永井荷風が絶賛したエッセイ集『鶉衣』
永井荷風といえば近代の名文家ですが、その彼が「死ぬまでにこの人のような文章を一、二篇なりとも書いてみたい」と絶賛した文章家が2人います。一人は井原西鶴。もう一人が横井也有(よこい・やゆう)です。西鶴は『好色一代男』などの浮世草子で有名ですが、也有は『鶉衣』という俳文集がよく知られています。荷風の傾倒ぶりを見てみましょう。
わたしは唯自分だけの心やりとして死ぬまでにどうかして小説は西鶴美文は也有に似たものを一、二篇なりと書いて見たいと思っていたのである。『鶉衣』に収拾せられた也有の文は既に蜀山人の嘆賞措かざりし処今更後人の推賞を俟つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗読するごとに案を拍ってこの文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。その故は何かというに『鶉衣』の思想文章ほど複雑にして蘊蓄深く典故によるもの多きはない。それにもかかわらず読過其調の清明流暢なる実にわが古今の文学中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辞は『鶉衣』を織成緯となり元禄以後の俗体はその経をなしこれを彩るに也有一家の文藻と独自の奇才とを以てす。渾成完璧の語ここに至るを得て始て許さるべきものであろう。
(永井荷風「雨瀟瀟」)
荷風さん、「日本文の模範」「渾成完璧」と口をきわめて『鶉衣』をほめちぎっていますね。ここにも書いてあるとおり、也有の文章は狂歌師の大田蜀山人がその価値を認めたもので、也有死後に彼がこの文集を編集出版したのでした。
西鶴と也有の二人はどちらも俳諧師であったというのが興味ぶかいところです。西鶴の名前は皆さんご存知でしょうが、現代の俳人の中にも横井也有の名を知らない人が結構いるのは残念なことです。江戸時代の俳諧の紹介が芭蕉・蕪村・一茶あたりに偏っていることの弊害だと言えるでしょう。
也有は文章がすばらしいのは当然として、発句もじつにいい。今回あらためて全発句を読み直してみたのですが、面白くておかしくて、終始ゲラゲラ笑いながら読み進めました。俳人たるもの、これを知らないのはもったいない。ぜひあらためて、也有の俳諧や文章を紹介したいと思います。
将軍吉宗に拝謁した也有
さて、也有は元禄15年(1702)生まれ、天明3年(1783)没。芭蕉の死後8年目に生れましたが、数えで82歳という長寿だったので、蕪村の死の前年まで生きていました。芭蕉時代と蕪村時代の間は享保俳諧と呼ばれ、俳諧の堕落時代であったと見るのが一般的になっています。そのような俳句史観に対して加藤郁乎は異論を唱えているので再検討が必要ですが、この享保期にあって燦然と輝いた異色の俳人が也有であったと言えるでしょう。
也有には文筆家としての面のほかに、尾張徳川家に務める用人としての顏がありました。享保に生きたことからわかるとおり、彼の時代の将軍は徳川吉宗でした。そして彼が仕えたのは尾張藩の徳川宗春。也有は藩主のお供をして吉宗にも拝謁しています。
「大岡越前」や「暴れん坊将軍」のテレビドラマを視聴していた人ならわかると思いますが、将軍吉宗と宗春は反りが合わず、1739年に宗春は蟄居を命じられてしまいます。(テレビドラマでは宗春が吉宗を追い落とすためにさまざまな画策をしたことになっていますが、これはもちろんフィクションです)ちょうどこの時、也有は宗春に従って江戸に詰めていましたので、藩主交代騒動の渦中に巻きこまれたようです。
尾張藩重臣としての也有については、このシリーズの続きの中であらためて語るつもりですが、そもそも江戸時代に俳諧を主に支えていたのは町人層で、それに下級武士や農民が加わっていたと言えるでしょう。大名が俳諧師のパトロンになる場合もありましたが、名のある俳諧師たちはおおむねそれほど高い身分ではありませんでした。その中で也有は先祖代々の家柄で、いわば上級地方公務員の役職にありました。主要な俳諧師たちの中でも也有は高い地位にあった人物であったということは、頭に入れておきたい点です。
也有の漫画
也有は実に多芸多才の人で、俳諧や俳文のほかに和歌・狂歌・漢詩・武芸・平家琵琶・謡曲・書画などさまざまな分野に手を出しています。
俳諧については次回以降に紹介したいと思いますが、今回は也有の人物像を感じてもらうために彼が描いた漫画を紹介したいと思います。『也有大人即興漫画』として刊行され、後に『半掃菴也有翁戯作』という写しも作られた絵本の漫画です。(上の写真参照)
植物、象や犀などの動物、虫、魚、鳥などの漫画を描いて、その隣にそれらを人間に見立てたユーモア文を付け加えるという体裁をとっています。たとえばゴキブリの絵の横には次のような文章があります。
あぶら虫
人に付て芝居などへ行。
ひとのべんとうを喰ふ。
「日本国語大辞典」で「あぶらむし【油虫】」を引くと、「⑤人につきまとい、害を与えたり、無銭で飲食、遊楽などしたりするのを常習とする者をあざけっていう語。たかり」とあります。太鼓持ちのように芸を売るというのでもなく、ただ他人にからんでおこぼれを頂戴する人間のことを指すようです。也有サンもそうしたたかり屋に悩まされたことがあったかもしれません。
蚊の絵にはこんな説明文がついています。
家(か)蚊
小借屋に多し。声甚だ高し。しり大きにして手足ふとし。手の長きもあり。足袋のうらなどをさす。角あるりんきの枝などにすむ。
なんだこれはという感じですが、要するにこれは「嬶(かかあ)」のことなんですね。キンキン声で、尻が大きくて手足が太く、ヒステリーを起こすと角を出すという裏長屋のおかみさんのことを言っているわけ。今こんなことを書こうものならフェミニストの皆さんに吊るし上げられて、大炎上しそうです。
也有が何のためにこんな漫画を描いたかですが、彼自身は「若いころに親戚の病気の子に付き添ったことがあり、慰めてあげるためにこのような絵を描いた」と言っています。でもこれは信用できませんね。「あぶらむし」にしても「家蚊」にしても、子ども向けの文章とはとても思えません。本人の老後の気晴らしのために楽しんで書いたというのが本当でしょう。いい年の老人が(それも元は藩の重臣が)漫画などを描いていると馬鹿にされそうなので、子どもをだしにして言いつくろったのではないでしょうか。
ちょっと斜に構えて世の中を面白おかしく見るという也有の人柄が、これらの漫画からうかがえますね。
次回から也有の発句を読んでいきます。