2022-12-27

横井也有 荷風も認めた名文家(4) 掟破りの作句術


石川淳『江戸文学掌記』

タブーを超えた也有の句

也有の発句を読んでいて驚かされるのは、俳句入門書で「こういうことはやってはいけません」と書いてあるタブーを平気で踏み破っていることです。踏み破っているからダメな句だと断罪できれば話は簡単なのですが、そういう発句がめっぽう面白い。

どういうタブーかというと、擬人法、見立て、トンチ、季重なりといった、一般に良くないと思われる手法を堂々と使うのです。私も、他人の俳句を批評するときに「この句は安易な擬人法で幼稚だ」「見立て俳句は詩的ではない」などと批判的に言うことが多いのですが、也有の場合はその常識が当てはまりません。なぜ例外なのかを、一つ一つ考えてみましょう。

まず擬人法ですが、これがなぜ幼稚になりがちかというと、動植物や物体を心あるもののように見るのは、自分の見かたや気持をそれらに押し付けていることになりがちだからです。「カラスなぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」という替え歌がありましたが、まさにそのとおりで、「カラスはこういう気持に違いない」というように擬人法で表現するのは、自分の思い入れたっぷりの小主観をさも大したことであるかようにもてあそぶだけに終わりがちです。也有の場合はどうでしょうか。

我とわが蛻(カラ)や弔ふ蟬のこゑ

蝉が鳴いているのは自分の脱ぎ捨てた殻を弔っているのだという。実に馬鹿馬鹿しくて笑えますね。蝉が弔っているというだけで擬人法なのに、殻が死んでいると見るのは二重に擬人法です。こういう句を読むと私は

空蝉を拾い跡見る見損かな  永田耕衣
落蝉や誰かが先に落ちている

などを思い出します。耕衣の場合は擬人法ではありませんが、蝉のことをナンセンスに描いていているところが共通していて、おかしく面白い。 

さみだれや蚊遣りも雲に成たがり

蚊遣火の煙が雲になりたがっているという。極小のものと極大のものを組み合わせたところが常識を絶した発想でびっくり。笑えますねえ。

風止(やん)で本気にかへる柳哉
すゝ掃の跡や鼠のさびしがる

このあたりの句になるとやや俗臭があることは否定できませんが、それでも愉快で読む人を楽しい気分にさせてくれます。前句、柳は風に揺れているのが本来の姿だと人は思いがちだが、揺れているのはラクをしているのであって風が止んでこそ柳は本気になる。後句、年末に大掃除をして人間は気持ち良いが、鼠にとっては住み家が荒らされたようなものだ。逆転の発想です。

このように也有の擬人法にはユーモアがあり、発想が飛躍しているという美点があります。下品さや気どりがありませんし、押しつけがましい主観の強制にはなっていないと感じるのです。

次に見立て。これは比喩の一種でありますが、純粋に形態や性質を何かにたとえるというだけではなく、そこにストーリーというか理屈というか、落ちを用意する方法と言えるでしょう。下手をすると大喜利のようになります。

鼻かむで捨たる果や白木槿

たぶん八重の白木槿だな。人が美しさを賞美する木槿を捨てチリ紙に見立てたところが滑稽。

質屋へも通ふこゝろや土用干

干してるものを見ると、なんだか質屋に出すものを見繕っているような気がしてくるぜ。優雅ではない方向に徹底的に風景を落とすところが愉快。

蓮の花ひらくや筆の莟より

これはきれいな見立てです。蓮の花を墨で描いている。まるで筆がつぼみのようで、そこから花が咲くように見えるというのです。

也有の見立てはウィットの切れ味がいい。情景の本質をパッとつかむような感じです。理屈だけで比喩を言うのではなく、いかにもそうだったのだろうなあと実感を伝えるような見立てなのです。表現にもってまわったところがなくて、声調よくズバッと断言しているところが、鮮明な印象をもらたらすのでしょう。

次にトンチ。トンチというのは、ともするとサラリーマン川柳のようになるのですが、也有の場合はどうか。

螢とる子供や昼は付木うり

子供は夜は蛍火と遊び、昼は付木(マッチみたいなもの)売りのアルバイトをしている。昼も夜も火をいじっているよという冗談です。実経験ではなくことばの洒落を楽しんで作った句でしょう。

炭うりや跡から白き豆腐売

これも同じような発想。炭売りの黒と豆腐売りの白を対比させて喜んでいます。

芋むしに啼(なく)音もあらばけふの月

梅に鴬、藤にほととぎすと、鳴き声のよい鳥は花と組み合わせて賞美されますが、芋虫もいい声で鳴きさえすれば名月といっしょに讃えてもらえるのにね。

見立てと同様、トンチの切れ味が鋭い。表現に迷いがなく、発想するスピードが速い。炭売りと豆腐売りの句など、色彩がパッパッと素早く切り替わる感じです。

石川淳の也有観

石川淳は『江戸文学掌記』の「也有」の章中で「也有の俳諧はすべて雑俳といいきってはどうか」と言っています。雑俳とは前句付や笠付など、いろいろ制約を設けたうえで面白おかしい表現技巧を競うもので、川柳も雑俳の一種だったと見ることもできます。石川は藤井乙男(紫影)博士の「也有の句が余りに雑俳趣味に傾いたのは、紀逸の武玉川や川柳の家内喜多留の影響もないではなかろう」という指摘を引用しています。

