也有と一茶は似ているか?
前々回に、高浜虚子が也有句について「その句は概して軽妙、滑稽を主としたものでありますが、一種の趣を蔵しておって後世の一茶を思わしめるような所がないでもありません」と書いていることを紹介しました。
たしかに也有と小林一茶は、ともに世の中を反対側から眺め、人間の滑稽な姿を描き、卑俗な題材を遠慮なく取り上げるという、俳人として似かよった部分があります。しかし両者には決定的に違うところが一つあります。
也有が諧謔的にものごとを見るのは、人間というのはみんな同じようなものだと観じているからです。「侍も農民も、金持ちも貧乏人も、若い美女も長屋のおかみさんも、しょせんはみな一緒。誰でもオナラをするし、おなかが空くし、自分勝手だし、最後はお墓に入るのさ」というように考えるからです。
也有が人間の等しさを言っていると思われる発句を挙げてみましょう。
仏さへ生れた時は木下やみ
釈迦の誕生日(灌仏)は4月8日で、江戸時代の旧暦では初夏の季語だったということに注意が必要です。お釈迦さんが生まれたときも世には闇があったんだよと、仏をからかってしまうところに、人を特別視しない也有の見かたが出ています。
大名は日当(ひなた)を通る暑(あつさ)哉
「日陰者」の反対で大名はいつも日の当たるところを通るのですが、この暑さではそれも大変だねえと、偉い人をからかう感じ。
分限者の子に下手のある躍(をどり)かな
分限者(ぶげんしゃ)とは富豪のこと。金持ちの子はすべてに恵まれているように思うけど、運動神経は悪かった。なにもかも思うようにはいかないものさ。
辻番も一もと菊のあるじかな
辻番というのは今で言えば交番のお巡りさんとかガードマンといった人ですが、辛い仕事の人でも菊を一鉢大事にしている。その一鉢が、殿様の豪華な菊の庭にも劣らない貴さであることよ。
蕣(あさがほ)の世にさへ紺の浅黄のと
たかだか朝顔の世界にも、やれ紺が良いだの浅黄は貴重だのと種別がやかましい。人間が家柄だの身分だのをうるさくいうのも、これと変わらない話、馬鹿馬鹿しいと也有は言いたげです。
強盗(がんだう)もとがめず雛の犬はりこ
盗人の捨たもそへて大根引
也有には盗人や強盗を扱った句が多い。やっていいとは言わないが、世の中にそういう人間がいるのは理解するといったところでしょうか。
野送りをけふも見て居る案山子哉
人間誰でも最後は野辺送りであの世行き。案山子だけがいつもそれを見ている。
このように、也有は上流階級も下層の人々も結局は似たようなものであり、醒めた目で見ればどちらも同じ人間、大差はないと考えるのです。
ところが一茶は...
ところが一茶の場合は、強い者と弱い者、金持ちと貧乏人はけっして同じではない。
やせ蛙まけるな一茶是にあり 一茶
太った蛙と痩せた蛙は同じではない。そして一茶は痩せ蛙のほうに味方するのです。
づぶ濡の大名を見る巨燵(こたつ)哉
上の也有の「大名は日当を通るあつさ哉」に似ている句です。しかし也有にはからかいの気分があるのに対し、一茶のほうには「ざまあみろ」という反感がより強く見てとれます。
涼(すずま)んと出(いづ)れバ下ニ下ニ哉
花陰も笠ぬげしたにしたに哉
涼もうとしても、あるいは花を見ていても、「下に下に」と言って大名行列がやってきて這いつくばらせられる。偉そうな大名と土下座する庶民との対比。
武士(さむらひ)ニ蠅を追(おは)する御馬哉
春雨や侍二人犬の供
さむらいという階級自体、一茶から見れば上位の身分ですが、そんな武士も殿様の馬の蠅を追ったり、二人がかりで犬の供をさせられたり。上の奴にはさらに上がいて、人をこき使う。
御仏や銭の中より御誕生
灌仏の際には誕生仏の像が飾られ、賽銭が要求される。尊げな顔をしていても仏様も金集めかいという皮肉。
也有の俳諧には、現実を諷刺してもその中に諦念があり、達観が見てとれます。結局人間、死んだら一緒だよという。しかし一茶の場合は現実とはそう簡単に諦めきれるものではありません。この世の身分差や生い立ちの差に何としても納得がいかない。
孤(みなしご)の我は光らぬ蛍かな
と自分の不幸を嘆いてみせる。
二人はどちらも娘を亡くしていますが、そのときの両者の句を以下に見てみましょう。
娘におくれし頃
蓑虫よ父もこひしと泣く物を 也有
同じく百ケ日に
一日の花も帰らず百日紅
露の世ハ露の世ながらさりながら 一茶
さと女笑貌して夢に見えけるままを
頬べたにあてなどしたる真瓜(まくは)哉
どちらの句も悲しみにあふれていますが、一茶が身も世もなくという感じで慟哭しているのに対し、也有のほうは「蓑虫はちちよと鳴く」という俗説を利用するとか、一日と百日を掛け合わせるとか、俳人としての立場を押さえた句作りになっています。
一茶の娘さとは彼が55歳のときにやっと生まれた初子で、翌年には病没してしまう。いっぽう也有は二男三女に恵まれており、次女さいはとにもかくにも19歳まで生きて他家に嫁して後の死でした。それだけ悲しみの量にも差があったでしょうが、それだけではなく、現実重視の一茶と醒めた也有の世界観の違いが微妙に弔句に反映しているように思えてなりません。
也有が弟の藤次郎を失った際の句に
弟の武州にて失ける悼に
鳳巾(たこ)きれてはかなき風の便かな 也有
があります。この句にはいちだんと諦観、無常観が濃く見えますね(藤次郎との関係については後述)。
也有の境涯
人間を皆同じようなものだと見る也有と、現実の格差を糾弾する一茶の違いは、二人の生まれ育ちの離れ具合が大きく反映していると考えざるをえません。尾張徳川家の臣下であった横井家と、地方の農家の息子で継母と折り合いが悪く家庭に恵まれなかった一茶の境遇の隔絶です。
しかしだからといって、也有を上流階級代表であるかのように見るのは間違いだと思います。横井家には先代からの借財があって、それを返済するのにはかなりの苦労があったようです。
この点で注目されるのが弟の藤次郎の件で、実はこれは也有の父、横井時衡(ときひら)が51歳のとき、20歳年下の下働きの町娘に手をつけて生ませた子なのです。也有と弟とは24歳も年齢差があり、しかも弟が生れて3年後に時衡が死去したので、父親代わりとして諸事面倒を見ることになったのでした。
借財の原因が何であったかはよくわかりませんが、このような行状を見るからに、少なくとも父・時衡が返済に熱心であったようには思えません。
だいたい公務員というのは昔も今も、身分は安定しているものの、まっとうに勤めている限りそう抜きんでた収入を得られるものではないでしょう。也有自身、若いころは家に金がなかったので、金持ちの家に頼みこんで俳書を見せてもらったということを書いています。也有には也有なりの苦労があったということです。
也有と一茶を比べて、どちらが上でどちらが下と比較する必要はないと思います。私にはどちらも貴重で、どちらも面白い。諦観も、現実主義も、どちらも良いではありませんか。
しかしWikipediaで「小林一茶」を調べると、膨大な解説が載っているのに、「横井也有」の記事は短めなのが残念なんだよなあ。永井荷風が「日本文の模範」とまで評した大文筆家なんだから、もう少し記述があってもいいと思うのですが。
次回は「横井也有100句選」をアップします。