2023-02-19

横井也有 荷風も認めた名文家(12) 『鶉衣』を読む⑥


ウズラ(大宮公園小動物園にて)

『鶉衣』のいわれ

横井也有俳文集『鶉衣』のタイトルのいわれですが、也有自身が「この文集はきれぎれのとりとめもない鶉衣みたいなもんだよと言っていたらそれを聞いた人がこう命名した」と書いています。「それを聞いた人が」というのはいくぶん文飾の匂いがします。也有自身が命名したと考えたほうが自然でしょう。

鶉衣という語には、典拠があります。紀元前3世紀の中国の思想書『荀子』に次のような記述があります。

子夏は貧乏で、衣服は縣鶉(けんじゅん)のようであった。人から「なぜ仕官しないのですか」と尋ねられると、「諸侯で私に対して傲慢な態度をとる者には、臣下として仕えるつもりはない。大夫で私に対して傲慢な態度をとる者には、二度と会いたくない。爪の先の蚤ぐらいの小さな利益のために争おうとすると、手のひらまるごと失うような大変な目に遭うのだ」と答えた。

「縣鶉(懸鶉)」を『新字源』で引くと「ぶら下げた鶉の意で、破れ衣のたとえ。▷鶉の尾は、毛が抜けていることから」とあります。也有が『鶉衣』と名づけたのは、この文集はたいして価値のない寄せ集めだよという謙遜の意からですが、同時に子夏が仕官しなかったというところに共感したのではないでしょうか。

彼は陶淵明のような、官途から身を退いて隠遁生活を送った人間を手本にしてきました。尾張藩の役人として、人間関係の難しさをさんざん見てきた也有にとって、鶉衣を着て仕官を拒んだ子夏は理想とするに足る人物だったでしょう。

「蓼花巷(りょうかこう)の記」

也有は49歳で尾張藩の役職を退き、53歳で正式に隠居を認められます。それ以降、前津(現・名古屋市上前津)に設けた小庵「知雨亭」に居を移して隠棲生活を楽しみました。

今回現代語訳するのは、彼が26歳頃に書いた「蓼花巷の記」です。蓼花巷というのも若い頃に也有が所有していた小庵で、職務のかたわらときどきこの庵で心を休ませていたようです。蓼花巷が知雨亭と同一かどうかは何とも言えないのですが、若い時から彼には隠棲への嗜好があったことがわかります。

この文章には也有の人生観がはっきり表れていて、彼が自分にとって何がもっとも大切と考えていたかがよくわかる一文。まことに興味深いものです。

蓼花巷の記

一本の芭蕉、五株の柳が、持ち主(芭蕉、陶淵明)の徳によって不朽の名を残す例もある。しかし不幸なエノキは、ある僧正が榎の僧正と呼ばれたことに腹を立てて自宅のその木を斧で切ってしまい、すると切杭の僧正と呼ばれたので切株も根こそぎにしてしまい、その跡が堀になったので堀池の僧正となったということで名を伝えてしまった。

五株の柳というのは、陶淵明が自宅のまわりにある五本の柳にちなんで「五柳先生」と号していた故事にちなみます。「不幸なエノキ」の話は『徒然草』第45段にある有名なエピソードで、他人の評判を気にして生きる人間の愚かしさを諷刺した逸話です。

最初から古典の引用モード全開ですが、この段落は「蓼の花」という植物を出すための導入部で、文章の主旨には直接関係がありません。

私は官途につきながら、一つの隠れ家を持っている。これを蓼花巷と名づけた。蓼花には難しい意味はないけれども、この花が夕日に照らされた様子や朝露がそこに下りた眺めは満足のいくもので、ひともとの蓼の花にちなんで名付けた理由がないわけではない。「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」と詠った藤原俊成卿の庭も慕わしい。世俗から遠ざかった雰囲気が興ふかいので、自分でこれをとって庵の名とした。

「朝まだき松茸ざうのこゑ聞ば庭のほたでも色付にけり」が藤原俊成の歌であるというのは間違いらしいのですが、当時そのような俗説が通っていたのかもしれません。「松茸ぞう」は「松茸でそうろう」という意味で、松茸売りの呼び声。

蓼花巷と名づけたのは、庭には蓼の穂があってそれが侘びた風情をもたらし、しかも俊成の歌を連想させるのがゆかしいからだという説明。

そもそもこのひっそりとした住まいは、仙境に近いもので、山に向かい海に沿い、川もあれば野もあり、月・雪・花・鳥と四季それぞれの詩作の題材を提供してくれ、いつ起こったとも気づかぬ松を吹く夕風、竹を打つ夜の雨までも、聞いていて嫌な気がするものはなく、見ていて不充足な気がするものもない。

後述のとおり蓼花巷は市中の端にあったようですが、沖積平野である名古屋の城下では、「山に向かい海に沿い」という条件に合う場所があったとは考えにくい。遠くに見える山脈や熱田のほうから来る潮の香を身近に引き付けた、心の中の理想化された風景ではないかと思います。

市街を出て遠くはない場所だが、興味本位だけの人が訪ねてこようとしても、たとえ神仙の術を使うものが足にまめを作って歩いてきても、万葉集に「わが庵は三輪の山本こひしくばとぶらひ来ませ杉立てる門」とあるがごとく目印もなければ迷ってしまうのであるし、新古今集に「曾の原やふせ屋におふるははきぎのありとは見えてあはぬ君かな」とあるようにどこにあるとも見定められず昼から狐に化かされてしまうのであり、伊勢物語に「駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」とあるごとく道を尋ねる人にも会えず、陶淵明が「桃源郷を再び訪ねようとしても二度と行き着くことはなかった」と書き残した具合になってしまうのである。

ただ梅の色の美しさ香りのすばらしさを知り、ともに思いを語り合うに足る風雅の人ならば、後漢書に書かれた「壺公に招かれて壺の中で接待を受けた費長房」のように、あばら家の門にすぐたどり着くことだろう。

物ずきの虫はきてなけ蓼の花

この部分に也有の精神がきわめて明瞭に表れています。この庵は彼にとっての仙境であり、俗人には訪ねてきてもらいたくない、訪ねることは不可能である。ただ「ともに思いを語り合うに足る風雅の人」とだけ交わりたいという思想です。この文章では社交を厭い風雅のみに生きたいという彼の願望が(さまざまな引用で主意をくるみながらも)読みとれます。

芭蕉とは異なる也有の理想

『鶉衣』を読んでいると、也有にとって最も価値があるのは「自由である」という感覚を保つことであるとわかります。朝寝していても誰からも文句を言われない生活。花鳥風月に心を遊ばせていても誰からも邪魔されない日々。要らない贈り物やうるさい挨拶で心を煩わされることがない人間関係。そうしたものが彼にとって何より大切なのです。

そうであればこそ、彼は「風雅を解する友」とだけ語り合いたいと願う。風雅を解する友とはどのような友でしょう。端的に言えば、「教養のある人」だと思います。彼が田園風景を見てしみじみと心に感じるのは、それが陶淵明が耕したような畑だろうと思うから。雪の景色を楽しむのは、芭蕉の「いざ行む雪見にころぶ所まで」という句を想起するから。そういう教養がなかったら、田園は単なる田舎であり、雪は気象現象でしかない。

『鶉衣』の文章に古典の引用がぎっしり詰めまれているのも、読者に教養を求めていることの証拠でしょう。「和歌とか漢文とか、めんどくさ~い」と言う人には也有は無縁なのです。

彼の自由を求める心は、生きかた自体に反映されています。也有には弟子はほとんどおらず、ただ下男であった石川文樵だけを門弟としていました。彼は自作を積極的に刊行して名を売ろうというような考えをほとんど持っておらず、句集は文樵や知楽舎達下が編集したもの。『鶉衣』は友人たちに読んでもらって楽しむためだけに書いていたので、集中しばしば「この文章を他人に見せるな」ということを言っています。

これは芭蕉のような人生観とは大きく異なります。芭蕉は門弟を多く抱え、おくのほそ道の旅では各地の俳人と交わって、蕉風を広めようと努力しました。けっして教養人とだけ交際しようとしたわけではない。

芭蕉には一定の野心があったと、私は考えます。社会的地位や金銭への執着ではない、そのような通俗的名利は否定していた。しかし文学的に価値があるものを残したいという野心は強く持っていたでしょう。『おくのほそ道』などは人工的に構成を練りに練った、磨き上げた格調高い文体で書かれていて、そこに彼の野心が感じられます。

