で、従来の発句を季語別に収集した「類題発句集」を編纂しましたが、続いて当代の作品を集めた「新類題発句集」を刊行したのでした。

そめて行一むら雨やかきつ機
葉桜や寺行ぬける人ばかり
茅の輪から秋にし生るゝこゝろかな
岩橋の明ゆく顔や煤はらひ

一句目は「そめていくひとむらさめやかきつばた」と読みます。雨の菖蒲園を美しく詠じました。二句目は、桜の時節は皆足を止めて花に見入っていたけれど、葉桜のころともなれば誰もが目を向けることなく寺を通り抜けていくよという句。実感があって私はわりと好きな作です。四句目、「岩橋」というのは葛城山に石橋を架けようと一言主の神に命じたところ、顔が醜いので夜しか働こうとしなかったという伝説を踏まえます。煤払いが終わって顔が汚れて真っ黒になっているが、あたかも一言主の神が夜の仕事を終えたときの顔みたいだねと言ってみた句でしょうか。

本法寺界隈を歩く

さて、20年前に冬野虹が死去した後、私は分骨して遺灰を本法寺にも納めることにしました。彼女が大好きだった姉と同じ場所に葬ってほしいと思っていたことは間違いないからです。

この8月も、私は虹のために本法寺の共同墓にお参りし、また来之ゆかりの土地を訪ねてきました。

本法寺の共同墓

共同墓に花と線香を供えたあと、今は参る人とてなさそうな来之の墓にも線香をおすそ分けしてきました。墓石の向かって左側面には、彼の時世の句が彫られています。

今日までは世耳つとめたる案山子かな

「世耳」とは「世辞」のこと。自分のことを「案山子」と嘲り、生きている間は周囲にお世辞を言いながら身過ぎ世過ぎをしてきましたが、墓の中に入ったらもうその必要はありませんという遺言です。こうした偉ぶらない、世の中を醒めた眼で見ながら少し悲しい気持ちを抱えて人生を送った春鷗舎来之という人物に、いささかの共感の念を持つのは私だけでしょうか。

来之墓に彫られた辞世の句

本法寺に隣接するのが表千家の不審菴と裏千家の今日庵です。この地域は日本の茶道の中心地で、茶道関係の会館や商店を見ることができます。前回、古木町には茶道関係者が住んでいたと書きましたが、これは古木町が不審菴や今日庵に近いことに理由があるでしょう。

本法寺門前から今日庵・不審菴をのぞむ

来之の住居があった小川通今出川上ルのあたりにも行ってみました。古地図と比べると町の区画が変わっていて、小川通も今出川通もずっと大きな道に変貌していました。本法寺からは歩いて8分ぐらいで、彼がこの寺に葬られたのも自然なこととして理解できます。ひょっとして「早川」という家がないかどうか、道沿いの表札を見て歩きましたが、没後200年以上を経てそんな家が残っているはずもありませんでした。

小川通今出川上ルの現況

近くに小さな地蔵堂がありました。この古いお地蔵さんは来之のことを知っているかもしれませんね。


私は天国だの来世だのといったものの存在を信じていませんし、人間の意識は生きている間がすべてだと考えています。しかし「もしあの世というものがあるとしたら」と想像してあれこれ楽しむのは、生き残った者の権利でしょう。私は天上で来之が捌として連句を巻き、そこに冬野虹が参加している様子を思い浮かべます。虹が提出する奇抜な付句を見て、来之は目を白黒させているだろうなあ、そんな光景を空想してほほえむのです。

* * *

本法寺では本阿弥光悦が作庭した「巴の庭」を拝観することができます。また涅槃会のころには長谷川等伯筆の涅槃図が公開されます。もし西陣あたりを観光で訪れることがあれば、よかったら本法寺にもお立ち寄りいただき、共同墓や来之の墓にもお参りくだされば嬉しく存じます。

早川来之 冬野虹と同じ墓園に眠る俳人(前編)


京都・本法寺の長谷川等伯像

はるかもめ???

「『はるかもめ・しゃらい』ってどういう人か、わからないかしら?」と妻の冬野虹が言う。私は人名辞典や俳句辞典を調べましたが、虹の生前にはとうとうその人物のことはわかりませんでした。

* * *

いきさつはこうです。虹の8歳年上のお姉さん、裕代は33歳で亡くなりました。母親は婚家から遺骨を分けてもらい、縁のある京都・上京区の日蓮宗本山、本法寺の共同墓地にそれを納め、春秋の彼岸に供養をしていました。

裕代は虹がもっとも慕った人で、子どものころから姉の後をついて歩いていました。彼女の創作にとって、姉の早すぎる死への無念の思いは、重要な創作動機になっていたと思います。そんなことがあって、彼女が京都に行くときには必ず本法寺の墓にお参りしていました。

