2022-06-21

吉分大魯 愛された嫌われ者(おまけ)


敏馬神社門前の常夜燈(寛政六年、1794)

蕪村・大魯・几董の三吟歌仙

1778年3月13日、脇の浜の井筒亭で蕪村・大魯・几董の三人が歌仙「春惜しむ」を巻いたことをお話ししました。今回は大魯シリーズのおまけとしてこの連句を鑑賞してみたいと思います。

1 春惜しむけふの獲(えもの)や魚ふたつ 几董
2 踏(ふめ)ば崩るゝ山吹の崖      
大魯
3 長閑(のどか)さや陸奥の使を給りて  蕪村

発句は几董。灘の湊の漁獲をめた句です。あるいは二つの魚とは蕪村と几董のことで、大魯に対して「いい獲物が釣れましたね」と挨拶したのかもしれません。

脇句、『蕪村全集』の注では「山あいの渓流の風情」としていますが、これはいかがなものでしょうか。発句は浜の漁港を描いているのに、脇でいきなり山中の景色に飛ぶと取るのは納得できません。上の写真に見るように、敏馬神社は海食台地の斜面に建てられているので、この「山吹の崖」も敏馬の崖を指していると理解するのが普通でしょう。几董の賞め句に対して、「山吹が咲くけれども踏めばすぐ崩れてしまうような田舎の崖です」と謙遜したもの。

蕪村の第三では、陸奥へ使者に任じられて向かうのどかな風景に転じました。

4 早歌うたへる従者(ずさ)持にける  几董
5 いろいろに夜の変り行月の雲     大魯
6 秋の浅瀬を漕わたる舟        蕪村

4句目、「早歌(そうか)」とは鎌倉~室町時代に流行した宴席での歌。使者が連れている従者はのんきに歌の練習。5句目は、実際に月見の宴席の情景と前句を読み替えています。月に雲がかかったりまた照ったりする様子を「夜の変り行」と表現したのはなかなかうまい付け。

7  稲刈て和睦調ふ向村(むかふむら)  几董
8  罪ある人の子を孕みけり       大魯
9  よき衣の虱を捫(ひね)る日もなくて 蕪村
10 初瀬籠(はつせごもり)の花も過行(すぎゆく) 几董
11 雨の跡水あたゝかに筧もる      大魯
12 雉子鳴方に地震(なへ)やふりけん  蕪村
13 家中衆(かちゅうしゅ)の紅裏(もみうら)見ゆる遥(はるか)也 几董
14 老し冶郎(やろう)の旅に馴たる   大魯

15 明安き夜を片われの月なれや     蕪村
16 卯花(うのはな)させる車引すて   几董
17 舞扇泪見せじとかざすらん      大魯

18 波そゞろなる由井の浜風       蕪村

裏に入ります。7句目、夏の間は水争いなどで紛争があった川向こうの村とも、稲刈りが終わると仲直りできたよ。8句目、紛争の原因は罪人の子を女が孕んだことにあったと読み替え。大魯らしい激しい恋句です。9句目ではこの不義の恋は上臈のものと解釈し直し、上等な衣の虱をのんびりひねりつぶすような日々もやってこないという嘆きにしています。10句目、花の定座は本来17句目ですがここで早く出しました。初瀬籠とは長谷寺に籠ることで、とくに女性の信仰が厚かった。

12句目、雉が地震を知らせたとする。雉は地震を予知すると古代から考えられていて、1645年刊行の『毛吹草』(俳諧創作用のシソーラス辞典)にも「地震」の関連語に「雉」が出てきます。13句目、前句は狩を遠くから見ている場面ととって、藩の家中の武士たちが着る狩衣の裏の紅が見えているとしました。14句目、「冶郎」は男娼のこと。同じ折の中で二度目の恋です。15句目、月の定座は本来14句目ですが一つ下げ(こぼし)ました。夏の月。16句目は、枕草子』に車に卯の花を挿して時鳥を聴きに行った話があるのを踏まえています。「夏の月」に「卯の花」は定番の組み合わせ。こういう定例の組み合わせを「寄合(よりあい)」と言い、とくに連歌では重視します。17句目、なんとこの折三回目の恋に入ります。貴人の男女が夜明けに別れるさま。18句目、由比ヶ浜で静御前が源頼朝を前に舞った故事を踏まえ、静が義経を思って泣く場面としました。