これに対し、也有の紀行文は遊女や人足の生態をざっくばらんに描き、弁当や土地の食べ物のこともありのままに書くなど、美的技巧を練った感じがありません。文学的野心が見られないのです。そのような野心はむしろ、自分の自由を邪魔するものと思っていたでしょう。

也有自身は芭蕉のことを深く尊敬していましたし、ここで芭蕉と也有の人生観のどちらが正しいか、どちらが上かなどと論じるつもりもありません。ただ、私自身の人生観はといえば、芭蕉よりも也有のほうにはるかに近いのです。出世するつもりも有名になるつもりもない。文学的成功を願いもしない。弟子を持ったりすることで自分の時間が削られることも勘弁してほしい。自由が何よりも重要。

也有が教養人だけを友としたいと言っていたからといって、彼がお高く止まっていたとか、教養のない人間を狷介に軽蔑していたということはありません。むしろ彼はたいへんな人気者でした。隠居後は世を捨てて静かに暮らしたいと言っていたにもかかわらず、知雨亭を訪れる人がひきもきらない。書画を書いてくれ、自分の別荘に亭号を付けてそのいわれを作文してくれなどという依頼が続々と到来する。隠退したら忙しくなってしまった、断っても断っても頼まれるのでしかたなく書いたなどというボヤキが『鶉衣』の中に見られます。

頼まれるとなかなか拒否できないのが也有の性格。そのため彼の軸物や短冊などは非常に多く残っていて、名古屋の旧家で也有の書画を持っていない家はないと言われるほどだそうです。そういう彼の親切心というものにも好感を持ちます。

教養のない人間とは付き合いたくないといっても、也有に匹敵するほどの教養ある人間はそうそういるものではない。ただ、教養が大事ということを理解していて、それについて何か也有から学びたいという心を持った人を彼は大事にしたことでしょう。

さて、『鶉衣』を読むシリーズは今回で終了。

次回は「写真でたどる也有の人生」をやります。名古屋や東京で撮ってきたゆかりの土地の写真で、也有の人生をたどる紀行編です。お楽しみに。

2023-02-16

横井也有 荷風も認めた名文家(11) 『鶉衣』を読む⑤

 
名古屋の中部電力MIRAI TOWER(旧・名古屋テレビ塔)近くに建てられた
「名古屋三俳人句碑」
くさめして見失うたる雲雀哉 横井也有
椎の実の板屋を走る夜寒かな 加藤暁台
たうたうと滝の落ちこむ茂りかな 井上士朗

『鶉衣』を読むシリーズ、今回は若くして死んだ俳諧の友のことを書いた『嘯花をいたむ』(原題「嘯花ガ誄」)と、『鶉衣』の中でももっとも有名な『老いの歎きを語る』(原題「歎老辞」)を読んでいきます。どちらもすばらしい名文で、比べて読むと也有の孤独が胸に迫ります。

「嘯花(しょうか)をいたむ」

也有が29歳のとき、6歳年下の俳友、毛利嘯花の死を知って書いた追悼文です。当時也有は江戸に詰めていたので、悲報を名古屋からの知らせで受け取ったのでした。也有が生涯に書いた数多くの追悼文の中でも、この文章には無念の心がこめられていて、際立って優れた作と言えるでしょう。

嘯花をいたむ

晋国の琴の名人であった伯牙は、よき聴き手であった親友の鐘子期が死ぬと絃を切って二度と弾かなかった。呉の王子季札は、徐国の王が世を去ると墓のほとりの木に自分の刀をかけてやった。その故事さながら涙が袖にしたたり、今の秋になって自分はひとりぼっちになったと嘆いている。

晋の伯牙の故事とは、自分の琴を理解してくれるのは鐘子期だけだと思っていたので、彼が死んだ後二度と琴を弾かなかったという話です。嘯花は也有にとって、最大の友であり理解者であったということでしょう。

呉の季札の故事は、彼が使者として各国を巡る途中、 徐の君主が口には出さないが佩刀を欲しがっているのに気づいた。使命の途中だったので刀は渡せなかったのだが、帰りに徐国に寄ると王はすでに死んでいた。そこで季札は徐君の墓のかたわらの木に刀を懸けてやり立ち去ったという話。也有が嘯花に何もしてやれなかったことに痛恨の思いを持ったことが、この故事の引用から察せられます。

それというのも梅軒庵嘯花がまだ23歳を一期とし、中秋の名月も待たず故郷の露と消えたと知らせがあったからだ。目に見えぬ風の音に驚くのはただ世の常ではあるが、鳥が翅をもがれたような悲しみで、たとえて言うすべもない。無念に思わない人がいようか。

彼は武家に生れながら芸能は他の人にまさり、百事百成という器用ぶりであったのみか、芭蕉の跡を深く慕い、かつて一日千句の独吟を試み、ひと夏九十日のうちに百題の発句を連作し、明け暮れ・風雲・霜露に詩心を悩ませた。一度は俳諧道の大悟を得ようとつねづね言っていたものだ。

也有にとって、友の中でも嘯花は特別の存在であったようです。

彼と私はいかなる宿命によるのか「断金の交わり」というべき親交が長く、月の夜の語らいにせよ雪の朝のつどいにせよ、彼がいないと私も面白くない。私がいないと彼も楽しまない。

さて俳諧の席で口癖のように言い合っていたのは、嘯花は天象時節の風景を好み、私は人事のほうを描きがちだということで、いつもそのことを冗談の種にし、たまたまお互い反対の句風のものがあれば、これは私が君の作風を真似たんだ、そっちは君のほうが私の作りかたをやったなどとたわむれて楽しんだ。こうしたことも、はかない一夜の夢になってしまった。思うだに悲しい。

ある年は君の別荘に招待され幾夜にもわたり語らい、ある時はその山あの寺などの行楽に出て同じ杖をかわりばんこに使い、酒筒を交互に担った。君との間柄には露ほどもずれが生じることはなかった。

われわれも、親しい同士で相手の句風や好きな句材を真似して詠んでみて、「どうだ、俺のほうがうまいだろう」などと冗談を言い合ったりすることがありますよね。われわれと同じような気持で也有と嘯花はじゃれあっていたんだなあと知って心を動かされます。

この春、ご主君の恵みによって思わぬ官職に就き、暇がなくなったことにまぎれて俳諧の会にも欠席をしていた。卯月になって旅の衣装に着替え、百里の東に向かうことになったので、名残惜しく、何もしないわけにいかないと、半日のひまを見つけて梅軒庵を訪れた。「かの山に花あり雪の郭公」と私をほととぎすに見立てた句を作ってくれたのに対し、「四月になじむ菅笠の旅」と付句で応じ、さらに私もまた「一しげり蔭そへて待て今年竹」ととりあえずの挨拶の発句を詠んで、互いの無事を祝った。

この年(1730)、也有は尾張藩御用人に取り立てられ、4月からは初めての江戸勤番を経験します。

その中にも、世の中には不測のこともあるからと、悲しんでお互いの顔を見つめ合った。それは私の身を案じてのことで、嘯花は人一倍健康であったから、こんな悲報を私が聞くとは思ってもみなかったのに、これほどまで人の運命は定めないものなのだとはじめて思い至ったのである。だからこの別れをこれほど胸苦しく覚えるのも、私の場合はもっともなことだと人も思って許してほしい。

自分のほうが先に死ぬのではないかと思っていたのに、若い友人のほうが先に逝くとは、いくら悔やんでも悔やみきれない。この也有の心には、私も覚えがあります。

もし霊魂が知覚を行うということがあるならば、杜甫が李白のことを夢に見て目が覚めると、月が李白の面影に見えたという故事にならって、嘯花よこの別れの文章を推敲しておくれ。ああ、富士の雪もしかるべき時には消えていく。私の辛い思いは綿々として際限がない。

供花 そちむけて魂まねかせむ花すゝき
拝礼 裃(かみしも)に泣(なく)袖もなき夜寒哉

『鶉衣』の中でこれほど悲調につらぬかれた文章は他に見ることができません。32年後、嘯花の三十三回忌に当って也有は「嘯花を祭る文」という一編を書いています。彼への哀惜の気持は生涯変わることはなかったのでした。