墓地の入り口に、由緒ありげな墓が一基立っています。そこには「春鷗舎来之墓」ときれいな字で彫られてあります。


春鷗舎来之墓

何か粋な人物めいた名前。俳人でしょうか、それとも川柳人でしょうか。そこに虹は興味を持ったのですが、正体はつかめませんでした。

春鷗舎来と石に刻まれているを見るたび春の雪ふる  冬野 虹

ところが先日「蕪村全集」の中の蕪村年譜を調べていて、思わず「アッ」と声を上げました。安永4年(1775年)のところに次のような事項が載っていたのです。

○秋 嵐山編『猿利口』刊行(明和9年8月自序、安永4年秋・春鷗舎来之跋

なんと、こんなところにハルカモメ氏の名前があるではありませんか。この人は蕪村と同時代の俳人だったわけだ。 

あらためてネットで調査を再開しました。20年前に検索した時と比べて公開されている情報ははるかに充実していて、さまざまなことがわかってきました。まずこの人物の名前は「早川来之」であり、別号が春鷗舎・四明窓だったということです。つまり、「はるかもめ・しゃらい」ではなく、「しゅんおうしゃ・らいし」が正しかったのです! 1714年生-1795年9月27日没、享年82歳。蕪村より2歳年上ですが、没年は蕪村の11年後、高井几董よりも6年遅く、当時としては長寿であったことがわかります。大坂生まれで京都・小川今出川上ルに居住したといいます。

来之は松木竿秋(1696-1772)門下、さらに竿秋は松木淡々(1674-1761)の弟子でした。淡々はもと江戸で榎本其角に師事し、其角の死後に京都に転居しました。『朝日日本歴史人物事典』で「松木淡々」を引くと

淡々は、経営の才があり、生活も豪奢を極め、性格ははなはだ俗臭を帯びていたといわれる。その俳風は、晦渋で、高踏を装って人を弄するところがあり、詩としての価値は認められない。

と散々の書かれようです。何はともあれ来之はその淡々の孫弟子であったわけです。

梅を愛した能書家の俳人

来之が跋を書いた嵐山編『猿利口』ですが、嵐山は蕪村や几董と親交があった俳人でした。もともと江戸生まれ、京都に移住しましたが、洛西嵐山の風景に魅了され、俳号も竹護窓嵐山と改めました。生前に『猿利口』という撰集(知己の発句を集めたアンソロジー)を編纂していたのですが、出版がかなわぬうちに死去しました。生前から清書稿の作成を頼まれていた来之が跋文も執筆することになった次第でした。

当時の木版出版物は、まず誰かが清書稿(版下)を書き、それをなぞって版木を彫り、刷りに回します。来之は『猿利口』だけでなく、炭大祇の遺稿である『大祇句選』の版下も書いていたようです。門流を越えて彼が版下制作を依頼されたのは、おそらく来之が達筆であったことが理由ではないかと私は推測しています。下の画像は彼の自筆ですが、すっきりとして端正ですね。ひいき目かもしれませんが、恬淡たる性格が感じられるように思います。墓碑の「来之」の字と比べていただけると、墓の春鷗舎来之と俳人早川来之が同一人であることが確認できます。(墓碑銘は生前に自分で書いておいたのでしょう)

では『猿利口』に収録された来之の発句を見てみましょう。3句掲載されています。

吹/\て月のこぼるゝ野分かな
深草を粟に追るゝうづらかな
拵(こしらへ)て親に引(ひか)せる鳴子かな

1句目、「野分」に「夕の月」が付合です(俳諧の付合についてはこちらを参照)。強風が月を吹き飛ばしたというのは類想の多い表現ですが、そういう典型的な風景を詠むことが来之にとっては望ましい句境なのでした。

2句目は「深草」と「粟」がともに「鶉」の付合です。「粟鶉」は古来和歌にも詠まれ、画題ともされてきたテーマ。全体としては藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里」の本歌取りで、粟畑から鶉が追い立てられている情景です。

3句目、「引く」と「鳴子の縄」が付合。子どもが作った鳴子を親が引いて遊んでみせる。こういう句を見ると、来之サンはけっこう子煩悩だったかもしれません。

続いて、新年の刷り物に紹介された句を読んでみます。江戸時代には、各宗匠は正月に一門の発句や連句を掲載した冊子を出版し、自派のPRにつとめていました。それらは「歳旦帳」「春興集」「初懐紙」「除元集」などと名づけられ、門下だけではなく親しい有力俳人からも出句をしてもらっていました。来之もそうしたパンフレットを発行しています。まずは他派の正月冊子に寄稿した彼の発句から見ていきましょう。

梅が香や美人に逢へる夢心 (岡五雲編 1779年「歳旦」より)

梅のよい香りをかぐと、夢の中で美人に逢ったみたいなぽーっとした気持ちになるよという句。彼には「春雨やよき人やどる草の軒」という句もありますから、来之サン、美人には弱かったかも。

