『鶉衣』のいわれ
横井也有俳文集『鶉衣』のタイトルのいわれですが、也有自身が「この文集はきれぎれのとりとめもない鶉衣みたいなもんだよと言っていたらそれを聞いた人がこう命名した」と書いています。「それを聞いた人が」というのはいくぶん文飾の匂いがします。也有自身が命名したと考えたほうが自然でしょう。
鶉衣という語には、典拠があります。紀元前3世紀の中国の思想書『荀子』に次のような記述があります。
子夏は貧乏で、衣服は縣鶉(けんじゅん)のようであった。人から「なぜ仕官しないのですか」と尋ねられると、「諸侯で私に対して傲慢な態度をとる者には、臣下として仕えるつもりはない。大夫で私に対して傲慢な態度をとる者には、二度と会いたくない。爪の先の蚤ぐらいの小さな利益のために争おうとすると、手のひらまるごと失うような大変な目に遭うのだ」と答えた。
「縣鶉(懸鶉)」を『新字源』で引くと「ぶら下げた鶉の意で、破れ衣のたとえ。▷鶉の尾は、毛が抜けていることから」とあります。也有が『鶉衣』と名づけたのは、この文集はたいして価値のない寄せ集めだよという謙遜の意からですが、同時に子夏が仕官しなかったというところに共感したのではないでしょうか。
彼は陶淵明のような、官途から身を退いて隠遁生活を送った人間を手本にしてきました。尾張藩の役人として、人間関係の難しさをさんざん見てきた也有にとって、鶉衣を着て仕官を拒んだ子夏は理想とするに足る人物だったでしょう。
「蓼花巷(りょうかこう)の記」
也有は49歳で尾張藩の役職を退き、53歳で正式に隠居を認められます。それ以降、前津(現・名古屋市上前津)に設けた小庵「知雨亭」に居を移して隠棲生活を楽しみました。
今回現代語訳するのは、彼が26歳頃に書いた「蓼花巷の記」です。蓼花巷というのも若い頃に也有が所有していた小庵で、職務のかたわらときどきこの庵で心を休ませていたようです。蓼花巷が知雨亭と同一かどうかは何とも言えないのですが、若い時から彼には隠棲への嗜好があったことがわかります。
この文章には也有の人生観がはっきり表れていて、彼が自分にとって何がもっとも大切と考えていたかがよくわかる一文。まことに興味深いものです。
蓼花巷の記
一本の芭蕉、五株の柳が、持ち主(芭蕉、陶淵明)の徳によって不朽の名を残す例もある。しかし不幸なエノキは、ある僧正が榎の僧正と呼ばれたことに腹を立てて自宅のその木を斧で切ってしまい、すると切杭の僧正と呼ばれたので切株も根こそぎにしてしまい、その跡が堀になったので堀池の僧正となったということで名を伝えてしまった。
五株の柳というのは、陶淵明が自宅のまわりにある五本の柳にちなんで「五柳先生」と号していた故事にちなみます。「不幸なエノキ」の話は『徒然草』第45段にある有名なエピソードで、他人の評判を気にして生きる人間の愚かしさを諷刺した逸話です。
最初から古典の引用モード全開ですが、この段落は「蓼の花」という植物を出すための導入部で、文章の主旨には直接関係がありません。
私は官途につきながら、一つの隠れ家を持っている。これを蓼花巷と名づけた。蓼花には難しい意味はないけれども、この花が夕日に照らされた様子や朝露がそこに下りた眺めは満足のいくもので、ひともとの蓼の花にちなんで名付けた理由がないわけではない。「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」と詠った藤原俊成卿の庭も慕わしい。世俗から遠ざかった雰囲気が興ふかいので、自分でこれをとって庵の名とした。
「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」が藤原俊成の歌であるというのは間違いらしいのですが、当時そのような俗説が通っていたのかもしれません。「松茸ぞう」は「松茸でそうろう」という意味で、松茸売りの呼び声。
蓼花巷と名づけたのは、庭には蓼の穂があってそれが侘びた風情をもたらし、しかも俊成の歌を連想させるのがゆかしいからだという説明。
そもそもこのひっそりとした住まいは、仙境に近いもので、山に向かい海に沿い、川もあれば野もあり、月・雪・花・鳥と四季それぞれの詩作の題材を提供してくれ、いつ起こったとも気づかぬ松を吹く夕風、竹を打つ夜の雨までも、聞いていて嫌な気がするものはなく、見ていて不充足な気がするものもない。
後述のとおり蓼花巷は市中の端にあったようですが、沖積平野である名古屋の城下では、「山に向かい海に沿い」という条件に合う場所があったとは考えにくい。遠くに見える山脈や熱田のほうから来る潮の香を身近に引き付けた、心の中の理想化された風景ではないかと思います。
市街を出て遠くはない場所だが、興味本位だけの人が訪ねてこようとしても、たとえ神仙の術を使うものが足にまめを作って歩いてきても、万葉集に「わが庵は三輪の山本こひしくばとぶらひ来ませ杉立てる門」とあるがごとく目印もなければ迷ってしまうのであるし、新古今集に「曾の原やふせ屋におふるははきぎのありとは見えてあはぬ君かな」とあるようにどこにあるとも見定められず昼から狐に化かされてしまうのであり、伊勢物語に「駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」とあるごとく道を尋ねる人にも会えず、陶淵明が「桃源郷を再び訪ねようとしても二度と行き着くことはなかった」と書き残した具合になってしまうのである。