「老いの嘆きを語る」

次の文章は也有53歳の時のものです。非常に有名で、高校の古文のテキストに使われたりしますから、受験生時代これに悩まされたという人もいるんじゃないでしょうか。

50歳は今だったらまだ老境とは言い切れませんが、当時の平均寿命からすれば、また知人友人、さらには娘までがつぎつぎあの世にあの世に行ってしまう状況では、彼も考えるところがあったでしょう。

老いの嘆きを語る

芭蕉翁は51歳で世を去り給うた。文章で名を成した難波の西鶴も、52歳で人生を終え、「浮世の月見過しにけり末二年」の辞世を遺した。私は虚弱で病気がちだったのに、それらの年齢をも越えてしまい、今や53歳の秋を迎えた。藤原為頼中納言は「いづくにか身をばよせまし世の中に老をいとはぬ人しなければ」と詠んで、自分が姿を見せると若い人たちがそそくさと隠れたことを嘆いたのだが、その心持ちもようやく理解できる境地になってきた。

あ、若い人に自分は避けられているなと気づいたら要注意。老境に入ってきた証拠ですぞ。 

だから浮世で人に交わろうと思っても、あの世に行ってしまった人が多く、「松も昔の友ならなくに」という次第なのである。たまたま集まりの席に連なることがあれば、若い人にも嫌われまいとざっくばらんな風を装って振る舞うが、耳が遠くなっているので話も聞き間違い、たとえひそひそ話が聞こえたとしても、いまどきの流行語を知らないので、それは何ですか、何でそうなんですかと根掘り葉掘り聞いては面倒くさがられ、「枕相撲」だ「拳酒」だと騒ぎ立てている人たちは遠くに離れていってしまうので、奥の間でただ一人、炬燵島の島守となる。頼んでもいないのに「お迎えが参りました」と言ってくれる人には、「かたじけない」と礼を言うけれども、何のかたじけないことがあるだろうか。

「たれをかもしる人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに 藤原興風」は百人一首に入っていますね。「昔の友は誰もいなくなってしまった」という意味。

枕相撲や拳酒というのは宴席での遊びで、若い人たちの間で流行していたもの。老人には声がかからない。今で言えば、ゲームの話やカラオケの最新の曲に年寄りがついていけないようなものですね。

若い人の集まりに老人が混じるとなかなか煙たがれるもので、若い人と句会をやる時は、会場予約や短冊手配みたいな雑用を積極的に引き受けるとか、多少気を使ったほうが無難。偉そうに振る舞って、何も用事はせず、飲み会では人一倍酒をくらって金は割り勘などということをやっていると、しだいに仲間外れにされます。

「お迎えが来ました」と言ってくる人は、本心では「早く帰れ」と思っているのだろうと、年寄りはなにかにつけてひがみがちです。 

斎藤実盛は六十歳になって髭を墨で染め、北国の軍(木曽義仲軍)に立ち向かった。五十歳の顔に白粉を塗って京・大坂・江戸の芝居小屋の舞台に立つ者もいる。どちらも自分の老いを嘆かぬ筈がない。歌も浄瑠璃も落語も、昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである。物事は時代を追って面白くなっていくのだが、今はやっているものは自分には面白くないので、自分には昔のほうが面白かったということになるのである。

「昔のほうが今よりもよかったとどの老人も考えているのは、自分の心のほうが愚かなのである」というのは辛辣ですね。私も「昔のほうがよかったなあ」と思うことがいろいろありますが、その思いは自分の心の中にとどめておいたほうが無難でしょう。まあ、ツイッターだのブログだのが無かった頃のほうがいいかな、と心の中でつぶやきながらこうやって利用しているわけで。

そうであれば、人にも嫌がられず、自分も心が楽しくなるような身の置き場所はないだろうかと思いめぐらす。自分の身の老いを忘れることができない場合は、まったく心が楽しくなることはない。自分の身の老いを忘れれば、前にも言ったとおり人にはうとまれて、あるいは分不相応に酒や色事の上での誤りをしでかすことだろう。だから老いは忘れるべきだし、同時に忘れるべきではないのである。両方の境地を得るのはまことに難しい。

「老はわするべし、又老は忘るべからず」というのは非常に有名な一節です。高齢化社会を迎えて、老人の持つべき心構えとしてこの格言、よく引用されます。 

今もし蓬莱の店を探し出して、不老の薬は売り切れです、不死の薬だけありますと言われたら、たとえ1銭で10袋売ってくれたとしても、不老のほうが手に入らないのではどうしようもない。不死の薬がなくても不老の薬があれば、10日分でも十分価値がある。宋の陸游が「神仙は死なないと言っても彼らは何もやってないじゃないか、ただ秋風に吹かれて感慨にふけっているだけだ」と仙人の薊子訓を批判したのもそういう理由からだ。

秦の始皇帝は不老不死の薬があるという蓬莱の島を発見するために、徐福を旅立たせたと記録されていますが、也有は「蓬莱の店で不死の薬を売っていたら」とギャグにしてしまいます。老いを嫌悪する心をジョークで包んだ。 

願わくは、人はほどほどのところで死ぬことができればよい。兼好法師が「四十歳そこそこで死にたい」と物好きにも言ったのは、一般的には早すぎる。古稀と呼ばれる七十歳まで生きてしまうのはいかがなものだろうか。

しかし兼好のように物好きなことを言っていると、隣近所の耳に聞こえて不快の念を起こしかねまい。どうせ願ってもそのとおりにはならないのであるから、意味のない長談義を止めておくほうがあれこれ言うよりもまさっているだろうと、この論はここで筆を置くことにする。

前回の「臍の話」でもそうでしたが、也有が俳文を書く上でいちばん意識していたのは『徒然草』だと思います。俳文を書くというのは「物好き」な手すさびであるよ、そしてその手本は吉田兼好だよという感じ。

この文章は、老人のための処世訓のように扱われることが多いのですが、先に読んだ「嘯花をいたむ」と引き合わせると、老いの孤独の悲しみが底に流れているように思えてなりません。「嘯花が生きていればなあ」という嘆息が、この文章の背後にあるように感じるのは、私だけでしょうか。

2023-02-14

横井也有 荷風も認めた名文家(10) 『鶉衣』を読む④

ルーベンス「公女の教育」(へその部分)
連作『マリー・ド・メディシスの生涯』より
 

俳文とは何か

今回で横井也有の俳文集『鶉衣』を読んでいくシリーズの4回目ですが、そもそも「俳文」とはどんな文章のことなのでしょうか。

よく誤解されるのですが(とくに海外でそう誤解されるのですが)、俳文とは散文と俳句を組み合わせた文章ではありません。これまで見てきた「茄子の話」や「餅を語る」には発句は全然登場しません。

俳文とは何かについては、芭蕉が去来宛の書簡の中で説明しており、簡単にまとめると「実用文の反対である」ということを言っています。実用文とは、記事、論文、説明文、史書など何らかの目的を持って書かれたものでしょう。逆にはっきりした目的を定めずに文章の味わいだけを楽しむのが俳文ということになりましょうか。ただし小説的なものは含まれませんし、また内容的に俳諧的な要素--現世的な名誉・利益・華美などを度外視し、卑俗で簡潔で貧しいものに積極的関心をもつ--を有することが条件とされると言っていいでしょう。

俳文には芭蕉の『幻住庵記』のような格調高い真面目なものもありますが、『鶉衣』のように自由でくだけたスタイルのものもあり、一茶の『おらが春』のように日記的な体裁をとったものもあります。厳密な定義は難しいジャンルかもしれません。

「臍(へそ)の話」-かいま見える也有の本音

今回は「臍の話」(原題「臍ノ説」)と「臍をほめる」(原題「臍ノ頌」)の2つの文章を読んでみたいと思います。どちらも57歳ごろの文章です。前者は臍の悪口を言い、後者は臍をほめてみせた文で、セットになっている2編。後者は前回の冬野虹の文章にも出てきましたね。

「臍の話」のほう、実は稿本と板本ではテキストが一部異なっています。その違いの中に也有の本音が見え隠れして、非常に興味深い俳文です。

臍の話

世を捨てた法師(吉田兼好)が物くれる友を良い友のうちに数えたのは、かの人が書いたにしては似つかわしくない気がするが、よく考えてみれば、法師の庵では一杯の食事を用意するのさえ咳の苦しみに邪魔をされ、吸い物に入れる藜も冬には枯れてしまう。物をくれる友がとりわけうれしい日もあったのだろうか、あるいはくれた物を喜ぶのではなく、くれる心に欲がないことを喜ぶのだろうか。

