虚子の也有観
高浜虚子に「俳句史」という著述があります。山崎宗鑑以降の俳句(発句)の歴史を概観したものですが、この中で横井也有について次のように書いています。
俳句精神の堕落は享保年間にその極に達したのでありますが、その間特異な存在をなすものは横井也有であります。也有は尾張の藩士で、致仕して城南前津に卜居し、『鶉衣』以下多くの俳文を遺しております。その句は概して軽妙、滑稽を主としたものでありますが、一種の趣を蔵しておって後世の一茶を思わしめるような所がないでもありません。
「致仕」とは退職して隠居すること、「卜居」とは住所を移すことを意味します。
この数行の内容について検討すべき点があるのですが、とりあえず措いておいて、続いて也有の発句を12句挙げて紹介しています。たとえば次のような句です。
山寺の春や仏に水仙花朝々の釣瓶にあがる落葉かな
信濃路は雪間を彼岸参りかな
二三枚絵馬見て晴(はる)るしぐれかな
さすがに虚子が選んだだけあって、どれも立派な句ですが、しかしここには前回紹介したような爆笑句は一句もないのです。花鳥諷詠、あるいは客観写生の枠内に入る、お行儀のよい句ばかりが並んでいます。虚子にとって都合よい選句ですが、こうなると私としては面白くない。也有と言えばゲラゲラ笑って読めるところが楽しいのであって、こういう正座した作だけなら、ほかにも詠める俳人はいくらもいる。
虚子の記事の内容についてはあらためて次回以降に考察してみたいと思いますが、今回は「写実・繊細発句編」ということで、也有の中でも折り目正しい発句を紹介したいと思います。虚子先生には今回の句のほうがお気に召しそうです。
也有の写実俳句
出がはりや行燈(あんど)に残す針の跡
江戸時代、奉公人の雇用期間は半年または一年と定められ、3月と9月が契約終了日とされていました。つまり非正規労働者保護のため、最低半年間は雇用しなければいけないと決まっていたわけですね。3月に契約が終了し、新しい奉公人と入れ替わることを「出代」と呼んでいました(9月の交替は「後の出代」という)。去っていった奉公人が、あんどんの紙に針の穴を残していった。暗いので、少しでも光量を上げて草紙本でも読もうと穴を開けたのでしょうか。細かいところを写実的に描いています。
蜘の囲のはしらによはき薄かな
クモの巣を家に見立てるなら、巣を張る草は柱といったところですが、ススキに張ったこの巣は弱そうだなあ。大丈夫かなあ。
いなづまの明りは低し富士の雪
一転して激しく豪快な句。富士山の下のほうに雲がかかっていて、頂上は突き抜けて見えている。稲妻は下の雲の中を走っている。頂上の雪と低い稲妻の組み合わせが、玄妙にして美しい。
也有は参勤交代のお供で一年おきに江戸に赴いていましたから、富士山を遠くから近くから見る機会がありました。
鐘つきのおこしてゆくや雪の竹
雪に埋もれた鐘撞堂。そこまで歩いて到達するだけでたいへん。
老の腰摘にもたゝく薺かな
自分のことを詠んでいるととってもいいし、そのほうが自然かもしれませんが、他人を描いたと見ても面白い。じいさん、薺摘みなんかやるから、言わんこっちゃない腰を叩いてるよ。
かたびらの背中放(はな)るゝすゞみ哉
汗でシャツがべったり身体にくっつくといやなものですね。かたびらとは薄い一重の着物のことですが、貼りついた着物がはがれた瞬間に涼しさを感じた。よくわかる、鋭敏な感覚の句です。
秋来ぬと聞(きく)や豆腐の磨(すり)の音
豆腐作りは、早起きして前日水に漬けておいた大豆を磨り潰すところから始まります。今はグラインダーで磨るようですが、昔は臼を使ったのでしょう。じょりじょりって音がするのかな。響きが立秋の空気の中を伝わっていく感じ、聞いてみたい。
しからるゝ子の手に光る螢かな
蛍がいてくれてよかった。
花生に葉は惘然(もうぜん)と散る椿
椿の花は床に落ち、花生けに葉ばかりが茂っている。「惘然」は気がぬけてぼんやりしているさまですが、気がぬけたとは言っても葉の生命力は強そう。モウゼンという音がいいし、「惘」は「網」を連想させて網のように葉が広がっている感じもします。
馬かたの烟捨行(すていく)かれ野哉
馬方というと、煙管を持っていて暇な時は一服しているというイメージです。馬方がトントンと煙管を打ち付けて立ち上がり去っていく。「煙を捨てていった」と鋭い表現。
幻影を描く也有
也有には写実の技量もあることがわかっていただけたと思います。一方で彼には、目に見えない幻影を描く方向性もある。
ないものゝ有物つゝむかすみ哉
この句なんか典型的。霞とそれが包む景色のことを描いているのですが、具体的なものは何も出てきません。「無い物」「有る物」の抽象的な対比だけ。こういうのって、現代美術みたいですごくモダン。
傘にふり下駄に消(きえ)けり春の雪
春の雪が傘から下駄へと落ちる間に融けてしまう。牡丹雪のはかなさを巧みに描いて写実的でもあるのですが、「まぼろしのように消えていくもの」に着眼するところに也有の指向が出ています。
夏立つや衣桁にかはる風の色
実際には夏になって衣替えして、そのため衣桁に掛けた衣の色も変わったということなのでしょうが、それを「風の色が変わった」と把握したところが鋭い。「風の色」という表現自体は中世の和歌にもありますが、衣桁に転用した発想がいい。
影法師に綿を入けり後の月
自分が綿入れを着ているのですが、影法師に綿を入れたと見た。
来べき宵蜘は告(つげ)ずも魂祭り
お盆には死者が家に帰ってくる。妖しげな虫であるクモはいつ魂が戻ってくるか知っていそうだが、それを知らせることもなく黙ってじっとしている。冷ややかで美しい句です。
ひつそりと跡に秋あるをどり哉
盆踊りが終わって櫓も片づけられた。広場には何もない。ただ、本格的な秋だけがそこに残った。ぞくぞくするような感覚的な句。
ちなみに、也有は「跡」が好きでこの字を使った句をたくさん作っています。「すゝ掃の跡や鼠のさびしがる」「引越た鍛冶やの跡の寒かな」「あし跡を浪にとらる ゝ千鳥かな」など。消えてしまったもの、目に見えないものへの也有の嗜好がよく表れていますね。
客が来て置て行(いき)けり秋の暮
これも似た発想の句。静かになったわが家にはただ秋の暮だけが残っている。
耳におく霜や夜明のかねの声
夜明けの鐘の音のさむざむとした様子を、「耳に霜を置いている」と表現した。ものすごくシャープな感覚。
どうですか、爆笑の発句だけではなくて、しみじみとしたいい句も也有にはたくさんありますね。
ところで、也有の句には仮名遣いの間違いがけっこうあります。私は必然性さえあれば俳句の表記は正書法どおりでなくても良いと考える者ですが、彼の場合は必然性があって意図的に誤記しているわけではなさそうです。原句どおりだと意味がわかりにくい個所もあるので、直してあることをお断りしておきます。
也有の発句については、もうあと何回か続けるつもりです。