何人(なにびと)の栖(すみか)と梅の古木町 (井上重厚編 1782年「初懐紙 落柿舎」より)

「古木町」は京都市上京区の町名で、茶人や風炉師(茶釜用の炉などを作る陶工)が住んでいたといいます。周辺には尾形光琳・乾山の墓所である泉妙寺や本阿弥光悦の江戸屋敷などもありました。来之の家からも近く、このへんは散歩ルートだったかもしれません。風流人たちが住む町を歩きながら、素敵な梅を咲かせているこの家はどなたの御宅かと興味を惹かれた様子です。


京都市上京区古木町の現況

木つたふて香の流るゝや雨の梅 (高井几董編 1787年「初懐紙」より)

来之には梅の句が多い。これは私が目にした出版物の多くが正月の冊子であったことも影響しているでしょうが、それにしても梅が好きだったことは間違いないでしょう。

雪とけや金商人の屋しき跡 (高井几董編 1786年「初懐紙」より)

「金商人(かねあきゅうど)」とは、砂金などを売買する人かあるいは両替商のこと。雪が解けてしまうように、金商人も破産して屋敷はなくなってしまった。金儲けする人間への反発心のようなものが垣間見えます。来之がどのような職業に就いていたのかは明らかではありませんが、あまり蓄財は得意ではなかったかもしれません。

かげろふや捨置く鍬の光より (高井几董編 1780年「初懐紙」より)

来之にはわりと旧弊な感じの句が多いのですが、この句などはモノに即していて比較的新しい視点であると言えます。

鴨川沿いのそぞろ歩き

次に来之自身が宗匠として刊行した正月冊子、「除元集」「春興集」に掲載された彼の句を読んでみます。

今日でも俳句の出版物はそう売れるものではありませんが、当時の正月冊子も販売に多くを期待しての発行とは思えません。門人たちから出句料をとって宗匠の収入とし、関係先へはPRのため無償で配布していたのではと想像します。『春興集』に出句している門人たちの顔ぶれから察するに、来之を京で支えていた主要な門人は30人程度ではなかったかと思います。このほかに、地方在住で点付を乞うてくる門人や、常連ではない作者を加えて、総勢60~90名といったところでしょうか。とくに岡山方面の作者の名前を多く見ることができます。では来之の作品-

物ねぎるよい女房や年の市 1785年「除元集」より)

値切りのうまい奥さんは貴重戦力。

ともに泣医者の麁相(そそう)や涅槃像 1785年「除元集」より)

本法寺は絵師の長谷川等伯と非常に縁が深い寺で、境内には等伯の銅像が立ち、また等伯作の涅槃図を所蔵しています。涅槃図には「耆婆(ぎば)大臣」という医師の祖と言われる人物を描く決まりになっています。医師は人の死にも表情を変えてはいけないのだが、釈迦の命を救えなかったので耆婆大臣はうかつにも泣いているよという句。掲句はあるいは等伯の涅槃図に発想を得たのかもしれません。

む月始の夜春風いまだ寒けれとさすがに月のよそひのなつかしければ酒興にうかれて鴨涯をめぐる
川上にちどり啼なり春の月 1790年「春興集」より)
加茂の水川下よりやぬるみけん 1791年「春興集」より)
川上や藤を潜(くぐり)て筏行 同)

 一句目の前書き、「鴨涯」とは鴨川の岸辺のこと。京都に住んだフランス文学者の生島遼一に『鴨涯日日』『鴨涯雑記』という随筆集があります。鴨川を愛し、その岸辺を歩きながら季節を楽しむ来之のゆったりした心持ちには、共感できますね。

いとゆふや俤かはる北の山 1790年「春興集」より)
残雪や比良のこなたは春の山 同)

山/\のすがたはみえず春の雨」の句もあります。鴨川べりをそぞろ歩きしながら、周囲の山々に思いをはせることが多かったようです。比良山は昔は京の町中からもっとよく見えたと言います。

次回は来之の連句を読んでいきます。

2022-08-26

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(5)-発句の場合


飯島耕一『『虚栗』の時代』

発句と「付合」-西鶴の場合

ここまで寄合(付合)が連歌・謡曲・連句でどのように利用されてきたかを見てきました。では最後に、発句の中では付合がどう用いられていたかを、井原西鶴を例にして見ていきたいと思います。

連句の場合は前句と後句が付合語によって結ばれたわけですが、発句の場合は一句の中に付合関係にある二つ以上の題材が埋めこまれることになります。

では、西鶴の発句です。

蛤や塩干(しおい)に見へぬ沖の石

「汐」に「蛤」が付合。百人一首にも収録された二条院讃岐の「わが袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」のパロディです。「干潮でも見えない沖の石・・・ありゃ違った、見えないのは石じゃなくて蛤だった」とひっくり返してみせたパロディ句。ひょっとするとエロ句? (「見へぬ」は「見えぬ」が正しい表記)