私はこのように世を捨てたけれども、ありがたき俸禄を代々いただいてその恩恵の陰に養われるので、凍えたり飢えたりする心配はない。ただ虫干しや掃除の面倒もないようにしたいと思って、無用の物を溜めないようにし、置いてある調度品も最低限使うものだけにして、ひとつの用事に使う物が多いのを嫌い、一つの物を多くの用事に使うようにしている。杓子は定規にならないが煙草箱は枕となり、頭巾で酒は漉さないが炬燵のやぐらは踏み台には使える。

『徒然草』117段の中で吉田兼好が「よき友」の筆頭に「物くるる友」を挙げたのは、侘びを重んじた兼好に似つかわしくないというので、昔から非常に問題とされてきた個所です。也有もそこを不思議がっています。

「杓子は定規にならないが」というのは「杓子定規」の熟語をもじった駄洒落。「頭巾で酒は漉さないが」というのは、陶淵明が濁った酒を自分の頭巾で濾して飲用とし、そのあとでまた被っていたという話を引いたもの。也有の淵明への愛がほのめいています

さて、臍がなかなか出てきませんが、どうなるのでしょうか……。

そもそも一つの物を多くの用途に使って物を省略するというのは、天地開闢以来考慮されてきたことである。見てみるがいい、鼻は呼吸を通わせると同時に匂いをかぐ用途を兼ね、口は飲食しながら言語を発する用を兼ねている。天がもし人間をもっと立派にしようとして、二つの鼻を与え、目を三つも四つも付けたならば、「親の因果が子にめぐり」とばかり御開帳の日に出る芝居小屋の見世物にされてしまうだろう。そうならないのは、天が余計なものを付けないからである。また鼻柱は眼鏡の台にもなるし、耳が笠の紐を結びつける個所となるといったたぐいのことは、天の道理に従ったもので聖人もそのことを教えたのではないだろうか。

その中にあって臍というものは、蓬生のかげにかくれて、表に出す飾にもならず、何の益にもならない道具であって、長いことなぜそんなものがあるのか不審の思いが晴れなかった。

肉体の器官はたいてい1つで2つ以上の機能を持っているのに、臍は何の役にも立たない。臍はけしからんと言いだす也有です。これがこの文章の本題ですが、ここまで来るのに吉田兼好やら陶淵明やら、大げさに遠回りするのが笑えるところ。まさに実用文の反対を行く語りです。

「臍というものは、蓬生のかげにかくれて」というのは下の毛を連想させますね。ニヤニヤしながら書いたことでしょう。「表に出す飾にもならず」とありますが、今日のへそ出しルックを見たら、也有さん卒倒するかもしれません。 

今、このような生活になってようやく理由がわかった。確かに臍は、天地開闢の時にこちらからお断りを言いにくい方からいただいた貰い物なのだろう。それはどういう理屈かというと、私はかく不要の物を置くのを嫌っているのだが、飲み食いする物や使ってしまえば後に残らない料紙のような物はうれしい時もあるだろう。そうではない調度のたぐいについて、「これは趣向が風流だ、こちらは細工が面白い」などと言いながら人がくれる物があるのだが、こちらが望んでいるふりをして頂戴しないと相手の心を害する。そうは言ってもうれしい顔をしてもらってしまうと、一つ二つと物が溜まってしまうのがまことに心外だと思うのだが、どうしたらいいものか。

ここに世の例を考えてみると、昔、西行が鎌倉で源頼朝に呼びとどめられて、銀製の猫をもらったのだが、帰りに門前にいた子どもにくれてやって去っていったそうだ。この人の気持を想像するに、王侯や将軍にこびへつらう心などあるはずがない。だが猫は要らないとは言いかねて、その座では受け取って頂戴したので、門前までは携えて出た。

このことから私自身の場合について考えると、私はまして行脚の僧ではなく、わが子の禄で命をつないでいるのであるから、さすがに人の心を傷つけるわけにはいかない。これはただ、かの臍と同じである。また臍とはこうした理屈で付いているのではないか。

さて、ここでこの文章の隠れた主題が出てきます。それは「迷惑な贈り物」についての話。モノなんかほしくないのに、勝手に持ってこられるのをどうしたらいいかと悩んでいます。人間にとっての臍とは、天から与えられたそうした相手勝手な贈り物の一つなのではないかと、無茶な理屈を言い立てます。

このような具合で、今の私にとって良い友を三つ数えるなら、「物くれぬ人」「物たのまぬ人」「物とがめぬ人」であり、面白くない友を三つ挙げると「挨拶がやたら丁寧な人」「一向に物をわきまえぬ人」「人に利口に思われたがる人」である。そうした感情は表には出さないようにしているが、遁世した身からするとそれもむずかしい。面白くない友には、心の中で白眼を剝いて対座するであろう。

吉田兼好の向うを張って、也有にとっての良い友を3種類挙げています。そして面白くない友も3種類。これを見て興味深いのは、也有にとって好ましい人というのは「人の生活に干渉してこない人」なのです。逆に彼が嫌うのは「他人をしつこく構う人、自分を売り込んでくる人」です。そういう嫌いな奴には心の中で白眼を剝いてやるとまで言っています。ここに、也有の人生観がはっきり出ています。彼にとって重要なのは自分の生活の自由を守ることであり、それを侵害されることに強い警戒感を示します。

ところでこの最後の段落は、也有自筆本にだけ見られるもので、板本のほうでは脱落しています。つまり、稿本を底本とする『横井也有全集』では読むことができますが、板本を底本とするほとんどの市販の『鶉衣』からは抜けているのです。

これはどういうことか、私なりに推理すると、也有自身が何度も清書稿を作り直しているうちに自分で削ったのではないでしょうか。板本の編集に関わった紀六林や大田蜀山人が勝手に修正したとは考えにくい。也有は自筆本を何回も書き直しているので、その中で推敲を行ったと考えるのが自然ではないでしょうか。板本に使ったのは最終稿ですが、全集には初期稿が使われたのではないか。

なぜ也有はここを削除したのか。それはどうもこの段落が攻撃的で、「余計なことをするヤツは白眼で睨んでやるぞ」という言いかたが読者を傷つけるかもしれないと懸念したのではないかなあ。読んだ知人が、「あれっ、これオレのことを言っているのかな」とか気にするかもしれない。

しかし削除したのは、それこそ也有のむき出しの本音がここに表れているからではないかと考えることも可能でしょう。自分の露骨な感情を、ユーモアと韜晦でくるんで隠してきたのですが、ここで思わずポロッと生の形でそれが出た。後になってから気づいて修正した。削除したから重要性がないのではなく、削除したところにこそ核心があると私は見るのです。

結局のところ、この文章は臍のことを語っているのではなくて、臍にかこつけて最後の段落のようなことが言いたかったのだろうと私は考えています。

「臍をほめる」

続いて、上の文章とは逆に臍をほめた文章を紹介します。

最初からこの2編をセットにして逆のことを書いてやろうと狙っていたのか、それとも「臍の話」を書いた後で、どうもユーモア不十分だった、テーマをひっくり返して書き直し、笑いをとろうと思ったのか、どちらかはわかりません。

臍をほめる

臍は要らないものであるとは、私も悪口を言った人間の一人である。そういうのは、他人の欠点は一寸のものでも見えるが自分の短所は一尺でも見えないということわざのとおりであった。世の中で役に立たないものを比べるならば、まず自分こそその筆頭であろう。

そもそもかの臍は、物を食うだろうか、いや食いはしない。だから無駄飯食いと言われることもない。それなら物を言うだろうか、いや言いはしない。だから口を三重に塞がれるというようなこともない。私はこの世にあって物を消費しているが、臍はそれに似るべくもない。

人の身体の部分で不要なものと言えば、男の乳には益があるようには見えないけれども、いまさら臍や乳を取り去ってしまったら、腹は荘子の言う渾沌王のような風貌になってしまって、のっぺらぼうで味気ないものとなってしまうだろう。