也有の俳諧をすべて雑俳と見なすことには賛成できませんが、享保の前後というのは雑俳が大いに栄えた時期であるわけで、『武玉川』や『家内喜多留(柳多留)』もこのころ刊行された雑俳の句集です。也有自身が雑俳の点者になることはありませんでしたが、当時の風潮の影響を受けていた可能性は大です。最初に「也有の句はタブーを平気で踏み破っている」と書きましたが、むしろ「擬人法・見立て・トンチ」等の手法は当時としてはタブーではなく流行だったわけで、それが後に下等視されるようになったとも言えるでしょう。

季重なりの句

也有の季重なりの句についても見ていきましょう。

私は季重なりの句に対してはきびしく批評するほうです。俳句は17音しかないのに、そのうち2つ以上の題材を歳時記の中から選んでくればいいのだったら、こんな楽なことはありません。それに季語というのは連想力が強い語であるので、複数あると句の焦点がぼけやすいという弱点もあります。

もちろん絶対に季重なりがダメだというのではありません。ケースバイケースです。しかし季重なりの句の比率が非常に多い俳人を見ると、「この人ラクをしてるな」と思いますね。

では也有に多い季重なりはどうなのでしょうか。

山寺の春や仏に水仙花

水仙は冬の季語ですが、ここでは「春」と季重なりになっています。これは「すでに春であるが、山の中の寺は寒いのでまだようやく水仙が咲き始めたところである」ということを言っているわけで、山の冴えた空気を強調するためにわざと季重なりにして、平地との季節感の違いを表現しているわけです。

憎い蚊と同じ盛のほたる哉

蚊と蛍が季重なり。これは蛍を賞美したいが蚊に刺されるということで、同じ季節に良い虫と迷惑な虫がいるということを滑稽に言ってみせた。季重なりで二つの虫を比べること自体が句のねらいになっている。

犬ひとつ鹿めく庭のもみぢ哉

鹿と紅葉は、花札でわかるとおり典型的な定番組み合わせですが、庭の紅葉に犬がいると鹿みたいに見えるぜとおどけてみせた句。

このように、也有の季重なりは季語同士をぶつけるということが句のテーマになっている。必然性がある季重なりであり、けっして楽をするために季語を乱用して俳句を作っているわけではない。

現代において、写生的な作風なのに季重なりを乱用するような俳人はいかがなものかと思いますが、 也有の場合は季重なり自体が諷刺表現をねらいとしているので、それとは一線を画していると言えるでしょう

也有の価値

也有の発句をひとことで評するとすれば、「頭がいい人の句だなあ」ということになります。もし物の見かたがもうすこし低俗だったら、擬人法は鼻につく独り芝居になっていたでしょう。もしことばの切れ味が鈍かったら、見立ては小理屈に終わっていたでしょう。発想がぶっ飛んでいなかったら、トンチはただのオヤジギャグに帰結するでしょう。そしてつねにユーモアを忘れず楽天的であることが、彼の発句を愛すべきものにしています。

也有のような方法を頭の悪い人が真似をすると、とても見ていられない下品で愚かしいくすぐりに止まってしまいます。人間はともすればそうした下級のほうに流れやすいものです。前回述べたように、高浜虚子は俳句を大衆に普及する上で也有の爆笑俳句を排除し客観写生を主としましたが、そのほうが無難だからでしょう。写生のほうが嫌味が少なく、失敗しても不快な感じにはなりにくいのです。しかしその後ホトトギス派の花鳥諷詠の大勢はマンネリの袋小路に入ってしまい、今日では平板なただごと描写や小粒なデザインになりがちなように見える。そうした現在、也有の爆笑俳句もまた再評価されるべきではないでしょうか。

石川淳が「也有の俳諧はすべて雑俳といいきってはどうか」というのは、そういう考えかたもできるだろうといった程度の軽い問題提起だったろうとは思います。しかし也有を正当な俳諧からはじきだして別ジャンルに押しこめることには同意できません(雑俳そのものをいやしむつもりはありません。雑俳は雑俳で興味深い表現法です。なぜなら諧謔は俳句(俳諧)の重要な要素だからです。もし也有を俳諧の道から除外してしまったら、俳人たちはユーモアを忘れて、芭蕉の精神性や蕪村の審美性や一茶の境涯性のみが俳句の求める方向性だと思いこんでしまうでしょう。

違う言いかたをすれば、われわれが也有の俳句を常識破りと感じるとすれば、それはわれわれの感受性のほうが子規や虚子によるマインドコントロールを受けているためであるとも言えると思います。もともと也有の手法や精神は俳諧に含まれるものであった。それがホトトギスの近代的合理主義には適合しにくいものであったため脇に追いやられ、俳句の本道から逸れたものであるかのようにわれわれは思わされてきた。

ユーモアは想像力と表現の源泉として大切なものです。シェークスピアが喜劇と悲劇の両方を書いたように、あるいは能と狂言がお互いを補完しあっているように、一つのジャンルに真面目なものと笑いが同居することはきわめて重要なのです。悲劇ですらその裏にはウイットとユーモアの感覚が存在していなければなりません。

前々回、関悦史の俳句を引き合いに出して説明したように、也有の句には今後の俳句の祖型となりうるような可能性が多分にあります。彼の句を他ジャンルに押しやってしまうと、そのようなルートを断ち切ることにもなってしまいます。

也有もっと知られるべし。也有読まれるべし。このことを声を大にして申し上げる次第です。

次回は也有と一茶の比較をしてみたいと思います。