脉(みゃく)のあがる手を合してよ無常鳥

奥さんが亡くなった時の句。「無常鳥」はホトトギスの別名。俳諧類船集には「郭公(ほととぎす)」の付合に「死出の山」が挙がっています。死後の世界に通じるというホトトギスよ、脈の止まった妻の手を合掌させてやってくれ、という句。

以下、句意の説明は略して付合語だけを赤字で表示してみます。

花にや暮れて無常を観心寺
二のや一もり長者箕面
きげん方(はう)是も庭鳥あはせ (奇験方=瘡の薬)
ぞ時をしらざる山卯木
古里やに匂ひける(かや)のから
荒し宿やびんぼうまねく
/\の朝也夕食(ゆふげ)也
人の気に船さす池の(はちす)哉
竿持すに年の暮
や不断時雨るゝ元箱根

これらは一例ですが、西鶴が発句の内部でもしばしば付合を使用していたことがわかります。これは西鶴が、定番のマンネリ題材を好んでいたことを示します。彼は「梅に鴬、松に雪、藤に松、紅葉に鹿、花に蝶、水に蛙というような決まった付けをするのが正しい道である」と言っています。同時代の芭蕉が付合の類型化した発想を避けようとしたのとは、まさに正反対の方向だと言えるでしょう。当時の風潮としては、芭蕉よりも西鶴のほうが俳壇全体の志向に近かったのではないかと考えられますが。

芭蕉と其角ではどちらが新しかったのか

さてここで、松尾芭蕉の有名な

古池や蛙飛こむ水のをと

の句について考えてみましょう。 

この句は最初、「蛙飛こむ水のをと」の部分があって上五が定まっていなかった。弟子たちに「上五はどのような表現がよいか?」と尋ねると、其角が「山吹や」ではどうかと答えた。芭蕉はそれを退けて、「古池や」と定めたとされています。

ここで注目されるのは、「山吹」と「蛙」は寄合であり付合でもあったということです。連珠合璧集と俳諧類船集から、「山吹」の項目を見てみましょう。

山吹トアラバ、八重山吹
花色衣 いはぬ色 とへどこたへず 口なし 河津鳴 井でのさ名所猶多  あがたの糸井戸  事のはしげき 連珠合璧集)

款冬ヤマブキ) (一名)おもかげ草
霞の笆 鴬  衣の色 井手の玉川 吉野川 清滝川 蛤 河辺 宇治の川頼 神なび川の岸 橘のこじま 木曽殿の妾 鮒なます 真かね 水無
しろききぬやまぶきなどのなれたるきてとは紫上北山にての事也。
かはづ鳴まのの池辺を見わたせば岸の山吹花さきにけり。(後略) (俳諧類船集)

其角の案について、支考は「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実(じつ)也。実は古今の貫道なればならし」と記述しています(各務支考『葛の松原』)。其角は定番の「山吹-蛙」の組み合わせがいいのではないかと考えたのに対し、芭蕉は常套を排して実感を重視すべきだと考えた。ここだけ見ると、其角は西鶴同様に守旧的で芭蕉は革新的というように見えます。

しかしこれを、其角の側から考えてみましょう。この句のポイントは、蛙が飛びこむ水の音を描いたというところにあります。和歌や連歌では、蛙は鳴き声を賞美すべきものだとされていた。それをひっくり返して「飛びこむ音」に注目したのが大発見。其角からするとその点だけで十分、それ以外の部分は既成の常套表現を使ったほうが、芭蕉の発見がきわだつと思ったのではないでしょうか。

こうした其角の考えは、「既製品(レディ・メイド)」についての現代美術の思想を連想させます。マルセル・デュシャンという美術家は、たとえば市販の便器に「泉」という題を付けてそのまま展示したり、モナリザの安物の絵葉書にヒゲを書き加えて彼女はお尻が熱い」という作品を発表したりしました。こうした彼の試みは、「芸術の真の価値は作品の中だけにあるのではなく、作者の見かた、あるいは鑑賞者の見かたそのものの中にある」ということを主張したと思われます。あらゆる芸術は見かた次第だ、ということです。デュシャンの思想は大きな影響を与え、アンディ・ウォーホルはスープの缶をそのままのっぺりと描いたりマリリン・モンローの写真を利用した版画を大量生産したりしました。ジャスパー・ジョーンズは銃の標的星条旗を絵の題材としました。

其角の俳諧では、古い伝統的な表現を再利用し、その一部を壊すことで元の世界をひっくり返そうとするやりかたをしばしば見ることができます。デュシャン的です。芭蕉のように根本から写実的に描こうとするのではなく、既製品を利用しながら内容を換骨奪胎する方法です。そのようなデペイズマン的手法が現代のダダイストの興味を引き寄せ、たとえば加藤郁乎のような其角支持者を生んだと言えるでしょう。