今回は打って変わって臍の賛美です。臍はあってもムダなように思えますが、腹を手術して臍が無くなってしまった人が、やはり無いと恥ずかしいというので整形手術で作ってもらったという話もあって、たしかに人間には大事なものです。

渾沌王というのは荘子に出てくる耳目鼻口がない王様のこと。他の王様が穴を開けてやったら渾沌王は死んでしまったというお話で、人間の小賢しい知恵を否定したたとえ話なのですが、也有はこれをひっくり返して穴のあいていない渾沌王は味気ないよねと冗談を言っています。

さてこの臍は、急な病気で死にそうになって手の打ちようがない時に、とりあえずといってここに灸を据えると、あの世への旅立ちを押しとどめた例も多い。「ただ頼めしめじが原のさしも草われ世の中にあらむ限りは」というが、「原(腹)」には「さしも草(艾)」が効くから「ただ頼め」と詠んだのであろう。

「原」を「腹」に読み替えて和歌を冗談にしてしまうのは、也有の得意の手口。

古代中国の項羽将軍の力が山を引っこ抜くほどであったと言われるにしても、「臍のごまを取ると力がなくなる」という俗説がある。漢文の古語では後悔することを「臍をかむ」と言い、日本では他人を嘲笑するとき「臍が笑う」という。一方ではしまり屋の隠居がいて、「臍くり」というのを溜めるから、天のかみなり様も臍を好もしく思ってつまみ取ってやろうとするようになり、そのせいで女や子どもが雷を恐れることといったら、ジャコウジカが狩人を恐れること以上である。

かみなりさまが臍を取りに来るのは、へそくりを狙っているからだという、突拍子もない屁理屈。

昔芭蕉翁が故郷に帰って、「古郷や臍の緒に泣くとしの暮」と詠み懐旧の情から袖を涙で濡らしたのだが、臍の代りに耳とか鼻とか言ったのでは及びもつかない。

臍はこのように俳諧においても大きな功績があるのだが、自分ごとき者はそれにひきかえ何にたとえることができようか。臍を私より下だと言うのはおこがましいが、私もまた臍の下であると言ってしまうと何となく場所が悪い。臍に並ぼうとしても、太陽が二つ無いのと同様、腹に臍が二つあったためしがない。そうであってみれば、上下の品評はやめて、今日から臍の悪口を言わないようにしよう。

友とせむ臍(ほぞ)物いはゞ秋の暮

也有が臍の下に行ってしまったら大変だ~。というわけで、最後はちょっとエッチな方向で締めくくっておしまい。

2023-02-11

横井也有 荷風も認めた名文家(9) 『鶉衣』を読む③

岩田九郎の名著『完本うずら衣新講』(冬野虹蔵書)

冬野虹、也有を語る

今日、2月11日は亡妻である冬野虹の命日ですから、彼女の話をさせてもらいましょう。

彼女は横井也有のファンで、『鶉衣』を勉強していました。おそらく永井荷風の「雨瀟瀟」を読んで知ったのでしょう。上に画像を掲載した岩田九郎著『完本うずら衣新講』は、彼女が古書店で入手して読んでいたものです。前回も書いたとおり『鶉衣』を学びたいと思う人には最初に手に取るようお勧めしたい名著です。

冬野虹は「むしめがね」15号(2000年9月)に、「はつなつの七つの椅子」という奇想にあふれた文章を発表しているのですが、これは自分が好きな人物を招いて架空の座談会を開くという内容。七人とは、ヤカナケリ大使、行基、ミシェル・ド・モンテーニュ、式子内親王、ガストン・バシュラール、平等院の飛天、横井也有、冬野虹という組み合わせです(実は八人)。也有に関係するところを抜きだしてみましょう。

唐傘を斜めにさし、黒鳶のめくら縞の着物の裾をからげ、足に、紺の鼻緒の朴歯の高下駄姿にて也有現る。虹は、その姿を見て、飯島晴子さんの「これ着ると梟が啼くめくら縞」という一句をなつかしく思い出している。

也有 おのおの方、すでに来ておられますか。遅くなったこと、おゆるし下され。

ミシェル あなたが也有さん? ボンジュール、はじめてお目にかかります。私は、あなたがお書きになった俳文集「鶉衣」を読んでいたく感動いたしましたのですぞ。私が、ボルドーの葡萄畑の中にある城館の三階の書斎にこもって考えていたことと、相通じるものを、あなたの美しい日本語の中に見つけたのです。そして、あなたとあなたの文章にとても親しみを感じました。たとえば、「奈良団扇について」の短いエッセイと、文尾のあなたの俳句、

袴着る日はやすまする團(うちは)かな

は、とても好きです。私の言い表わしたいこと、私の、分厚いEssais(エッセイ)三巻、の中に、書かれているであろうことを、この詩(俳句)の一行は、みごとに、簡潔に、そして深々と、あざやかに、指し示してくれているように思われるのです。日本の俳句という詩は、なんとすばらしいのでしょう。私も、もっと早く、日本のことを知っていたら、この風雅なるもの、俳句、に魅せられていたにちがいありません。「鶉衣」の中の、日本の四季折々に呼び名を変えて言い表される「餅」のことを、美しい織物のように書き綴られた「餅辞」の章。かき餅のいじり焼、とか、時雨こがらしの寒きまどゐに、火鉢のもとのやき餅もおもしろき時節……、など、私は切に、体験したいのです。実に豊かな精神が、ここに息づいているではありませんか? 

ミシェル 私のEssais(エッセイ)の中のひとつ、「おどろおどろしい怪物のような子供について」という章を、虹さんは読みましたか? 奇怪な子供の、二つの肉がひとつになり、奇形児の、未熟児の、四方八方に手や脚がでていて、頭はひとつ、臍、不完全さ、不調和さ……。私が、この章で何を言いたかったのか? おわかりですね。式子さんの、「ほの語らひし空ぞわすれぬ」と、共通の精神が、この中にもあるはずです。そして、飯島晴子さんの「八頭いづこより刃を入るるとも」の宇宙の中にも。

ヤカナ ミシェルさんが今、言ってらっしゃること、は、也有さんの「鶉衣」の中の、「臍頌」の文末の一句、

友とせむ臍物いはゞ秋の暮

に、ひかりを送り、また、私達、人間というものの存在の骨の継ぎ目を揺るがしもするようです。

ガストン ああ、よい俳句ですねえ。この句を頭の中にひろげると、わたしは、今、突然、故郷、バール・シュル・オーブの町の、私が授業をするために、オーブ川の橋を渡って通っていた高校の校庭の、ベージュ色の空間が眼にうかびます。その校庭の上の空は、消毒ガーゼに沁みこんだ水の匂いがしていました。

冬野虹にとってはミシェル・ド・モンテーニュとガストン・バシュラールが恋人で、二人の写真を机の前に飾っていましたから、彼らに也有のことを自由に語らせていますね。現実世界に束縛されない伸び伸びとした文章でした。

私は私で前から也有の発句に関心を持っていたので、彼女から影響を受けたということはないのですが、今回の連載にあたっては虹の蔵書であった岩田先生の本を大いに参考にさせてもらいました。その意味ではこの也有研究は二人の共同作業と言えないこともありません。

「餅を語る」

さてそれでは、虹の原稿にも出てくる「餅を語る」(原題「餅ノ辞」)を現代語訳してみましょう。28歳前後の文章だと思われます。也有の友人、夏爐亭が大の餅好きだったので、彼のために餅を賛美する文を書いてやったという、楽しい一編です。

餅を語る  夏爐亭に贈る

君も知っているだろう、餅には恒例の俳味もあれば季節ごとの流行もある。

まずは新年、松も竹も新しく飾られる朝、食事には当然ながら餅が鎮座、奈良茶粥や麺類ではしまりがないので雑煮と趣向が定められているのは、神代からあれこれと案じた果てのことだろう。

具足に供えた鏡餅を開くうちに寒い睦月も終わり、二月には彼岸団子を「花よりは団子と誰かいはつゝじ」と詠んだ人もおり、草餅の節句とは三月三日のことで桃の花も散り、躑躅に山吹と春がふけゆくままに饅頭売りの声も眠たげで、蛙が空に雲を呼んで春雨があてどなく降りだす頃は、かき餅をひっくり返したり延ばしたりして焼きながらあの源氏物語の右馬頭(うまのかみ)が雨夜の品定めでもすればしみじみと心に伝わるだろう。