19 雪はれて静に神やわたります     几董
20 杉戸の胡粉(ごふん)日々にこぼるゝ 大魯
21 蜷川が妻も聯句の筆所        蕪村
22 足音なくて入給ふ誰(た)そ     几董
23 押やりし蚊遣燃たつ窓の下      大魯
24 落尽したる渋柿の花         蕪村
25 晴るゝ日に錺摩(しかま)のかちん手染して 几董
26 聟は隣の明くれの皃(かほ)     大魯
27 八朔や礼にほのめく二三人      蕪村
28 いざさらしなの月にゆかまし     几董
29 秋風の右に傾く古烏帽子       大魯
30 手斧はじめの木がくれて見ゆ     蕪村

ここから名残の表。20句目の「胡粉」とは牡蠣殻をさらして粉にしたもので、日本画に使います。社殿の杉戸の絵が古びて粉をこぼしている。21句目、蜷川とは連歌師の蜷川親当(ちかまさ)のことで、蜷川の連歌会ではその妻までが書記(執筆)をやっているよという意味。蕪村らしい、歴史趣味の句です。22句目、遅れてこっそり入ってくるのは誰だ! と蜷川の妻が睨みつけています。23句目では、足音をひそませているのは通ってきた男と取って恋の句にしています。男が蚊遣火を邪魔だと押しのけたら、窓の下で燃え上がってしまった。蚊遣火といっても今の蚊取り線香ではなく、木や葉をくすべたものなので、風が当たるとすぐ燃え上がってしまいます。

25句目、前句で渋柿の花が落ちたのは雨のせいととって、晴れた翌朝には飾磨のかちん染(姫路南部の染め物)の染めたり干したりの仕事をしているよ。26句目、前句を娘の手仕事と理解し、その聟になるのは明け暮れに見ている隣家の男だよと、これもまた恋の句。27句目、8月1日の八朔の行事では親しい人のところへ挨拶回りに行きますが、ほの見えている二三人の中には聟殿も交じっている。28句目、挨拶回りの途中で月見旅行の話になった。月の定座は29句目ですが、1句引き上げ。29句目、更科に旅に行くのは烏帽子をかぶった貴人と想像した。30句目、前句の「古烏帽子」から大工が起工の儀式を行っている様子を連想。

31 ゆかしさに異国の寺号襲ふらん    几董
32 煎茶(せんじちゃ)にほふ夜の静なる 大魯

33 つくづくと我(わが)痩臑の便なさよ 蕪村
34 その事かのこと筆とらせ置く     几董
35 都帰(みやこがへり)花唇をひらく時 大魯
36 万里の海も春の夕凪         執筆

33句目、「便(びん)なし」とは「具合が悪い」の意。34句目は徒然草』に「その事かの事、便宜に忘るななどいひやるこそをかしけれ」とあるのを引用。前句と合わせて老人が遺言を書きとらせている風景とした。35句目、前句は旅先から手紙を書いている場面として、都に帰るのは桜が咲くころだろうと述べる。大魯自身、花時の京にまた戻りたいなあと思っていたかもしれません。36句目の作者、「執筆(しゅひつ)」というのは付句にルール違反がないかどうかチェックする役の人で、実際は蕪村が詠んでいるのですが、連句では挙句を「執筆」として匿名にしておくことがよく行われます。宗匠がみずから挙句を詠んでしまうと、自作自演ぽくなってしまうからでしょうか?