芭蕉は俳諧に独創性をもとめ、個性の実現を追求した。そのために、より現実に接近することをこころざした。対して其角はレディ・メイドの中から新鮮な視点を掘りだそうとした。さて、芭蕉と其角ではどちらの考えが現代的なのでしょう。あるいは、「古池」と「山吹」ではどちらが発句として優れているでしょう。それについては、ここでは答えを保留したいと思います。皆さん自身が考えてみてください。

詩人の飯島耕一は、次のようなことを書いています。なかなか含蓄のある言いまわしだと思うので、ここで紹介しておきます。

「古池や」はたしかに面白い句であるが、「山吹や」も捨て難い。そういう視点を持たないと其角びいきにはなれないのだ。 
「古池や」を玄妙な、さらに幽邃な境地を詠んだ句と見るか、和歌にあっては蛙は山吹とともに静かに詠まれるべき題材であって、それを古池にポチャンととびこませたりする、芭蕉の滑稽好みの句と見るかは、一つの句解釈のわかれ目というものである。
  --飯島耕一『『虚栗』の時代 芭蕉と其角と西鶴と』より 

2022-08-19

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(4)-芭蕉の改革

 
小学館・新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集②』より「連句編」

芭蕉連句の変遷

前回は、連歌の「寄合」が俳諧では「付合」という概念に変わっていったこと、俳諧の付合は連歌の寄合よりも自由にアレンジ可能だったこと、芭蕉も付合集を利用していたがそれほど熱心ではなかったことなどを説明しました。

芭蕉は連句、発句の両方の分野で改革を目指した人ですが、では連句ではどのように作風を変えていったのか、「付合」という面から考えてみようと思います。

以下の表は、連句一巻の中で付合集を使った付けが何句あるかを一覧にしたものです。芭蕉の連句からは主要な歌仙を10例選びました。比較のため、芭蕉以前の例として西山宗因の「蚊柱はの巻」、芭蕉以後の例として与謝蕪村の連句4巻についても調べました。付合を使っているかどうかは『俳諧類船集』を基準にして判定しましたが、なかなか判定が難しいため誤差はあると思います。正確な数字よりもおよその傾向を見ていってください。

巻 名制作年参加者句数付合集
による
付の数
宗因蚊柱はの巻1673西山宗因(独吟)10034
蕉門
実や月の巻1678桃青、二葉子、紀子、卜尺3613
詩あきんどの巻1682其角、芭蕉364
狂句こがらしのの巻1684芭蕉、野水、荷兮、重五、
杜国、正平
363
木のもとにの巻1689芭蕉、珍碩、曲水362
市中はの巻1690凡兆、芭蕉、去来360
灰汁桶のの巻1690凡兆、芭蕉、野水、去来364
鳶の羽もの巻1690去来、芭蕉、凡兆、史邦362
むめがゝにの巻1694芭蕉、野坡361
空豆のの巻1694孤屋、芭蕉、岱水、利牛360
猿蓑にの巻1694沾圃、芭蕉、支考、惟然360
蕪村
菜の花やの巻1774蕪村、樗良、几董368
春惜しむの巻1778几董、大魯、蕪村362
牡丹散ての巻1780蕪村、几董362
曲水やの巻1783維駒、蕪村、田福362

談林派の主導者であった宗因の場合、全体が百韻で句数が多いということはあるにしても、3句に1句以上で付合を利用しています。付合集重視の連句の進行であったことがよくわかります。

芭蕉の場合、1678年の「実や月の巻」では付合の率が高い。やはり3句に1句以上になります。前回見た1679年の「見渡せばの巻」でも高比率でした。ただしどちらの場合も、芭蕉自身の句では採用率は低く、他の連衆が付合を好んで使っていた点には留意が必要です。

1682年の「詩あきんどの巻」から急にその比率が下がっていきます。芭蕉は1680年に深川に転居し、82年に俳号を桃青から芭蕉に変更しました。このころから、意識的に彼は作風の転換を図ったということが、上表からはっきりわかります。

晩年になると付合利用がまったく見られない巻も出てきます。芭蕉とその弟子が付合集をほぼ卒業したことがわかるでしょう。

蕪村の場合をチェックすると、1774年の「菜の花やの巻」では高い利用率が見られますが、芭蕉に関する研究が進んだ後年からは使用が減っています(1778年の「春惜しむの巻」は以前このブログで鑑賞した、大魯を交えての連句です)。芭蕉の変革以後、連句における付合集の役割は小さいものになっていきました。今日行われている現代連句では、付合という概念はほとんど使用されません。寄合や付合ということを聞いたことがないアマチュア連句人も多いことでしょう。