「餅には恒例の俳味もあれば季節ごとの流行もある」というのは、芭蕉の「不易流行」の説にひっかけて大げさに言ってみた。

「花よりは団子と誰かいはつゝじ」は山崎宗鑑の『新撰犬筑波集』の句で、「言ふ」と「岩躑躅」をひっかけたシャレ。

「雨夜の品定め」は源氏物語の帚木の巻で光源氏らが女性の品定めをする話ですが、そんな夜にはかき餅でもひっくり返して焼きながら語り合えばしみじみするだろうと、物語の世界を俳諧的に滑稽な場面にしています。 

卯月はその季節の卯花曇に蚊帳の香りも新鮮で、藪蚊が軒にちらつく頃には牡丹の花を見ながら食う牡丹餅がとてもうまく、三井寺の栴檀講では千団子を供えると聞くのもありがたい。

粽はそのまま見ているだけでたいへん涼しげで、ほどいてみると笹の匂いがするのがまた結構だ。

水無月のついたちは、氷室を開き氷餅を食すといってやんごとなき上流階級の皆さまはもてはやすのだが、草葉もしなびる土用の頃に水餅を錫の鉢に浮ばせるのこそ、上層の方が知らない涼しさである。

このあたりは餅のことをとてもうまそうに記述しています。粽の描写、嗅覚にも訴えるところが巧みですし、土用の頃の冷し餅の冷熱感覚も冴えています。也有は諧謔だけではなく感覚描写にもすぐれていることがよくわかるでしょう。 

風も文月の音となり七夕に牽牛と織女が逢う夜は、神酒だけ奉げて、源氏物語に言うねのこ餅も献上しないのは葛餅の恨みである――というのは葛の葉は「風に裏を見せる」ものだからね――が、「鵲のわたせる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける」と七夕の鵲を詠んだのがやか餅、いや家持であると聞けば味わいがある。

このへんはかなりアクロバティックに引用を交差させています。源氏物語のねのこ餅というのは、源氏と紫の上が結ばれて、翌日惟光が「亥の子餅」を差し上げると、源氏が餅は三日目に出すものだから明日持ってくるようにと言った。それでは「亥」の次だから「子」の子餅ですねと惟光が洒落を言った。この話をベースに、牽牛と織女も結ばれるのだからねの子餅でも出せばいいのにと也有は言う。餅を出さずに酒だけ献上するのは恨めしい→葛の葉は風に裏を見せるから「うらみ」→餅にひっかけて「葛餅の恨み」と連想ゲームをやっています。

続いて「鵲の」の歌の作者が大伴家持なので(この歌自体は冬の歌だが、七夕の歌と見立てた)、「やか餅」と駄洒落。もうこのへんはハチャメチャに洒落をひねりつづけて、也有の才気爆発です。大田蜀山人のような狂歌師が也有の文章を読んで大喜びした理由が納得できます。 

盂蘭盆では魂送りとして団子を供え、萩の花が咲くとおはぎが出て秋もたけ、こもち月もち月の団子に続き、栗の子餅をいただく重陽の節句も過ぎれば、十月は亥の子餅の季節で猪が暴れるように風雨が荒れ、時雨や木枯らしの寒い集まりに火鉢のそばで餅を焼くのも楽しい時節であろう。

報恩講の餅が始まる頃、粉雪ももち雪もあられも積もるが(あられ酒というのがあるけれど)酒の名ではないのだよ。水難除けになるという弟子(おとご)の餅は十二月一日に祝い、師走はおおむね餅の世界なのでいちいち取り上げて言うまでもない。

さてそれでは、なぜ詩人は酒だけを友の数に入れているのだろう、李白も杜甫も餅をうたっていないけれど、雅俗混合の俳諧の分野では、竹林の七賢の一人、劉伶が底無しに酒を飲んだのも、夏爐亭が餅好きなのも、どちらも俳諧の題材に通じるのだから、わが家では上戸も結構下戸もさらに結構なのだよ。

もち雪とは綿雪のこと。粉・餅・あられとどれも餅に関係する語なので、雪と餅を強引にひっつけています。

夏爐亭は酒は苦手で餅が大好き。実は也有も、酒がそれほど強くなかったらしい。唐詩では酒ばかりが讃えられるし、和歌の世界でも餅は卑俗なものとしてそれほど詠まれていないようです。しかし雅俗混合の俳諧では、餅も大いに詠まれるべきだろうと気炎を上げる也有でした。

2023-02-10

横井也有 荷風も認めた名文家(8) 『鶉衣』を読む②


映画『雷電』で大田蜀山人を演じる沼田曜一

蜀山人が発見した『鶉衣』

名匠中川信夫監督による映画に、『雷電』(1959)があります。江戸時代の相撲力士・雷電為右衛門(宇津井健)を主人公とした物語で、各所に中川監督によるオーソン・ウェルズ監督へのオマージュ(長回しやパンフォーカス撮影の活用)が埋め込まれているところがとても面白い作品です。

この中で、雷電の危機を救う人物として活躍するのが狂歌師の大田蜀山人(1749~1823)です。蜀山人には大田南畝、四方山人、四方赤良などさまざまな別号があり、いわゆる「天明狂歌」を主導した文人として有名です。映画では沼田曜一さんの好演が光りました。

さて、横井也有の俳文集『鶉衣』の価値を発見し、刊行を実現したのがこの蜀山人でした。『鶉衣』の序文で蜀山人自身がその経緯を書いていますので紹介しましょう。(現代語訳)

さる安永年間、隅田川のほとりの長楽寺に行った際、也有翁の俳文「借物の弁」を見ることができたのだが、あまりに面白かったので写して帰った。それ以来尾張の人に会うたびにこの話をして質問するようにしたところ、金森桂五が『鶉衣』2巻を持ってきて見せてくれた。翁はすでに逝去されたというので、亡くなる前に残した文章はもっとないかと知りたく思っていたが、細井春幸・天野布川を介して、也有門人の紀六林が書き写した完全本を送ってもらうことができた。

読み終えるにつけ、このような書が世に知られないのは唐錦が畳まれたまま放置されているようなものだと思い、急ぎ版木を彫る業者に命じて世間に披露する晴着としたのである。翁の文章は、美しい内容をわかりやすく表現し、角張った議論をまろやかにつづり、よく人の心を文章に投映させ、想像力を巧みにはるかへと働かせている。

「鶉衣のつぎはぎのようなもの」というのは翁みずから言ったことであるが、実際には千金の毛皮にも匹敵する価値のある作品ではないだろうか。私のつたない文章は恥ずかしいものだが、何か書く必要もあろうととにもかくにも序とする次第である。

四方山人 

蜀山人は狂歌師として活躍するのみならず、当代一級の知識人・文化人でもありました。『鶉衣』の発見と刊行は、彼の大いなる功績の一つに数えられています。

『鶉衣』執筆、刊行、そして現在の研究へ

『鶉衣』が執筆され、刊行されるについては、さまざまな経緯を経ています。主な編集過程を挙げていくと次のようになります。

①也有自身による執筆および清書稿の作成(1727~1783) 
②友人知人による写本の作成
大田蜀山人による『鶉衣』板本刊行(1787~1788) 
④石井垂穂による拾遺文を加えた『鶉衣』板本刊行(1823)
⑤岩田九郎著『完本うづら衣新講』刊行(1958)
⑥野田千平編『横井也有全集 中』(『鶉衣』含む)刊行(1973)
⑦山本祐子による自筆本の再検討(2012)

この中で、①、②は筆記による原稿で、野田先生はこれらを「稿本」と呼んでいます。③、④は版木に彫って書籍として刊行したものでこちらは「板本」と呼ばれます。実は、稿本と板本では文章の数や配列順がかなり異なるのです。板本は紀六林や石井垂穂による再編集が加わっていると見られます。稿本にあって板本に無い文章もあれば、板本にあって稿本に見つからないものもあります。

⑤は板本を底本にして、ほとんどの文章に口語訳を付けたもので、板本の研究書として決定版と言えるものです。⑥は、稿本をベースとして板本に含まれない文章も収録し、制作年代順にあらためて並べ替えを行った画期的な新バージョンです。注釈や口語訳は付いていません。