大魯、生き生きと詠んでいますね。やはり蕪村先生と親友の几董が相手だと、いちだんと気合が乗ったことでしょう。

2022-06-20

吉分大魯 愛された嫌われ者(後編)

岩屋・敏馬神社社殿

写真で楽しむ大魯紀行

先週、神戸・大阪・京都の三都を旅行して吉分大魯の旧跡を訪ねてきました。写真をたくさん撮ってきたので、各地を紹介したいと思います。

内容は二つに分けて、前半は「蕪村・几董の1778年兵庫紀行」、後半は「京都・大阪・神戸の大魯遺跡」となります。

①蕪村と几董の1778年兵庫紀行

安永6年(1777)5月、大魯が問題を起こして大坂を追放され、その彼を力づけるために蕪村と几董が翌春に兵庫の彼の許を訪ねた話は、前々回に書きました。


摂津名所図会(1798年刊)


放逐された大魯が身を落ちつけたのは、灘の敏馬(みぬめ)でした。
敏馬の泊は古代(5~8世紀)には兵庫の中心となっていた湊で、都から船で西へと向かった場合に敏馬までが畿内、ここから先が畿外とされていました。万葉集にさかんに詠まれ、以後も歌枕として讃えられてきた土地です。

玉藻かる敏馬をすぎて夏草の野島の埼に舟ちかづきぬ  柿本人麻呂

ここに置かれた敏馬神社(現・神戸市灘区岩屋中町)は格式の高い式内社として知られています。

大魯は新しい庵を「三選居」と名づけ、蕪村に近況を問う句を送っています。

中秋夜半翁に申遣しける 
広沢はいかに敏馬の月清し  大魯

夜半翁とは夜半亭蕪村のこと。先生は京の月の名所である広沢池で月見をされたでしょうか、敏馬では月が清く照っております、という句。1777年8月の作。

三選居のすぐ裏は漁港だったようですから、上の「摂津名所図会」の赤丸で囲ったあたりが庵の位置ではなかったかと思われます。


敏馬神社の社前。昔は鳥居近くまで浜が広がっていた。


大魯の三選居があったと思われる地域。かつては画面右の国道2号線のところまで浜辺だったが、昭和6年頃から阪神電車の岩屋~元町間トンネル工事で出た残土で海が順次埋め立てられ、国道の南側は神戸製鋼の工場となった。

1778年3月9日、蕪村と几董は大魯の許に向かうため、京から昼舟に乗って浪花に下ります。網島や桜ノ宮などで数日遊んだのち、12日の朝に心斎橋の宿を出発。西国街道を歩き、たそがれどきに灘の脇の浜に到着。脇の浜は敏馬の西に隣接する土地ですが、二人は「井筒亭」という旅館に投宿しました。翌13日、大魯が合流して三吟歌仙「春惜しむ」を巻きます。


脇浜神社(南宮宇佐八幡社)。蕪村と几董が投宿した井筒亭はこの一帯にあった。当時は画面右の道路のあたりまで海であった。

15日には和田岬の隣松院で小句会がありました。ここで「春草」という題が出たことで、『楚辞』に「王孫遊兮不歸、春草生兮萋萋」(君はどこかに行ったきり帰ってこない。春草は盛んに茂っているというのに)という詩句があることを思い出して感極まった蕪村は、

我帰る路いく筋ぞ春の艸(くさ)  蕪村

という句を作って『楚辞を引用した文と画を添え、大魯に与えました。大魯よ、君はいつまでさまよって生きるのか、そして私はどの道を選んで帰ればいいのか、という惜別の心をこめた句文画でした。

漕かへる若草の戸や漁舟(いさりぶね) 几董 

さて、集英社版『古典俳文学大系・蕪村集』によればこの旅行で蕪村は平忠度の墓を訪れたことになっています。しかし講談社版『蕪村全集』によれば、それは12年前(1766年)の秋のことで、彼が讃岐に画業のため行く途中で立ち寄ったのだとしています。講談社版のほうが正確の感じがありますが、今回忠度塚も訪問してみたので紹介しましょう。