物付、心付、余情付

連句での付句の付けかたとしては、大きく言って3通りがあるとされます。

1) 物付・・・前句に出てくる事物と関係がある事物を出す付けかた

2) 心付・・・前句の意味や雰囲気を受けてそれを引き継ぐ付けかた

3) 余情付・・・前句と直接のつながりはないが、情感が前句と通うところがある付けかた。詩的連想に支えられた付けかた

付合集が示唆する付というのは、おおよそ1)か2)の付けかたなのです。芭蕉自身は『去来抄』の中で「昔(貞門時代)は物付、中頃(談林時代)は心付がもっぱらであった。我々は〈移り・響・匂・位〉に基づく付けかた(すなわち余情付)をもって良しとする」と語っています。こうした意図的な「付」改革の意図が、芭蕉を付合集から遠ざけたと言っていいでしょう。

ただし向井去来は「一巻の中に物付の句が1~2句あるのは構わない」と言っています。連句は緩急のペース変化が大事なので、あまり最初から最後まで詩的に緊張した付けが続くと精神的に疲れてしまう。だから物付ですんなり流すところがあってもいいと考えたのでしょう。それゆえ芭蕉も一巻の中で付合を使った句が数句程度あるのは構わないと見ていたと思います。

2022-08-14

俳人・連句人・能楽愛好者のための寄合入門(3)-連句の場合

 
高瀬梅盛『俳諧類船集』(1677年刊)

今回は「寄合」がどのように俳諧(連句)に引き継がれていったか、また松尾芭蕉はどのようにこの技法を扱ったかという話をします。


「寄合」から「付合」へー『俳諧類船集』

俳諧は西暦1500年頃に連歌から分離していくのですが、「寄合」の技法は俳諧にも引き継がれます。しかし連歌と俳諧では材料として使う用語も表現する世界も違うので、俳諧独自の寄合集が必要になってきました。たとえば1645年に松江重頼が刊行した『毛吹草』は俳諧創作のためのマニュアル本ですが、中には寄合を集めた章も含みます。

そのような背景のもと、画期的な集が刊行されました。1669年に京都の高瀬梅盛が著した『便船集』、そして1677年にその全面増補改訂版として同じ梅盛が刊行した『俳諧類船集』です。

『俳諧類船集』は連歌の寄合集とは若干性格が違うものになっています。まず収録される題が歌語に限定されず、俳言の範囲まで拡張されて増え、見出し題が『連珠合璧集』は886だったのが、『俳諧類船集』では約2700題に達しています。また『連珠合璧集』はあくまで文学の中での連想語を示すものだったのに対し、俳諧類船集』は各題に解説を加え、時には歴史・民俗・博物を語る辞書的な要素を持たせています。

もう一つ大きな相違点は、連歌で「寄合」と呼ばれていたものが俳諧では「付合」と名称が変わっている点です。そのため俳諧類船集』は「寄合集」ではなく、「付合辞典」「付合語集」などと形容されます(連句では次の句を付けること自体も「付合」と言うのでややこしいのですが)。「日本国語大辞典」では寄合と付合の違いについて

寄合が用語、題材など形式的なものに関係があるのに対して、(付合は)もっと広く情趣、心情など内容的なものまでをさす。

と説明しています。これだけだといま一つわかりにくいですね。後で実例を見ながらあらためて検討します。

俳諧類船集』の一項目、「納豆」を引用してみましょう。

[ナトウ]
汁 観音寺 浜 寺の年玉
作善の斎非時一山の参会などの汁は無造作にしてよし。浄福寺の納豆はことによしとぞ。念仏講やおとりこしや題目講はめんめんの思ひ思ひの信仰なり。

そもそも「納豆」という大衆的な食物は、連歌で使われることはありませんし、連歌寄合集にも出てきません。いかにも俳諧的な主題です。付合語(寄合)として挙がっているのは、「(納豆)汁、(滋賀の)観音寺、(浜松の)浜名納豆、寺の年玉(年始のふるまい)」の4つです。さらに解説が加わり、「法事のときや寺の食事では納豆汁は簡単に作って良い。奈良の浄福寺の納豆はとくにうまいそうだ。念仏講、浄土真宗の報恩講、日蓮宗の題目講では納豆汁が振る舞われるが、それぞれの信仰に基づくものである」と書いてあります。これを見ると、江戸時代の関西における納豆文化がよくわかり、貴重な民俗資料ともなっています。

芭蕉はどのように付合を利用したか

芭蕉は実際の連句でどのように「付合」を用いていたか、作品に即して見ていきましょう。ここで例とするのは、1679年、芭蕉が36歳の時の作品「見渡せば」の巻です。桃青と名乗って談林の影響下にあった時代で、後年の蕉風連句とは趣が異なります。小西似春、土屋四友との百韻連句で、この2人が関西に行脚するにあたっての送別吟でした。四友は脇句のみを付けていて、実質的には芭蕉(桃青)と似春の両吟です。百韻という長い作品なので、付合に関係するところを拾い読みしましょう。付合は『俳諧類船集』に準拠して判断します。(以下類船集と略記)