ただ梅の色の美しさ香りのすばらしさを知り、ともに思いを語り合うに足る風雅の人ならば、後漢書に書かれた「壺公に招かれて壺の中で接待を受けた費長房」のように、あばら家の門にすぐたどり着くことだろう。
物ずきの虫はきてなけ蓼の花
この部分に也有の精神がきわめて明瞭に表れています。この庵は彼にとっての仙境であり、俗人には訪ねてきてもらいたくない、訪ねることは不可能である。ただ「ともに思いを語り合うに足る風雅の人」とだけ交わりたいという思想です。この文章では社交を厭い風雅のみに生きたいという彼の願望が(さまざまな引用で主意をくるみながらも)読みとれます。
芭蕉とは異なる也有の理想
『鶉衣』を読んでいると、也有にとって最も価値があるのは「自由である」という感覚を保つことであるとわかります。朝寝していても誰からも文句を言われない生活。花鳥風月に心を遊ばせていても誰からも邪魔されない日々。要らない贈り物やうるさい挨拶で心を煩わされることがない人間関係。そうしたものが彼にとって何より大切なのです。
そうであればこそ、彼は「風雅を解する友」とだけ語り合いたいと願う。風雅を解する友とはどのような友でしょう。端的に言えば、「教養のある人」だと思います。彼が田園風景を見てしみじみと心に感じるのは、それが陶淵明が耕したような畑だろうと思うから。雪の景色を楽しむのは、芭蕉の「いざ行む雪見にころぶ所まで」という句を想起するから。そういう教養がなかったら、田園は単なる田舎であり、雪は気象現象でしかない。
『鶉衣』の文章に古典の引用がぎっしり詰めまれているのも、読者に教養を求めていることの証拠でしょう。「和歌とか漢文とか、めんどくさ~い」と言う人には也有は無縁なのです。
彼の自由を求める心は、生きかた自体に反映されています。也有には弟子はほとんどおらず、ただ下男であった石川文樵だけを門弟としていました。彼は自作を積極的に刊行して名を売ろうというような考えをほとんど持っておらず、句集は文樵や知楽舎達下が編集したもの。『鶉衣』は友人たちに読んでもらって楽しむためだけに書いていたので、集中しばしば「この文章を他人に見せるな」ということを言っています。
これは芭蕉のような人生観とは大きく異なります。芭蕉は門弟を多く抱え、おくのほそ道の旅では各地の俳人と交わって、蕉風を広めようと努力しました。けっして教養人とだけ交際しようとしたわけではない。
芭蕉には一定の野心があったと、私は考えます。社会的地位や金銭への執着ではない、そのような通俗的名利は否定していた。しかし文学的に価値があるものを残したいという野心は強く持っていたでしょう。『おくのほそ道』などは人工的に構成を練りに練った、磨き上げた格調高い文体で書かれていて、そこに彼の野心が感じられます。
これに対し、也有の紀行文は遊女や人足の生態をざっくばらんに描き、弁当や土地の食べ物のこともありのままに書くなど、美的技巧を練った感じがありません。文学的野心が見られないのです。そのような野心はむしろ、自分の自由を邪魔するものと思っていたでしょう。
也有自身は芭蕉のことを深く尊敬していましたし、ここで芭蕉と也有の人生観のどちらが正しいか、どちらが上かなどと論じるつもりもありません。ただ、私自身の人生観はといえば、芭蕉よりも也有のほうにはるかに近いのです。出世するつもりも有名になるつもりもない。文学的成功を願いもしない。弟子を持ったりすることで自分の時間が削られることも勘弁してほしい。自由が何よりも重要。
也有が教養人だけを友としたいと言っていたからといって、彼がお高く止まっていたとか、教養のない人間を狷介に軽蔑していたということはありません。むしろ彼はたいへんな人気者でした。隠居後は世を捨てて静かに暮らしたいと言っていたにもかかわらず、知雨亭を訪れる人がひきもきらない。書画を書いてくれ、自分の別荘に亭号を付けてそのいわれを作文してくれなどという依頼が続々と到来する。隠退したら忙しくなってしまった、断っても断っても頼まれるのでしかたなく書いたなどというボヤキが『鶉衣』の中に見られます。
頼まれるとなかなか拒否できないのが也有の性格。そのため彼の軸物や短冊などは非常に多く残っていて、名古屋の旧家で也有の書画を持っていない家はないと言われるほどだそうです。そういう彼の親切心というものにも好感を持ちます。
教養のない人間とは付き合いたくないといっても、也有に匹敵するほどの教養ある人間はそうそういるものではない。ただ、教養が大事ということを理解していて、それについて何か也有から学びたいという心を持った人を彼は大事にしたことでしょう。
さて、『鶉衣』を読むシリーズは今回で終了。
次回は「写真でたどる也有の人生」をやります。名古屋や東京で撮ってきたゆかりの土地の写真で、也有の人生をたどる紀行編です。お楽しみに。