平忠度は源平合戦の一ノ谷の戦いで奮戦しましたが、右腕を切り落とされ、岡部六弥太忠澄に討ち取られます。その腕を供養して祀ったのが腕塚、首を落された胴を葬ったのが胴塚として、神戸市長田区に現存しています。


平忠度の腕塚堂(左)は細い路地の奥にある。
路地の入口の道標にある指印が妙になまなましい。


平忠度の胴塚

忠則古墳一樹の松に倚れり 
松にかへたるやどり哉  蕪村

蕪村は「忠則」と書いていますが、忠度のことです。忠度が戦死したとき、矢を入れた箙に「行きくれて木の下かげを宿とせば花やこよひの主ならまし」という歌が書かれた紙が結ばれていました。蕪村の句は、「忠度は桜の花のもとに宿ろうと言ったが、今その墓は桜の代わりに松の下に立っているよ」と詠んだものです。腕塚も胴塚も、今は石造物などが立っているだけで松の木を見ることはありません。

また、腕塚・胴塚は明石市にもあって、蕪村が訪ねたのはそちらである可能性も否定できません。

神戸市の腕塚・胴塚は阪神淡路大震災で崩落し砕けるという悲劇に見舞われました。今では写真のとおり元に近い状態に修復されています。

脇の浜の井筒亭で蕪村は次のような句を詠んでいます。

几董とわきのはまにあそびし時  
違(すぢかひ)にふとん敷(しき)たり宵の春  蕪村

蒲団をそれぞれ部屋の対角線になるように敷いて、頭と頭を近づけて夜語りを楽しんだということでしょう。蕪村がいかに几董のことを信頼し可愛がっていたかがよくわかる話です。「大魯をどうすればいいだろう」などと相談し合ったでしょうか。

3月19日に二人は船便で浪花に戻り、22日に京に帰宅しました。

京都・大阪・神戸の大魯遺跡

さて、次は大魯にゆかりのある京阪神の土地を訪ねてみましょう。

時間をさかのぼって、大魯(当時は馬南)が阿波藩を脱藩し、京に向かった1766年のころの話です。彼は一時期、市内の「釜座通下立売上町」に住んでいたことがわかっています。これは今の京都府庁舎付近に相当します。



京都府庁舎(上)とその付近(下)の現況

この当時は蕪村は画業に精力を費やしていて、屏風制作のために京と讃岐を行き来しているような状態でしたから、大魯が蕪村ではなく岡田文誰に入門したのも無理からぬことでした。やがて蕪村門に転じ、1770年の9月にはこの住居を引き払ったことを几董が記録しています。

1773年夏、大魯は江戸へ修行に出かけることを志しましたが、途中寄った浪花の暮らしが気に入ってしまい、過書町に居を定めました。「過書船」とは淀川を航行し京と大坂を結んでいた船のことで、「過書町」はその船方が住んでいた町。今でいう大阪市中央区北浜3~4丁目に該当します。もっとわかりやすく言うと淀屋橋付近です。


淀屋橋交差点

同年9月21日、この新居を訪ねた几董は大魯と大いに意気投合、

新蕎麦に汁のよしあし分りけり 几董 

の句を残しました。「新蕎麦」は過書町の新居を象徴し、「汁のよしあし分りけり」は大魯が俳諧の正邪を見極める力があることを暗示しているのかと思います。

1776年秋、大魯は同じ浪花の呉服町(ごふくちょう)に転居します。師からその祝句として

夜を寒し寝心とはむ呉服町 蕪村 

が届きました。10月には蕪村は呉服町の大魯を訪問しようと浪花に向かいますが、舟中で風邪をひき弟子たちの看病を受けることになってしまいました。

その呉服町ですが、中央区高麗橋4丁目に「伏見呉服町之碑」が立っています。


伏見呉服町之碑

呉服町の発祥はそもそも、豊臣秀吉の大阪城築城にさかのぼります。秀吉は伏見の呉服商たちにこの地に移住するよう命じたのでした。せっかく各地から集めて囲った美女たちから「アパレルの店がない大坂なんて行くのいや~ん」と言われるのを恐れたのでしょうか。(笑)