連句の鑑賞に付き合うのが面倒くさいという方は、飛ばして最後のまとめだけ読んでもらってもかまいません。

1 見渡せば詠(ながむ)れば見れば須磨の秋   桃青
2 桂の帆ばしら十分の月            
四友
3 さかづきにふみをとばする雁鳴て       
似春
4 
山は錦に歌よむもあり            似春

発句は桃青。関西に旅立つ二人のために、須磨の秋を詠んでみせました。藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」の本歌取りです。

脇句、発句の「詠(ナガメ)」に対して「月」が付合です。月の定座は百韻の場合7句目ですが、発句が秋の際には第三までに月を出す決まりなのでここで出しました。中国の伝説では月には桂の木(中国ではモクセイを指す)が生えているとされるので、月を舟に見立てて、桂で作った帆柱の帆を十分に張っていると詠みました。

第三、前句の「月」に対し「かりがね」が付合。月見の酒宴、雁が飛んでいくのが見える。その脚には文が結び付けられているであろうか、という句意。前漢の蘇武が匈奴に捕らえられた時、雁の脚に救出を求める手紙を結び付けて送ったという故事に基づきます。

4句目、この酒宴を月見ではなく紅葉見に転じました。人々は紅葉の歌を詠んでいます。

5 ゑぼし着て家に帰ると人やいふ        桃青
6 うけたまはりし日傭大将(ひようだいしよう) 
桃青
7 備(そなへ)には鋤鍬魚鱗鶴のはし      
似春
8 
前ははたけに峰高うして           似春

類船集では「錦」に対し「帰る古里」が付合語になっているのですが(故郷に錦を飾る、の慣用句から)、5句目の「家に帰る」はそれに準じているのかもしれません。山は紅葉の錦で、人は烏帽子で身を飾るのです。

6句目、烏帽子をかぶった日雇い人足の大将が仕事を仰せつかって、その帰り道。

7句目ですが、類船集では「鋤」の付合に「日傭」が挙がっています。ということは、六句目「日傭」から七句目「鋤」への付は「題」⇒「付合」ではなく「付合」⇒「題」という連想になっています。以前見た連歌、「水無瀬三吟」ではそういう逆モーションはなかったのですが、俳諧では普通にあることのようです。
日傭大将は仕事の備えとして鋤、鍬、鶴嘴を置いているよという句意。大将を侍大将になぞらえて、「鶴翼・魚鱗の陣」の口調を滑稽に織り込んでいます。

8句目、「鋤」の付合に「田畑」があるので畑をもってきました。

ここから少し飛ばして、29句目に行きます。二ノ表の真ん中あたりです。

29 狼や香の衣に散紅葉            桃青
30 骸(かばね)導く僧正が谷         
似春
31 一喧嘩岩に残りし太刀の跡         
桃青
32 処(ところ)立のく波の瀬兵衛(せひょうえ)似春

29句目は「狼に衣」のことわざをもじったもので、狼が香染の衣を着て人に化けている。

30句目、類船集では「骸」の付合に「狼」が出ているのですが、「狼」⇒「骸」の逆モーションの付になっています。

31句目、鞍馬の僧正が谷は牛若丸が武芸の稽古をした場所で、岩に太刀で切りつけた跡が残るという故事に基づく。

32句目、前句の喧嘩はやくざ者の出入りと読み替えて、「波の瀬兵衛」という架空の人物がショバを譲った話ということにしました。

33 今ははやすり切果て飛ほたる        桃青
34 賢の似せそこなひ竹の一村(ひとむら)   似春
35 鋸を挽て帰りし短気もの          桃青
36 おのれが胸の火事場空しく         似春

33句目、「波の瀬兵衛」は今や零落して擦り切れた蛍も同然の姿です。

34句目、蛍は実際に飛んでいるものと見なして、それが竹の一叢に迷い込んでいった。昔の中国に「竹林の七賢」という、竹林の中の室で清談を交わした賢人たちがいましたが、この蛍が迷い込んだのは賢人ぶった偽物がいる竹林。
「蛍」に「庭の若竹」が付合とされます。

35句目、偽賢人はいたって短気なので、鋸で竹を伐って帰っていってしまった。

36句目、短気者が竹を鋸で切ったのは、燃える怒りをしずめるためだったのだが、おかげで胸の中の火事も消えていった。
ここで前句の「鋸」を類船集で調べると、解説のところに「火けし道具に鋸は重宝とぞ」という一文があります。火事が起きると、町火消などは周囲の建物を鋸で切り倒して延焼を防いでいたことがわかります。つまりここでの「火事場」という付は、単に付合語を参照して付けられたのではなく、解説に書かれたような状況を広くイメージした上で考えられているということです。
連歌の場合は、寄合集とは連想される単語・成語を並べたもので、実際それらの語はそのままの形で使用されていたのですが、俳諧の付合は必ずしも特定の語に拘束されず、全体として付合集が示すような情趣を表現できていればそれで良しと考えられました。
「日本国語大辞典」で「寄合が用語、題材など形式的なものに関係があるのに対して、(付合は)もっと広く情趣、心情など内容的なものまでをさす」と定義していたのは、このへんの事情を言っていると思われます。