①の自筆本は部分的にしか残されていなかったのですが、新たに発見された自筆本があり、それらに関して研究を加えたのが⑦の「新出・横井也有自筆『鶉衣』をはじめとする也有書写本について」(「名古屋市博物館研究紀要第35巻」所収)で、⑥に収録されていない文章が4編見つかったとのことです。くずし字で書かれたそれらの稿本は論文の末尾に写真版が掲載されています。

⑤には228編の文章、⑥には325編が収録されています。『鶉衣』を徹底的に読み尽くしたいという方には、この2冊がお勧めです。今後⑦の新研究を含めた新たなバージョンが刊行される可能性もあります。

他に入手しやすい書籍としては、堀切実校注による岩波文庫版(2011)が出版され、校異の注記などに見るべきところがあります。しかし口語訳がついておらず、素人にはなかなか読み切れないのではないかと思われます。収録内容や解釈は基本的に⑤の版に準じています。

前回紹介した「茄子の話」は、⑥に収録されて⑤にはない文章です。ひょっとすると内容が尾籠なところに及ぶので、也有が清書本を作る過程で削除したのかもしれません。しかしそういう章が面白かったりするので、也有ファンとしては一編でも多くを読みたいものなのです。

「借物の弁」

今回は蜀山人が最初に読んで「あまりに面白かった」と興じた也有の「借物の弁」を現代語訳して読んでいきたいと思います。39歳の時に書いた文章です。

借物の弁

天上の月でさえ太陽の光を借りて照るのであり、露もまた月の光を借りて「つらぬきとめぬ玉ぞちりける」という具合になるのだ。昔、とある命(みこと)も兄君の釣り針を借りたという。まして人の世になってからはあらゆる道具を借りるようになり、貸し借りはお互い様だが、砥石だの挽臼だのといったたぐいは貸すたびに磨り減り、鰹節は借りられると背が縮んで戻ってくるのが悲しい。

「白露に風の吹きしく秋の野はつらぬき留めぬ玉ぞ散りける 文屋朝康」の歌は百人一首にも採用されていますから、ご存知の人は多いでしょう。最初からお得意の古典引用が全開です。

「兄君の釣り針を借りた」というのは記紀における山幸彦と海幸彦の話ですね。

こんな風に、天文気象や神話などの高雅なところから語りはじめて、いきなり砥石だの鰹節だのといった俗なところへ話を落とすのが、也有の語り術。

金銀の場合利子がついて戻ってくるので、元金を借りるのは難しくないが、返すのが難しいから、結局今は借りることも大変になっている。むかしある男は奈良の都の春日の里に狩に行ったというが、実のところは生計が成らず金を貸す人のところに行ったのだろう。そんな具合なのでやんごとなき殿上人である在原業平は深草の女に「野とならば鶉となりて鳴きをらむ狩にだにやは君はこざらむ」と詠まれて、「借りに来ざらむ」と理解して深草の里に深入りし借金漬けになったのである。

伊勢物語の挿話を借金の話に読み替えてしまうギャグです。 「奈良」を「成らず」、「狩」を「借り」に置き換えるという駄洒落。「むかし男ありけり」と言われたむかし男(在原業平を想定)は、伊勢物語において奈良に狩に行ったり深草の女から狩に来てくださいと言われたりしたのだけれど、それを実は「借金をしに行ったのだ」とこじつけてみた。

鬼のように強そうな侍も、霜月ごろになってくると地蔵さんのようなまろやかな顔になる。「たのむの雁」ならぬ「返済を延ばしてくれと頼む借り金」は、「尾羽うちからし」たために「春が来ても帰らない・返せない」。

年末には掛取りが借金の返済を迫ってくるので、そのひと月前の霜月ぐらいから侍も何とか勘弁してもらえないかと愛想笑いをし始める。伊勢物語に「みよし野のたのむの雁もひたぶるに君がかたにぞよると鳴くなる」とあるのをパロディにして、返済猶予を頼んでいる図に見立てます。雁は春になると北へ帰るけれど、借金は春になっても返せない。

「狩」や「雁」を「借り」に読み替えるというのは、蜀山人自身もやっています。也有から拝借したアイディアかもしれません。「かりがねをかへしもあへず桜がり汐干がりとてかりつくしけり 四方赤良」

「この世は仮の宿であるから執着するな」と人に説教する出家たちも、仮の宿では借りを作らないとやっていけない。盆と暮の台所には借金取りの衆生が来て、高位の長老でもこれを拝んで返済猶予を願う。またある寺では、すぐれた知識を身につけ――その知識とは金儲けの知識だが――こちらは自分から金を貸し付け、期限の返済が滞れば、貧しい檀家を責めつけなさる。金を借りるのも貸すのも、どちらも仏の御心には合わないのではないだろうか。

僧侶は衆生のために祈るのが仕事なのに、逆に衆生を拝んだり借金で痛めつけたりしている。仏教を批判しているというよりも、逆説を面白がっているような感じですけれどね。 

そもそも孔子の弟子の顔回は、一杯の飯、瓢箪一杯の酒で暮らし、貧しい生活を楽しんでいたという。それなのに今の人々は借金の山を築いて、際限ないほど苦心している。「百歳までは生きない身、さほど悲しんでいてもしかたがない、一寸先は闇の世だ」などと放言し腹を叩いて、「自分は貧に甘んじている」などと顔回の真似をして貧しさを楽しんでいるかのようなことを言うのは、苦しみをまぎらわすためのまじないみたいなものだろうが、実際のところ心得違いである。

このへんは借金を戒めて、真面目な調子です。尾張藩主だった徳川宗春が贅沢好きで、そのせいで藩の財政は借金の山となり、前年に幕府から隠居を命じられてしまいます。也有がこの「借物の弁」を書いたのも、ひょっとするとその苦い経験を噛みしめようとしたからかもしれません。

この世にある人が、衣服や調度をはじめとして、人並ではないと恥ずかしいと思って、そのために金を借りて、それで世間の恥はつくろえるかもしれない。しかし人から物を借りて返さないのを恥と思わないのは、傾城がお客の前では飯を食う口元を見せるのを恥ずかしがるのに、嘘をつく口を恥ずかしいと思わないのと同じである。
かく言う私も、借金していないわけではない。貸してくれる人がいるならば、誰でも仮の浮世に借りますよ。金銀道具はもとより、借り親、借り養子もやりよう次第だが、女房だけは貸し借りができない世の掟こそありがたいことである。

  かる人の手によごれけり金銀花

也有自身も借金に苦しめられた経験があるようです。

「借り親(仮親)」というのは結婚の場合などに家柄を整えるために養子にしてもらうこと。「借り養子(仮養子)」は一時的に相続人を指名する必要がある場合に仮の養子をとること。

「女房だけは貸し借りができない」とは、ひょっとすると也有サンは「俺の女房を誰か借りてくれないかなあ」と思っていたかも。女性たちから総攻撃を受けそうな問題発言ですが、文句がある人は私ではなく也有に言ってください。

最後の句、「金銀花」とはすいかずらの花。白い花がやがて黄変するので、金と銀が混ざったように華やかになることから、この名を得ました。

2023-02-05

横井也有 荷風も認めた名文家(7) 『鶉衣』を読む①

 
1781年3月9日に名古屋・長栄寺で開催された「尚歯会」(詩歌人を集めた敬老会)。
赤矢印が也有(『尾張名所図会』第2巻、1844年刊行)

俳文集『鶉衣』を現代語訳する

永井荷風が横井也有の俳文集『鶉衣』を「日本文の模範」と呼んで絶賛していることをすでに書きましたが、この文集から数編を選び、今回から数回にわたって現代語訳して紹介していこうと思います。

『鶉衣』を現代語訳するというのは、実は神をも恐れぬ暴挙と言えます。也有の名文は原文で読んでこそその滋味が感じられるので、現代語で理屈っぽく訳してしまうと気韻が大幅に減じられてしまいます。しかし今日の普通の読者が也有を原文で読むというのはなかなか容易ではない。私自身、原文だけを読むと大意は理解できるものの、ところどころつまずいてしまって正確に細部を把握するのが困難です。

「鶉衣は原文で読め!」と頑固に言っていると、也有という宝物がほとんどの人の目に触れないままで終わってしまいます。まずは私のつたない現代語訳で読んでいただき、興味を引かれたら原文に当たってもらうのがいいのではないかと思います。