実際の呉服町はこの碑よりもう少し東寄り、心斎橋筋と魚の棚筋に挟まれた一角であったようです。かの越後屋(現・三越)も店を出していたとか。繁華街に家を構えて、大魯はわが世の春を謳歌していたことでしょう。

このあと問題の事件を起こし、彼は兵庫へ追放され、蕪村たちがその慰安に訪れた話は上に書いたとおり。

師匠たちの訪問から2か月後の5月22日、大魯は京の几董のもとを訪問し、そのまま逗留します。どうやら病気を得て、その療養に来たようです。几董の家である春夜楼がどこにあったのか、正確な位置はわかりませんでしたが、鴨川の東岸の東丸太町あたりではなかったかと想像しています。


丸太町橋の上より鴨川東岸を望む


東丸太町界隈。道の左側は京大医学部

6月6日、大魯、几董らは蕪村の夜半亭を訪問、大魯は9日まで師の家に泊めてもらいます。当時の住居は仏光寺通烏丸西入ルにあり、蕪村にとって最後の家でした。


下京区仏光寺通烏丸西入ルの与謝蕪村宅跡。
実際にはここにかつて路地があり、その奥が蕪村宅だったらしい。

6月15日にも大魯は夜半亭に一泊、16日に兵庫へ向けて出立しました。大魯、先生にはすっかり甘えきっていますね。

いったん病は小康を得た大魯でしたが、9月ごろまた病状悪化し京にやって来ます。足腰が立たなくなった彼の起き臥しまで几董が面倒をみたということですから、おそらく春夜楼の近くに部屋でも借りたことでしょう。10月には、蕪村もこの分では命は長くもつまいと見てとるようになります。

病しきりなるころ京師に旅寝して
初雪じや大きな雪じや都かな  大魯 

大魯が病の復常をいのる 
痩脛や病より起つ鶴寒し  蕪村

11月13日、大魯没。遺言にしたがって、金福寺(こんぷくじ)に葬られます。5年後に蕪村も世を去りますが、墓は大魯の隣に建てられました。


金福寺の蕪村の墓と
大魯の墓(赤丸)

金福寺には蕪村一門の江森月居、松村月溪(呉春)の墓があり、また青木月斗もここに眠っています。それらの墓石が大きくて立派なのに対し、大魯のはたいへん小ぶりなつくりになっています。彼の人望のなさと経済的困窮ぶりがうかがえるのですが、大好きだった師のすぐ横に墓所を得たことに、きっと満足していることでしょう。

さて、『穎原退蔵著作集・第13巻』によれば大魯の息子である春魯が「寛政六年父の十七回忌に当り、兵庫八棟寺に--今移されて築島寺の境内にある--大魯墳を建てた」とあります。神戸市兵庫区島上町の築島寺(来迎寺)に行ってみたところ、大魯墳と言えるような墓は見当たらず、代りに平成時代に建てられた大魯の句碑がありました。


築島寺の大魯句碑「花鳥のそろへば春のくるゝかな」

推測ですが、大魯墳は区画整理なり、あるいは震災の被害なりによって潰され、その代わりに寺で大魯の句碑を建てたのではないでしょうか。

同じく穎原退蔵によれば、春魯の墓というのが神戸夢野墓地にあったということなのですが、この霊園は昭和40年代に市立鵯越墓園に統合されました。何か情報を得られるかと、源義経の一ノ谷の戦いの故事で有名な鵯越まで行ってみましたが、墓園事務所で尋ねてみても墓がどうなったかはわからないということでした。


史跡鵯越」の石碑

以上が今回の京阪神紀行で得られた収穫です。大魯については「おまけ」として、もう一回記事を書きたいと思いますので、よろしければお付き合いください。