ここからまた飛んで、64句目を読みます。三折表の折端(最終句)から三折裏にかけての部分です。

64 秋を通さぬ中の関口            桃青
65 寂滅の貝ふき立(たつ)る初嵐       似春
66 石こづめなる山本の雲           桃青
67 大地震つづいて龍やのぼるらむ       
似春
68 長(たけ)十丈の鯰なりけり        桃青

64句目、この秋、関所は人を通さない。

65句目、「貝ふき立つる」というのは山伏のことなのですが、類船集には「関」の付合として「偽山伏」というのが上がっています。義経の一行が山伏に変装して逃げようとして、安宅の関で止められたという謡曲「安宅」の筋に基づく。このように、「偽山伏」という直接の付合語を用いずに、山伏を暗示する「貝ふき立る」で代替することができるというのが、連歌ではありえない、俳諧ならではの表現です。初嵐の中、物寂しいほら貝を吹く山伏が、関所で足止めを喰らったという句意。

66句目、「石こづめ」とは人を穴の中に入れて、小石を無数に投げ入れて生き埋めにする処刑法。句意がわかりにくいのですが、山伏が石子詰めにされて、その山の麓からは雲が立ちのぼっているということでしょうか?

追記:「石子詰め」について民俗学者の方から貴重な教示をいただきました。山伏の石子詰めというのは、修験道の究極の到達点である「土中入定」を指すそうです。生きたまま土中に埋めてもらい、即身仏としてミイラ化する儀式。桃青さんはそういうこともよく知っていたんですね。

67句目、石子詰めにされたのは実は龍の化身で、大地震とともに龍が雲となって天に昇っていった。

68句目、その龍は実は巨大な鯰であった。ここの付合がなかなか面白いのですが、類船集の「鯰」の項目は次のように記述されています。

[ナマヅ]
刀の鞘 地震 人の肌 瓢 池 竹生島 弁才天
近江の湖にはことに大なる鯰のすめるとかや。泥ふかき堀の底おほくすめる物也。神のの池にも大なる有とぞ。此日本国は鯰がいただきてをるといひならはせり。

前句の「地震」から「鯰」の題が連想されるという、ここも逆モーションの付合です。で、問題は「此日本国は鯰がいただきてをるといひならはせり」の部分で、鯰が地底で地震を起こすという俗信がここで語られています。ですが図像学的に言うと、江戸時代初期までは地震を起こすのは地の底にいる龍だと考えられていたのです。それがどこかで鯰に置き換えられていきました。そして鯰が地震を起こすということを記したわが国最古の書籍は、この類船集なのです(正確に言うと前身の『便船集』にすでに記述があります)。だから芭蕉が「鯰」⇒「地震」という連想をしたということは、彼が類船集を手元に置いて参照していた可能性がきわめて高いことの証拠になると考えられます。

まとめ-芭蕉連句における付合の意味

「見渡せば」の巻の分析から、次のようなことが言えるかと思います。

  • 連歌の寄合では「題」⇒「寄合」という連想が中心であったのに対し、俳諧では「題」⇒「付合」と「付合」⇒「題」の両方がある。
    このことは、連歌の言語感覚では特定の歌語が題として重視され、その下に寄合がぶら下がるというヒエラルキー構造を持っていたのに対し、俳諧では題も付合も平等な相互関係にあるというフラットな言語観があったと考えられる。
  • 連歌の場合は寄合は寄合集に記載してある語彙をほぼそのまま利用するのに対し、俳諧の場合は情趣さえ通うなら付合の表現は変えていいとされた。連歌が「形重視」であるのに対し、俳諧は「内容重視」で自由度が高い。
  • 付合を利用した句を出しているのはもっぱら似春で、桃青はごく少ない。このことは、芭蕉が付合集に寄りかかったマンネリ発想を好んでいなかったことを示すのであろう。鯰の句をはじめ、桃青にも付合を使った句が皆無ではないので、そうしたやりかたを否定してたわけではないだろうが、採用に積極的ではなかった。こうした芭蕉の志向は、この後の蕉門俳諧の傾向に大きな影響を与えることになろう。

芭蕉と付合(寄合)の関係については、もう一度続きを書くつもりです。

俳諧類船集』の原文を読みたいという方は、『連珠合璧集』同様に「日本文学Web図書館 和歌・連歌・俳諧ライブラリー」に全文が収録されています。