「猫を描いた」

ではさっそく訳していきます。まずは「猫を描いた」(原題「猫ノ自画賛」)を紹介しましょう。40歳ごろに書いた文章です。ところどころ区切って、私のコメントを入れていきます。

猫を描いた  福岡氏の求めに応じて

この小襖が白くて淋しいので、何か描いてくださいと頼まれたが、何を描いたらいいか思いつかない。だが辞退しても許されそうもない状況であることがわかったので、よしそれなら、この棚に鼠が出てこないまじないをしようと、こざかしいことであるが筆をとり描いたのだけれど、これは何であろうか。私は猫だと思って描いたのだが、上流階級の皆さまはどう言うだろうか。

福岡氏という知人から、襖に絵を描いてくれと言われた話です。也有は人に頼みごとをされると断れない性格だったようで、絵や書や文章を書いてくれとしょっちゅう頼まれては求めに応じています。

昔、巨勢の金岡が障子に描いた馬は、夜な夜な萩の絵が描かれた戸を食い荒らしたそうだ。あるいはどこかの名人が筆をとって、四条の川床の涼みや清水寺の花見などを派手な絵にした屏風や襖があったら、たくさんの人が毎晩絵から出てきて、食事の世話もしきれないであろう。私が描いた袋棚の戸襖の猫は、たとえ千年経って古びて汚れても怪猫が赤手拭いで踊を踊るようなこともできないであろう。まして魚を仕舞った棚をあさるようなこともしないから、持ち主にとっては安心だろう。朧月夜に恋猫となって浮かれたりしないのが欠点といえば欠点だ。下手な絵描きが虎を描くと必ず猫だなあと言って笑われるので、私が猫を描いたら虎に似てくるはずなのだが、杓子には小さく耳かきには大きいということわざどおり、どっちつかずになってしまったかもしれない。

巨勢金岡はやまと絵の始祖と言われる平安時代の絵師。彼が描いた馬が障子を抜け出したというエピソードは『古今著聞集』に出てくる話です。也有の俳文は古今の詩歌や文章を引用してちりばめるのが読ませどころ。「巨勢金岡」の話なんかが出てくると、也有ファンは「也有節、待ってました」とヤンヤと喝采です。ほかにも平家物語や徒然草からの引用が原文には埋め込んであるのですが、そのあたりは訳出困難。

こう言ってしまうと鼠対策にも役立たなそうだが、鼠にも白いのと黒いの、賢いのと愚かなのがいて、子日の白鼠は縁起がよいといって主人も憎まないだろうから、賢い鼠が見破って避けようとしないのもいいだろう。性根の悪い鼠のみこの絵でも怖れることだろう、なぜなら落武者は芒の穂すら人だと思いこむから、それと同様、あるいはそれ以上の効果はあるだろう。

いい鼠には効かないが悪い鼠には効くという、理屈にならない屁理屈(笑)。

そうであってみれば、「牡丹の睡猫」の画題のように夢の中で蝶々を驚かせるよりは、この棚に眠って、くだんの悪鼠を𠮟りつけるべしと、猫に教示の一句を示す。

  ゆだんすな鼠の名にも廿日草

「牡丹の睡猫」というのは日本画でよく描かれる画題で、牡丹のそばで猫が眠っている。猫は蝶のことを夢で見ているとされるので、猫のまわりには蝶が描かれます。

最後の句、「廿日草(はつかぐさ)」というのは牡丹の異名。「猫よ、廿日といえば牡丹だと思って油断して眠りこけるなよ、鼠にも廿日鼠というのがいるのだから」という意味です。

軽妙な叙述が楽しいエッセイでした。

「茄子の話」

次は「茄子の話」(原題「茄子説」)です。茄子は也有の好物で、「茄子」というタイトルの仮名詩も書いているほど。

茄子の話

桜は散り鳥は老い蝶は去って、豆腐も出回らなくなったころ、茄子というものが出てきて世の助けとなる。色は弁慶の顔もかくやというようなごついもので、へたには棘があるが、麒麟の角は先端に肉が付いていて他を害することがないというのと同じで、物を傷めることはない。

豆腐の旬は1月~2月だそうです。収穫した原料となる大豆を寝かせて乾燥させてから製造にとりかかるからだそうです。江戸時代には豆腐は秋・冬・春は出回るけれども夏は少なかったらしい。也有は豆腐も好きでしたが、それが無くなる夏に、茄子が出てくるのを喜んでいます。

同じ季節にいろいろな瓜の種類が競い出て負けじと肩を並べようとするが、茄子とは比べ物にならない。甜瓜(まくわうり)は仰々しく印鑑のような威勢で鉢の中に威張っていて、進物台では網をかぶせて飾ったりするなどいかめしい感じだが、それはある一面しか賞翫されようがないのだ。まして姥瓜(うばうり)なぞは赤ら顔で、立ち居振る舞いが苦しくなるほど太っていて、中風にかかってどうなることかと心配される。胡瓜や白瓜は気弱に生まれついて、ふだん何か心配事があるのだろうか、色が悪く、さしこみの病気があるような顔つきもうっとうしい。これらはどれもご馳走の供には合いにくい。

さまざまな瓜類を比較した品評です。ウバウリはマクワウリの別名ですが、也有はとくに赤いマクワウリをそう呼んでいるらしい。
東海林さだおに「野菜株式会社」というエッセイがあって、野菜を社員に見立てて人事考課を行うというすごく笑える話でしたが(『
笑いのモツ煮込み』所収)、也有サンはそれを先取りしています。胡瓜好きの私としては也有の低評価が残念です。

ただ茄子だけは裏切らない。そもそもまだ小さい初なりの季節にかわいらしく吸い物椀に泳がせるのはとりわけ、大事な客のもてなしとなる。さらに旬の時期になれば、蓼酢味噌を加えた刺身、すりごまを用いた味噌煮込みのほか、澄まし汁は涼しく、雑炊は温かいのである。鴫焼と言われる焼き茄子は、動物の名がついているが、清らかな僧も忌みはしない。漬物となれば朝顔のお株を奪う色を見せる。

初なりの小茄子の吸い物、いいですねえ。茄子好きの人にとっては読んでいるだけで唾がたまりそうな描写です。

食わせない用途があるのは、どんな意地悪な風流人が考えたのだろう。七夕の台に飾られてのち、盂蘭盆の迎えに選ばれて、夕顔は馬、茄子は牛と見立てられるのは少々本意ではないかもしれん。
その頃から「秋茄子」と一字を加えられ、嫁に食わすなと言われるのがなぜかは知らない。

七夕に茄子や胡瓜を供えたり食べたりするのは、今でも行われるようですね。旧暦だと七夕とお盆が近いので、両方の風習は連続することになります。

花は虫歯の薬となり、茎は墨焼きにして便利に使われる。
ただ不幸なのは、薬として痔に押しこめられて身をけがすところで、その憂き目には哀れを催してしまう。それも韓信が恥をしのんでならず者の股をくぐったのと同様、立派なますらお心を持っているからであろうか。
茄子よどんどん生れ、偉大なるかな茄子、種茄子として軒下でぶらぶらすることがあっても、瓢箪の真似をして許由に捨てられたりするなよ!

知らなかったのですが、茄子を練り込んだ歯磨きって、今でもあるんですね。ただし歯磨きは花ではなくヘタの漬物を黒焼きにして作るとか。痔のほうもナスを使った民間薬があるようですが、これもヘタの黒焼きを使うそうです。昔は痔の人が多かったから、也有も黒焼きを使っていたのかもしれません。

韓信というのは漢の劉邦に仕えた古代中国の武将で、若いころならず者に「オレの股をくぐってみろ」と難癖をつけられた。彼は自分の将来を考えて、ぐっとこらえて相手の股をくぐったという有名な話です。

許由も中国の伝説時代の隠者で、山の中で何一つ財産無く暮らしていた。彼が水を手ですくって飲んでいるのを見た人が、器代わりにヒョウタンを呉れてやった。それを木の枝に掛けておいたら風に吹かれて鳴るのがうるさいので、捨ててしまって元どおり手ですくって水を飲んだという話。

たかが茄子の話に、韓信のますらお心だの許由の瓢箪だの、大げさな引用を使って笑わせるのが也有の得意な書きっぷりです。26歳ぐらいで作った文章ではないかと思われますが、すでに老巧を尽くしています。

終わりのほうはお下劣な話になってスミマセン。